「たすけて〜」
そんな声にいちいち反応しなくなったのは、そのコトバの裏に「こんなに楽しい今を、どうか奪わないで」という、一種の裏返しがあることに気付いたからだ。『オレ』は、早朝の公園で清掃員をしている。もう四年が経つかな。
タバコの吸い殻や落ち葉だけを吸い込み、砂や小石は吐き出す最新鋭の掃除機を背負い、太くて長いノズルを左右に満遍なく振る。まだ入りたての頃、先輩から「まぁ、地雷でも探す感覚で」と教えられたのが影響して、こんな仕事でも、オレは緊張感を持ってやっている。
午前四時から六時までの二時間。老夫婦がせっせと朝の散歩ができ、夜の少年少女たちが一通り夜遊びに飽きた後。その、ちょうど隙間の二時間、オレは出動する。
「たすけて〜、きゃ〜」
まただ。その後にくる「アハハハハハ」という笑い声。「いこ?」と、身体についた埃をはらりながら、少女と少年は連れだって始発の駅へ向かう。これが、常だ。オレは、二人の背中を眺めながら、まだ濡れているコンドームを吸い込む。シュポッ。はい、ご苦労さん、だ。
若いな、と苦笑しているオレは、今年で二十六になる。
あの二人は、これから家に帰り、服を着替えたらすぐに学校に行くのだろうか? いや、そもそも制服のままでウロウロしてる訳だから、シャワーだけ浴びたらパンツでも履き替えて登校するんだろう。ん? 学校なんて行ってるのか? どうでもいいが、とにかく元気だ。若いって、元気だなとオレは思う。
夜の部の最終組が引くと、見計らったように朝の顔ぶれが続々と公園内に溢れ出す。今日のような、空気の軽い日は特に人数が多い。
この公園は、住宅地のど真ん中というでもなく、だからといって、わざわざ出かけるような郊外でもない、絶妙な距離を保ちながら地域の中に溶け込んでいる。広さはどのぐらいだろうか、正確なことは分からないが、昔、ここにお城があったというぐらいだから、相当なものだと思う。
散歩組を見ていると、ひとつだけ確実なことがある。それは、おじいさんよりおばあさんの方が歩くスピードが速いことだ。これは、この国の平均寿命と関係があるのかも知れない。さらに、例外なく、おばあさんはいつも笑顔なのだ。「おはようございますッ」と、語尾の跳ねる感じが、おじいさんにはない。残された人生を跳ねるように生きるのは、女性に限ったことなのだろうか。
オレも「おはようございます」と返す。そうすると、チャリンと元気のコインを得たような気になれる。
「がんばるねぇ〜、毎朝ご苦労さまッ」と、すれ違うおばあさんは肩を叩くように「若いって財産よ、羨ましいわッ」と、歩き去っていく。オレはゆっくり振り返りながら、「あ、どうも」と表情を緩める。
楽しそうだな、とオレは苦笑する。一周するのに三十分はかかるだろうから、一汗かいたらファミレスにでも行って夫婦でモーニングを食べるのだろうか。いや、簡単に家の食卓でご飯にみそ汁の和食に箸を進めながら、朝の連続ドラマでも見るのだろうか。どちらにしても、最近の年寄りって、元気だなとオレは思う。
手を抜けばいくらでも抜けるのがこの仕事の良いところでもあり、だからといって手を抜いてしまうとやってられなくなるのが厄介だ。単調な反復動作、繰り返しを続けてゴールを目指していくルーティン・ワーク。ダラダラやっていると、いつまでも終わらない気がして余計にしんどい。競走するでも、成果が問われる訳でもない「とりあえず」的なところで、オレじゃなければならない理由は一つもない、そんな仕事。
だからいいんだろ、と所長にはいつも言われる。お前たちには、そういう責任感もない、いくらでも代わりのきく「一時的」な仕事がもってこいなんだろ、と決めつけられる。だからといって、言い返す言葉は何もない。現にオレは、いつでも休みが取れて、融通の利く仕事しかできないのだから。
だけど、所長の言うことは、肯定はできない。そんな仕事でも、オレはがんばっているつもりなのだから。
二時間かけて全面に掃除機を滑らせた後、事務所に戻ってハンコを押す。はい、ご苦労さん、と自分に押されるようなこの瞬間は、何というか、悪い気はしない。「相変わらず元気ないな、アキオ」と、挨拶代わりの所長の言葉に軽く会釈して、カラカラのドアを開いて外に出る。
元気が、ない。そう見えるだけだよと必死になって反論していたのは、ずいぶん昔のことだ。今では、そう見えようが、思われようが、オレのさっぱりな毎日にも、それなりの楽しみはあって、「え、え? それって何?」って突かれても答えられないけど、とにかく楽しくない訳じゃないから、それでいいと思っている。
事務所からオレの部屋までは、自転車で二十分。まだグーグー寝ている「アイツ」を起こし、コーヒーのセットをしてから、オレはまた眠る。
こんなオレと「アイツ」の共同生活も、大学生の頃からだから、もう、八年になる。毎日のペラペラな積みかねが、知らないうちに一つの厚さをもったという、八年だった。
午前七時半。『ぼく』の毎日は、コーヒーを飲みながら、新聞の「国際面」に目を通し、昨日、世界中で死亡した人の数をカレンダーにつけて始まる。テロ、テロ、テロと紙面に並び始めた頃からの、ぼくの習慣だ。なんとなく、こんな自分の生活も悪くないな、と確認できるような気がする。
さっ、と声に出して自分にスイッチを入れ、ネクタイを締めて出勤する。偉いなと「カレ」は思っているようだ。ちゃんと働いて、自立している、から。ただ、それだけの理由で、偉いと評価してくれるのは「カレ」ぐらいなもので、二十六歳にもなった自分には、普通のことだ。その普通の中に、ちゃんと居られることに安心しているという現状が、自分では、偉くもなんともないと思っている。つまり、ぼくは完璧に普通なのだ。
ぼくの月給、ぼくの彼女、ぼくの服装、ぼくの部屋、ぼくの趣味。どれをとっても普通だ。ぼくが定めたバーの高さに見合った暮らし。それを超えるために、ぼくの今までがあったといってもいいし、そのために頑張ってもきた。言ってみれば、ぼくはこの普通を勝ち取ったのだ。満足かと問われれば、「はい」と答えるつもりだ。なぜなら、一人ひとり「普通」の状況は違うのだから。例えば、毎朝の電車で座れる人と座れない人がいる。いつ何処から乗るかによって、座れる人は毎朝座れるし、座れない人はずっと座れない。それぞれに普通の毎朝なのだ。座れるからラッキーだとも、座れないからアンラッキーだとも思わない、普通の朝。大切なのは、ぼくにある普通に、ぼくは不満を感じていないという、その点だ。
本社ビルの四十八階。高速エレベーターで自分の部署へ向かう、いつもと変わらない朝を、今日も始める。
今年入社したばかりの新入社員が、ぼくに頭を下げた。「おう」と右手を挙げると、その後ろに同期の宮田がいて、混雑したエレベーターの中をスルスルとこちらに近寄ってきた。バカに背の高い新入社員は、宮田のせいで窮屈なスペースに追いやられてしまい、それでも黙って耐えている。
「お前、また休みとるんだってな」
宮田の声は、デカイ。
「なんで知ってんだよ」
「昨日、お前んとこの木田課長と飲みに行ったんだよ。ほら、今度のロシアのあれ、うちの部署と共同でやるだろ、その打ち合わせも兼ねてな。課長、言ってたぜ、お前は新人類だから、つかみきれない、って」
「なんだよ、それ」
「言ったらしいじゃないか、お前。課長! 有給はぼくらの権利です、って」
「あぁ。言った、かな」
「かな、ってなんだよ、かな、って。言ったんだろ。しかも、お前んとこの部署では結構有名になってるらしいじゃないか、お前の有給宣言。まぁ、確かに権利だろうけどさ、まだ入って一、二年のヤツならともかく、四年も働いて、それなりに会社のことが分かり始めたヤツが、それでもそういうことを堂々と言うってのは、課長ぐらいの年代からすりゃ新人類ってことになるんじゃないか。それも今、プロジェクト立ち上げの大事な時期だろ。わざわざそんな時に十日間の休みだもんな」
「まぁ、な。やっぱ、やばいかな、俺? このまま外されていったりしないよな?」
「知らないよ、そんなの。まぁ、外されるもなんも、まだ、おれらにはそう重いポストがあてられてる訳じゃないから平気だとは思うけど、今年ぐらいがギリなんじゃねぇの。もうそろそろ、そんなこと言ってられなくなるぜ。ま、そう考えると、今のうちに権利を行使しておくっていうのも賢いやりかたかもな」
「そうだよな、そうも、言ってられなくなるよな」
そんなことは言われなくても分かっている。ぼくは今、チーフとして四人の後輩社員をまとめつつ、与えられた仕事をチームでこなしている。十日間、ぼくが抜けることで滞ってしまう仕事がない訳じゃない。
「で、今度はどこ行くんだよ。またアフリカか? いっそのこと南極でもいっちゃえよ。で、頭冷やしてくるとかさ」
宮田の言い方には、トゲがある。
ぼくと宮田は、最も気の合う同期だった。考え方や、これからの展望、社会人になったことで諦めないといけないことのラインというか、そういう細かいところまで価値観が同じだった。ぼくが、有給をまとめて取っては海外を放浪する、ということ以外。だけど、言えない。まさか、「カレ」がそれだけはどうしても引かないから仕方ないのだ、なんて。
「うそうそ。せっかく行くんだからさ、楽しんでこいよ。仕事のことはひとまず忘れてさ」
宮田の部署は三十七階。じゃあな、と宮田はエレベーターを降りていった。窮屈そうだった新入社員が、吐き出されるように一度外に出され、慌てて戻ってきた。
「デカイだろ、あいつの声」
ぼくが話しかけると、フッと吹き出したように笑いながら、新入社員は、うつむいたまま「はい」とも「いいえ」とも答えなかった。
学生時代が終わる春、ぼくは「もう最後だからな」と「カレ」に念を押しながら、海外の街を渡り歩き、ゲストハウスを移動するだけの一ヶ月を過ごした。そんな旅のスタイルにピリオドを打たなければいけない。それが、学生と社会人のボーダーで、イミグレーションのようなところで「社会」へ入っていく許可スタンプが押されるような、そんな風に思っていた。何が、という特定のモノは分からなかったが、一つ終わって始まるんだという、心構えは人一倍あったと自覚している。
しかし、「カレ」は違った。学生だから出来て、社会人に出来ないことも、またその逆も、我慢というものがついて回る以上、すべて拒否した。つまり、「カレ」の中の判断基準は、「やりたいか、どうか」ということのみで、そこに、時間軸や今いる空間は関係ない。そういう意味でも、ぼくと「カレ」は次元が違った。
やることをやる。これがぼくの判断基準だ。会社に入って働くと決めた以上、やらないといけないことをこなすのが責任だと思っている。「やりたいこと」が「やらなきゃいけないこと」と一緒になるなんて、夢のような話だということぐらい十分に分かっているつもりだ。だから、本当は、こんな時期に十日も休暇をとって海外に行くなど、「おいおい」と鼻で笑って、「まぁ、せっかく行くんだから楽しんでこいよ」と、肩でも叩いてやりたいのだ。
そっち側にいるべきなのに、ぼくには「カレ」を止めることができない。
「あの〜、小池さんって、毎朝、公園の掃除してるってほんとですか?」
突然、長身の新入社員から話しかけられ、「へっ?」と声が裏返ってしまった。
「いや、うちの同期の女の子が、毎朝、公園でジョギングしてるらしいんですけど、そこで小池さんにすごく似た人が、清掃員として働いてるって言い出して。ぼく、聞いてみてくれって、頼まれたんですよ」
「そんな訳ないだろ」
間髪おかず、反応した。
「だいたい朝って何時だよ。俺、七時半に起きるのも精一杯なんだぜ。そんな、健康的なこと出来るわけないだろ。ひと違いじゃねぇの。どこにでもいそうじゃん、俺みたいなのって」
「あ、はい」と言った後で、ばつが悪そうに「いや、いいえ」と、しどろもどろになる新入社員を見ながら、「その女の子に言っといてくれよ、残念ながら違ったって」と、肩をポンッと叩いた。
そう言って、何が残念なんだ? と自分でも笑えてしまった。
それにしても、どこで誰が見てるか分からないものだと、ぼくは少し怖くなる。まさか、それはぼくじゃなくて、「カレ」なんだ、なんて言えない。
一日は速い。一つひとつがゆったりしている時ほど、全体的にはあっという間に過ぎる。不思議なものだ。ミーティング、ミーティング、ミーティングにうんざりしながらデスクに戻ると、もう十二時をとっくに過ぎていて、「ゲッ、午前中の仕事、なんも終わってないぞ」と声に出して慌て始めると、チームの空気も張り出して、そうなるとあとは六時、七時までドーッと過ぎていく。近頃、残業にうるさくなった会社の方針で、明日でもいいことをやってしまおうと思って残っていると、「できないヤツ」のようなレッテルが貼られてしまう。そんな、生産性と効率の向上だけじゃ仕事が回らないのは目に見えているのに、それでも、会社としては体裁が大事なのだろう。どこかの時点でドッとしわ寄せが来て、えらい目にあうのは見え見えだが、ぼくも残業はせずに帰るようにしている。
「やること、やることって、何なんだよオマエは。やりたいことが、やることだろうが」
ぼくは帰りの電車で、「カレ」の言葉を思い出していた。
楽な生き方、だと思う。「カレ」みたいに生きられたらどんなにいいか。「じゃ、なんでそうしないんだよ」と、「カレ」ならきっとそう言うだろう。だから、話にもならないのだと、ぼくは諦める。
死んだ母は、いつも言っていた。
「やるって決めたら、最後までやりなさい。やらないんだったら、それでもいいから」と。
ぼくは、だから頑張ってきた。やるって決めて、それをやり遂げてきたつもりだ。だけど、時々ふと思うこともある。あの頃、母は単純に「やりたいのか、やりたくないのか」を尋ねていたのではないかと。
例えば、剣道にしたって、クモンにしたって、ぼくは、いつも「やる」と言った後の「そう! そう決めたんだから、がんばろうね、偉いね」と、にっこり笑う母の顔が好きで、嬉しくて、きっとそれが正解なんだと思っていた。「やらない」という選択は、そんながっかりは、いけないものだと思いこんでいた。もしあの時、剣道じゃなくて近所の子たちと一緒にサッカーのクラブに入っていたら、こんなぼくじゃなかったかも知れない。もっと、こう、なんというか、「カレ」みたいなジャンプ力がついていたのかも知れない。
母が死んだのは、ぼくが十歳の時だった。
長患いで入退院を繰り返し、ぼくの記憶の母は、いつも病室のベットにいる。優しかった。にこにこと笑って、ぽかぽかと温かかった。あの温もりの中で、ぼんやりと甘えられる夢を、今でもよく見る。なんとも心地が良いのだ。
いよいよ母もながくはないと分かっても、ぼくには実感すらなかった。当時、家の中には父とぼくのスペースしかなく、母は病院にいるものだと思っていたから、突然いなくなっても空白は存在しないのだ。ただ、毎日、学校帰りに病院へ直行し、仕事帰りの父がやって来て一緒に家に戻るという二年ほど続いた生活のリズムが、突如、打ち切られた時に初めて、「そっか」と、悲しくなった。
母の葬儀が終わり、涙は確かに出たけれど、なんとなく病院にいるんだと思うことで、少しは安心出来たのかも知れない。きっとそうだ。
ぼくは勉強した。母が亡くなり、それまで学校帰りに病院にいた時間をすべて勉強にあてた。教科書をどんどん進め、いろんな本を読んだ。読めば読むほど、ドリルをこなせばこなすほど、チカラがついていった。いつ頃からだろう、ぼくは、勉強「は」出来る子ということになっていた。
だから「偉い」と周りから言われ、そう言われれば言われるほど、それがまるで母が言っているような気になって、余計に勉強した。
きっと、勉強「も」できる息子というのが理想だった父も、そう贅沢は言えないとばかりに、ぼくが五年になった時、地域でも有名な進学塾に通うよう進めてきた。
「やる」、あの時もぼくはそう決めたのだ。テストの点が良いと誉められた。それぐらいしか「母」に会えることもなかったぼくは、必死に勉強した。
頑張って、頑張って、周りが誉めてくれれば、母に会えた気分になって高揚し、それがいつの頃からか、周りが誉めてくれる自分に、自分で嬉しくなるようになって、それを失うのが怖くなっていった。
もう、母がどうのというよりも「周り」がどう思うか。それが、無意識のうちに自分の判断基準になり、やりたいこと? など、すでにあの頃から排除されていたように思う。
そうやって、ぼくは私立中学の受験に合格した。
今思うと、周りの評価が母の声と混在するほど、生前の母との距離は密接ではなかった。母は、病室のベットで、ぼくのいる空間とは別のところで、ただ温かかった。誉めてくれた母の笑顔を、ぼくは周りに求め、ただ温もりたかっただけなのかも知れない。
父に、オンナができた時、それに気付かないふりをして、それが何を意味するのか、ほんとは分かっていたが、知らない顔で必死に耳を塞いだ。何も言わず、聞かず、ただ勉強するしかなく、何かをしないと平静を保てなかった。
そんな自分に、少し後悔することもある。もっと違う選択肢もあったんじゃないか、と。父に「早く帰ってきて」と言えば、中学に入ったらクラブに入りたいと言えば、そうだ、友達を作って、ぼくにはぼくの世界が出来ていれば、あんな風にモヤモヤとテキストに囓りつかなくても、もっと広い視界で見渡せたのかも知れない。勉強はできないけど人気者という、当時のぼくと真逆にいたような子どもに、なれていたのかも知れない。
あの頃、ぼくは一人だった。
だけど、結果的には満足している。頑張って私立中学に入ったことも、ガリガリ勉強したことも、今、こうして一流と呼ばれる会社に入社できたことにつながっているのだろうから。
無理、をしているのだろうか。そういう人間であることにしがみ着いているのだろうか。だから、しんどいのだろうか。
「カレ」と話をすると、ぼくは、時々そんな風に思ったりもする。
アムステルダムでの三ヶ月。これが、ぼくに変化をもたらした。
それまでは、生きてきた時間がそのまま足し算をするように繋がり、無難に成長していると満足だった。そして、自分の位置と周りとの距離を慎重に測りながら、はみ出すことのないよう注意深くもあった。それが、突如、プツンと途切れたのだ。自分でブレーキをかけながら、これはだめだろうと禁じていたことが、それでもいいんじゃないかと思えるようになり、「カレ」にも聞く耳を持ち始めた。
大学生になって、ぼくは実家を離れ、東京でひとり暮らしを始めた。
大学まで一貫教育の私立中学に入学したものの、中学二年の時に父が再婚、そのまま附属の高校に通ったが、ぎくしゃくと高校生活を過ごすうちに家を出たいと思うようになっていった。
父にも内緒で受験勉強をして、晴れて東京の大学に受かった時、父は反対こそしなかったが、理由を聞かせて欲しいと言った。わざわざ、ランクを落としてまで東京の大学に行くのはなぜか、と。あの時、ぼくがなんと答えたのかは覚えていない。が、父の、あの苦いものを噛んだような顔と、一言、「いろいろ、すまなかったな」という言葉だけは覚えている。
上京してすぐに、近くの図書館で働いていたアイと知り合った。彼女は、ぼくより一つ年上で、同じ大学に通い、ぼくがアルバイトをしていた居酒屋の常連だった。女の子と話したことなど数えるほどだったぼくは、初めのうちはぎこちなかったが、それもすぐに慣れ、休みの日には二人でどこかへ出かけるようになった。恋人。意識し始めたのは、きっとぼくの方が先だろう。友達だから、友達として、友達でしょ。アイは、ことあるごとにそんな言葉をくっつけてぼくと話していたのだが、そんな防御に、当時のぼくは気付かなかった。
アイと話していると、あの、小学生の頃の病室の、夕日がさした光景をすごく思い出していた。とにかく、温かかった。
(二)
アムステルダムでの研修プログラムに参加するという、ぼくからすれば大冒険のような行動に出たのも、アイの存在が大きかった。
ある日、アイは学内で見つけてきたチラシをぼくに渡し、
「行ってみれば?」と、笑った。
― 研修プログラムの主な目的 ―
国境を越えての地域共同体の実現へ。今、私たちの住む東アジア圏では、その実現に向けて様々な取り組みが成されています。政治、経済、文化。人と物が行き交い、交流を通して相互理解し、相乗効果で供に豊かな社会を形成する。近い将来、必ず渇望される取り組みの一つでしょう。
そこで、一足先にそれを達成したヨーロッパの実情を把握するため、アムステルダムに本部を置く民間団体と協力して、様々な国や地域の学生に呼びかけ、三ヶ月間、一緒に話し合おうというのが、このプログラムの主な目的です。……… ―
「これって?」
「今日、事務局に行ったら置いてあったのよ。アキオくん、言ってたでしょ、地域共同体に興味ある、って。そういうのに貢献できる仕事に就きたいって」
確かに、まだアイと知り合ったばかりの頃、ぼくはそんなことを言ったような気がする。国際関係学部というつかみ所のない学部に入学して、「で、何を勉強するの?」と聞かれたので、「地域共同体っていうのに興味があって」とか何とか。言ったんだった。
「でもこれ、サークルの延長っぽくないか? だって、こんな手書きのチラシだし、実際行ったら騙されてた、みたいなこともありえそうじゃん」
「そう? もしあやしい団体なら事務局に置いたりしないでしょ」
それも、そうだなと思った。だけど、最初は、ふ〜ん、と言いながら、そのチラシを捨てた。それがどういう訳か、研修生の選抜試験を受けて、それに合格して、あれよあれよという間に、実際にアムステルダムに行くようになった。アイの行動力というよりお節介ぶりに振り回されたというのが本当のところだ。
そのプログラムは、もう五年も行われていて実績がある上に、就職にも多少は有利になるらしい。そんな情報も、アイがどこからか仕入れてきた。とはいえ、ぼくは最後までアムステルダム行きを渋った。彼女のお節介ぶりを恨んでもいた。
「まだ踏ん切れないの? せっかく試験に合格したのに」
「あ、うん。俺、本当に行きたいのかな、と思って」
「きっかけ、ってやつでしょ?」
「え?」
「だから、アキオくんにとって、これは一つのきっかけなんじゃない。だってそういうもんでしょ、はじめから自分のしたいことを即行動に移せるひとなんてそういないって言ってたじゃない。万が一、失敗だったっていいじゃない。しないよりした方がいいし、見ないより、見た方が絶対この先のプラスになるわよ。振り返ってみて、あぁ、あの時、俺のかわいいカノジョに言われてアムステルダムに行って良かったな、って思う時がきっと来るわよ」
飛行機に乗るのも、パスポートを持つのも、家族以外の誰かと共同生活をするのも、英語で会話をするのも、全部、初めてだった。
一秒後に対面するだろうことの全てが不安で、それを先回りして心配していると、頭が痛くなった。
旅立つ日は、朝から下痢だった。時間に遅れないように三時間も早く空港に着き、カウンターでチケットを見せると、オーバーブッキングが発生して夕方の便に振り替えになると言われた。大変申し訳ございません、と何度も頭を下げられたが、それがどういう意味か、ぼくには分からなかった。とにかく言われたところで待ち、ようやく乗り込んだ飛行機の中でも、十時間ちょっとの飛行中、眠ることすらできなかった。耳は痛いし、食欲はない。オランダってどういう国なのか、テレビで見たこともあまりない未知の世界だ。麻薬とか銃とか、ゲイとか拉致とか。心配し始めると息が詰まる。
ようやくアムステルダムのスキポール空港に着き、荷物を取りにいくと、ロストバッゲージで明日にならないと届かないと言われた。どうしてぼくにばかりトラブルがおこるのか、と帰りたくなった。アイに会いたい、アイのせいだ、と泣きたい気分だった。
とにかくどうすればいいのか聞いてみようと、渡されていたアムステルダムの事務所に電話をかけたが繋がらず、迎えに来ると言っていた車も見あたらない。どうなっているんだとイライラしながら、「緊急を要する場合はこちらにお電話ください」と記された番号に電話をかけた。「電話代が高いから」と拒んだが、出発の前日、アイがこっそりレンタルしてくれた海外携帯電話があって本当に助かった。
緊急電話に出たのは、日本人だった。「ハロー、ハロー」と連呼するぼくに、寝起きの男性の声が応え、とにかく自分の置かれている現状を怒濤の勢いで話した、らしい。後になって、それが笑いのネタになっていた。
空港ピックアップのスタッフが、手違いで帰ってきたのかも知れない。今からすぐに空港に向かうので、しばらく待っていて欲しい、と言われた。近くにあった時計を見上げると、夜中の二時だった。到着も遅れ、荷物のクレームで相当の時間を費やしていたのだ。電話を切って、トイレに行き、ベンチに腰掛けた。
そしたら、フッと笑みがこぼれた。
あ〜っと、笑いが溢れた。あの時、笑うことができたのは、ぼくではなく、「カレ」だったのだと思う。
運河が蜘蛛の巣のように張り巡らされた市の中心部から、バスで一時間。アムステルダム郊外に、ぼくの寝泊まりする寮はあった。部屋には二段ベッドが三つ並び、フランス人のクリストフ、イギリス人のマーク、ロシア人のセルゲイ、韓国人の朴。そして、ぼくと「カレ」の共同生活。
リーダー格で、歳も一番上だったクリストフが、当たり前のように二段ベッドをひとりで使っていた。
午前と午後に分けて行われる五時間の講義では、EUにおける現状、特に経済格差や移民問題、民族間の調和など、浮き彫りになった様々な問題について話し合われたが、それを聞いたところで、三ヶ月間という短期間に、それも何もしらない十八歳のぼくが、地域共同体などという大きな問題を掴みきることは到底できず、ものすごいスピードで話される英語についていくだけで精一杯だった。
成果があったとすれば、そんな主題とはまったく違う、言ってみれば、異文化の人たちに触れることが出来たということの方が大きい。
講義以外の時間は完全にフリーで、ぼくは、カタコトだが日本語の話せるクリストフと行動を共にすることが多かった。そこで感じた敗北感は、今でも濃厚に覚えている。ぼくは、自分から何一つ「発する」ことができなかったのだ。それまでは、テストの点数が良いとか、提出したレポートが素晴らしいというだけで、周りは「なんとなく」ぼくに対して評価する眼差しを向けてくれた。ぼくの口から直接発しなくても、そういう評価が雰囲気として目に見えず醸し出されていたのだ。日本にいれば、それを周りが敏感にキャッチしてくれる。しかし、外国だとそうはいかない。
ある時、ぼくがまとめたレポートについて、先生は賞賛するコメントの後で、もう少し詳しく発表してくれないかと言った。少しばかり得意気になって、ぼくは読み込んだ参考資料や、調べ上げた数字をもとに、レポートの補足をする。「グレイト!」、と誰かが言い、クラスルームに拍手がおこった。先生も笑いながら手を叩いていた。
と、ここまでなら、ぼくが敗北感など感じることは微塵もない。が、次の瞬間、五、六人の生徒が同時に手を挙げ、ぼくの意見に質問をぶつけてきたのだ。「私はこう思うのでミスター・コイケとは意見が違うが、私の意見を君はどう思うか」「ミスター・コイケのレポートは正しいと思うが、その逆も決して間違いとは言えないのではないか」などなど。「ミスター・コイケ、ユア・アイデアは?」と、先生がぼくをさす。
……何も言えなかった。ぼくは読んで知ったことをまとめただけで、そこにぼくの意見はなかったのだ。
“マイ・アイディア”
それが、ない。
それだけじゃない。私の国ではこうだが、日本ではどうだ、という類の質問にも、ぼくは日本人として日本のことが、答えられなかったのだ。
そんな愕然とすることの連続の中でも、浮き足だって尻込みしたり、浮き立っては羽目を外したりするうちに、時間の経過と共に生活のリズムを掴み始めた。毎晩のように、紙に葉っぱを巻いてはそれを吸い、ウイスキーをコーラで薄めては、お茶のようにガブガブ飲むようになっていった。
それまで、頭の中だけで静止していた物事が、知っていただけの知識が、温度を持って目の前に現れたというか。触ったり、叩いたり、小突いたり、笑ったり。うまく言えないが、色々あるんだなと思った。
正解なんてないんだとも思った。
善いことと悪いことは両端にあって、その間には色んな考え方がある。価値観は多様で全てに価値がある。必要以上のお金を稼ぐために、仕事に時間を費やすのはイェスかノーか。決まった量の富をどちらか一方の人が掴みすぎて、シーソーのようにその逆側で沈んでいる人がいる今の世界はイェスかノーか。価値観、なのだと思う。何をおいても女性が第一だというクリストフも、それでいいのだ。ただ、自分はイエスだとか、ノーだということは、はっきり言わないといけない。伝えることもせず、触れないままやり過ごそうとするのは、一緒に生きる上での、ルール違反なのだと思うようになった。
ある日、夕食を終えた後、クリストフが市内に出て女の子をさがしに行こうと誘ってきたことがあった。ぼくは、もうシャワーも浴びてベッドに入っていたので、はっきり断らなくても分かるだろうと思って曖昧にしていた。そしたら、彼は二十分経っても、三十分経っても、部屋を出たり入ったりしながら、ぼくを待っていたのだ。慌てて、「もう寝るから行かないよ」と言うと、「なんだそうなのか」と言い残して、マークと二人で寮を出て行った。
あの時、はっきり思った。眠りたいなら眠りたい、飲みたいなら飲みたい、嫌なら嫌。はっきり言葉や態度に出さないと、伝わらない、と。
そんなこと、知ってはいたけど、分かっては、いなかった。
誰に叱られたという訳でもなく、だからこそ、余計にぼくは自分で自分が歯がゆく、無力感に押し潰されそうになっていた。
アムステルダムでの日々は、『オレ』にとって最高だった。それまでの日々とは比べ物にならないほど良かった。
打てば響くし、跳ね返るボールに全力でスマッシュしても非難されることがない。オレはこうだ、と主張する言葉にも、みんながちゃんと応えてくれる。
あの三ヶ月間で、オレはいうほど間違ってもいないんじゃないかと思えるようになった。
オレが十四の時、エリさんがうちに来た。
親父と同じ会社でOLをしていたエリさんは当時二十四歳。しっかりしているというが、オレからすればどこにでもいるお姉さんでしかなかった。結婚したから、いきなり「お母さん」と呼びなさいと言われても、オレは呼ばなかっただろうし、親父もエリさんも、それを求めることはなかった。むしろ、二人は二人のスペースで暮らすから、オレのところは安全だよと言わんばかりの、距離を保っているように感じた。
親父が再婚する前、エリさんとは何度か会っていた。三人で食事をしに行ったこともある。親父もまだ三十八だし、そういうこともあるだろうな、と当時のオレにも分かっていた。だけど、なんて言っていいのか、やっぱり、オレは嫌だった。エリさんがどうのこうのと言うのではなく、自分の家に、それも親子として暮らすことに抵抗があった。
「私はね、アキオくんのお母さんではないし、なりたいと思ってもなれない。これだけはどうしようもないことなの。でもね、普通の親子が話すようなことは話したいと思ってるし、一緒に悩めることは、悩みたいと思っているの」
親父が真剣な顔で「エリと結婚したいと思っている」と言った時、返事を渋るオレに、エリさんはそう言った。その言葉に、オレはどう抵抗していいのか分からず、とにかく嫌だという意思表示をしなければ焦って、
「別にさ、結婚しなくてもいいんじゃないの。今まで通り、二人は付き合っていけば言い訳だし」
と、目の前のチャーハンを頬張った。
違う。オレが、本当に言いたいのは、そんな事じゃない。親父とエリさんがお互いに愛し合って、だから一緒になりたいというのは仕方ないことなんだと思う。そうは思うけど、勝手に、親子でするような会話をしたいとか、一緒に悩みたい、とか、そういうのが嫌だった。オレは、望んでいないのだ。
「まぁ、今の今じゃ、アキオがそう言うのも分かるけど、お父さんな、お前にとってもいいことだと思うんだよ。男のお父さんにはしてやれないことだっていっぱいあるだろうし、やっぱり、女親っていうのは、必要だと思うんだよな」
「勝手に決めないでよ」
心の中で思っていたことを、大幅に端折って言葉にした。
「だから、お前に聞いてるんじゃないか」
親父の声は弱々しかった。
「お前が反対するうちは、お父さんだって勝手には決められないよ。そんな風にしてエリと結婚したって、みんなにとって不幸だからな」
「彰信さん、もう、今日はこの辺にしておきましょう。ほら、アキオくんも、もうチャーハン食べちゃったみたいだし」
「おう、そうだな。まぁ、またゆっくりと考えよう。アキオも考えておいてくれな。お父さん、エリはお前の母親としても、きっと立派にやっていってくれるって思ってるんだからな」
「僕のせいにするんだったら、そんなの関係なしに結婚しちゃえばいいじゃん。お父さんが結婚したいっていうなら、僕が反対することなんてできないよ」
「それは違うでしょ、アキオくん」
エリさんの声が、オレの神経に刺さった。イラッとした。
「とにかく、僕は、母親なんていらない。それだけは変わらないから」
と、吐き捨てるように言った。
あまりにも頑ななオレの態度を見て、親父とエリさんは一緒に暮らす中でうち解け合っていこうと、これもまた「勝手に」決めたようだ。式や披露宴はせずに、会社を辞めて扶養家族になるからだとか何とか、色々難しい事情があって、籍だけは入れたようだ。オレが吐き捨てるように母親はいらないといった食事から、何ヶ月か経ってからのことだった。
オレにも分かっている。いつまでも嫌だ嫌だと言って困らせてはいけないのだろうということは。そして、継母だからといって、典型的に自分がダメになっていくのもカッコ悪いと思っていた。
だけど、やっぱりあの頃から、エリさんがうちに来てから、オレは変わったような気がする。オレの言うこと、やること、考えること、全てダメなのだ。「アイツ」ばかりが認められて、悪いのはいつもオレ。味方なんて一人もいなかった。うちの中にも、外にも。
ずっとオレは、一人だった。
高等部に上がって間もなく、エリさんに子供もができた。
それを聞いた時、まずオレは、そういうこともあり得るのかと思った。頭では当たり前だと思っていても、どうも認めることが出来なくて、親父とエリさんが、つまりそういう肉体関係にあるということが、やっぱり嫌だった。オレも、自分のスペースではオナニーもするし、二人に言えないことをいっぱいやる。だからといって、同じ家で親父とエリさんがセックスをしているのか思うと、無性に腹が立った。好きなことならなんでもやっていいのかと、オレは、どこにもぶつけられない感情をグッとかみ殺した。言いにくそうに、「実は……」と言葉を濁しながら告げる、エリさんの言い方も、腹立たしかった。
「ほんとに! 弟かな、妹かな。欲しかったんだよね、兄弟」
と、でも言って欲しいのか? 「アイツ」なら言うだろう、絶対に。
「アキオ、悪いけどそういうことだから、色々と助けてやってくれな」
と、親父が言った。
「いやだぁ、もう。病気じゃないんだから。大丈夫よ、アキオくん。お弁当だってこれまで通り作れるし。お腹が大きくなるのなんてまだまだ先なんだから。それに、大きくなったって、動く方がいいんだって。だから、アキオくんには何の負担もかけないわよ」
「……おめでとう」
オレとエリさんの距離は、つまりこういう感じで一定だ。
二人に子供ができたということは、二人が好きなことをやっているからだ。そんな風に思っていたのは、オレが、まだまだこどもだったせいだろう、と今になれば分かる。が、あの時は、本気でそう思っていた。
それが原因じゃない、と思いたいが、オレは、その頃を境に「万引き癖」が抜けなくなった。特に欲しいわけでもないモノを、学校帰りにプラッと寄っては万引きした。ダメだと自分でも分かって、それでもしたのは、万引きが初めてだ。どうせ、オレは何をやっても「ダメ」だと言われる。しかも、親父もエリさんも好き勝手している。だったら、オレも。
自分の頭の中でどんどん膨らんだ被害妄想が、いけない事まで正当化されて、自制することができなくなった。
広辞苑、レザーベルト、自転車のチェーンキー、CDにDVD。かばんに入るものならなんでも盗んだ。一年近く、そんな万引き癖を続けていただろうか。あまりにも見つからないことに、誰か止めて欲しいとさえ思い始めていた頃、ついに見つかった。
コンビニで、三枚刃のひげそりをかばんに入れ、店を出た瞬間、アルバイトだろう店員に肩を叩かれたのだ。
マニュアルではすぐに警察に通報するらしいが、たまたま店長が不在だったということで、家に電話をして厳重注意だけにすると言われ、それならいっそのこと警察に突きだして下さい、とオレは言いたかったが、もうエリさんには連絡がいっていた。
コンビニを出て、数メートル先を歩くエリさんを眺めながら、アルバイトの、どうみても大学生だろう店員に、何度も何度も頭をさげていたエリさんの姿を思い出していた。お金を支払って持ち帰ったひげそりをオレに渡して、「そんなに欲しかったの、これ?」と言ったきり、何も言わなかった。
エリさんは産まれたばかりの大空(ヒロ)を抱いていた。
あの日、親父も何も言わなかった。もしかすると、エリさんは親父に言わなかったのかも知れない。食事をするのも、テレビを見るのも、生活の中心はヒロで、リビングにいる親父とエリさん、そしてヒロを眺めていると、オレって邪魔なんだろうなと思った。
それから半年ほどの間に、オレは三回、万引きで捕まった。
その度にエリさんが飛んできてくれて、何度も何度も頭を下げた。店を出ると、決まってオレの数メートル先を歩き、いつも何も言わない。
「まぁね、ご家族の問題に首を突っ込む気はありませんけど、後妻さんでしょ、あなた。見た感じ、まだお若いんじゃないですか。この子も多感な年頃ですからね、色々大変だとは思いますけど、ルールですから。店の物を盗んじゃいけない、ってことぐらいは、しっかりしつけておいてもらわないと。今回は見つけることができましたけど、うちもね、相当な被害なんですよ。お願いしますよ」
そんなことを言われても、エリさんは何も言わず、頭を下げ続けた。ヒロを抱きながら。
(三)
オレが家を出ようと思ったのは、見つかりはしなかったが、それからも万引き癖が治らなかったからだ。
家の中で丁寧に用意された自分のスペースで、誰にも触れられない完璧な箱の中で、オレは、やっぱり発していたんだと思う。エリさんや、親父や、ヒロにまで。オレはここにいるぞ、と示したかったんだと思う。
そんな甘えや弱さが、嫌で嫌で仕方なかったが、それでもなおらないんだったら、やっぱり家を出て完全に離れるしかない。
高校三年になって、突然、受験勉強を始めた。親父にもエリさんにも何も言ってはなかったが、エリさんは、オレが受験すると決めたことを気付いていたのだと思う。。三者面談は、オレが一人で担任と話した。学校からエリさんに連絡がいったとも考えられない。だけど、エリさんは知っていた。
受験当日になって、東京へと向かうオレを、中央駅まで車で送ってくれた。隣町にある神社で、お守りまでもらってきてくれていた。
上京する朝、エリさんは、いつものように朝ご飯を作り、ヒロがこぼした牛乳を拭きながら、
「いろいろと、アキオくんには迷惑かけたわね。やっぱり私、うまくやれなかった。ごめんね」と、小さな、本当に微かな声で言った。
外では親父が、同僚から借りてきた軽トラックのクラクションをならして呼んでいた。荷物といってもほとんどない。その日のうちに東京まで往復するつもりの親父は、何度もクラクションをならしていた。
「は〜い。分かってるわよ。もう行くから」
エリさんが応えた。
「じゃ、アキオくん。頑張ってね。しっかり勉強するのよ」
「……ありがとう」
オレはそれだけは言わないといけないとずっと思っていた。オレの本心だ。ありがとう、エリさん。こんなオレのために、何度も何度も、頭を下げてくれて。本当にごめんなさい、ありがとう。
エリさんはあの時、何も言わなかった。オレの数メートル先を歩いていた時のように。エリさん、ヒロ、そして外で待っている親父、なんとなくオレは、あの朝、思った。「あ、ここはオレの家じゃなくて、この三人の家なんだな」と。うまく言えない、だけど、それは確かなように思えた。
大学に入って、オレは変わった。
新しい街、騒音、電飾、地下鉄、バイト。同じように立っていても、目の前を横切り、頭の上を通り越していく全てに、ドキドキする日々が続いた。ドキドキしながらも、進んでその変化に乗っかろうとしたオレは、午後の駅のホームで電車を待っている時も、それまで地元にいた頃には思い浮かべもしなかった「次」のことを考えるようになっていた。
高校時代、うちに帰って、夜になって、眠って、朝になるだけの「先」を想像しては、だから何かをしようとも考えず、ただ、与えられた自分の部屋という空間の中で繰り返しを過ごし、誰にも触れず今はいつかの完全な時のためにだけあるのだ≠ニ、停止していたように思う。
上京してからのオレの変化。大きく変わったのは、他人を自分のエリアに招き入れるようになったことだ。
ひとり暮らしのワンルームには、それまでオレのために用意されていたスペースにはない、インターフォンや、ポスト、水道のメーターがある。そんな外との「トビラ」が、自分の場所を確立してくれた。
その確固たる自分のエリアで、オレは講義で出会った友達や、バイト仲間、そしてアイと一緒に過ごした。ビールの空き缶を握りつぶしながらサッカー観戦をしたり、レポート作成を理由に集まっては朝までドンチャン騒ぎを繰り返した。アイとの、二人だけの時間は特別で、オレの中からにじみ出る多くの要素が、アイの身体に絡まり合って、温もりと安堵を生み出してくれた。そんな「誰か」と過ごすことで、オレは「アイツ」のことを意識せずにすむ時間が増えた。
いつも、閉じこもった部屋で、「アイツ」に嫉妬し、だからオレはダメなのだという烙印を眺めては自分に苛立っていたのだが、「アイツ」ではない他人と接することで、自分をさらけ出すことで、自分自身のことがちゃんと見れるようになった。そうしたら、「そんなにダメでもないか」と思えた。少しずつ、凝り固まっていた何かが解れていくような感覚。ちょうど、アムステルダムに行って、初めて日本のことが見え始めたように。
アイに出会ったのは「オレ」だった。
入学式を終えたばかりの、まだ友達もいない、バイトもサークルも決まっていない頃だった。オレは、ひとりの部屋で、ジリジリとアイツの声に押し潰されそうになっていた。逃げるように飛び出して、ブラブラと近くの商店街を歩いていると、雨に濡れた洋館が飛び込んできた。そこは、とても小さな、絵画本ばかりを集めた静かな図書館だった。アイはあの時、メガネをかけていた、水色のシャツを着ていた。突然の雨で、オレの服は濡れ、たぶん静寂を切り裂くような「音」をたててしまったのだろう。
アイは、オレを見ていた。
「いや、急に降ったんで、喫茶店か何かと思って入ったんですけど、すいません、間違いました」
オレは、そう言ったのだ。ものすごくはっきり覚えている。アイは……、笑った。声を出して笑ったのだ。
「せっかく入ったんだから、見ていけば?」と言われて、オレは一周した。歩く音が響いて、ずっと見られているような気がして、ドキドキドキドキして、でも、悪い気はしなかった。オレはたまたま手に取った、四、五人の裸の人間が手を繋いで輪になっている表紙をぼんやり眺めていると、
「マティスのダンスよ。好き? こういう絵?」
アイが突然、話しかけてきた。
「あ、はい、まぁ」
「ミュージックっていうのもあってね、ロシアにある美術館に行くと、一つの部屋にこのダンスとミュージックが一つの部屋に飾られているんだって。大きいのよ、この絵。あぁ、どんな感じかな、ダンスとミュージックに挟まれて立つのって。ぼんやりしちゃうんだろうな、きっと」
マティス、なんてオレは知らなかった。
「これって踊ってるんですか?」
「そう、見えない?」
「う〜ん、グルグル回っているようには見えるけど、なんか踊り、とは違うような」
「でも、楽しそうじゃない?」
「あ、まぁ」
オレは、その『ダンス』という表紙を見ながら、この裸の人間は男なのか、女なのかを考えていた。
「苦しそうですね、なんか。引っ張られてるように見えるし、この人とか」
オレは、一番下で引きずられて倒れそうな人を指さして言った。
「それに、他の人はみんなちゃんと手繋いでんのに、この人だけ、ほら、左手が離れてません? 必死でついていこうとしてて、本当は踊りたくもないのに、だけどみんなが踊ろうっていうから、仕方なしに踊ったら、あぁ、やっぱり遅れちゃって、もう、引っ張らないでよ、とか言ってる感じ、しません?」
我ながら何を言ってるんだと、思った。
「面白いわね、君」
あの日以来、オレが図書館に行くことはなかったが、バイト先の居酒屋で再会した時、アイの方から声をかけてくれた。オレは、「あぁ」と思い出す振りをして、それが可笑しいといって、アイは笑った。
てっきりあの図書館の職員だとばかり思っていたアイは、まだ学生で、しかもオレと同じ大学。歳も一つしか違わなかった。
「もっと、年上かと思っていた」と、一度だけ口を滑らせた時、アイは本気で怒っていた。その怒り方がまた、母親みたいだと言うと、今度は黙ったまま、話さなくなった。
夢、という言葉をアイは多用する。夢は大きいのか、いつから夢みているのか、そもそも夢はあるのか、と。この先のことが、ぜんぶ夢のうちに、その輪郭だけでも掴んでおかないと、手遅れになるとも言っていた。
アイは、酔うといつも話が濃い。そんな話を、レディ・ヒップという淡いピンク色のカクテルを飲みながら言うのがかわいかった。
「私は教師になる。教師になって、疲れ果てて、おばあさんになって、そして、恩師になるの」
これが、アイの夢、らしかった。
「先生って大変なんじゃないの? 最近の子供って生意気だし、頭でっかちだし、それに、怖いし」
「そんなのどんな仕事だって同じよ。とにかく、私は中学の頃から決めてるの」
「教師になるって?」
「そう。その為に、今の大学入ったんだから」
「うちの大学って教育学部だけ異様に偏差値高いもんな。アイは賢いよ、かしこいし、偉いよ」
「そんなことないよ。コクサイ行ってるアキオくんも十分かしこいし、偉いと思うわよ。私なんて、イタリアで一番偉いの首相か大統領かも分からないもん」
「俺だって知らないよ。な? やばいでしょ?」
アイはケラケラ笑いながら、それが冗談だと思っているらしかった。
「何の勉強するの? コクサイって」
「一応、地域共同体を研究してる」
「何、それ?」
「ほら、EUとかあるじゃん、そういうの」
「へぇ。凄いじゃない。そっか、アジアが共同体になったら韓国に行く時もパスポートいらなくなるんだよね。沖縄みたいだね、なんか」
「今の構想じゃ、経済協力だけで止まるんじゃないかな」
アイはバシバシと音を立てるような眼差しで、オレのことを見ていた。
「アキオくんの夢って、やっぱりそういうコクサイ的な仕事に就くことなの?」
「いや、わかんない」
「じゃ、夢って何?」
「夢かぁ……」
「ないの?」
「ないだろ、普通? ないっていうか、まだ、よく分かんないよ」
「分からないものなのかなぁ」
「そうだよ。オレからすれば、アイみたいに夢が明確なヤツって羨ましいって思うよ」
「分からないのは、出来るか出来ないかを考えてるからでしょ? まずは、やりたいって思うことから始めないとダメなんじゃない?」
「やりたいこと、ねぇ……、」
「それもないの?」
「やっぱ、分かんないよ。あ〜、オレって何がしたいんだろ」
「じゃさ、今、この時点から、なんでもやってみれば? 機会があったら躊躇せずにとにかくやってみる。その中にあるかもしれないじゃない、やりたいこと」
オレは、あの時に思った、アイは絶対に良いセンセイになる、と。
そう言えば、アムステルダムに行く時も、アイには同じようなことを言われた気がする。何かが目に見えて変わったのではなく、それはたぶん、アイと話す中で、触れる中で、少しずつ変化していったのだと思う。
オレは、いつの頃からか自分の時間と空間を自分で作りだそうとするようになった。東京のワンルームで、オレの明日はオレが決める。それでいいじゃないか、楽しいことを、自分のしたいことを、思い存分できるような自分になりたい。夢って言えるかどうか分からないけど、その輪郭は、それだった。
アムステルダムから帰国しても、マークやクリストフと過ごした生活は尾を引いた。また、行きたいと思った。世界中にあるモノに触れ、世界中の人と話したい。いっぱい話が聞きたいし、自分の話がしたい。そうやって交換したいと、望むようになっていった。
春と夏、大学が休みになるとオレは、決まって数ヶ月の旅に出た。似たような光景に出くわしても、一つひとつは歴然として違い、自分の身体で触れると、実に世界は広かった。
出来ないだろうと躊躇しては立ち止まっていたオレを、ジャンプさせてくれたのはアイだ。本当に感謝している。
そんな風に第一歩を踏み出し、出来る範囲と移動できる距離が増えるにつれ、それまでの根拠のない自分否定ではなく、足りないところ、これから身につけていきたいモノが、はっきりと見えるようになった。
*
「だから、そんなんじゃ社会人としてやっていけないじゃないか」
『ぼく』は心の中で声を荒げた。
「世界中のどこに行ったって生きてける自信? そんなモノ身に着ける前にもっと覚えなきゃいけないことや、責任をもってやらないといけないことがいっぱいあるんだよ。アンタは、無責任すぎるよ」
宮田の言う通り、今、このタイミングで休暇を取るのは間違ってると思ったぼくは、「カレ」にそれを告げた。案の定、やりたいこと、やりたいことと、予想通り繰り返す「カレ」の言葉が、頭の中でガンガンと響き、ついに怒鳴ってしまったのだ。
学生の頃から住んでいるぼくのアパートには、屋上にサウナがある。
二人入れば窮屈になる程の小さなサウナだが、わざわざ、屋上にまできてサウナに入ろうとする住民は、ぼくと「カレ」をおいて他になく、だからいつも貸し切り状態になれる。日付が変わろうとする時間になると、決まってぼくはサウナに行き、毎晩のように「カレ」と話をする。
話をするといっても、お互いに言いたいことを言い合うだけで、何かを決めたり、変えたりはしない。お互いの中にある「決まり切ったこと」を一方的に主張するだけの場だ。
だけど、今日は違う。帰りの電車で思ったこと、いつも、諦めていたこと。ぼくの中で、本音とも言える「甘え」。それをここできちんと断ち切らなければ、いつまでもズルズルと続いてしまいそうな気がして不安だった。もう、会社に入って四年なのだ。やりたいことをやりたい時にやって、その「残りの時間」で仕事もちゃんとしてます、では通用しない。
それがぼくの歳相応の社会で生きるルールだ。
「やりたいこと、ないんだろ、オマエ?」
まただ。ぼくは、この言葉を聞くと、つい諦めてしまいそうになる。学生の頃からずっとそうだ。ここで「カレ」を制してちゃんと≠オないと、はみ出さないようにしないと、戻れなくなる。ぼくは、自制して「就職活動」に専念し、今の会社に入れた成功例を持っている。あの時、「カレ」の言葉を抑えて活動しなければ、あのまま、二、三年世界中を歩き回って色んなものを見る、なんて「甘い」ことをしていれば、今頃取り返しのつかないことになっていただろう。今も、そういう節目なんだ、きっと。ここで、きちんと終わりにしないと、いつまでも先に進めない。
「オマエ、本当はオレの意見に賛成なんだろ。今度も行きたいんだろ、旅?」
違う、違う。いや、仮にそうだとしても、今はダメだと思う。
「なんで、いっつもオレがダメでオマエが正解なんだよ。そんなんだから、オマエはダメ、なんだよ」
うるさい、うるさい。
ぼくは、「カレ」との決定的な違いの前に、為す術を失いかける。ぼくが完全に正しいわけでも、「カレ」が完全に間違えているわけでもない。ただ、ぼくの中に吹き込んできたものと、「カレ」の中で芽生えたものが、バランスを崩し、そうだ、ぼくはずっとこのアンバランスの中で不安定でいるのだ。
汗がダラダラと吹き出し、頭がボーっとしてきたので、ぼくは身体を拭いて、Tシャツを肩にかけたままサウナを出た。ここで、ストップ。もう、考えない。これ以上、「カレ」とは話さない。ぼくは自分に言い聞かせた、
「航空券代だって払い込んでる訳だし、今更、止められる訳ないよな」と。
今回を最後にしよう。この旅から戻ったら、必死で働こう。ぼくは、生ぬるくなってきた夜風を身体に受けて、口を大きくあけると、ぜんぶ吐き出すように、深いため息をついた。
最後にしよう、今度でピリオドを打とう。ぼくは、先送りばかりを繰り返し、「カレ」との話に決着がつけられないままだ。旅から戻っても、変わることはなかった。ぼくが休んでいる間、これは悲しいほどに「何事もなく」業務は流れた。二年後輩の永山が、
「やっぱり小池さんがいるのといないのとでは、全然、しんどさが違うよな。しんどかったもんな、ほんと、小池さんが休んでる時」
と、さらに後輩の三井に言い、三井は、
「やっぱり頭数が減るんですもん、そりゃ、単純に割ったら、一人ひとりの負担は増えますよ」
などと、彼らの何気ない会話を耳にしてしまうと、ぼくがここにいる価値っていったい何だろうと考えてしまう。代わりのきく頭数にすぎないのか。
ぼくと「カレ」の同居生活は相変わらずだ。
毎晩のようにサウナに行っては言い合い、だけど、お互いが心のどこかで「そうだよな」と思いながら、ぼくらは、決して自分を変えようとはしなかった。
『ぼく』は、追われるように目の前に積まれた仕事を毎日こなし、「カレ」のように生きれたら楽だろうなと思いつつも、それじゃダメだと自制しようと努めた。
『オレ』は、清掃員のバイトの中でも古株になり、新人の教育係などをしながら、定期的に海外へと旅立つ生活を続けている。絶対に、「アイツ」みたいには生きられないけど、えらいな、と思う時もある。
そんな毎日が積み重なって、知らないうちに季節が変わり、気付いたら一年、二年と過ぎていった。ぞっとするほど、時間の流れは早い。
この二年間、ぼくは同じところで立ち止まり、同じ事ばかりを悩み、それに答を出せずに、うやむやにしている。
もう、二十八歳になる。
(四)
六年ぶりに、ぼくは故郷の駅に降り立った。大学を卒業してから、一度も実家に帰ったことはない。法事が一回、親戚の結婚式が一回、そして、ヒロの卒業と入学が一回ずつ。ぼくは全てパスした。戻ってこいという電話が、エリさんからも、父からも、何度もはいったが、ぼくは適当に理由をつけては拒んでいた。あの朝、上京した日に見た「三人」のための家には、どうしても足が向かなかった。
それが、今回、ぼくは思いついたように実家に向かう新幹線に飛び乗った。冠婚葬祭など何ひとつない、それも六月の半ばという変哲もない週末に。
電話もせずに突然帰ったら、みんなどんな顔をするだろう。喜ぶ、かな?そんなことないかな。ぼくの使っていた部屋は、きっとヒロのものになっていて、ということは、ぼくはどこで寝ればいいんだ? やっぱり、電話を入れておいた方がいいかな。東京から二時間、ぼくはそんな事を考えていた。
新幹線から在来線に乗り換え、田園風景の中を、オレンジと緑のツートーンカラーの通称「かぼちゃ電車」で軋みながら進んでいく。「あぁ、俺はここで育ったんだな」と、目に飛び込んでくる景色がどれも懐かしい。今の、東京での暮らしからは考えられない。見渡せる視界が広く、だけどそこには何もなく、だからこそ、何かあるところへいくまではここでじっとしていようと思っていたのだと、高校時代の、あの感情がモワッと吹き上げてきた。
在来線で五十分。ぼくの実家は町のはずれにある。とても小さな駅だ。松田歯科の看板は、ぼくが高校生の時からあったぞ、とそのサビ具合に時間の流れを感じる。駅から徒歩二十分。そんな案内にも笑いがこぼれた。東京じゃ、二十分歩くようなところに看板なんて、出さないよな、と。
ホームに降り立ち、ぼくはベンチに座った。土曜日の午後二時。風と虫の音しかしない。古びた時刻表に記された「次」の電車は、一時間以上も後だ。ぼく以外、だれもいない。懐かしいな、とぼんやり目を閉じると、アイの、一週間前の彼女の姿が思い出され、ぼくは、考え始めた。
ちょうど一週間前、ぼくに上海支社転勤の辞令が下った。
東京の本社からチーフクラスが一人、上海に行くことになる。それは、四月の時点ではっきりしていた。だけどぼくは、宮田の部署と共同でロシアでのエアコン販売戦略に携わっていたので、上海なんて関係ないと高をくくっていた。しかし、白羽の矢? 人事が言う通り受け取るならそういうことになるが、それがぼくに突き刺さったのだ。おそらくは、ねらい打ちされたのではなく、商店街でよくあるクジ箱のような箱の中に適当な人材を放り込んで、グルグルと回したら、たまたまひょっこりぼくが出た、というのが本当のところだろう。
話は急だった。上期の終わりまでには完全に向こうへと移り住んで欲しいらしく、そのためには早急にビザを申請しないとならないらしい。人事は、悪い話ではないから今日、明日にも返事が欲しいと言う。
ビザの申請にどのぐらいかかるのか、そもそも、上海なんて知らない街に行って、どこに住んで、物価はどうなのか。給与形態はどうなるのか。分からないことばかりで、だけど、いきなりそんな話を持ち出されたぼくは、
「考えさせて下さい」と、中途半端なことを言って、保留したまま今に至る。「考える?」、何を? 一体、何から整理すればいいのだ。ぼくは、あたふたとした。
とにかく、アイだ。彼女にはまず伝えなければならない。この転勤は期限付きのレンタル移籍のようなものとは違って、会社としては、どうやら腰を下ろして上海で頑張って欲しいという構えのようだ。そうなると、いつ日本に戻れるか分からない。アイには、仕事がある。彼女が夢見て、実現させた教師という職がある。このまま、ぼくとアイの関係を続けていくには、やはり無理がある。頭の整理もつかないまま、ぼくに課された状況だけをアイに伝えることにした。
学校行事の重なる今の時期、アイは多忙を極めていた。遅くなってもいいから話がしたい、ぼくの部屋に来てくれないかと、彼女の携帯に留守電を入れると、十一時を回ったころだろうか、コンビニの弁当を下げたアイがやって来た。
「どうしたの?」
そんなアイの言葉も待てなかった。彼女の顔を見た途端、ぼくは、一気に話し始め、彼女の相づちも、表情も、姿勢も、全く気にせず話し終えた。
すると、彼女は、一言、
「上海かぁ、わたし、行ってもいい、よ」
ドキッとした。ガクッともきた。余計にこんがらがって、
「え?」
と、ぼくは聞き返した。
「だから、アキオが転勤になったら遠距離恋愛って言ってる場合じゃないでしょ? まさか、転勤の話を断るなんてこともできないだろうし」
「いいの?」
「いいの、って何よ」
「いや、だから、教師、辞めないといけなくなるけど」
「養ってくれる? お嫁さんにしてくれる? のよね」
ぼくは一体、彼女に何を求めて、何を伝えたかったのだろう。今年で二十九歳になる彼女の、ぼくとのこれから。
「結婚……、とかじゃなくてさ。とりあえず、言わなきゃな、と思って。アイには、俺が上海に行くかもしれない、ってこと」
我ながら、ずるいと思った。最低なヤツだな、と思った。
「……、そう。」
アイは、ため息と一緒に小さくそう言うと、
「お弁当、食べてもいい? もう、お腹ペコペコなんだよね」と、弁当を開けた。
ぼくは、テレビを付け、カラカラと空回りする漫才師のネタで、笑った。
どのぐらい経ってからだろう、ぼくがシャワーを浴び終わっても、アイはベッドに凭れたまま、泊まっていくつもりなのにいつまでも着替えずにいた。ぼくに言っているのか、ただの独り言なのか、それさえも判別できないアイの言葉が、部屋の中に染みこんでいく、
「私も今かな。ここが限界かな。八年、うん、我ながら頑張ってきたよ。もう二十九だもんね、私。そうよ、周りも結婚してるし。うん……」
ぼくは、確実にぼくへと向けられているのに気付いても、何も言えず、ベッドに寝ころんで、天井を見上げていた。
「私ね……」
アイは言葉を切り、しばらく黙った。
ぼくの頭の中で、グルグル回るもの、渦を巻きながらバラバラにするモノ、いつまでも、逃げてるわけにはいかないよな、という『ぼく』のことば……、沈黙が、痛かった。
「んっ?」
「私ね、教師になるって決めたときから、ずーっと、教師になってる私しか想像してなかったんだと思うの。うまく言えないけど、それってサイテーでしょ? だって、センセイとか恩師とか、生徒がいて初めて成り立つのに、私、ずっと教壇に立ってる自分の姿しかイメージ出来なかったの。そんなイメージを夢見て、後は知らない、みたいな。ほんと、サイテーよ」
「なんか、あったのか?」
「もう、なんにもないの。今の私には、何にも……」
「どうしたんだよ?」
「だから、うん、結婚して下さい、私と」
何も言えなかった。小さく、笑うこと、ぐらいしか。
「アハハハハ、だから、っていうのも失礼よね。ゴメン、ゴメン。私、やっぱり帰るね。明日、早いから」
「今から? もう電車ないよ」
「平気、平気、タクシーつかまえるから」
「あ、っじゃ、送ってくよ、タクシーつかまるまで」
「いいよ、いいよ。もうアキオ寝るでしょ。おやすみ」
「ちょ、ちょっと待てよ。行くから」
「いい! 来ないで」
ピシャリ、とシャッターを下ろすような声だった。
「ごめん。本当に大丈夫だから、ひとりで」
アイは、走るように、部屋を出て行った。
あの夜から、今日で一週間だ。今日は天気がいい。こんなに太陽を浴びるのなんて、久しぶりだ。
左の方から、踏みきりの音がして、電車の到着を知らせる。そっか、このベンチに座って、もう一時間、経ったのか。
昨日、帰る間際に人事から催促のメールが届いた。来週早々には返事をもらわないと、間に合わない、と。非常に丁寧で遠回しながら、確実に強制する文面だった。ぼくは、そのメールを「削除」して、会社を出た。
辞令が下ってから一週間、ぼくも「カレ」も、今回の転勤については何も話さなかった。サウナにも、行かなかった。
普段は見ないようなレイトショーの映画を見たり、騒がしいだけの焼鳥屋に一人で入って、閉店まで粘ったり、ぼくはそうやって、一週間を過ごした。アイとも、あれ以来会っていない。
この長閑な駅から、自転車なら五分、歩いても十分あれば実家につく。
ぼくは、腰を上げ、久しぶりの実家へと歩き出した。
「あら、何。電話ぐらいしなさいよ」
台所の窓から顔だけ出したエリさんが、言った。
わざわざ玄関のチャイムを鳴らすのも妙かな、とは思ったけれど、ぼくは玄関先に立っていた。
「はやく入ってきなさいよ、お客さんじゃないんだから」
エリさんは、少し見ない間に、声が大きくなっている。
「おかえり」、ニッコリ笑ってくれる顔を見ると、肩の力が一気に抜けた。
「親父は?」
「あ、ゴルフ、ゴルフ。自分のことプロゴルファーか何かと勘違いしてるんじゃないの。もう、週末は必ずよ」
「そうなんだ。ヒロは?」
「今、サッカー行ってる。夏の大会が近いから、今日も遅いんじゃないかな」
「そうなんだ。あっ、これ、土産」
「お〜、ありがとね。うわっ、何? 黒いのもあるの、東京バナナって」
「んっ? あ、うん」
「へぇ〜」
ぼくは、リビングにある、もう随分と黄ばんでしまった白いソファに座り、テレビをつけた。
「お昼は? 食べたの?」
「あ、うん」
「じゃさ、悪いんだけどスーパー一緒に行ってくれない? お一人様2パックのティッシュがあるのよ」
「いいけど」
ぼくは、エリさんの運転する車に乗って、住宅街を抜けた郊外に建つ大型のスーパーに向かった。
「入試の日、思い出すね。あの時も、エリさんの横に座って、俺……」
「そうだったねぇ。ものっすごい寒かったのよ、あの日。もうあの頃からだとこの辺もずいぶん変わったでしょ、いっぱい建物ができて。もう、東京みたいになっちゃったわよね」
フフッと思わず笑ってしまったぼくに、
「何? 可笑しい? あ、東京はもっとゴチャゴチャしてるか。私、東京に行ったことないの、一回も」
「そうなの? 修学旅行とかは?」
「定番の京都・奈良よ」
「そっか。俺もそうだったな」
車の中で、エリさんはずっとしゃべり続けた。沈黙が怖い、という感じもなく、明らかに、エリさんはおしゃべりで明るい人なんだ。あの頃、ぼくと一緒に暮らしていた時には、気付かなかったけど。
親父は部長に昇進したけど、給料が思ったほど上がらないとか、二軒隣に引っ越してきた若夫婦が常識はずれだとか、駅前に出来たゲームセンターが中学生のたまり場になって物騒だとか、ヒロが反抗的だとか、生意気にもカノジョがいるらしい、とか。もう、次から次に出てくるので、一々相づちを打つのも間に合わないほどだった。
ただ、ぼくのことは何も聞かなかった。急に、帰ってきた理由も、最近、どうしてるのかも。話したくなったら話してね、と思っているのだろう。それだけは、何となくぼくにも分かった。
すき焼きにしよう、と大騒ぎのエリさんはスーパーで一番高価なお肉を買った。もう暑いだろうと言ったぼくの意見は簡単に流されてしまった。何気なく、「せっかく家族四人揃うんだから。こういうときは特上よね、特上」と、肉のついてきた横っ腹に手をついて、エリさんはワハハと笑った。
親父が帰宅したのは午後四時、ヒロは七時になっても戻って来なかった。エリさんがヒロの携帯に電話すると、駅前でハンバーガーを食べて帰るから夕食はいらないと言ったらしい。「ダメ、帰ってきなさい」と怒鳴るエリさんの声がリビングまで聞こえた。続けて、「すき焼きなのよ!」、と。
渋々帰ってきたヒロは、ぼくのイメージにある男の子ではなかった。急に伸びた身長のせいか、真っ黒に日焼けした顔のせいか、ぼくに全然似ていない、せいか。弟という感じはしなかった。
「おう、おかえり。久しぶりだな」
ぼくの顔をちらりと見ただけで、「あ、うん」と言って、汚れたジャージを脱ぎに、風呂場に直行した。
「何よ、この子。照れてるんじゃないの?」と、エリさんがヒロに言うと、
「うっさい」と小声で吐き捨てたヒロが、エリさんを睨む。
「うっさい、って何よ、うっさいって。うるさいでしょ。ちゃんとした言葉使いなさい」
そんな二人を眺めていると、思わずぼくの頬は緩んだ。
四人で囲むはずの食卓も、エリさんはなかなか席につけず走り回っていた。どうやら、前に一度だけ、ヒロが試合でゴールを決めた縁起のいいソックスとシャツを、今晩のうちに洗濯して、また明日持たせるためなのだそうだ。先に始めてて、と言い残し、グツグツと煮立った特上肉をぼくらは三人でつつき始めた。中学生になったヒロは、底なしに食べる。その姿を見ているだけで、こちらが満腹になるほど、食べて、食べて、食べまくった。ヒロはひょうきん者、らしい。親父は、ヒロのことを話す時、「コイツはどうしようもないバカだからな。お前の中学のときとは比べモノにならないぐらいどうしようもないよ」と、嬉しそうに、自慢した。
エリさんもようやく席につき、今度は、どんどん食べていくヒロのために、具を注ぎ足していく。「はい、これ、もういいわよ」と、ヒロの受け皿に放り投げ、汁がシャツに飛んだと、ヒロがまた睨んだ。「いいじゃないの、ちょっとぐらい。どうせ洗うのはお母さんなんだから」と、最後の肉を鍋に入れた。
お母さんなんだから……。ぼくはまるでこの食卓の上にある蛍光灯にいて、その傘の隙間から三人の家族を眺めているような錯覚に陥る。ここは、親父とエリさんと、そしてヒロの……、また、あの上京した日の朝の光景を思い出した。
後かたづけが済むと、親父が「一杯飲みにいくか?」と誘ってきたので、二人で駅前の料理屋へ行った。エリさんも誘ったが、「二人でどうぞ」とウインクするように笑って見送ってくれた。
「エリさん、だいぶ感じが変わったね」
「そうだろ、もう尻にひかれっぱなしだよ。ガミガミ、ガミガミ、うるさいんだよ。でも、まぁ、ようやくあいつも自分の家族っていう風に思ってきたんじゃないか」
考えてみれば、親父と二人きりで酒を飲むのは初めてだ。
「で、お前、どうしたんだよ。何か話でもあるんじゃないのか」
ここで、初めて、ぼくのことを聞いた。
「んっ、いや、別に。長いこと帰ってなかったし、仕事も落ち着いてきたら、ちょっとね」
「そうか。もうお前も二十八だもんな。早いな。十年だぞ、お前がうち出てから」
「そうだね」
「エリもな、あの時、ヒロを産まないって言って大変だったんだ」
だいぶ酔っぱらってきた親父は、もうずいぶん歳をとったし、話が長くなった。
「お前となかなかうち解けられないって、いっつも泣いてんだよ、あいつ。父さんも何とかしなきゃって思ってたけど、あの時期、会社でも色々あってな。まぁ、言い訳だけど、家族のことまで手が回らなかったんだよ。リストラの嵐だったからな。人事部なんてところにいたから、父さん、毎日ストレスがたまって、誰の首をきるとかきらないとかな。本当に、エリにも、お前にもすまないと思ってる」
「エリさん……」
「んっ?」
「エリさん、産まないって、言ってたんだ」
「そうだぞ。まだ早いってな。もっとアキオとうち解けて、産まれてくる子供がアキオの弟だって、言ってもらえるまでは、まだ早いって。まぁ、あいつも若かったしな」
知らなかった。ぼくは今の今まで、そんなこと知らなかった。
「で、どうした。話してみろ。会社か、それ以外か。父さんでも何か言ってやれるかもしれないぞ」
やっぱり、親子って分かるんだな、と思った。
「う、うん。実は、ちょっとね」
「女か? だったら、父さんに何でも聞け」
こういうこと、言う父だったっけな、とぼくは思っていた。
小学生の頃、死んだ母が病室のベッドでよく言っていた。お父さんは、偉いと、凄い、と。カッコイイと。ぼくは、だから憧れていたのかも知れない。ずっと、小さい頃から。
何から話したのか。うちの会社で、今一番勢いのある支社であることは間違いなく、だから栄転と言ってもいいかもしれない上海への転勤、そして、アイという女性と付き合っていて、結婚も考えなきゃいけないけど、まだ自信がないという正直な心境。そして、ぼくの中に、「カレ」がいて、だからなかなか踏ん切れないという、分かりづらい本音まで、何もかも、包み隠さずぶちまけた。初めて、だったように思う。真っ赤な顔をして、眠そうな目をして、完全に酔っていても、やっぱり父は父で、全部放り投げても受け止めてくれるような気がしたのだ。
「転勤を考える、かぁ」
「えっ?」
「いやな、父さんの頃なんて、転勤の辞令は考えるも何も、決まったことだったからな。父さんも今、人事で部長してるから分かるんだけど、転勤ことわるヤツはザラにいるからな。時代なんだな」
「あ、うん。新人類、って言われてるから、ぼく」
「ハハハ、そういう感覚、父さんも分からなくないよ」
「カレ」がそう言われてるだけだけどね、と心の中でぼくは呟いた。
「父さんもな、お前は一体どっちなのかな、って思ってたんだよ。親として情けない話だけど、高校生の頃から、お前のこと、掴めなかった。学校の成績は良いし、かと思えば万引きで何回も捕まるし。怒ってるのか許しているのか、不満なのか、満足してるのか。一体、こいつはどう思ってるんだろう、ってな。父さんにも分からないんだから、エリのヤツも大変だったんだろう。あいつは、それも全部、自分のせいだって言ってたけどな」
「なんで? なんで、父さん、再婚したの?」
「好きなんだよ。父さん、エリのことが。それだけじゃ、ダメか。ダメ、だよな。でもな、父さん思ってたんだ、絶対に、お前もエリのことが好きになるってな」
「……好き、だよ、ぼくも」
こういうところが、父の掴めないところかもしれない。
「腹くくれ」
突然、親父が大きな声を出した。それが、全ての答えのような気がして、ぼくはそれ以降、何も話さず、父も、黙ったまま酒を飲んだ。
翌日、ヒロを送り出したエリさんが駅まで送ってくれた。父はまた、ゴルフらしい。駅について、エリさんは「ちょこちょこ顔みしてよ。みんな嬉しいんだから」と、言ってくれた。
「転勤断って、会社を辞めてしまうっていう選択肢だってあるんだぞ」
夜、ぼくは一週間ぶりにサウナに行き、「カレ」と向かい合うことにした。「辞めてどうするんだよ。アンタの清掃員のバイトだけじゃ家賃も払えないだろ」
「お前がデイタイムをもっていくからだろが。全部の時間が使えるなら、家賃ぐらい払える仕事を見つけるさ」
相変わらず、ぶつかり合う。
「だから……」
少しトーンを落とした「カレ」が続ける、
「そういう選択肢もあるって言ってるんだよ。あまりにもオマエが、その可能性について、はなから除外してるから」
「そらそうだよ。ぼくらなんて、会社飛び出してひとりになったら何もできない。情けないけど、それが現実だよ」
「一人で出来ないことが、みんな集まったからってできるのか?」
何なんだ、コイツは。こんな状況に至っても、まだ、訳の分からないことを言う。
「何が言いたいんだよ。そうに決まってるだろ。三本の矢、とか知らないのかよ」
「それは、あくまでも一本の矢が、一本の矢としてしっかり存在してることが前提だろ」
「もう、いいよ」
「そうやって、また逃げるなよ。分かってるだろ、本当は。オマエが周りと協調するのは、単に、一人になるのが怖くて、ひとりだと、また無力を感じて、愕然とするからだろ?」
「違うよ」
「そうだよ。一人になるのが嫌だから、周りばっかり気にして、誰かといたくて、だけど、アイとの結婚は、関係が近づきすぎるから、いつか失ってしまうかも知れないのが怖くて、結局は、ビビッてるんだよ」
一人になれないヤツは、誰か特定の人とも一緒になれない。
ぼくは、ガツンとハンマーか何かで叩かれたような衝撃を受けた。ぼくは、あの会社にいるんじゃなくて、ぼくが居るところに会社はあるんだ。そう言える自分になれたらいいのに。
「なれるさ」
いや、なれないよ。ぼくは「カレ」とは違う。言われた通り、一人になるのが何より怖いんだ。同じ色でいいから、周りの中に同化していたいんだ。
「うらやましいよ」
ぼくは「カレ」に言った。
「ぼくにも、ちょっとぐらい、アンタみたいな考え方が出来たらな、完璧なのに」
「何言ってんだよ。オレはオマエなんだぜ」
ぼくはサウナを出て、Tシャツと短パンのまま、アイの部屋に向かった。こんな時間に、電話もせずに突然行くことが迷惑だとは思ったが、身体が勝手に動いていた。会ってどうするのか、まだ、分からなかったけど。
どうしたの、とは言わなかった。突然、真夜中にやって来たぼくの顔を見て、アイは、「どうぞ」とだけ言って、部屋に招き入れてくれた。
そして、アイスコーヒーを入れてくれた。
「俺、上海に行くことにしたから」
「そう」
「うん。」
風呂上がりだったアイは、髪にドライアーをあてはじめた。
「それから、アイとも結婚するから、すぐにじゃ、ないけど」
「え? 何?」
ドライアーを止めて、アイがぼくの方を見る。
「今すぐにってことは言えないけど、アイ、俺と結婚しよう?」
「うん」
アイは、ぼくの隣に寄り添ってきて、うん、と言ったきり何も言わなかった。アイと一緒に生きていける自分になる。これが、今の精一杯だった。
「俺が、向こうに行って、ちゃんと一人になってやっていける自信がついたら、それから、アイが一人でもいいから誰かの恩師になれたら、その時に、結婚しよう」
「うん」
「仕事、続けられなくなるけど、俺、アイと一緒にやっていきたい」
黙ったまま、ふたり、寄り合って、隣のアイが温かかった。
「よかった」
小さな声でアイが言った。
「今ね、私の未来を想像してみたの。そこにはちゃんとアキオがいたから。私だけがいるんじゃなくて、アキオもいて、そんな未来がいいな、って思えたから」
週が明けた月曜、ぼくは人事部の部屋へと向かった。
もう、ぼくは「カレ」のせいにしない。腹をくくろうと思う。色んなもので包んで、わかりにくくした挙げ句に、いつまでも先送りにしてきたことを、みんな決着させようと思う。
完璧な自分になんて、三十や四十になって自然となれるわけじゃないんだ。今の精一杯を続けていくことで、振り返ってみれば完璧だって思えればそれでいい。今、ぼくが選んだ「ぼく」という選択肢。仮に「カレ」を選んだとしても、一長一短がある。そんなことは分かっている。分かった上で決めた。
扉をノックした。
ぼくがいる所に、周りがあるんだ。
「どうぞ」
僕は、完全なひとりになって、上海行きを決める。
(了)
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