子どもが「産めない」という環境を改善しようと政府が動く。その効果があらわれていないと次の一手を考える。先日、日本の合計特殊出生率(女性1人が15歳から49歳までの間に産む子ども数の平均)が発表され、5年連続の減少となる「1.25」人。史上最低をまた更新したことになる。

少子高齢化社会の歪み。大変だ、どうにかしないと、という声ばかりが聞こえてくるようで、その気になって、はぁ、えらいこっちゃな、と思ったりもする。実際、何がそんなに「えらいこっちゃ」なのか。直面する問題としては、年金問題と労働力不足が挙げられる。この二つは繋がってもいる。現役世代の収めた年金を、今の高齢者に支払うというシステム。そこに輪をかけて、社会保険庁の無駄な施設の建設など無駄遣いが明るみに出て、ただでさえ少ない現役世代が年金を支払わないという悪循環。に、加えて先月の年金免除問題の発覚と、まぁ、大変なことに大切なモノが失われているというのが現状。
 
この少子化の問題。直面したのはヨーロッパ諸国の方がはやい。昨年の出生率で言うと、ドイツが1.4、イタリアやロシア、ギリシャが1.3、ポーランドが1.2と、日本と同水準で世界でも最低レベルにある。ヨーロッパなどの国が抱える問題は、先にあげた年金問題と労働力に加え、軍事力の低下(兵士不足)というものもあり、余計複雑だ。

この「先輩諸国」は少子化という問題とどう向き合ってきたのか。例えば、夫婦での生活時間を確保するため、労働時間に制限を設ける。または、他国からの移民を労働力として受け入れる、などがそれだ。ただ、スウェーデンなど数カ国を除いては、少子化に歯止めがかかったという状況ではない。まだまだ、この問題に直面しているし、新たな問題も発生している。移民問題については、門戸を広げすぎた故に、賃金の安い移民に雇用が流れて自国の若者の失業率を上げ、逆に、移民の側からすると扱われ方の「差」に不満が募りデモが起こったりもしている。問題は単純ではない、ことは明白だ。
日本は、今のところ海外から単純労働者としての移民は受け入れない、としている。

働き方のスタイル、子どもを持ってからの職場復帰、子どもの受け入れ先。そういったものを含めて「子育てのしやすい環境作り」というスローガンのもと、日本の政府も色々と手を打っている。2人の両親が2人の子ども産んで、初めて人口は現状維持できるという単純計算からいうと、これ以上の少子化は、いち早く歯止めをかけたいというのがほんとのところだ。

それは分かる。このまま平均寿命がのび続け、逆三角形のような人口分布になれば、「上」の重さにたえきれず、ポキッと折れてしまいかねない。だから、出生率を上げなければ、、、と講じる策の一つひとつ。ふと、思った。今の対策は、方向的にあっているのか?と。1.57ショック以降、15年も効果のでない方向のまま、それを充実させるだけでいいのか?

例えば、働く時間が多すぎて出会いがない。ならばと、政府主催の集団「合コン」なるものをシンガポールのように真顔で考えてみたり、男性の育児休暇を充実するように働きかけてみたり。保育所という「箱」だけを増やしてみたり、補助金を上げてみたり。だから、子どもを産んでください、と?

どうも違うような気がする。晩婚化、非婚化、セックスレス夫婦に離婚率のアップ。
要は、「産めない」環境のためではなく、「産まない」という意思がそこにはあって、そういう人が増えているということを正面から受け止めないといけないのではないか。
(などと、そんなことを言っているぼく自身も、非婚化した若者のひとりですが)

一人っ子政策をとってまで人口の増加に歯止めをかけようとしている中国ですら、北京や上海などの大都会にすむ女性は、子どもを「産まない」という意思を持ち始めている。先進諸国の多くがそうだ。(興味深いことに、アメリカだけは別で、出生率は人口維持レベルの2.1。と言っても、マイノリティで黒人の数を抜いたヒスパニック系の出生率が特に高く、国民全体の出生率を押し上げているというのが現状で、思い切って言ってしまえば、それ以外の若者は子どもを産むことに消極的だという状況は共通のようにも思う)

なぜか。日本の場合で考えてみる。
「産めない」社会環境よりも、「産みたい」と思う要素があまりにも少ないことに原因があるのではないか。受験システムの中で成長してきた世代にとって、自分ができなかったことを子どもに託そうとしては、がんばってしまう。お受験でキリキリ舞いする「未来」。受け入れる学校側も、私立大学がこぞって「幼稚園・小学校」を設立し、子どもを奪いあう。また、子どもを狙った犯罪も深刻だ。学校の帰り道、ひとりになることへの心配。だからと近所で持ち回りの「ピックアップ」をとっても、その中に犯罪者がいたりする。一体どうすればいいのかと気を揉む。いじめや引きこもり、精神性疾患。数え上げればきりがないほど「不安」だらけだ。それでもなお、子どもの「笑顔」の為に、全面的に子どもを「守ってみせる」という強い大人は、自殺者が3万人を超えた今の日本には多くない。

子どもを産む「親」というのは、年齢で決まる訳ではない。
例えば、死語に近いが結婚適齢期といわれる人をターゲットに、社会的環境(子育てしやすいと考えられている)を整えようとしても、「気持ち」の問題なのだからどうしようもない。「親」になるべき若者は、まだ、子どものままでいるのだ。もしくは、「親」になる前に、「自分」の生活に満足したり必死だったりするのだ。

じゃ、どうすればいいのかと。ぼくは、今の少子化対策がどこか「強いる」感じを全面に出しているからしっくりきていないのだと考える。どういうことか。フリーターや非正社員だから子どもが産めないのだという短絡的な結びつきで、ハローワークの若者版を作って「正社員」にしようとする。そうすればお金にも余裕ができて、ほら、子どもも産めるからと。支援という言葉の裏に、そうすべきだ、という気持ちがヒシヒシと伝わるような感じ。強制ではないし、確かにそうした方が幸せなのだろう、とも思う。つまり、学生を卒業して、就職して、その次には結婚があって、子どもが出来て、家を建てて…、という順番。順調とはそういうことを言うのだという考え方ありきで、その節目節目で「ヘルプ」を出す、それがより良い環境だという共通認識がある。

なんと言うかそこに「余白」があまりにもない。整理整頓して詰めるかのようなシステムに思える。はい、このラインに来たら、こうして、ここまで行ったら、こうする、と言わんばかりの。と、考えている若者が多いのではないかな、と何となく思う。

根本的には、「親」になる人と「子ども」になる人がいて、その両方が幸せでないと、いくら綺麗な三角形の人口分布であっても崩れかねない。数、じゃない。とにかく「いっぱい」ある社会。それが少子化というより、自殺者も、引きこもりも、もっと大きな意味で幸せな環境作りではないか。
いっぱい、愛されて叱られる。いっぱい、遊んで勉強する。いっぱい、喧嘩して仲直りする。いっぱい見て、見られる。いっぱい、声を掛けられてしゃべる。いっぱい、接触をとって交換する。いっぱい、自慢して反省する。

つまり、元気な子どもと元気な大人。それを見て育つ次の世代の少年・少女。この循環が、順調になるようにすること。それを少子化対策というのではないか?順番じゃ、なく。二人目の子どもが産めるようにする社会環境というのも、そう違いはない。一人目は「できちゃった」けど、二人目は「産まない」という意思の問題であるように思えるから。

ここまで読んで、「甘いな」と思われた方も多々おられるでしょう。人口が減ることの想像力がかけているのだ、とでも言われるかも知れません。経済力の低下は確実に起こる。市場が縮小し、中国やインドなどの勢いに押され、欧州諸国の、それこそ二の舞になれば、そんな「幸せ病」にうつつをぬかしてなどいられなくなる、と。確かに、ダラダラと述べてきたぼくの意見は、「幸せ病」なのだと思う。経済が豊かで、今の年代ならどうとでもできる。が、それを「維持」するレベルを大きく下回っているのだという現実味がない。正直、ない。子どもが減って、経済的に弱くなり、今ある日本の姿が変わって、そこで慌てて孤独に苦しむ、かもしれない。が、そう言われても、やはり、余白が無さ過ぎる。余裕じゃなくて、余白が。金銭面の余裕とか、時間的な余裕とか、そういうのではなく、非婚化の一人として、ぼく個人の思いを言えば、そういうことだ。「いっぱい関わるだけの余白」の無さ。
まぁ、簡単に言えば、宿題をほっぽり出して野球をする「空き地」もないしね。

少子化問題とは、実はそれほどに根が深いのだと、改めて構え直さなければならないように思う。そして、いっぱい関わりあうだけの余白作りに全力を尽くすべきだと考える。




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1.25
2006年6月3日