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甘い日々
-Past day- (鈴木正吾著)

 「キャ!」
 思わず声が漏れ、
 ドン、ドン、ドン
 尻餅をついたまま残り三段を滑り落ちた。

 ラッシュアワーの駅前にサーッと空いたスペース。ミサはしゃがみ込んで、散らばった書類をかき集めていた。追い抜いてゆく革靴の行進。響き渡るハイヒールの音。チャコールグレーの裾が何本も地面から伸び、その間を白い紙がいたずらにヒラヒラと舞う。こんな時に限って、バックの中に放り込んだ書類は多い。小さく「すいません、すいません」とつぶやく声が、暗色の世界でかき消される。黒の鞄、黒の靴。ザッ、ザッ、ザッ。
 「すいません、すいません」。

 拾い終えたミサは、吐き捨てられたチューインガムを見つけ、「汚っ」と舌打ちし、そして、ホッと一息ついた。その時、バサッという音が背後から聞こえ、振り返ると、真っ白いスニーカーが書類を踏みつけている。歩道からはみ出した迷子の一枚を救ってくれたスニーカー。手をついたまま移動して、顔を見上げることなくスニーカーに一礼し、ミサは慌ててしまい込んだ。
 人、人、人。誰もがみんな自分を見ているのに、誰一人話しかけてこない。そんな不気味さがミサを急がせた。焦りながら赤面し、とにかく、その場から一秒でも早く立ち去りたかった。
 駅前は、改札口からなだらかなスロープが続き、突然、七段の階段でそれは終わる。「なんでこんなとこに階段があんのよ」。
 颯爽と本社ビルまで歩き過ぎるミサも、この階段だけはいつも注意深くなっていた。なのに、この日はぼんやり考え事をしていたのだ。


 「ハハハッ」
 「笑い事じゃないってば」
 「ごめん、ごめん。でもさぁ、ミサでもそうゆうことがあるんだね。見たかったなぁ、いつも完璧なミサが転ぶとこ。ハハハ、想像したらまた笑えちゃって、ごめん、ごめん。っで、伝線とかは入ってないの?」
 「さっきコンビニで買ってきたわよ」
 「ほんと? 朝からご苦労さまでした。」
 
 同僚のユキが、最近凝っているというヘルシーランチを頬張りながら笑った。ランチはいつも抜いているミサが、ブラックコーヒーを飲みながら、笑うユキにムッとした。

 「ほんと朝から災難よ。階段では転ぶし、例のうるさいクライアントは変更してくるし……、あぁ、もう私、今日は最悪だわ」
 「あぁ、あのチョ〜年の差カップル? あれってミサが担当だっけ?」
 「そうよ。挙式は今週なのに今更になって、やっぱり自分たちでケーキ作るのは無理なので頼んで下さい、って言い出して、しかもよ、アニバーサリーのケーキじゃないと嫌だって言ってるのよ」
 「えっ、あそこって一ヶ月前には予約入れないと無理なんじゃないの?」
 「そう。だから、昼から行って、直接お願いするつもりよ」
 「それよりさぁ、そのクライアントに伝線、見つかってない?」
 「そうなのよぉ。私もそればっかり気になっちゃって」
 
 小菅美沙、ウエディングプランナーになって七年。夕べ、実家の母親から電話があり、いつものように「結婚しろ」だの「実家に帰ってこい」だのと言われた。「今は仕事が楽しいから」とお決まりの返事をして電話を切った。
 切った後、自分ももう二十九なのかと、ため息をついた。母親の言葉がいつまでも頭から離れず、今朝はぼんやりその事を考えていた。毎朝のルート、ぼんやりしていても電車に乗って、降りて、改札は抜けられる。あの、藪から棒の階段以外は。

 結婚。その言葉に現実味が帯びてきたのは、ユキから来年の春に結婚すると聞かされたことが大いに影響していた。そうゆう歳よね、と自分に言った。
 

 「っでさぁ、その拾ってくれた人、どんな人だったの? スニーカーってことは学生かな?」 
 「わかんないよ、顔とか見てないし。でもね、その人、スーツだったのよ」
 「ゲッ! スーツにスニーカーはいてるの? また、難しい趣味ねぇ〜」
 「あぁ〜、もう言わないでよ、思い出しただけで恥ずかしいんだから」
 「でもさぁ、運命の出会いかも知れないじゃない。ミサは仕事し過ぎなのよ。その出会いから素敵な恋が……、あぁ、なんかいいじゃない、ドラマみたいで」
 「スーツにスニーカーでも?」
 「そうか……。で? 何をそんなに考えてたの、朝」
 「昨日、実家から電話があったのよ。まぁ、いつものことなんだけどね、結婚しろとか、帰ってこいとか、色々言われて」
 「ミサって確か、大阪だよね? それも一人っ子じゃなかったっけ? そりゃ、親にしてみれば早く孫の顔でもみたいんじゃないの」
 「……、なんでしょうね」


 カツカツカツッ、ザッ、ザッ、ザッ、プープー。
 「……なのです。今の政治を変えなければ、この先、日本は……」
 「……お願いしまーす、よろしくお願いします……」
 タ〜ラーラ、タ〜ラララ。
 
 いつもの朝の出勤風景だった。信号待ちで足を止めたミサには、大量の足音、街頭演説にティッシュ配り、反対側の信号音がごちゃ混ぜになってガンガン響いていた。。
 昨夜、「最悪な一日は友達同士、飲んで忘れましょ」というユキの誘いで、彼女は遅くまで飲んでおり、完全に二日酔いだった。。目の前の光景は大パニックでみんなが逃げ出しているような……。

 「あっ、おはようございます」
 
 後ろから回り込むように男が声をかけてきた。見覚えがないので、ナンパか? とも思ったが、こんな朝早くそれはないだろうと打ち消した。それじゃ以前のクライアントかも知れない、そう思ったミサは、
 「あ、どうも、おはようございます」と挨拶を返した。
 「大丈夫でしたか、昨日?」(んっ?)
 クライアントじゃないことが分かって、じゃ、誰なんだ? と何気なくうつむくと、真っ白いスニーカー。「あっ!」とミサは思った。

 「ほら、あそこの階段で」と続ける男の言葉を遮って、 
 「あぁ、昨日は本当にありがとうございました。ちゃんとお礼も言ってなくて」
 「いやいや、いいですよ。恥ずかしいですもんね、一人で転ぶなんて」
 「あ、はい……」(失礼なやつ! なんでニヤニヤしてんのよ!)

 「一緒の電車ですよね、きっと。いつもこの時間ですか?」
 「……、はい」(早く信号変われ! 変われ!)
 「なら、明日も会えるかも知れないなぁ。よろしく。」
 「よろしく?」(何が? えっ? 何言ってんの?コイツ?)

 次の朝も……、二人は出会った。
 やはり同じ電車であったらしい。改札口を出るとすぐに声をかけられた。

 「おはようございます。今日は何だか決まってますね。バリバリのキャリアウーマンって感じですよ」
 「ほめてます? それ」(あっ! しゃべってしまった。無視、無視)
 「もちろん」
 「……」
 「あのぉ〜」
 「あっ、どうも。私急ぎますので」(どっか消えてよ!)

 「あのぉ〜」
 カツ、カツ、カツ。(ついてこないでよぉ〜)

 「あの、めちゃくちゃ突然なんですけど、今度の休みとかって空いてますか?」
 「えっ?」(はぁ〜? 何言ってんのよコイツ。っで、なんでいつも赤なのよ!)
 「休み、あるでしょ? 」
 「そりゃ」(信号変われ! 変われ)
 「空いてます?」
 「ダメです。今度はちょっと用事があるので」
 「それじゃ、その次は?」
 「ずっと予定詰まってます、すいません」
 「……そうっかぁ、残念だなぁ、デートしたかったのになぁ」

 「何なんですか! あなた? 転んだとき助けて頂いたことは感謝します。でもそれだけです。ズカズカ入ってきて、勝手に残念がらないでくれます?」
 「怖いなぁ、その声」(ダメだ…、コイツ。何言っても無駄ね)
 「それじゃっ、私、急ぎますので」


 「っで、っで、っで、どんな人なのよ、その人。かっこいいの?」
 「ユキってさぁ、なんんだか、楽しんでない?」
 「そりゃ楽しいわよ。ミサに言い寄る男でしょ。ガード堅いの分かりそうなものなのにね。そこをあえて攻めてくる男かぁ。一度、見てみたいなぁ、私も」
 「も〜私のいっちばん嫌いなタイプ。髪が短くて、やたらニコニコしてて。顔が真っ黒で。スポーツやってました、うっす、……みたいな?」
 「え〜、かっこいいんじゃないの、それ? 誰系?」
 「知らないわよ、そんなの。でも、あれは間違いなく運動バカね」


 一ヶ月後、ミサはサトシと食事に出かけた。


 並原聡、広告代理店に勤務して五年。自称バリバリの営業マンで、期待の星とかなんとか。サトシはミサに一目惚れし、その理由をミサが尋ねると、「ピンチの時、焦ってるくせに強がる女の子が無性にかわいい」からだと言う。なんてふざけた理由なんだと、ミサは思った。
 これまでもミサに言い寄ってくる男がいなかった訳ではない。けれどミサはいつも突っぱねてきた。自分から好きにならないと始まらない、それがミサの中にあった理由だ。断られても無視されても、ドンドン攻めてくるサトシのようなタイプに初めて出会い、だんだんと……、

 ある朝。その頃になると、駅からいつもひっかかる例の信号まで、隣を歩くことも当然のようになっていたサトシが、タバコをポイ捨てした。そこまではミサも見て見ぬふりをして無視できたのだが、その捨てたすぐ横に灰皿があったのだ。咄嗟にミサはサトシの腕をつかんで、
 「ちょっとぉ〜、そこに灰皿あるじゃない。何でポイ捨てすんのよ。だいたい、こんな人混みで歩きタバコなんてやめなさいよね」
 すいません、とうなだれて頭をかくサトシ。「ったく」と舌打ちをするミサ。
 今から考えれば、サトシのことを意識し始めたのはこの時だったのかも知れない。腕をつかんで、自分の方にグイッと引き寄せ、サトシの首筋が目の前に迫った時、何とも言えないクローゼットの匂いがしたのだ。ふっと、学生の頃に付き合っていた彼の、あの抱かれた時の感覚を思い出した。


 どんな人なのか、ユキの質問は毎日続いた。「知らない、特徴ない」とそっけなく繰り返すミサだったが、その度にサトシを思い浮かべた。そして、スーツにスニーカーをはいていたのは、サトシがそうゆうセンスなのではなく、出勤前にジムに通っているため革靴は会社に置いてあるからだ、とわざわざフォローもした。
 次第に、誰を見てもサトシと比較するようになり、思い浮かべる回数が増えていった。それに比例して、どうゆう訳か、サトシのイメージは好転してゆく。〈だから好きじゃないんだ〉という理由をミサは必死に探すようになった。そうすればするほど、いつの間にかサトシのことでいっぱいになり、毎朝、隣を歩くサトシが、じわじわとミサには心地よくなっていったのだ。
 そんな日々が一ヶ月続いた。格好いい! と一気に突き上げた感情よりもむしろ、スルメのようで、時間が経つほどにアジが増してくる。

 食事に誘われて、誘った方のサトシも驚くほどあっさりオッケーを出したミサ。
 一つずつ列挙することなんて出来ない。ただ、サトシから漂う〈匂い〉にミサはひかれたのだった。
 
 それからは週に一度、一緒に出かけるようになった。食事をしたり、ドライブしたり、映画にカラオケにボーリング。ミサが完全に好きになったのは、そんな日々が流れる中で、サトシという男を「オトコ」と感じ始めたからだった。約束の時間に遅刻してきても、ごめんも言わず手を引っ張って居酒屋に直行するサトシ。かと思えば、「嫌だな」とミサが思うような場所や行動には先回りして回避してくれるサトシ。少し肌寒い夜にはジャンパーを貸してくれるし、それが少しもキザには映らないサトシ。決め手は、抱きしめてくれる彼の大きさだった。文句でもわがままでも何でも言えるサトシの器。
 だからミサは、他の人には絶対にできないような、遠回りも、無理も、相手を思ってついがんばってしまうことが、サトシになら、できたのだ。


 プロポーズをされたのは、出会ってから一年が過ぎようとしていた冬の夜だった。
 いつもになく真面目な顔をして、正座したサトシに直視されるミサ。「きたな!」とミサにはそれが分かった。だけど、「どうしたの、そんな顔して」と、おどけた。

 「聞いて欲しいことがあるんだ」
 ミサも真面目な顔になって、「はい。」
 「俺たちはさぁ、いつか必ず死ぬだろ。不老不死って、そうゆうの願った王様もいたけど、結局あれはさぁ、良い時の話で、いつまでも良いわけじゃないからそんなのが手に入らなくて助かったって思ってるに違いないんだ」
 (んっ? 何? 何の話なの?)
 「俺は今、すっごく幸せで、このままの状態がいつまでも続けばいいと思ってる。だけどそれは無理で、二人とも歳をとるし、足腰もゆうこと利かなくなるし、病気もするだろ。っで、いつかは必ず死ぬんだ」
 「ごめん、サトシ。私、全然わかんない、何の話?」
 「いいから、聞いてくれ。っで、その時になって、俺の妻がミサで、ミサの旦那が俺、っていう、何て言うか、はっきりしたものが欲しいんだよ。残された人生、どんな時だってガッチリ繋がっていたいんだ。いつかは終わる、だからそれまでの二人の毎日を大事にっていうか、しっかりと生きていきたいんだ、二人で」
 「……、う、うん」
 「俺と、結婚して欲しい」
 「……、はい。」
 
 結婚式は、そのプロポーズからさらに一年後に行う予定で準備を進めた。 
 二人が別々に払っていた家賃がもったいないというミサの提案で、式の前に新しく二人の新居に引っ越した。



 ― サトシの「甘い日々」 ―


 ある日、突然、ミサが死んだ。

 会社に電話が入ったのは、遅めの昼食からオフィスに戻った二時半頃。「ミサが交通事故に遭って病院に運ばれた」、と電話をくれたのはミサの父親だった。ミサと同じように『サトくん』と義父は呼んでいた。何がなんだか分からずバタバタとしたが、とても落ち着いた気分だった。オフィスの伝言板にある並原の欄に『外出・直帰』と書き込み、タクシーで病院に向かった。

 病院に着くと、一階のロビーに喪服を着たミサの両親、そしてサトシの両親がお茶を啜っている。二階へと続く大きな階段には、ミサの遺影が飾られ、座布団の上で僧侶がのんびりと読経をあげている。ゾロゾロと列を作って焼香を待っている人がいる。啜り泣く声は飽和し、重なるように院内放送が流れていた。「悲しい」。サトシがその感情に埋め尽くされたのは、そんな状況を理解することとは別にあったように思う。
 
 「突然のことで、なんて言ったらいいか。元気出すのよ」
 小学校時代の恩師がサトシを元気づけた。その恩師と親しげに話しているのは、今の会社の上司。会ったこともないユキがサトシに話しかけもした。全てがモノクロの世界。白い看護師が際だって見えた。
 突然の死と葬儀を終えたサトシは、気が付くと、二人で住んでいるマンションに戻っていた。ソファに座って静かに泣いた。後ろのキッチンで料理をするミサを空想をした。ガラステーブルの上には、「辛くなるようだったら娘の荷物はすべてこちらに送ってください」という義母の手紙がある。

 ふと、部屋を見回してみる。一緒に暮らし始めて間もないが、改めて見ると部屋にはサトシの二倍、いや三倍近いミサの荷物があった。ミサはもういないのか……と、暗い窓から、暗い光がさすのを眺めていた。何気なく手に取ったアルバム。表紙にはミサの字で、『サト君とミサ   の思い出』と書かれてあり、「ミサ」の横に二人分はあるだろう空白があった。おそらく将来の子供の分だろうとサトシにはすぐに分かった。
 ページをめくると、初めてのデートで行ったレストランの写真。サトシの皿はほとんど空なのに、ミサの前にはまだ半分以上も料理が残っていた。「アイツ、食うの遅かったもんなぁ」と、サトシはつぶやいた。その後のページにも、ディズニーランドに行ったときの写真、人混みの花火大会、冷夏にもかかわらず無理矢理泳いだ海の写真と続き、この前行ったばかりのバーベキューの写真が整理されることなく、挟み込まれていた。それぞれのページには、写真と写真の隙間を埋めるように無数のプリクラが貼られている。

 「いい歳して、プリクラ好きなんて、ごめんね。恥ずかしい?」
 ミサはいつも撮る前にサトシに謝っていた。
 「ほんっとだよ、まったく」
 サトシはそういいながらも、いつも楽しそうな顔で写っていた。  

 プリクラの写真は、普通の日々を、いつもの二人を、そのまま切り取っている。それを眺めていると色んな情景が浮かび、どの瞬間も幸せだったと、サトシはまた悲しい気持ちになった。喧嘩して、仲直りした直後に撮ったもの、色んなポーズで撮ろうと体勢を変えているうちに変なドアップで写ったもの、ミサが頬にキスをしているもの。どれも楽しい思い出だった。

 サトシにとっての「甘い日々」。
 それはいつもミサと過ごした過日の日々だった。そんな甘い思い出にどっぷり浸かっていると、ミサの死がぼんやりして、後ろから「サートくんッ」って抱きついてくるようにさえ思えた。プリクラを見ながらサトシは、ブツブツつぶやき続けた。逃げ込んだ甘い日々の中で、ただ思い出をつぶやきながら、そこから一歩も動かず、変わらず、そうやって残りの人生を潰していこうと、またプリクラに目をやった。


 ハッとサトシは目覚めた。
 胸元、太もも、額から汗が吹き出していた。
 先に起きて二人分のお弁当を作っていたミサが、キッチンで包丁をたたいている。

 「夢か……」

 「どうしたの? そんな汗かいて」
 「んっ? いや、ちょっと変な夢を見てさぁ」
 「浮気がばれたとか?」
 「朝から厳しいことゆうなよ〜」
 「何? 否定してよ、ちゃんと!」 
 「違うよ」
 「じゃ、どんな夢?」
 「ミサが死んじゃう夢」
 「えっ? ちょっと、朝からそんな話しないでよね……」


 挙式の準備は着々と進んでいった。
 もっぱら先導するのはミサで、事後承諾で頷くサトシ。だんだん形になっていく式の準備よりも早く、二人は共同生活に慣れていった。新婚生活はすでに始まっていたと言えるかも知れない。順序にこだわってチクチク文句を言うミサの父親は、一緒に住んでいるということだけでも機嫌が悪かった。そんな義父に「子供ができました」と電話する時、サトシの手が震えていたのも無理はなかった。
 一緒に暮らし始めて半年もしないうちに、二人には子供ができた。それをミサから聞いたサトシは、一瞬、飛び跳ねるようにして喜んだ。それを見たミサは、なんだか嬉しかった。すぐに暗い顔になったサトシに、「大丈夫、お父さんには私から言うから」と声をかけると、「いや、俺からちゃんと言う」と決意したサトシをミサは惚れ直した。
 結局、震える手で電話したサトシだが、ミサの父親は「電話で言うことじゃないだろ」と、すぐに受話器を放り投げ、変わった母親が初孫の知らせに大喜びした。受話器を置いたサトシの浮かない表情が、ミサには何だか申し訳なかった。妊娠が分かった日から、毎日のようにミサの母親は電話をしてくるようになり、「早く産休をとって大阪の実家に帰ってこい」と繰り返した。
 状況を伺うミサの気持ちを先取りして、母親は「お父さんもソワソワして、ほんまは喜んでるんやから。サトシさんに気にせんでええよっていうといて」と言ってくれた。

 夫婦となり、親になる。
 それは大学生となり、社会人になるという時間差がいっぺんにやって来るかのように、二人には感じられた。「おめでとう」という言葉に、プカプカ浮いていられる状況が仮に大学生とすれば、新婚というのもそれに近い。しかし、社会人になるという裏には、責任があり、その重さはちょうど親になる、というものに等しかった。同時に来るには、準備も不安も多かったのだ。だからといって立ち止まることのない毎日は、ふたりの日常生活にとけ込んでいき、日々はあっという間に過ぎていった。
 過ぎるうちに、新鮮なワクワクやドキドキは薄れ、「普通」になる。そうすると、もっと、もっとと願望し、普通であることの有り難みが消えてゆく。

 サトシはそんな毎日を酒を飲みながら先輩社員に愚痴った。彼には「のろけるな」と言われた。そして、結婚生活とはそうゆうものなのだと、アドバイスされた。さらにその彼は、こんな事を言って脅かした、
 「子供ができるとオンナはもっと変わるぞ」と。
 
 一方、ミサがその頃に抱えていたのは、サトシとは趣が違った。
 もっと深刻だった、というのだろうか。それまで絶対的にあった『自立している』という自負が、おなかが大きくなるにつれて揺らぎ始めたのだ。仕事をセーブし、後輩がミサの仕事を次々に引き継いでゆく。「私には仕事がある」という彼女の中の太い軸がグラグラと頼りなくなり、どこかに掴まり所を探してしまう。
 お腹をさすりながら、サトシを思い、彼にもたれかかる。そうしている自分が、なんだか心地よく、だから不安だった。ミサの会社には、出産して職場復帰する女性社員が多いが、サトシに頼っていることで安堵している以上、そこに戻っていけるのかと心配になるのだ。「サトシとなら大丈夫、私がうちを守って彼が働く。それも夫婦の姿よ」と、その安堵の中に逃げ込むようにして、ミサは扉を閉めた。

 そんな時に限ってサトシの行動が気になってしまう。かつては、ちょっとした言葉からも優しさばかりが強調されたが、「家族なんだから」とミサがもたれかかるようになると、彼の同じ言葉からも、冷たさばかりがより大きく感じられてしまう。
 サトシとならこの先も一緒にやっていける。そんな気持ちを疑い始めると、不安に拍車がかかった。その頭と心で絞り出すミサの言葉は、サトシを不快にさせる。お互いが、幸せの裏側にある、もしくは、その先にあるモノに翻弄され、目の前の喜びを見過ごしていく日々。マリッジブルーの水槽の中で、与えられた餌を見過ごしてしまう。それに、よく似ていた。


(二)



― ミサの「甘い日々」 ―


 ある日、突然、サトシが死んだ。
 早めに仕事を済ませ、夕飯の買い物を終えてから部屋の鍵を開ける。と、玄関には何十人分とも思える靴が散乱しており、そのままダイニングに入ると喪服姿のサトシの両親が泣き崩れていた。ミサの母親はお茶を出したり、明日の葬儀の準備に追われて走り回っている。父は、今日の最終で東京にくるという。ユキがリビングでテレビを見ており、「サトシさんの事故のこと、ニュースでやってる」とミサに伝えた。突然の事で何がなんだか分からなかったが、悲しみのどん底に落ち、涙が止まらなかった。
 見回すと、リビングに座っているほとんどの人が自分のクライアントだった。止まらない涙を抑えながらも挨拶に回った。それからの事はよく覚えていない。ハッと気がつくと、リビングに一人きりだった。

 サトシが死んだ……

 涙は枯れないと知るほどに、ミサは泣き続けた。泣いても泣いても、ただ、泣くしかなかった。サトシとの未来を確信し、その未来に自分を必要としてくれたサトシ。彼とならやっていける、幸せになれる。そう思っていたのに、サトシはもう……いない。失ったサトシとのこれからに、ミサはただ、泣くしかなかった。食事は喉を通らず、みるみる痩せていくミサを誰もが心配した。何日も泣き続けた。
 
 泣くだけ泣いたある日、ふと、ミサの未来からサトシが消えた。スーッと軽くなり、妙に元気が出た。ミサにとっての甘い日々。それはこれからの未来にあり、過去との哀別にポンっとピリオドが打たれると、また別の何かを見つけよう、という元気が沸いた。玄関に腰を下ろし、ロングブーツのチャックを上げ、「さっ」と一声あげて、ミサは、扉を開けた。


 ハッと目覚めたミサは、隣で寝息を立てているサトシをぼんやり眺めながら、 「夢か……」とつぶやいた。
 
 
 二人の挙式は予定通り、そして、予定になかったサプライズで思わず泣いてしまった披露パーティーも、無事に終えた。最後の最後、泣き崩れたミサの横で、サトシは力強く宣言した、

「僕は、何があってもミサの夫で、生まれてくる子供の父親であり続けます」と。

 一瞬、ポカ〜ンと静まりかえった会場に、じわじわと拍手が沸き起こった。サトシなりの、宣言だったのだろう。ミサにはそれがわかり、「良かった、サトシと結婚して」と心から思えた。
 これからもあり続ける、そんな未来にミサは安心していた。

 予定日の三ヶ月前から出産後一年半、ミサの会社では産休が取れる。休暇に入ったミサは、母親としての大らかさと、その不安から来る苛立ちが入り交じって、表情がどんどん豊かになっていった。サトシに言われるまでは気付かないふりをしていたが、頬周りの肉付きも増した。「だって二人分だもん」。自分で自分にそういい訳をした。
 一日中家にいるなんて、時間が余ってしょうがないと危惧していたミサだったが、やることは山のようにあった。一日はあっという間に過ぎ、ここに育児が加わるなんて、働いているよりよっぽど忙しい、と実感する。サトシを送り出し、掃除、洗濯を済ませると買い出しに行く。簡単な昼食を済ませ、役所や銀行に諸々の手続きに赴き、帰ってくると乾いた洗濯物を畳む。そして、夕飯の準備へと取りかかる。一息つけるのは、夕方の数時間だけだった。
 ミサはその頃、再放送ドラマにはまっていた。教師と生徒が恋に落ちて、昨日はついに教師が職を追われた。これまで連続ドラマなどほとんど見なかったミサも、続きが早く知りたくてうずうずした。
 夕方六時。食事が要らないならその時間までに連絡するようにサトシには言ってある。連絡がなければ、それからじっくりと二時間かけて料理をするのだ。それまで、外食が八割、あとはコンビニで済ませてきたミサの料理は、決してうまいとは言えなかったが、楽しかった。色んな所で色んな物を食べてきたミサの舌は味をしっかり覚えており、その肥えた感覚で好き勝手にする味付けも、なかなかのものだった。いつも「うまいよ」といって食べてくれるサトシの評だ。
 フロアの真ん前にあるエレベーターが開き、足音を聞いただけでサトシだと分かるようにもなった。疲れた顔をして「ただいま」と言う彼を見ると、どうしようもなくミサはホッとする。旦那さんの帰りを待つ幸せ、彼女はそれをかみしめていた。
 
 予定日まで一ヶ月を切ると、お腹も目立って大きくなった。風呂から上がり、「パパでちゅよ〜」と顔を埋めてくるサトシ。それを見ると、母親になった気分で「よしよし」ってしてあげたくなる。そうかと思うと、スーツを着て出かける朝は、頼りがいというものを感じる。どちらのサトシもミサは大好きだった。
 この時期、彼女はよく想像にふけった。贅沢はできないが笑顔がこぼれだしている家庭。土曜の朝、眩しいぐらいの光がダイニングに差し込み、そこで子供が牛乳をこぼす。「もぉ〜」とか言いながらミサが拭き、サトシが「いいじゃないか、ねぇ〜」とかなんとか言いながら子供を抱きかかえる。「車、表に回すから、早く準備して降りて来いよ」とサトシが先に出て、家族で近くの水族館やキャンプに行ったりする。レンタルビデオ屋でも何でも、この際どこだっていい。とにかく、いつも笑顔いっぱいなのだ。「キャ! 幸せ」と、ミサはその想像をギューっと抱きしめて、買い出し先のスーパーへと自転車を走らせる。未来はなんて甘いのだろう。「ウフッ」っと、ミサからまた笑いがこぼれた。

 近所に住むサトシの母親、トキエは、お腹も大きくなって大変だろうと、週に一度のペースで手伝いに来てくれる。出来ることは変わらずミサがやるのだが、お腹がつっかえて拭けないガス台の奥や、ベランダなど、そのままにしておくと目についてしまう汚れをトキエが掃除してくれるのでとても助かっていた。「こんな事しかできないけど、何でも言ってね」というトキエの穏やかな表情が、ミサには嬉しかった。小言でいびったり、近頃の主婦は楽になったものよ、なんて事は言わず、逆に、食器洗い機がいかに便利かを力説し買うように勧めるトキエ。嫁姑問題などミサには関係がなかった。
 ミサの母親ともトキエは馬が合い、何度か夫婦そろって大阪に行っていた。通天閣を案内したミサの母親に、「東京タワーの方が素晴らしいですよ」とトキエが言うと、ミサ母が真っ赤な顔をして反論。それを収めるのに苦労した、と、サトシの父がこぼしていたっけ。

 予定日が迫ってくる。
 遠くにある時は、キラキラ光って、ただ綺麗だったものでも、いざ目前に来てそれに触れようとすると、熱くはないか、しびれはしないかと心配になる。
 ちゃんと産めるだろうか、母親としてしっかりやっていけるだろうか……。
 そんな気持ちになればなるほど、サトシの態度が一々気になる。
 
 一方サトシは、胎児の写真を見るたびに父親なのだという自覚が増し、仕事にもいっそう熱が入った。懸命になればなるほど、家にいる時ぐらいせめて何も考えずにゆっくりしたいと思うようになる。仕事場でも、定食屋でも、電車でも、いつでも家族の事を考えている。〈だから〉がんばろう、と気合いも入る。しかし、家に帰ると、今度は仕事の事が頭から離れなくなってしまう。なのにミサは家族のこれからを色々と持ち出し相談してくる。〈あ〜、ゆっくりさせてくれ!〉。サトシは爆発しそうになるのだった。
 一日中家にいて、彼の帰りを手ぐすねをひいて待っているミサと、それを受け入れるだけの余裕がないサトシの毎日は、少しずつすれ違っていった。
 
 サトシの中のミサは、一方的に話し続けたり、相手の気持ちをわしづかみにして自分の方に向かせたりは決してしなかった。そんな過去の日々がサトシには忘れられない。〈前はそうじゃなかっただろ〉と、サトシは思い、そして疲れた。

「私が職場復帰したとしても、前までの様には働けないわよね。保育園も五時までしか預かってくれないし、それも今いっぱいらしいのよ。お義母さんにお願いするのも、毎日の事だから悪いし。だから、サトシには、もっともっとがんばってお仕事してもらわないと。ねぇ? ママとアナタの分までパパにがんばってもらわないとねぇ」

 お腹をさすりながら上目使いのミサを見ると、〈まかせとけ〉と強く思うのだが、
「大丈夫だよ。保育園さえ空いてれば、迎えはお袋に頼んで、ミサは今までみたいにバリバリ働いてくれたらいい。いや、そうしてもらわないと、パパとオマエは貧乏になっちゃうもんなぁ〜」と、言ってしまう。

 お腹に耳をあてながら寝ころぶ旦那の姿を見ていて、
「もぉ〜、そんなこと言わないで『まかせとけ、俺に』とか言えないの」
 冗談のような、本気のような、ミサは尖った声で言う。

 外で働いていると、悩みやイライラの種は縦横無尽に飛び交っており、それをうっかり吸い込んでしまう確率も高くなる。それが一つならまだしも、大体において小さなものがいくつも連鎖するものだ。何!と、はっきり言えない諸々にストレスばかりが増えていく。ミサにもそれは十分に分かっていた。サトシが持って帰ってくる外の空気が、ポカポカと暖かい部屋を一変させてしまう夜もあった。そんな時でも、ぜんぶ跳ね返して、まだ余裕のある姿、それがミサの中のサトシだったのに……。

 トキエに愚痴るミサ。

「サトシさん、最近、何を言っても『お前に任すよ』ばっかりなんですよ。しつこく聞いたら『疲れてるんだ、大変なんだ』ばっかり。まるで、俺は働いてるから家の事はお前でやれって言われてるみたいで。こんなんじゃ、この子が生まれてからどうなるのか、不安になっちゃいますよ。お義父もそうでした?」

「そんなもんよ。どんどんおなかが大きくなって、蹴ったりするでしょ? そしたら、あぁ、ここに生きてるんだって母親は実感するのよ。男の人はそれをたまに触ったりして『俺も父親か』なんて実感してるんでしょうけどね。寝起きも、お風呂に入ってる時だって、ずっと自分の中にいるのとは、やっぱり違うわよ」

「そうなんですかね。それにしてもサトシさんはもっと、なんて言うか、違うと思ってたんですよ。ぜんぶ抱え込んでくれて、暖めてくれて、そっと放してくれるような、そうゆう姿が見えたから私……。でも、男の人ってそうなんですね。あっ、すいません、こんな事、お義母さんに言ったりして」

「いいわよ、何でも言ってくれるのがミサさんの良いところなんだから」
「すいません……、ほんとに」
「でもね、う〜ん、うまくは言えないんだけど、ミサさんがサトシに持ってる不満っていうのは、ただミサさんの中だけでおっきくなってるんじゃないの?どうして欲しいっていうことをはっきり言った? そうしないとサトシも困るんじゃないかな。私にも分かるわよ、その言葉になんかできない苛立ちとか不安っていう気持ち。でもそれは相手にとってどうすることもできないのよ。そんな事に一々腹を立ててると、もっと大事なことを忘れて、取り返しが付かなくなってしまうと思うわ。これは何も、母親としてサトシをかばってるんじゃなくて、人生の先輩として言ってるのよ。思い出してみて、結婚しようって決めたときの事。サトシを無条件に受け入れられたんじゃない? その中から良いところっていうか、あの子にも一つや二つはあると思うのよ、そうゆうところがミサさんをひきつけたんでしょ? 悪いところだけ突っついて、そればかりを責めると、これから大変よぉ〜。良い方、良い方を考えていかないと」

「……」

「とにかく、言葉にならなくても、さっき私に言ったみたいに、サトシにちゃんと言ってみなさい。言わないままためちゃダメよ。何でも話さなきゃ。夫婦なんだから。だけど責めちゃダメよ。相手を負かすために言うんじゃないんだからね。サトシにまっすぐ届くように、ねっ。不思議と通じるものなのよ。だってそうでしょ、無条件に受け入れたもの同士、夫婦になったんだから。それでもまだ、仕事だとか疲れてるって言うならあの子が悪い。いいミサさん、いけないのは、一番言いたいことじゃなくて、言葉にし易い、ただ相手を中傷するような文句ばかりを言うことなの。言葉だけがひとり歩きしちゃうんだからね」

「はい……」

「ごめんなさい、私ったら。いっつもそうなの、しゃべりすぎるのよね。勝手にドンドンしゃべって。高校生だったからしら、サトシに言われた事があるのよ、『母さんはみんな分かったように言うから嫌なんだ』って。もうずいぶんあの子ともゆっくり話してないなぁ。でもね、母親って分かっちゃうのよ、自分の子供ですものね」

 夕飯の支度を手伝ってからトキエは帰っていった。サトシを待ちながら、ミサはダイニングテーブルに座って考えていた。確かに、自分の中だけで不満や不安が募って、それを伝えなかったような気がする、と。
 そして、前までは、もっと無条件だったと。
 帰ってきたサトシがびっくりしたような顔をして「何かいいことでもあった?」と聞くほどに、ミサの気持ちはすっきりしていた。
 
 二日後の夜、ミサは言葉にならない自分の気持ちをサトシに伝えた。それはすべてが抽象的で、はっきりした事は一つもなかった。それでも、サトシにはちゃんと通じた。そのことがミサには分かった。
 サトシもまた、気持ちのぜんぶを言った。仕事がうまくいっていないこと、だからこそ前以上にがんばっていること。家族の事が頭から離れたことはなく、自分がしっかりしなければと思えば思うほど空回りして、イライラが募っていること。ミサが、出会ったころの強さを失って、寄りかかってきていることが、不安に思い、そんな事に不安がっている自分が嫌いだということ。帰りの電車の中で「あの頃はよかった……」と、過去の日ばかりに逃げ込んでいたこと。

 
 予定日まで二日という日曜日、二人で買い物に出かけた。しばらくは入院することになるミサが、あれもこれもと買い込み、十数個という白い買い物袋がトランクにも、後部座席にも、積み込まれた。その帰り道で、サトシが突然、
 
「最近、俺ってミサに触ってないよな」
「えっ?」
「だから、いつぐらいからだろ?」
(また、変な事を言い出した)、とミサは思った。
「さっき、お腹触ってたじゃない」
「いや、そうゆう事じゃなくて。こう、ミサに触れて、そしたら跳ね返してくる弾力性っていうのかな、そうゆうのだよ」
「えっ? よくわかんないけど」
「とにかく、俺は、っていうよりミサも、お互い実際に触ることがなくて、昔はこうだったなぁとか、そんな事ばかり思ってたんだよ、きっと」
「よくわかんないけど、そうなの?」

 実はミサにもそれはよく分かっていた。
 確かに、サトシが過去に、自分が未来に、別々に描いてた甘い日々。そこに逃げ込んでは〈こうじゃなかっただろ〉〈もっとこうだと思っていた〉と、言葉にならない違和感と不満をお互いに持っていたのだ。そこに触れて反発し合うこともなく……。

「俺は分かったような気がするんだ。忘れてたっていうより、改めて気づいたっていうのかな」
「何が?」
「だからさぁ、これからは、そのとき、そのとき、〈今〉をお互いがしっかり感じ合って、触れあって、そこで踏ん張って、同じ方向を向いて歩いていかない……」
「危ない!」


 午後四時四十分頃、乗用車とトラックが衝突し、乗用車に乗っていた
 並原聡さんが死亡、同情していた妻の美沙さんも重体です。


 警察からの電話を受けてサトシの両親が病院へ急ぐ。ミサの両親は、何がなんだか、電話口の向こうで言葉を失っていた。


「ミサさんはまだ生きてます。お腹の子も。だからできるだけ早くこちらに来てください」
 気丈なまでのトキエの姿を見て、サトシの父親は正直驚いていた。息子が死んだ。だけどまだ、嫁と孫は生きている。泣いてる場合じゃない。そんな気迫を感じたのだ。
 ミサの様態は非常に危険であった。目撃者によると、トラックが強引に右折を試みた交差点、サトシの運転する車がそのままトラックの側部に衝突したという。サトシの脇見運転の可能性が濃厚で、急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。

 手術は長時間に及んだ。手術前に医師は、「万が一の場合、お腹のお子さんを優先しますが、それでいいですか」とサトシの両親に尋ねた。ミサの両親は大阪から来るため、まだ到着していない。どう答えることもできないサトシの父親の横で、「ダメです。先生、お願いです、何とか、何とか母子ともに、助けてください、お願いします」とトキエは叫んだ。「できるだけのことはやります」。そう言って手術室が閉ざされてから、もうずいぶん経つ。


 結局、お腹の子は助かった。が、ミサはかえらぬ人となった。
 手術が終わり、一通りの説明を聞いた後で、ミサの両親が病院に到着した。 
 
 その晩はもう遅く、サトシの実家にミサの両親は泊まった。眠ることなどできない。それは四人とも同じだった。が、病院にいるのは辛すぎた。

 翌朝、朝食をとりながら、トキエが、
「この度は本当にすいません。申し訳ございません。うちの子のせいで、こんな事になって」
「何言うてはんの。脇見運転が事故の原因かどうか、そんなこと分からへん。謝るなんてせんといてください。悲しいのは一緒のはずです。そんな、謝ったり、ほんま、せんといてください」

 サトシの両親も、ミサの両親も、溢れてくる涙をこらえながら、何も話そうとはしなかった。ポツリと、ミサの母親が口を開く、

「ミサは昔っから、何でも自分でする子でした。進路なんか相談されたことないし、東京行くのも、ぜ〜んぶ決まってからの事後報告でした。私はいっつも心配してたんです。あの子はあんまり人の事を信じたり、頼ったりせえへんから、そんな生き方しんどいやろな〜って。だから、私ゆうたんです、逃げてもええんよ、負けてもええんよって。誰かに任せて頼れる人がいたら、頼ったらええんやでって。それでもあの子は仕事ばっかりで、電話してもいっつも留守やし、たまに帰ってきても男の人の話なんかしたことなかったんです。もてたんですよ、あの子。学生の時から家にも男の子から何回も電話があったし。そやのに、勉強ばっかりで。東京でもどんな暮らししてのかってお父さんと心配してたんです。それが、サトシさんの事を言うときのあの子は、ほんまに嬉しそうでした。この人しかいいひん、そうゆうてました。お父さんと二人で良かったなぁ、ってゆうてたんです。お腹が大きなって産休に入ったゆうときも、大阪に帰っといでってゆうたんです。それでもあの子、お義母さんがええ人やからって。何にも心配いらんって。並原さん、ほんまに、ほんまに、ありがとうございました」

 涙が止まらなかった。
 時間も空気も止まった様に、ただ静かで、涙だけが頬を伝っていた。

「子供は生きてる。あの二人が残してくれた、大事な、大事な子供が。二人の様に、立派な大人になるまでしっかり育てないと」
 サトシの父親の言葉で、うつむいていた四人の顔が上を向いた。
「そうだ」と。


(三)


生まれてきた子供はマイと名付けた。誰が育てるかの話し合いは、腹を割ってすすめられたが、結局、サトシの両親が育てることになった。子供と孫では勝手が違う。育てる事と面倒を見る事のように。その微妙な違いを克服するまで、トキエは苦労していた。ミサならどうするか、サトシならなんと言うか。それはまるで、二人から預かってきた子供をあやしているかのようだった。

「大きくなったねぇ」と一年に数回、頭を撫でるのは孫であり、毎晩夜泣きで起こされ、おむつをかえ、急な発熱で病院まで走る。そんな事を繰り返すうちに、子育てとしてマイと接する事ができるようになった。
 言葉を覚え始めたマイが、トキエの事を「ママ」と呼んでいたことからも、子供として育てていたことは分かる。
 しかし、ある時「お前は母親じゃないだろ」と夫に言われ、トキエは自分の事を「バァバよ」と教え直したが、それでもマイは「ママ」と呼び続けた。

 二人の命日には、大阪からミサの両親がやってくる。それはもう三度目だった。トキエの事を「ママ」と呼ぶ孫を見て、思わずミサの母親が、

「マイちゃん、私は誰?」と優しく聞く。
「バァバ」と答えるマイ。
「じゃ、あの人は?」とトキエを指す、
「ママ」と答える。
「違うのよ、バァバなの」とマイに言うが、キャハッと笑ったマイはミサの母親を指して「バァバ、バァバ」と繰り返した。
 しばらく考えて、
「マイ、あの人は、ママじゃなくて、『マァバ』よ」と苦し紛れに出た言葉。
 それに反応したのは、マイより先に、サトシの父親だった。
「それはいいですね」
「マイ、いいか、ジィパ、あの人は、ジィジ。それから、マァバとバァバ。分かった?」
「ジィパ」と、マイは人差し指でサトシの父親、ジィパの鼻をゆっくり押した。


 マァバとジィパ、そして、マイとの三人の暮らしは、日を重ねるごとに、まるでサトシを育てた三十年前のように二人を若返らせた。腰が痛い、腕が上がらない、そんな言葉も二人からは消えつつあった。
 
 マイが幼稚園に入り、年長組に上がったある日、迎えに行ったトキエにマイは尋ねた、
「美樹ちゃんがね、マイのママはどうしていないの?って言うの」
 トキエは何度かマイからこの質問を受けていた。ゆっくりと丁寧に答えたが、母親の死を理解するには、マイは幼すぎた。このとき、マイの手をグイッと強く引っ張って、トキエは帰り道を急いだ。

 また夏のある日、幼稚園へ迎えに行くと教室にいるはずのマイがいなかった。ぐるりと一周見回していると、「あっ、並原さん」と息を切らせて先生が教室に入ってきた。

「マイちゃんが、ジャングルジムに上ったまま降りてこないんです。今もジャングルジムにいます。一番上に座って、ずっと太陽を見てるんです。教室に戻りましょ?って言っても全然降りてこなくて。お友達の美樹ちゃんと喧嘩したようで、事情を聞いてから私もジャングルジムに上って少し話したんですけど。マイちゃん、ママとパパとおはなししてるっていうんです。でもママもパパも黙ってるから、待ってるって。そう言ったっきり、一言も話さないんです」
 
 先生から事情を聞いて、トキエは、ドキッとした。
 そして、すぐに、今かな……と思った。
 二度、静かに頷いて、「ご迷惑をおかけしました」と先生に言い、ジャングルジムに向かった。
 
 ちょうど近所の子供たちと遊ぶようになった頃だった。ママはどこにいるの?なぜマイにはママもパパもいないの? そんな質問ばかりを受けていたトキエは、
「マイのママとパパはあそこにいるのよ」と空を指さした。
 見上げたマイには、でっかい太陽が燦々と降り注いでいた。
「あそこ?」と眩しそうに目をしかめながらマイが聞き直した。
「そう、あそこ」
「会えないの?」
「ずっと、マイのこころのなかにいるんだよ」
「ずっと?」
「そう」
「でも、おはなしできないもん。マイはみんなみたいにママとおはなしできないもん」
「あのね、マイ。マイのママとパパは、みんなのママやパパよりも先にあそこに行ったの。どうしてもおはなししたいときは、見上げてごらん。ママとパパがちゃんといるから」
「あそこに?」
「そう」
 トキエはマイ頭を撫でながら、
「マイにはマァバもジィパもいるでしょ。大阪にはバァバもジィジもいるじゃない。マァバの事すき?」
「うん、すき」
「マァバもマイのこと、だ〜いすき」
 つぶれそうな程、トキエはマイを抱きしめた。


 あの日の事をジャングルジムに向かいながらトキエは思い出していた。なんて言えばいいか、それは考えても分かるものではなく、マイの目を見てから決めることにした。

「マイ、マァバもそっちいっていい?」
「マァバ。……うん。」
 幼稚園にあるジャングルジムとはいえ、トキエには少々きつかった。やっとてっぺんまで登り、二人並んで座った。

「おはなし、できた?」
「……」マイは首を振った。
「何かあったの?」
「……」
「マァバじゃダメ? ママにおはなしすること、マァバに話してくれないかな?」
「……」
「そっか。ダメか。じゃ、マァバもここで待とう。マイがおはなしできるまで」


「……。あのね……」
「うん?」
「あのね、みんながマイのママとパパはどんな人なの?って。お絵かきできるのって? マイ、かけないもん。だから、ここで、ママとパパの顔が見たかったの」
 トキエはこらえ切れず、涙を流した。そして、マイを抱きしめた。ふと、二日ほど前にトキエの顔を一生懸命書いていたマイを思い出した。そして、もう一度、きつく抱きしめた。

「マイが描いてくれたマァバの絵は?」
「ママじゃないからダメだって」
「先生がそういったの?」
「ちがう、美樹ちゃんがいったの」
「……。そう。それじゃ、あの絵マァバにちょうだい? すっごくじょうずにかけてたもん。ねっ? マァバにちょうだい」
 しばらく二人で、西に傾いた太陽を眺めていた。何も話さず、トキエとマイ。じっと太陽を眺めていた。

「あのね、マイのママはすっごくきれいだったんだよ。マイにそっくりだったんだから。まだマイがママのお腹の中にいるとき、ママはいっつもマイにおはなししてくれてたんだよ。パパだって、おはなししてたよ。マァバは知ってるんだから」
 黙ったままのマイ。トキエがまた、何か話そうとしたとき、

「どうしてママとパパは死んじゃったの?」

 トキエは言葉に詰まった。「死」という言葉を聞いて、涙が溢れた。
 何十分も、トキエは何も言えず、ただ、太陽を見ていた。

「ごめんね、マァバ」
「えっ?」
 マイがトキエの顔を優しく撫で、涙を拭き取ってくれた。
「帰ろう、マァバ。帰ろう?」

 ジャングルジムから降りて、二人で歩いた帰り道、いつもよりもおしゃべりなマイの姿が、トキエの胸を締め付けた。
〈この子は、みんな分かってるんだ〉と。


 その日を境に、トキエはミサとサトシのことをマイに話し続けた。マイも嬉しそうに両親の話を聞いているようだった。パパもマイと同じようにピーマンが嫌いだったこと。だけど、パパはがんばって食べたこと。自転車の補助輪がなかなかはずせなくて、ジィパと二人で遅くまで特訓したこと。逆上がりをクラスの誰よりも早くできるようになったこと。絵を描くのが好きで、何冊もノートに描いていたこと。トキエは、マイに話しながら、思い出してはこみ上げた。

 そんなサトシの話を聞く度に、マイは不思議な気持ちになった。まるで、クラスメイトの誰々君のお話を聞いているような。トキエから聞く過去の話が、マイの中では現在の話として存在した。「パパだって昔は…」とか、「お前ぐらいの時は…」といいながら、目の前の大人が話すのではなく、トキエが話す父の話は、いつだってマイと同じ、子供ままでいたのだ。「これはパパにはできないでしょう」と嬉しそうに一輪車を乗りながらマイが自慢したとき、「そうね、パパの時にはそうゆうのなかったから」と優しく笑った。嬉しそうに「じゃ、パパに教えてあげたいな」とマイも笑った。


 マイが小学生になって二年が経とうとしていたとき、トキエの夫が脳梗塞で倒れた。すぐに入院することになり、毎日見舞いに行くのが日課となった。
倒れる少し前、「長いようで短かったな。ほんとに色々あったからな」。そんな話をした翌日、夫は倒れた。マイは逆上がりをジィパに教えてもらい、それができるようになったから見せたい。見舞いにいってもそればかり言っていた。
「だから、早くおうちに帰ってきて」と。

 入院中、トキエは夫の看病に専念する方がいいと、ミサの母親が大阪から上京してきてくれた。
 声が大きく、明るい。そんなミサの母が沈みがちだった空気を変えたのは確かだ。マイの通う小学校では、集団で登校し、下校時は何人か近所に住む子供の親が交代で迎えに行くことになっていた。「働いてへんのはうちだけやから」と、ミサの母親は毎日迎えに行くことを引き受け、近所に住む子供たちともすぐにうち解け合った。いつの間にか、みんなが「バァバ」と呼ぶようになり、親たちもミサの母親のことを「バァバさん」と言うようになった。

 入院が長引き、二週間ほどが過ぎたある日、壮太というマイよりもひとつ年上の男の子が、迎えの時間になっても校門に来ないので、マイたちを車に待たせて、ミサの母親は教室まで様子を見に行った。すると、教室の端っこでうずくまって泣いていた。ミサの母親は、「壮太! おいてくでぇ、はよしぃ」と一喝した。泣き続ける壮太に、

「みんな待ってんねから、はよ、いくでぇ」
「先、帰ってて」
「ほなら、みんな送った後でまた来るから、それまで、そこでおとなしぃ泣いときや」

 返事はなかったが、他の子を家に送り、もう一度、マイを連れて学校に戻った。壮太の家は両親が共働きで夕方まで家には誰もいない。母親の仕事場の電話番号は知っていたが、電話はしなかった。ミサの母親は、壮太の横に座り、

「いつまで泣くんや?」と頭を撫でた。
「いいからほっといて、バァバには関係ないから」と壮太が大声を出した。 
「へぇ〜、大きい声、だすんやな、壮太も。大人しい子かとおもてたら。もっと大きい声で何があったかバァバに教えてくれへんか?」
「バァバに言ってもしょうがないよ。どうにもならないし」
「壮太! そんなことあらへんで。勉強以外やったら、バァバにゆうてみぃ」
「……」
「壮太!」
「僕が悪いんじゃないのに、何もしてないのに、いつもいじめられるんだ。叩かれたり、蹴られたり。そうじも僕ばっかりにやらせるんだ……」

「そら、壮太が悪いわ」
「悪くない!」
「なんでかゆうたらな、自分はいじめられてる、って壮太がおもてるからや。そやし、壮太が悪いねん。いじめられてるなんかおもたら絶対にあかん。わるないんやろ? ほんなら泣いてたらあかん。ええか、明日学校来たら、さっきみたいなおっきな声で、『おはよう』って、その叩いたヤツにゆうたるんや。無視されても、笑われても、毎日、毎日、おっきい声でゆうんや。なっ?バァバと約束できるか?」
「……」
「約束してくれたら、アイスクリーム買おたるでぇ。どうや、約束するか?」
「……」
「んっ?」
「……、分かった」

 それから近くのコンビニでアイスクリームを買って、車の中で食べた。壮太が笑ったのは、家について、いつもより早く母親が帰っていることに気づいた時だった。嬉しそうに「ただいまぁ」と言って家の中に入っていく壮太を見送って車を出した。その帰り道、マイが、

「ママもいじめられたりしてたの?」とボソッと尋ねた。
「ママはなぁ、いじめられてる子に『おはよう』って言える優しい子やったんやで。マイも、もし誰かがいじめられてたら、その子に『おはよう』ってゆうたげや」
「うん」

 トキエは、この話を壮太の母親から、病院のロビーで聞いた。
その日、早くもどった彼女が壮太からマイの祖父の事を聞き、病院にかけつけたのだ。

 入院してから一ヶ月。トキエの夫は息を引き取った。意識は一度も戻らず、急に倒れて、そのまま帰らぬ人となった。

 通夜に葬儀。バタバタと何人もの人がやってきて慌ただしかった。マイはひとり、動かないジィパの横で座っていた。泣くことも、笑うことも、話すこともせず、ただ、じっとジィパの顔を眺めていた。マイのその後ろ姿が何人もの涙を誘った。

 葬儀も終わり、ようやく静かな時間が戻った。ミサの両親は、葬儀に参列してから、しばらくは東京に残ると言ったが、これ以上迷惑をかける訳にはいかないと、トキエがそれを断った。マイとトキエ、ふたりには広すぎる家の中で、何も話さず、ただ静かな時間を過ごしていた。
 死。ママもパパも死んだ。マイにはそれが分かっているつもりだった。トキエも、マイは死というものを理解していると思っていた。しかし、つい一ヶ月前まで話していた人が、もう話さなくなり、会えなくなる。そんな死の現実を受け止めるには、まだ幼すぎたのかも知れない。ぼんやりと、いつもジィパが座っていたテレビの前の座椅子をマイは眺めていた。

「ご飯できたよ」
「う、うん」
 いつもの席にマイが座った。
「今日はマイの好きなグラタンよ」
 トキエは冷蔵庫に入れておいたサラダを取りに行き、それを取ってダイニングに戻る。元気を出さないと、マイの前だけでも、元気でいないと、とトキエは努めた。フォークも持たずにじっと座っているマイ。背面にある壁掛け時計を何度も振り返りながら、じっと座っていた。

「どうしたの、マイ? 熱いうちに食べなさい」
「ジィパ待ってるの。遅いね、マァバと一緒に帰ってきたんじゃないの?」

 腰からスーッと力が抜けた。こらえていた涙がドッと溢れた。
 いつもトキエは夫の帰りを待って食事をすることにしていた。夫とマイと三人でテーブルを囲んで食べていた。そう、一ヶ月前まで、それは普通に存在する毎日だった。
 それが、ミサの母親が泊まるようになり、看病でトキエの帰りは毎日遅かった。葬儀などでバタバタしていたここ二、三日を経て、やっと普通の生活に戻ったのだ。マイからすれば、ジィパの帰りを待つのは、当然なのかも知れない。そのマイの姿を見ていると、トキエはやりきれなかった。
 ふと見せるマイの行動が、トキエに突き刺さり、「私がしっかりこの子を育てなければ」という緊張感で膨らんだ気持ちを、一瞬、割ってしまうのだ。



(四)



 
 トキエとマイだけの生活が始まった。
 小学校も学年を増すと、マイだけの世界が広がってゆく。学校での世界、友達同士での世界。マイの話すことの多くが、トキエの知らないものになり、そんな事もできるようになったのか、と驚くことさえあった。ミサの両親からの援助もあったし、夫の残してくれたものもある。それでも、トキエはパートを始めた。年齢の事があるので、あまり条件のいいものではなかったが、馴染みのスーパーでレジ打ちを始めた。

 二人が顔を合わせる時間は減ったが、それに反比例していっそう話すようになった。マイの話は尽きなかった。学校までの道、教室の様子、先生の事、友達の事、習い始めた英会話の事。トキエもそれに答えるように、サトシやミサの話をした。
 トキエの話の中に、時々登場するジィパの話。マイはそれを聞く度に、不思議な感じを持つようになった。実際に目にしたことのあるジィパという存在が過去の事として話されている。もういない、死んでしまった、そんなジィパの話は、マイの中で『過去』としてうまく理解されていった。同じように、パパやママの話が出ると、死ぬということがはっきりとわかるようになった。


 小学校を卒業し、マイは中学生になった。この頃になると、昼の三時までで終えていたトキエのパートも、仕事に慣れたこととマイが大きくなったことを理由に、夜の八時を越えることも多くなった。家事のほとんどをマイが担当し、それらを終えると、トキエの帰りを待ちながらマイはよく空想にふけった。そして、その中に理想とする甘い日々を創り出していった。学校で友達同志話す内容といえば、ほとんどが誰かと誰かが付き合っているとか、何々部の誰々先輩は格好いいとかいうもので、ふと、自分の両親はどうだったのかとマイは興味を持った。どんな恋をして結婚したのだろう。夕食を食べながら、マイはトキエにそのことをよく尋ねた。
 
 両親の甘い日々。それを聞く度に、二人の過去を思い、そして、どこかで自分の未来だと想像した。同じ時間を共有した親子にはない、鮮明な、想像上だけの両親の姿。それは、いつまでも若く、モワモワっと中学時代のサトシが現れ、トキエの話の中で彼がどんどん成長していく。そして、ミサと出会い、恋をして、結婚する。そんな話に自分の未来を重ねる。今は離れているだけで、会ったことがないだけで、どこかにきっと存在している、そんな二人の話のようにマイには感じられた。過去の事も、現在の事も、未来の事も、マイのなかでは混合し、結局すべては空想上のものなのだと理解した。そんな空想がマイには心地よかった。目の前にあるものよりも、どこかにある完璧な理想の姿。それを演じるのが会ったことのない自分の両親で、そこを未来の自分が進んでいく。それだけでマイは幸せだった。

 
― マイの「甘い日々」 ―


 いつものように帰宅して、玄関を開けると、とても気持ちのいい風が吹いた。トキエはパートに行っており、夕方にならないと帰らない。二階の一番奥にある自分の部屋へ上がる。何気なくドアを開けると、白い砂浜、マリンブルーの海、セルリアンブルーの空が広がっていた。木陰にエクリュ色のハンモックがかかっている。
 心地よい乾燥した風にさらされながら、ハンモックまで歩み寄る。ふと、外から豆腐屋のラッパが聞こえた。〈宿題やらなきゃ〉と思い出したが、あまりにも気持ちが良かったので、そのままマイはハンモックに寝転がった。

 ユラユラ……
 それは、ずーっと昔に体験したような、ゆっくりとした、一定のリズム。
 水泡が上に向かって昇ってゆく。
 マイが呼吸をする度に、また、ユラユラと揺られる。照りつける太陽から、

『もっともっとがんばってお仕事してもらわないと。ねぇ? ママとアナタの分までパパにがんばってもらわないとねぇ』

 ミサの声が聞こえた。マイはただ目を閉じて、このまま揺られているのが一番いいと思った。しばらくすると、

『パパとオマエは貧乏になっちゃうもんなぁ〜』

 サトシの声が響く。
 言葉にできないほど、マイは快適だった。ゆったりとしたリズム。自然に任せてハンモックの上で寝返りを打った。急に、
『わぁ!今、蹴ったよ』とミサの声。『どれどれ』と、大空いっぱいを覆うようなサトシの両手が現れて、耳をすましている心臓の音が聞こえた。
 チラッと目を開けたマイは、いたずらに笑って、今度はわざと大きな寝返りを打った。『ほんとだな、今、蹴ったよな』とサトシの声が響いた。

 マイは、左側で渦巻いている大きな洞窟の中へ、そこを通って降り立つための順番を待っているような気分だった。それまでは、ここで揺られていたいと思った。
 何日もそうして揺られているような気分だった。絶えることのない、これからもずっと存在するだろうと思わせる大きな太陽は、絶え間なく光を送り込んでくる。マリンブルーの海のそばに。
 「そのとき」を告げに使者がやってきた。サンタクロースのような大きな荷物を抱えた老人が、「そろそろ、準備をしてください」とマイに告げた。
 ハンモックから降りて、もう一度深呼吸する。風が暖かさと冷たさを混在させ、木々を揺らしていた。何日も沈む事のなかった太陽が、遙か水平線に落ちようとしている。そんな楽園の終わりをマイはぼんやり眺めていた。さぁ、始まるぞ、とスタートラインに立った。また、サトシの声が響く、

『だからさぁ、これからは、そのとき、そのとき、〈今〉をお互いがしっかり感じ合って、触れあって、そこで踏ん張って、同じ方向を向いて歩いていかない……………」

 急にどす黒い雲が、空を覆った。

『危ない!』というミサの声と共に、雷鳴が轟いた。
 ピカッと強い電光と、地響きするようなカミナリ。黒く縁取りされた黄色いギザギザがが空一面を覆い、足がビリビリとしびれた。
 マイは耳をふさいで、精一杯叫んだ、「キャーッ」と。
 まだ、鳴りやまない雷の轟音の中で、また、あのサトシの言葉が聞こえた、

『― そのとき、そのとき、〈今〉をお互いがしっかり感じ合って、触れあって、そこで踏ん張って、同じ方向を向いて歩いていかない……。
 歩いていかないと、甘い過去も未来も、みんな苦いものになってしまうような気がするんだ。そんな事に、今更ながら、俺、気づいたよ ―』
『そうよね』
 ミサが答えた。その横で、優しく微笑みながらジィパも頷いた。



 ハッと目が覚めると、もう八時を回っていた。
「夢かぁ……」とマイはつぶやき、慌てて下に降りていく。
 もうトキエは帰宅しており、夕飯の支度もやってくれていた。

「珍しいわね、マイが寝てるなんて」
「あっ、うん。ごめんなさい」
「別にいいのよ。疲れてるんでしょ。ご飯、食べられる?」
「うん、もちろん。お腹ぺこぺこよ」
「そう? よかった。今日はマイの好きなグラタンよ」

 いつものように二人でテーブルを挟んで夕食を食べる。一気に頬張ったので、舌を火傷した。笑いながら、「ゆっくり食べなさいよ」というトキエの顔を見ていると、とにかく伝えたくて、マイの口から漏れた、
「私、今、すっごく幸せ。だから、これからだって、これまでの事だって、みんな、み〜んな、幸せなのよね」
 マイは笑った。

 トキエも、
「私もすっご〜っく、幸せよ」と答えた。

 トキエの左腕をマイが突いた。「何するのよ」と、トキエもマイのおでこを突いた。そして、二人は大声で笑った。


(了)

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