足踊る大地
鈴木正吾著
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【
7回
/ 全10回】
チリリ。タッチ・リクエスト、ナウ。
アクセスしてきたのは、バルセロナに住むという男性だった。この日は、今年一番の寒波で、雪が降りそうだった。僕のアドレスが世田谷区の香住だったという理由だけで呼びかけてきた、まったくの初対面の人物。彼は今、東京都から依頼を受け、仮想世界の東京をアップデートしているのだと言った。そんなことを公の機関から依頼を受けることがあるのか、と驚いた。これまで、仮想の世界は、誰かの手によって造られたということは解っていた。しかし、それは神様が〈世界〉を創ったのと同じ程度に、何だか、在るべくものとして有ると考えていた。それが、僕に、大学の半径五百メートルの詳細な抜け道、看板の有無、だいたいの人通りなどを実地調査して欲しいという依頼だったのだ。つまり、創るために手を貸す。それを光栄に思うなんてことはなかった。僕はただ、初めから用意された箱の中で、人は現実社会と同じように、いやむしろ現実社会よりも、もっと良い(違った)形で生きられることを本気で考えていた。それだけに、メンテナンスするから、手を貸してほしいと言われると、急に、この世界が家電のひとつのように思えてくる。単なる、ツール。しかも、その男が実地調査の対価として僕に示した額は、食堂で二回ほどランチを食べたらなくなってしまうほどだった。
調査の依頼は、断ることにした。なんだか、色んなことが、というよりも、全ての事が、ここのところ、しっくり来ない。それがいつも、どこでも、気怠さの原因になっていた。
ある朝、いつも通りの、朝ならではの、新しさをもった七時。僕は、起き上がり、グーっと伸びをした。いつものように胃や腸、太ももなどがしなりつつ伸びていく感覚。と、トン、と。僕の右手の、中指が天井に触れた。「えっ」。僕は確かめるように、もう一度、グーっと伸びた。今度は、両手の何本かの指が、確実に天井に触れた。ふぅー。その時、ため息とは違う何かが、体の中から漏れた。スーっと、気持ちのようなものが、楽になった。僕は、カーテンを開けて、窓にうっすら映る自分の体を見た。天井に、届いた。それなら、「できる」とも思った。頭の中で、いつかは、と思っていたこと。将来は、と先送りしていたこと。だから、安心して諦めていたこと。そんなことが、出来るのではないかと思ったし、やらないといけないとも思った。
一人で、旅に出る。いつかはしたいと思っていた。父が、幼い頃、「いつか、プランも、父さんの若い頃のように、一人であちこち、海外を歩き回ったりするんだろうな」とよく言っていた。それを聞くと母が「そんなこと、わからないわよ。この子が、何に興味を持つか。きっと私たちが想像すらもしていないものに興味を持って、ある日突然、オレ、何々したいんだけど、って言い出すのよ。ああ、楽しみだけど、怖いわ」とか。そんな会話が、何度も繰り返されていたように思う。一人で、旅に出る。これは、家族でいくつもの国を回り、アメリカに移住して、そして一人で東京暮らしをしている僕の現状を持ってしても、やらなければならない、こなさなければならない事だった。
この日、僕は、パスポートの更新に向かった。今年でちょうど切れる紺色のパスポートから、深紅のパスポートへかえる。更新の仕方をネットで調べ、旅券課なる場所も調べた。二十歳を越えていると、十年用が、それも両親の同意無く取得できる。一人で決めていいのだ。しかも、十年間は、あなたの身分を証明し、日本国が、外務大臣の名で、海外の関係箇所に向けて、海外での必要な保護を要請してくれる。仮想世界にも、もちろんパスポートはある。十二桁の数字に三桁のアルファベットでなるコードが、仮想世界に入るには必要になる。そのコードの取得は、実在を証明するためのもので、ファースネームのみとフルネーム、それから性別が含まれている。これらは、保護すべき個人情報からは抜けている。名前と性別を公開の対象とするとき、反対派の抗議は激しかった。僕が小学生の頃、連日ニュースになっていたので明確に覚えている。保護すべき個人情報とは、個人に関する「一般的」な情報ではなく、個人だけが知るべきもの、または、他人には知られたくないと客観的に認められるもののみであると定義された。そんなことは、定義になっておらず、ルールにもならないと、多くの知識人が訴えていた。文言は、何度も修正されたが、結局、公開対象は変わらなかった。ちなみに、AIには、このコードの末尾にaiとつく。
新宿駅を降りて西口から、都庁へ向かう。改装されたばかりのコンコースは、とても近未来的で、ロボットスーツを着た女性が似合うな、と僕は思った。そんな仮想を思わせるほどの現実。駅に隣接し、直結した幾つもの建物群を抜けると、京橋プラザホテルが一際大きくそびえ立っている。外国人専用ホテルとまで言われる程に、外国人に人気のホテルだ。ここ十年で三度のリノベーションをして、日本人ではなく、あくまで外国人が気持ち良いと感じる和の空間を作りあげた。そこが、外国人に爆発的な人気がある理由らしい。そのホテルの前を通ると、バックパックを背負った若い外国人にたくさんすれ違った。その度に、彼も、彼女も、一人旅なのかな、と考えてしまう。ホテルを通り過ぎて、都庁ビルの手前で地下に降りる。パスポートの発行・更新手続きを行う旅券課。まずは、日本国内のIDとなっているマイナンバーから、パスポート用のデータを取り出し、顔写真が半年以上前のものは受付に設置されている小さな、だけど高性能なカメラで撮影される。その写真が、パスポートに載り、マイナンバーカードではデータ上のみが最新の写真に書き換えられる。必要な記載情報が自動的に読み込まれ、間違いがないかの確認と、最後に署名をするPlan Tanaka。僕は、いつも英語で署名を入れる。田中プランという漢字とカタカナというのが、どうも嫌なのだ。最後に、パスポート更新の目的として、直近に予定している旅行先を聞かれる。「特に、なし」と言ったら更新できないような気がして、僕は慌てて、「インドです」と口をついた。全く決めてなかった旅先。一人で旅をしなければいけないとは思っていたが、その旅先には、イメージがなかった。インド、それも、ムンバイ。なぜか強烈に印象に残っている街だ。カーンの生まれ育った街。
パスポートの更新申請から二時間待てば、新しいパスポートが出来上がってきた。深紅の、あのパスポート、と想像していると、なんと、一枚のカードだった。今年の四月から、カードになったらしい。出国や入国時のスタンプは、すべてデータ化されるという。
パスポートも無事更新できたので、その足で、新宿にあるトラベルカウンターへ行った。そこは無人で、鉄道やバス、航空会社、ホテルなどが、自社の端末を置いてダイレクトに切符や航空券を売っている。インドのムンバイ行きのチケットを探してみる。数個の航空会社が出てきた。エア・インディア、ジャパン・エアー、パレイシア・インド航空、香港エア。パレイシア・インド航空は格安だったが、デリーまでしかない。他の航空会社も、東京からデリーまでは直行するが、デリーで乗り換えて、ムンバイに行くことになる。後は料金。飛行機の値段は、ピンからキリまでをこれでもかというほど細分化して、驚くほどの種類があった。座席の広さで値段が違うのは分かる。しかし、買う時期が早ければ安くなったり、会員メンバーに入っているかどうかでも違う。値段だけではない。早朝や深夜に離発着する便では、座席がアップグレードされたり、シャンパンサービスの付いているものもある。検索結果画面の前で、こうして迷っている間にも、誰かが先に予約してしまうのではないか。そんな焦りが生じて、結論を急がされる感もあった。それも作戦のうちだな、と思いつつも、ついつい慌ててしまう。想像していたより、インドまでの飛行機代は安かった。こんな値段で、インドまで行けるのかと驚いた。東京とデリー間は、今やビジネス路線の中心。色んな航空会社が、競い合っているので安いのだという。隣で、端末を触っていた男性が、僕の驚きの独り言に、にっこり笑って教えてくれた。
僕はこの日、朝起きて、ハッと芽生えてパスポートを取り、そのままインドまでの航空券を買った。ひらめきから行動までが、経験したことのないような速さで進んだ。
その日の午後。僕は相変わらず、あの空き地へ向かった。大きなゴミ箱には、ゴミが増えていない。青い簡易椅子は、朽ちかけている。雨が降って、固まるものと、朽ちるものがある。よく見ると、周りの雑草が、色を失っていた。隣の敷地との間に、薄い金網があった。それは、新しく出来たのか、前からあったのか。ふと、いつもは、この席に座るやいなや、ヘッドセットを付けてコンタクトをしていた事に気づいた。この空き地を見回すことは、ほとんど無かった。この日、僕はヘッドセットを付ける気になれなかった。こんなにも、ドキドキして、ちょっと後悔のようなものも有りつつ、パスポートとエアチケットを眺めてみる。嬉しいような、いや、やっぱり一人で行くなんて無理であるような。僕はこの時、現実で精一杯だったのだ。すーっと、風が吹いた。シャラシャラと、草が揺れた。キラキラと、太陽が差し、ドドクドクと、胸が鳴っている。完璧に、ひとりだ。なぜか、強烈にそれを感じた。僕は、だいぶ経ってから、ゆっくりヘッドセットをはめた。それからゆっくり、ANYの扉を開いた。
ANYは、過去の僕のコンタクトから、類似したお薦めのスペースへ誘ってくれる。その扉の向こうに、こんな気持で行くのは、初めてだった。まだ見ぬ人、何処の誰だか分からないANY空間の相手に、僕は、今の僕のことを話したかった。それも、仮想世界の事はではなく、現実の世界のこと。インドへのエアチケットまで、勢いで買ってしまったこと。話したいと思う一方で、この世界の人たちは、現実の世界の事など興味がない。僕自身もよく、ANYからアクセスしてくる初対面の人に応答して、根掘り葉掘り現実のことを聞かれたことがある。そうする人の大半は、自分のことを先に話したがる。そんなことを聞かされても、全く興味がない。そもそもが初対面の人なのだ。朝起きてから、エアチケットを買うまでの、僕の今日一日の出来事が、自分にはとても大きなことだが、それをこの世界の誰かに言ったところで、せいぜい「へぇ、すごいね」と言われて終わるだろう。扉が開いて、まずはコンタクトを取ろうかとおぼしき人を傍観する。みんな、いろんなことをやっている。僕はバスのようなものに乗っていて、車窓から外を眺めている。広場のようなところで、人と人が会話している。笑ったり、黙ったり、抱き合っている人も多い。そんな中、ちょっと話してみようかな、という人がいると、アクセスはとても簡単だ。「アクス」と頭の中で唱えると、その相手に届く。相手は、必ずといって良いほどの確率で応える。現実の世界で、例えば世田谷公園や、大学の広場で、誰かと誰かが座っていて、それを見ながら歩いて、「あの、すみません」と声をかけるのは、かなりの勇気がいる。声をかけられた方も、相当に身構えてしまう。ここは、そんな勇気や警戒心をないものに設定した世界なのだ。僕は、一人で本を読んでいる男性にアクスした。こちらの世界に来てまで、一人でいること、しかも本を読むことが珍しかったからだ。その男性は、アクスを拒否した。どこかで見たことのあるような、ないような、どこにでもいるような、どこにもいないような、そんな男性だった。アクスを拒否するヤツを相手にすると、トラブルに巻き込まれる。それは、触れてはいけない人物のように思うことが、この世界の常識だ。だから、「そういう人物ではない」ということを示すためにも、アクスには応えることが多い。僕は、その男性から離れようと反対側に歩き出す。なんだろう、この感覚。あの男とコンタクトをとって、一体、何を話そうとしたのか。一体、何を得ようとしたのか。そういうことをまったく期待していないから、話そうとしたのか。そんなコンタクトって、何なのだろう。男性から離れていく自分自身を俯瞰する。位置確認機能で、自分自身も、その他大勢の中の一人としてとらえることが出来る。この俯瞰しているのは、誰だ。自分のことも、他のすべてのモノと一緒に確認がとれる自分。なんだ、それは、と思った。あくまでも、プレーヤーだと認識して、この世界に「住んでいる」人もいる。僕の場合は、そうではなかった。なのに、住人だったはずの軸が、ぶらぶらと、ぐらつき始めた。
ムンバイへ出発するまでの間も、僕は変わらず、空き地から仮想現実にコンタクトを取っていた。変わったのは、これまで当然にあった気持のハイの部分が、これはこれで面白いモノと整理されたハイになったことだ。知らず知らずのうちに、ネットワークで繋がった全てのモノから、旅に必要なもの、あると便利なものを検索するようにもなっていた。特に、インドに関して必須のモノや、出発までに何をどれだけ準備しなければいけないのかは、相当調べて準備した。あると便利なものは多岐にわたっていた。貴重品を数カ所に分けて持ち歩くためのポーチ、機内でのスリッパ、上着、ネットに入るための専用のロックコード。書き出したら、切りがなく、それらをぜんぶ詰め込むには、デザインだけで選んで購入した僕のバックパックには入りきらなかった。まずは、用意した荷物の中から、現地でも買えるだろうものを外していく。食料品は全て置いていくことにして、あとは洗面具類。これも最低限にした。コレが要らないということは、こっちも要らない。そうやって断捨離すると、バックの中身はみるみる減っていった。一度、減ったところに追加すると、今度は持ち過ぎのような気にもなった。スマホは、念のために持っていった方がいいか。あらゆるIDコードが埋め込められ、電子マネーで全てが事足りるような気もする。しかし、荷物を最低限のモノにして、後は、スマホに入っている情報たちで切り抜けるというのも、何だか、今回の冒険にはふさわしくないような気もする。そう、いつからか、僕はこのムンバイへの旅を冒険と呼ぶようになっていた。そして、この冒険では、徹底的に現実の中に生きようと思っていた。ヘッドセットを持っていかないと決めたのがきっかけだった。お金も紙幣で用意する。後は、パスポートのみ。結局のところ、いろいろとそぎ落としていくと、数枚の下着と衣類、メモ用紙とペン、最低限の洗面具だけになった。
そして、出発の日。僕は、バッグにノープランを詰め込んで、飛行機に飛び乗った。
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