細い石畳の裏道に、オレンジ色の街灯が微かに降り注ぎ、雨が音も立てずに街を濡らしている。立ち並んだ家の前に駐車された車と、人気のなくなった深夜のプラハ。僕はチェックインを済ませたばかりの安宿の、すぐ前にあった小さな店に入り、小さなテーブルに座って「ベルベット」という名のビールを飲んでいる。日本円にすれば八十円ほどのその安ビールが喉を何度か通ると、信じられないスピードで酔いが回った。日本からの長旅と、宿探しの気苦労と、さらには突然の雨。確かに体は疲れていた。それも要因の一つだろうが、おそらくはこの街のビールが、すぐに酔えるほどきつく、そして美味しいからだろう。目の前の窓からは、四角く切り取られたボヘミアの古都が見える。僕はそんな静かで、ほの暗い中世の街並みと、窓に映った自分の姿を一面的に捉えながら、間でくっきりと浮かんでいるビアグラスだけが現実のような気がしてきて、またグラスを口に運んだ。午前0時を過ぎた頃、浮遊した心と頭がゆらゆら揺られて、遠く、遠くへと誘われる感覚を楽しみながら、それからの記憶を無くしてしまった。翌日ベットで目覚めた時には、そこがプラハであることの自覚から始めなければならなかった。

日本からフランクフルトを経由し、予定をかなり過ぎてからプラハに入った。既に外は暗く、十一月にして真冬の寒さだった。僕はバックからダウンジャケットを取り出す。荷物になるので、最後まで持っていこうかどうか迷っていたが、持ってきて正解だった。空港を一度は出たものの、この寒い中を目当てなくホテル探しを始めるには気が引けた。空港からめぼしいところに電話をかける。ツェー・カー・エムというユースホステルのようなドミトリーがプラハにはあり、そこに空きがあるかどうか確かめようと何度かかけたが、全然通じない。後から分かったことだがチェー・カー・エムは、冬のローシーズンには営業をしていないらしかった。着いてから宿探しをする僕の旅のスタイルにおいて、夜に到着する飛行機は、かなり不便だ。売店で買ったテレホンカードが続く限り、候補の宿に電話をして、空きを確認してから動こうと思っていた僕は、この時点で完全にプラハの寒さに負けていた。いつもなら、とにかく市内へ出て、安宿が集中しているエリアで一軒一軒回り、部屋を見てから決めるのだが。とにかくガイドブックを取り出し、料金の安いホテルから順に電話をする。出ない所ももあるし、出たとしても、いい返事がない場合もある。結果的にどこもいい返事はなかった。ふと気づくと、プラハでは英語が良く通じる。とにかく空港から街の中心部まで出ようかと思い、バックを背負った。この時点で、候補に挙がったホテルは一つもなかった。
背負ったバッグの重みで流れるように振り返ると、一人の男性が声をかけてきた。のっけから単刀直入に相手は客引きを始める。これは僕の想像に過ぎないが、彼の心境としては、空港に来て、こんな時間になり、捕まえた僕は今日の最後の獲物なのだろう。どうしても逃す事は出来ないのか、その必至さが伝わる。彼は"PRIVAT MULLER"というトイレ・バス、そしてキッチンまで付いているアパートメントタイプの部屋を紹介する客引きで、場所は市内中心にあるという。その写真も見せてもらった。一昔前のカラオケボックスにあったような濃紺のソファと、同系色の刺繍で飾り立てられた薔薇の模様、ライトはつぼみから満開になる前の派手な花びらのようにヒラヒラしている。僕の中で、そこに泊まる気は完全にゼロだった。決して料金も安くない。いつものように料金を理由に断ろうとすると、「いくらならオッケーだ?」といつもの客引き攻撃が来た。うんと安い値段を言ったつもりだが、相手は僕の言い値で、あっさり承諾した。この国の物価にまだ実感がないので、もっと安く言えば良かったかなと後悔する気持ちと、断る理由がなくなってしまったという焦りに似た感情が心中で混ざり合った。こうなれば、外も寒いし、きっと市内までも送迎してくれるだろうからとりあえずそのアパートに行こうと決めた。行ってから断る理由を見つければいいのだ。一度見るだけ見ると伝え、彼と一緒に市内に向かった。タクシーで行くと、割り勘になるから安いと言われたが、赤い物を青いと言われた気がして、当然の如く拒否する。それも強く。送迎も付いてないのかよ、ほんと客引きか?と疑問が湧く。空港からバスとメトロを乗り継いで一時間弱、彼の言うアパートメントについた。最寄り駅は、Hlavini nadraziという駅で、確かにダウンタウンと言える程中心にある。彼の後を歩きながら、ここまでずっと断る理由を探していた。バスに乗っていても、メトロでも冗談混じりに話をしてくる彼に応えながら、必至で断る理由、それも料金以外の何かでないといけない難題だが、模索していた。彼は彼で、やっと捕まえた客にアメを与えているのだろう、上機嫌で丁寧な対応を終始崩さない。さぁ、どこでムチを打つ?などと、彼の本性を「悪」だと、僕の中で勝手に決めつけていた。ここだ、と指された先には、正真正銘のアパートがあり、夕刊なのか、朝刊なのか、エントランスの集合ポストには新聞が入っている。普通のアパートの一室を貸し出しているようだ。観光客のざわざわした姿は当然見えない。ここならきっとチェコ人の私生活が垣間見れるかもしれないと、少しは受諾へ動いた僕の気持ちも、やはり、彼に対して怪しさが残っていた。その懐疑は、単に空港で捕まった客引きの話には、必ず裏があるはずだと決めてかかった故のモノに過ぎないが、どうも、心の中がザワザワしてならなかった。何かある、絶対にある。僕は用心深いのだろうか。空港での約束は、そこに三連泊するという約束で、料金もその三泊分のモノだった。僕は、派手なベッドカバーがかけられたセミダブルのベットに腰掛け、客引きにとりあえず一泊だけすることを伝えた。血相を変える人間の顔を見たのは初めてかも知れないと思える程の変わり様で、彼は急に声を荒げ「約束がちがう」という意味の事だけを英語で怒鳴り、その後はチェコ語で捲し立てた。最後にまた英語で、「とにかくパスポートを見せろ」と言う。本性を現したなと、その場は落ち着いて対応し、バックを背負って部屋を出た。部屋からアパートの出口まで暗い廊下を走って、そして逃げるように、降りてゆき、アパートを出てからは全速力で駅まで戻った。

追ってくるはずもないのだが、追ってくるに違いないとも思え、振り返って目を凝らし、彼がいないかを確認した。ふと、降り出した雨に気づき、そして同時に駅がとても殺風景な事にも気づいた。この時はまだ午後八時だったが、人気はあまりなく、構内の売店は、ほとんどが閉まっていた。きっと寒い夜には、早い帰宅が一番なのだろう。それとも夜の電力を省く為かも知れない。しとしと雨も降る。蛍光灯を昼間の様に明るく照らしているニッポンのコンビニは、この街では考えられないだろう。僕は、このとき、宿はなく、重いバックを背負い、ついさっき客引きから逃げてきたばかりだったので、心境は、どしゃ降りというとこだった。しとしとと降る雨をしばらく眺める。客引きを試みる者は駅にもいる。恐らく、ホテルに客を連れていくと、いくらかのキックバックがもらえるという仕組みなのだろうか、その道のプロだと言う気はしない。「ドゥー・ユー・ニード・オテル?」。とりあえず、彷徨っていそうな人を見ると声をかけてくる。飲んだ後、瓶を返して十円もらうような感覚だ。どしゃ降りの僕は、相手の顔も見ずに断る。さぁ、どうしようか。閉まっている店が何屋なのかさえ分からないが、そんなの中に、一つだけ電気が付いる。白地に原色の青色でホテル・インフォメーションとブロック体で書かれている。英語の上にはチェコ語でその倍ほどの大きさで書かれている。ふりがなのように書かれたそのブロック体を読んだ時、藁をも掴む気持ちだった。
丁度あくびを終えたばかりの女性が、退屈そうに肘をついて店番をしている。僕が目の前に現れた事でさえ、しばらくしてから気づいた。僕は予算を伝え、宿を探してもらう。簡単な地図とホテル名の入ったファイルをペラペラめくり、何件かに電話をしてくれる。笑いを交えた彼女と電話先の相手の会話は全てチェコ語なので、本当にホテルを探してくれているのかどうかも疑うほどに、楽しそうに話している。電話を切った後、「ここはダメね」と表情を曇らせ、次にかける。この時に、チェー・カー・エムが冬期クローズであることを知った。三軒目でようやく決まった。電話を切ると彼女は早口で、ここからは少し遠いけどここでいいかと、ファイルの一ページを指して問う。否定の出来ない尋ね方。頭を縦に振る。もう一度電話をかけ、正式に予約を入れた。「ペンション・マホーバ」。僕の予算で、料金はクリア。それにトイレ、バス付き。その駅からは少し遠いが、「プラハ」と住所の最後に付いているので、市内であることは間違いない。そのインフォメーションで料金を支払い、行き方を教えてもらう。CラインでI.P.Pavlovaという駅まで行き、そこから四番トラムに乗り換えて二駅。降りるとそこからすぐだから簡単に分かると言う。ちょっとは落ち着いた。あとはホテルに向かうだけだ。駅構内をもう一度見渡す。やっぱり殺風景だった。インフォメーションに礼を言って改札に向かう。何人かの若者がグループを作り、大声話し、笑っている。「夜」と、「知らない街」、そこに「グループ」という状況設定から、必然的に「恐怖」が生まれてくる。会話の内容はまったく理解できないが、一語一語、全てが攻撃的に感じてしまう。僕は少し小走りになって、キップを買い改札を通った。メトロとトラムを言われた通り乗り継ぎ、ホテルから最寄りの停留所に降り立った。辺り一辺が真っ暗な町並み。灯りはたまに通る車と、再発車したトラムのテールだけ。みんな同じような顔をして整列している家々の中に、本当に宿は存在するのだろうか。簡略地図のマホーバ通りにぐるりと丸をつけ、「HERE」と走り書きされただけの情報では皆目見当も付かなかった。宿のカードをもらっていたので住所は分かる。同じ停留所で降りた人に尋ねた。一生懸命考えてくれるが、だいたいの場所しか把握できないらしく、それならばとにかくマホーバ通りまでの行き方を聞く。そこまで行くと、さらに暗さは増していた。石畳の裏道。道幅はそんなに狭くないので、裏道と呼ぶべき所ではないのかも知れない。しかし、真っ暗に近い夜には、そこは裏道と呼んでもいいほどの、人も車も通らない通りだった。一台の車が、ずらりと縦列駐車された列の隙間に駐車を済ませ、その中から若い男性が降りてきた。いきなり、暗闇から、バックを持った、外国人が、話しかけてきた。その男性にしてみれば、その時の状況を区切りながら、いかに驚いたかを誰かに伝えるだろう。そんな表情を話しかけた僕に見せた。一瞬こわばってから笑顔になった彼に、宿の住所を見せて何処かを尋ねる。「そこだよ」、簡単に教えてくれた。しかもすごく近い。僕を先導して歩き出した彼のあとに続く。わざわざ宿の前まで案内してくれるなんて、優しい青年だ、と感動を込めた感謝の気持ちでいっぱいだった。彼は、僕に宿を教えて、その二軒となりの家に入っていった。そこが彼の家だったのか。何か損した気分だ。感動までして感謝したのに。確かに、マホーバ通りには住居が立ち並んでいた。そんな中に宿があるのだ。目の前に立つと「ペンション・マホーバ」と書かれた看板がかかっている。が、それは電飾されるでもなく、極めて大きい訳でもないので、全然目に止まらなかった。尋ねる前に何度か通り過ぎた場所でもあった。とにかく、やっとの思いで辿り着いた宿でチェック・インを済ませると、どっと安堵感と疲れが押し寄せてきた。

二日酔いで目覚めた朝、朝陽が射し込む気持ちのいい秋晴れだった。閉め切った窓から見る景色は、長閑で暖かそうなだった。薄着のまま外へ飛び出す。すぐに引き返した。風が冷たい。穏やかそうに見える世の中にも、冷たい風が吹いているものなのかと、人生観にも似た感覚にとらわれる。部屋に戻って、ダウンジャケットを持ち、昨日降りたトラムの停留所まで行く。雨上がりに、太陽が射すと、空気がきらきらと光って見える。洗い立てのシャツを着た時のような、買ったばかりのスニーカーを初めて履いた時のような、そんな新鮮さが心を満たし、興味が示すままにキョロキョロしながら、ずいぶん時間をかけて、停留所についた。知らない街に着て、最初に歩く時は、いつもこんな新鮮な感覚に包まれる。停留所の前に小さな教会があった。このボヘミア地方にキリスト教が布教され、そして根付いてから、何年か後に建てられた物だろうが、山あり谷ありの、この国の歴史をどれだけ見てきたのだろう。谷のどん底ありとまで言ってしまえるほどの悲劇や残虐な出来事が支配していた時期、そしてこの街に春を呼んだ革命、そのつかの間の春が終わって再び冬へと変わった時代。そんな一瞬一瞬を確かに存在していただろう、その小さく古い教会は、太陽を浴び、前に広がる庭には整理された木々が風に揺られていた。入り口の前で大きく両手を広げた少女の像が、現在を悦び、過去を憂いているように思えた。そして未来へと飛び立つような。
市の中心部とも言える場所にヴァーツラフ広場がある。全長が一q近い細長の広場で、国立博物館に向けて緩やかな登り坂になっている。両サイドには種々様々な店が建ち並び、地元の人と観光客が混ざり合う場所の一つだ。民主化を勝ち取ってからまだ十年弱の国とは思えないほどに資本主義を象徴する店が広場の両サイドに溢れている。マクドナルドでお腹を満たした後、マーク&スペンサーでトレーニングウェアを買う青年。イタリアンレストランで、カラフルな看板に本日のメニューが書かれ、両手を組みながらどれにしようか迷う婦人達。かつて目の前の、このヴァーツラフ広場で、ソ連の進行に反対を呈し、そして自らの死を持って訴えた青年がいた。いびつな程燃え上がる志が、天高く上り詰めた革命があった。現在でも献花の絶えることのないその青年、ヤン・パラフは、坂道を昇りきった場所に、国の守護神ヴァーツラフの騎士像と共に、静かに眠っている。眠らずに人々の心に存在していると言った方がいいだろうか。国立博物館のエントランスからは、眼下に広がるその広場が一望できる。太陽が雲の動きに合わせて、照り、そして隠れ、冬の訪れを感じさせる冷たい風が吹き、それでものんびりと、いつも通りの生活が流れる。幸せな現在。そんな一ページだ。僕は広場を見下ろしながら、かつてここに民主化を求め集まった大勢の人達の熱気、そして埋め尽くされた爆発寸前の不満のようなモノが、頭の中にフラッシュバックし、はっと気づいて目を開けると、現在の平和な広場の風景が映る。フラッシュ・バックの熱気と現実ののどかさ。二、三回そんな入れ替わりにふけってから、「東」と呼ばれたこの国が、共産圏の完全支配から脱却して「西」型のスタイルへと走り出した勢いを感じていた。それは決して目には見えない、街の奥深くに、いや一人一人の心の奥底に埋もれているような力強さだった。

緩やかなスロープを降りて、突き当たりに来ると、そこから先は迷路のような細い道が入り組んでいる。土産物屋が置物やチョコレートを売り、前の小道は凸凹の石畳。小型の車が、タイヤの音を鳴らしながら行きすぎる。石畳の上を走るタイヤの音は心地がいい。ゴムが道のでこぼこに合わせて変形し、蘇生し、擦れ合って一定のリズムを奏でる。その音で隅っこに体を寄せて、車を通す。車が通るために、道が存在しているということは、旧市街においてあり得ないと言える。そんな細く入り組んだ道を地図を見ながら目的地に着こうなどと考えても、方位磁石が必要だと感じるし、行きたい方角に道は必ずしも存在しない。人に聞いてはあちこちと歩き続け、やっと旧市街広場に出ることができる。不思議と躍起になって商品を売ろうとする店員が少ない。買いたい人は中に入って自由に見て頂戴とどっしりと椅子に座った店主が多い。その点においても、この街が観光地化されていないと感じる。今でこそプラハやブダペストはウィーンと並んで中央ヨーロッパの観光都市になっているようだが、この頃はそれほど団体旅行者がドッと押し寄せる事はなかった。ダウンジャケットを着て、歩き回っても汗は出ないほどに気温は低く、だだっ広い旧市街広場では頬に冷たい風を浴びた。中央にヤン・フスの像が立ち、円を描くように二、三段の階段がある。とにかくそこに腰をおろし、回りの建物を見回す。旧市庁舎や教会、宮殿、学校と四方をゴシック建築の重みのある建物が並んでいる。白い壁の建物が広場全体の雰囲気を明るくしているし、それほど密集せずに空がふんだんに覗くためか、開放感もある。旧市庁舎には天文時計塔が立ち、長い針が12を指すと、小窓からキリストの十二使徒が顔を出し一周する。何分か待って、その十二使徒の出現を待つ。11に長い針が近づく頃、どこにこれだけの観光客がいたのか、各国を代表する観光カメラマン達のレンズが一斉にその時計塔に向けられた。僕も見上げる。ど派手な出現とファンタスティックな雰囲気を想像していたが、いざ始まると、カラカラという音さえ聞こえてきそうな程の空回りで、木彫りの十二使徒が回る、ぎこちなく。「お〜」と声が溢れたが、感嘆と言うより落胆のそれに近いため息だった。現在は電力で動かしているが、元々は五世紀にも前に作られたものだという。そんな昔に、僕がこのカラカラと回る十二使徒を見ていたとすると、恐らくは感嘆したのだろう。ガイドブックによると、この時計塔は、単に十二使徒が動くという仕掛けだけではなく、当時の宇宙観を天動説に基づいて現しているのだという。どこがどうゆうふうにそうなのかは、一々詳しくは見なかったし、現在の宇宙観も謎だらけで、教え込まれた時間軸しか持ち合わせていない僕には、到底理解することは不可能であるように思われた。
旧市街の周りに並ぶ土産物屋を覗きながら歩いた。チャップリンの操り人形をでかでかとディスプレイしている店が何軒か続く。考えてみれば、土産物屋でチャップリンの人形を見たのは、彼の故郷であるロンドンぐらいじゃないだろうか。この街に彼の人形があると、どうしても「独裁者」という映画を思い起こしてしまう。無声コメディー映画をとり続けていたチャールズ・チャップリンは、ナチス・ドイツの独裁者、アドルフ・ヒトラーを風刺したコメディ映画を撮った。そして公開した。第二次世界大戦中、ナチスがユダヤ人を迫害していた真っ最中に。この映画のラストシーンで彼は、独裁者を倒し、自由と素晴らしい人生を取り戻そうと、音声を加えた演説シーンを撮る。わざわざここに音声を加えたチャップリンの意図は、様々に解釈されているが、単純にストレートな言葉として胸に届いてくるように思う。レンタルビデオ屋の隅で見つけて、この映画を見てから結構時間は経っていたが、この時また新鮮にあのラストシーンが蘇った。彼は続けた、この世界には全人類を養う富がある。そんな素晴らしいこの世界で、その富を独占する独裁者は倒し、全員が素晴らしい人生を分かち合おと。この演説は、今のこの世界に発しても通じるような普遍性があるのではないだろうか。「チャップリンは好き?」と店のおばさんに聞くと、人形を手に取り二三度振って、グッド!と笑った。その笑顔を見ていると、当時第二次世界大戦の真っ最中に、様々な圧力に負けず公開に踏み切った彼に対する賞賛を含んでいると言うよりはむしろ、単に土産物として価値があるから売っているのかも知れないと、自分の膨らみすぎた想像に苦笑いをした。
また、中央の像に腰掛ける。寒いなぁと両手を口に当て、両足をバタバタとさせていると、急に老人が十人ほど集まって、演奏を始めた。チェロ、クラリネット、ドラム、ギター。ホップするようなリズムで腰を動かし、さぁ、かじかんでないで、踊りな、歌いな、というような演奏だった。何人かが輪を作り、好き勝手に体を動かし、踊りだした。そのバンドを中心に三周ほどの輪を作っている人混みに混じって、僕も体を動かした。ポカポカしてくる音楽だった。熱くなって汗が出るという類ではなく、そう、ポカポカとぬくもる程度の音楽。優しい音響と柔らかい笑顔。歌詞は全く分からないが、きっと自由を歌った歌なんだろうと決めつけて、感慨深げにその輪から離れた。

旧市街広場からカレル橋に向かう。相変わらず複雑に入り組んでいるが、通りの名前を示す看板があるだけに少しはスムーズに向かえる。角に来る度に人に聞く、カレル橋はどう行けばいいのかと。全員が英語を話せるわけではないが、大体は英語で通じる。通じなくても、伝えようとするこちらの意気込みと、理解しよう、そして助けてやろうとする相手の優しさが、お互いの間に芽生え、なんとか、目的地までたどり着ける。プラハを流れる壮大なブルタヴァ(モルダウ)川にかかるプラハ最古の石造橋。横幅も十メートルあり、長さは五百メートルを越す。車が通ることはなく、観光客を目当てにした似顔絵描きや土産物の露天商が等間隔で並ぶ。素敵なモノクロ写真のポストカードを見つけて購入した。ここはさすがにそのほとんどが観光客だった。両サイドには三十体の聖人像が並ぶ。この橋から見上げたプラハ城は素敵だった。色合いも角度も、まるで高台にそびえ立つプラハ城を一番良く見せるために設計したのではないかと思えるほどに、完璧な景観だった。ただし、人混み。立ち止まることを容易には許さない。三十ある像の一つ一つをじっくり見て回り、感慨深げに頷けるほどキリスト教徒でも彫刻家でもない。ただ、触れば幸福になるという金色の像には我先に手を触れておいた。こういう迷信じみた幸福追求心は、かなり、強いほうだ。カレル橋を渡りきり、少し大きな道を右に折れて坂道を昇る。途中のレストランで昼食をとった。ラビットというメニューに興味はそそられたが、無難にチキンを選び、チェコ名産のピルスナー・ビールを飲む。坂道は続き、民家が並ぶ。視界が広がり出すと、こんなに昇ってきたのかと、改めて感じるほど高台まで来ており、茶色屋根の民家が密集し、その向こうに雄大な川の流れがある。曇り空。太陽が雲の間を強引に通り抜け、微かな光を届けている。この中世の街並みを残すプラハでは、まぶしいほどの太陽が邪魔になるのではないかと感じるほど、しっとりと、静かにたたずんでいた。また、そういう季節が一番似合う街の様に思えた。プラハ城と呼ばれる敷地内には教会や修道院がある。青色の制服を着た衛兵が銃を構えて立っている。敷地に入るとまず聖ヴィート教会が現れた。前の広場は決して広くないので、全体像をカメラで収めることは不可能だ。目のすぐ前で、圧迫するほどに大きく、息が詰まるほどに繊細な彫刻。視界の全部を細かい彫刻の壁で覆われ、見上げても尖塔が上手く見えない。包み込まれると言うよりは、覆い被せられた感じがする。内装は教会らしくステンドグラスが綺麗で、そこからほのかな光りが入り、厳かで、涼しい空気が充満していた。大きな教会であればあるほど、その内部の温度は低い。他にもいくつかの教会を通り過ぎると、一番奥に黄金小路と呼ばれる五十メートル程の小さな道がある。その両サイドに黄色や赤、青といったカラフルな壁の家が並び、中でポストカードや土産物を売っている。どの家も非常に小さいが、全体的にバランスの良い通りだった。小道であるが故、人、人、人でごった返す。カレル橋に次いで、この小道も人混みだ。その中の一軒にフランツ・カフカの家がある。水色の壁で、中にはカフカゆかりの品や本、資料などがおいてある。奥行きも狭く、平屋建てのこの小さな家で彼はかつて生活していた。その後、ある朝急に「虫」に変わってしまうという「変身」を書き、ドイツ文学史に名を残す事になるのだが。思えば、中学の頃、薄いという理由だけで、「変身」を夏休みに読んだ記憶がある。カフカの家があるからこの黄金小路にやって来たが、それを主目的にしなくても、この小道は何とも雰囲気が良かった。
人混みから逃げるように城の敷地から出て、旧市街とは逆方向に歩く。歩いているだけでメランコリーな気持ちになるというノヴィー・スヴェト通りを歩く。人通りはなく、落ち葉と冬のような寒さ。緩やかなカーブにそって二メートルほどの石塀が続く。寂しそうな喫茶店には客がいない。本当に哀しい気分になる道だった。思いっきり泣きたいとき、そこを通ると、泣いて済む問題じゃないような、もっと、もっと最悪の気分に自分を落とし込んでしまうかもしれない。一組のカップルとすれ違った。その雰囲気から、僕は勝手に別れ話でもこじれているように思えてしまった。その道を通り過ぎてロレッタ教会へ。この教会の鐘は心地よかった。派手に奏でられるのだが、耳障りではなく、ソフトに表面だけを撫でる音でもない。鐘が鳴る。僕が想像していた通りの音色と大きさだった。日本の寺の様に、夕焼け空に響きわたるのとは違うが、しっとりとして、大気圏の一番てっぺんから、僕の頭のすぐ上までに存在する空気が、どっしりと押さえつけるような重い夕刻に、渇いた鐘の音がダイレクトに届く。教会の裏側にあるカフェで暖かいコーヒーを飲み、そのまま坂道を昇り続けた。気づけば旧市街からケーブルカーで昇ってくるほどの高地に来ていた。近くに展望台があったので、そこを目指す。車の通らない二車線の道路に沿って高く長い壁が続いている。その壁の向こうは山の斜面で、手前には白く細い木々がまばらに生えている。その壁は「飢えの壁」と呼ばれ、かつて職を失い苦しんでいた人にこの壁造りの職を与えたと言われる。現在日本で決算期間際に掘り起こされる工事の数々も近いような、遠いような。あいにく展望台もケーブルカーも閉まっており、否応なしに歩いて旧市街まで降りることとなった。山道。辺りは暗くなり、歩いていると不気味だった。しかし、その高台から眺めるプラハの街は、ほのかなライトアップと、雲の多い夜空の下でほんのりと美しい夜景を見せてくれた。ぴかぴか光った百万ドルの人工的な美しさではなく、生活している人間が必然的に発する光りで、街が浮かび上がっている。ちょうどキャンドルライトで浮かび上がったような。決して主張しすぎず、単にそこに存在している夜景は、しっくりと来る美しさを持っていた。山を下りて、カレル橋に戻るまでは、地元の人達がビールを浴び、寒空の下、陽気に振る舞っていた。ヴァーツラフ広場に戻って夕食をとり、ホテルまでメトロとトラムを乗り継いでホテルに戻る。結論から言えば、プラハ滞在中に晴れていたのは、といより、雨が降らなかったのはこの日だけで、あとは雨が続いたため、この日、歩き回ったことは正解だったが、ホテルに戻った僕の足の疲労感は、筋肉の細胞が全員でストライキを起こしたかのように棒になり、急に酷使された事への不満が耳に届いてくるほどだった。

翌日も、その次も雨だった。小雨が降り続き、止んでる間もジメジメと肌に粘り着く空気が待ち全体を覆っていた。傘も持たずにプラハに来た僕は、駅や、雑貨店で傘を探す。日本で買うようなビニール傘を探したがなかなか売っていない。日曜であることも大きな要因だったのかも知れない。日曜日には多くの店が閉まる。サービス業が日曜日に営業しないなど日本では考えられないが、ヨーロッパでは普通だと言う。テスコという大きめのデパートに行き購入した。折り畳みで、しかもジャンプ傘だ。傘を買うのにわざわざデパートへ行った経験などないし、何千円も出して買った事もない。ここに来て、高級傘を買ってしまった。とは言え、プラハの物価は安く、傘も日本円にすれば安い。僕は決して、それぞれの土地で、日本円換算をしないようにしている。コカ・コーラの値段を日本円で百円と基準化して、そこからの差で高い、安いの判断をする。プラハの場合、コーラは十五クローネなので、それを百円を考える。実際には六十円ほどだが。
そんな高級傘、僕にとって、をもってまたブルタヴァ川に行き、チェコ軍団橋からカレル橋を見る。カレル橋の三十の聖人像が雨にも負けずしっかりと立っている。川の水量は増え、流れが激しい。この橋には車が主役顔で通る。通る度に風が起こる。橋を渡りきり、川沿いに出来た小さな広場に降りた。ぬかるんだ公園を裸で、ずぶぬれになってランニングするおじさんがいる。今日くらい休めばいいのに。昼時には早かったが、雨足が一向に収まらないので、早めのランチをとる。橋を降りてすぐの所にあるレストラン。ここが掘り出し物のめっけもの。味がとにかく良かった。時間的なことから客はいなかったが、注文したクラシック・チェココースのどれもが美味しかった。コーラよりビールの方が安いこの国で、コーラを頼む人はいるのだろうか。ローストビーフにサワークリーム系のソース、ブルーベリージャムが味を足し、キャベツの漬け物のような添え物が付く。最後はエスプレッソコーヒー。もちろん、パンやスープも付いている。大満足のランチだった。雨で沈んだ気分が一気に盛り上がる。
そこからカレル橋に移動して、橋の下で雨宿り。橋の上では大雨なので、橋の下で似顔絵を描いている。描いている方にも天晴れだが、描かれている方、つまりちょこんと腰をおろした観光客もすごいと思う。橋を渡って旧市街側の川沿いにスメタナ博物館がある。この雨ではどうすることも出来ず、とにかくそこに向かった。二階建てで、二階部分だけにスメタナの資料などを展示している小さな博物館だった。大きめに切り取った窓から、ブルタヴァ川が見える。こんな雨の中でもクルーズ船は運行される。博物館の中に、指揮台があり、その上にボタンを押すと館内に音楽が流れ出す。「モルダウ」という有名な曲をかける。そして、目の前に広がるモルダウ(ブルタヴァ)川を見る。チョロチョロとわき出たモルダウの源流が、河口に向かってその流れを増し、時に濁流となり、川幅を広げ、雄大に流れる様を表現したスメタナの交響詩が、館内を包む。丁度、最高潮に盛り上がる部分が大音量で流れると、今、目の前にあるモルダウとマッチする。この川を見ながら作った彼の歌を、僕は遙か遠い日本の、小学校の卒業式で歌ったのだ。その時熱心に教えてくれた担任の先生は、一度で良いからモルダウ川を見たいと言っていたが、あれから十年、僕より先にこの川を見たのだろうか。クルーズ船が遠くへ行った頃、館内のモルダウも終わった。それから狭いフロアーを何周かして、スメタナという人の功績を眺めた。何人かいた客の誰もが、僕と同じようにモルダウをかけるので、休むことなく、館内にはモルダウが流れる付けていた。飽きるほどに。
スメタナ博物館を出て、川沿いに買ったばかりの傘を差しながら歩いた。結構振っているが傘を差しているチェコ人はほとんどいない。若い人もお年寄りも。傘を差すのはひょうでも振ったときだけなのだろうか。バスが行き交い、人々が乗り降りする。川沿いには絶えず強い風が吹く。観光客の多くは、僕も含め傘をさして歩いている。その中には風で傘がめくれ返って、大声を上げている人がいる。「人の不幸見て、我が不幸直せ」だ。十二分に注意深く買ったばかりの傘をさして歩く。もう止みそうにないので早めにホテルに戻ろうかと考えていると、急な突風に襲われた。傘が後ろに思いっきり引っ張られ、体勢を保とうと力一杯右手で前にやると、バサッとめくれ返った。買ったばかりの、初めて何千円も出して買った傘が、買ったその日にめくれ返った。そして、骨が一本折れて、折り畳めない状態になった。折り畳み式で、しかもジャンプ傘だったのに、めくれ返って、折り畳めなくなった。雨を受けながら、大急ぎで傘を直し、修復不可能な部分は諦めた。なんていうことだ。すぐ、ホテルに戻った。

それから雨が続いた。そう長い滞在を予定していたわけではないので、雨だからといってずっと宿にいることも出来ず、とはいえ、雨だと僕は人一倍出不精になる。少年野球をしていた時代から、雨となると外に出ない癖が身に付き、雨降りに大学の講義に出ることも、アルバイトに行くことも強いてすることはなかった。僕にとって、それほどに雨は嫌だった。

プラハを発つ前日になって、ようやく雨は上がり、外に行くのに傘を必要としない程度の曇り空となった。ユダヤ人墓地に行く。墓地までの廊下には、ナチスの犠牲者七万七二九七人の名前が刻まれ、そして奥の墓地には一万二〇〇〇体が眠っている。雨上がりの重い空気が包む中、それだけ多くの人が眠るには、小さすぎるスペースに、無造作に、そして大きさも形もバラバラの墓石が地面に刺さる。墓石といってもただの大きめの石に過ぎず、その下に魂が眠っているのだ。恐らくは整理されることもなく、放り込まれるように、ここに眠っているのだろう。一応、歩く道を示すロープは張られているが、墓石がその道にもはみ出し、統一感のない飽和した敷地に、異常な程の石が突き刺されている。当時の想像にも及ばない風景を実感する。歴史的に見て、良い悪いの判断から、ナチスへの避難を繰り返すよりむしろ、そうゆう風潮を作りだした戦争というものに強い拒否反応と反対の意が沸いた。平和な時には、当然あるべき正義を正義として認識し、行動する事ができるが、戦時下では、それが歪んでしまう。そして信じられない残忍な行動が繰り返される。そんな戦争をばかげてると鼻で笑えてしまう僕自身、日本人特有の平和ボケと言われるのだろうか。平和ボケ、そう呼ばれても良いし、平和ボケならいくらでもぼけてやる。今でも何処かでは戦争が行われている。世界平和を願うほど広域的に志を高くしたわけではないが、強く、堅く思い、一点として、断固戦争反対の旗を掲げたい気持ちになった。その点を線にして、いつか近い将来、世界中を覆い尽くす面にしたい。

何でもあって便利だけど、そこにしかないというモノを持ち得ない機械的で機能的な無機質都市とは違い、そこがプラハであることを強烈に印象づける風景があった。訪れた人それぞれにその風景は違うだろうが、僕の場合、カレル橋から眺めたモルダウ川、それも雨が降り、そして上がり、どんよりと厚い雲に覆われた銀色の空。その空から微かな太陽が照らし、川をキラキラと弱く光らせる。その風景は、自分の足で歩き回ったプラハで感じた雰囲気を最も現しているように思う。

プラハからフランクフルトで一泊してから帰国する。フランクフルトに見るべき観光資源がないことは知っていた。大都市であるが故の無機質都市だという印象も深かった。フランクフルト空港から中心駅まで電車で移動する。電車の中の雰囲気は怖かった。怖いといってもスリに会うのではないかとか、襲われるのではないかといった類のものではなく、グレーに染まった車内の雰囲気が、モノクロの「シンドラーのリスト」という映画と映像が重なって、怖かったのだ。乗客のドイツ人はみんな無口で、濃い灰色のコートに身を包み、整いすぎた無表情な顔で電車に揺られている。空港からの電車は、たいてい観光客のバカ騒ぎがあるものだが、それが一切なかった。少なくとも僕の乗った車両では。中央駅に着いて、外に出る。ここフランクフルトでも昨日は大雨だったらしいが、今日は晴れている。駅前の果物売りのおじさんにマイン川はどっちかを尋ねると、質問に答える前に「日本人かい」と質問された。それに僕が答えると、またおじさんが質問する。そして僕が答える。いつまでも続きそうだったので、だからマイン川は?ともう一度聞くと、この道を真っ直ぐだと来た通り行けばいいと教えてくれた。マイン川沿いにあるユースホステルには空港から空きがあるかチェックしていた。結構な距離があったが、歩いた。メルセデスのバスにトラックが走り過ぎる。ここがドイツであることに改めて気づく。マイン川は洪水気味だった。川の両サイドには恐らく公園が広がっているのだろう、飾られた街灯が、川の中から伸びていた。つまりその公園は川に沈んでいたのだろう。ユースホステルにチェックインを済ませると、とりあえず、旧市庁舎のレーマー広場やゲーテ広場に行ったが、次も次もと貪るように足は進まない。昼間からパブに入ってドイツビールを飲む。日本では、生ビールは早く提供されるべき物だが、ドイツでは事情が違う。泡をクリーミーにするために、またはそれぞれのビールに合わせたグラスまであるのだから、注ぐ店のマスターは時間をかけるし、それにイライラもしない。最高に美味しいビールを飲むためなら少々は待つのだ。「とりあえず、生」と注文をして、それを流し込むように飲んでる今までの僕には考えられないが、確かに、泡がクリーミーだった。アルコール度数は絶対に高い。飲みやすいビールだとドンドン進むが、次の日は地獄である。夕方なのに、もう動く気を失うほど酔ってしまった僕は、ユースホステルの裏側に広がるザクセン・ハウゼンというパブ街に向かった。雰囲気は地元民で溢れ返る陽気な飲み屋だ。何軒か覗いては、人が一杯でよそに移る。そう、ここでは夕方から飲むことがちっとも「早く」ないし、後ろめたいことでもないのだ。二、三軒目の店で飲む。大きなテーブルが三つ並び、みんな相席。一組の老夫婦が手を挙げて、ここに座りな、と僕を誘導した。言われるままに座る。英語が達者なその老人は、僕に「ご馳走して挙げるから、これを飲んでみると良い」といってアップル・ワインを頼んだ。この店はアップル酒を作っている蔵で、小規模な店を前に出しているのだという。たしかに、美味しかった。料理はもちろんソーセージ。種類が多い。丁寧に説明してくれる老人の話を聞いて、どう違うのか今ひとつ分からなかったので、とにかく白いのと黒いのをくださいと、何のために説明されたのかも分からないようなオーダーをした。でてきたソーセージは、大きめで、皿の四隅にソースや添え物がある。迷わずそのソーセージをほう張る。と、老夫婦の奥さんが、大慌てで止めて、こうするのよ、とソーセージを半分に切り、皮の部分を残して中身だけ絞り出し、その中身にソースと添え物を混ぜて口に運んだ。なるほど、皮は食べないのか。黒いソーセージは苦く、あまり口に合わなかったが、白い方は美味しかった。ソースも美味しい。何ソースかは不明だが、邪魔することなくしっかりと味を足している。リンゴ酒はきつい。二杯目を開けた頃には完全に酔っぱらってしまった。老夫婦に「ティピカルなソーセージが食べたい」と言うと、メニューから選んで注文してくれた。やっぱり、フランクフルトは、ソーセージ。そこの典型的な物を食べずには帰れない。皿に入ってやって来たティピカルなソーセージには唖然とした。僕らが言うところのフランクフルト・ソーセージだった。マスタードを付けて食べる。確かに、これこそ、フランクフルト典型のソーセージなのだろう、だから、日本でもわざわざフランクフルト・ソーセージと呼んでいるに違いない。また、白いソーセージを追加して、リンゴ酒をやめビールを注文する。最近はビールを飲まないという老人は、歳のせいだろうか。アッという間に三時間ほど経ち、老人とこれからの世界は平和でなければならない、なんていう大きなテーマでの話にも区切りをつけ、別れた。ご馳走さまでした。その後、パブに行き、違う種類のビールを三杯飲んだ。美味しくて、自分のペースを失い、ドンドン飲み続けたので、気分が悪くなり、吐いた。ユースホステルまでどう帰ったのか覚えていないが、その店のマスターが、すごくにこやかで、サッカー好きで、魂を込めてビールを注いでいたことは覚えている。

人を陽気にさせるビールは、時に狂気にさせたり、暢気にさせたり、病気にさせたりする。しかし、この土地にビールが根付き、人々は飽くことなくグラス片手に大騒ぎをしている風景を見ていると、悪い面を全てカバーするほどの良い面が、ビールにはあり、人と人の間にも、人と世の中の間にも、そして僕との間にも、常にゆっくりと、クリーミーな泡で注がれたビールと、それを半分ほど飲み干したビアグラスがあった。

[ Colors of world top page ]



All Right Shogo Suzuki Reserved

第四章:真ん中にビアグラス