次の「紙」と「本」
2010年05月16日
「本はやっぱり《紙》に限る。そんな感覚が、過去のものになるかもしれない。」
5月3日付の朝日新聞GLOBEの紙面上、こんなキャッチが踊っていた。ぼくは思わず目を奪われた。

そうは言うけど……と思いつつも、そうなのかもしれないな、という「時代の流れ」を改めて知らしめられた感じがして。寂しいな、と思うし、けど確かに、う〜ん。と考えてしまったり。ちょうど2日後の同新聞に、アメリカで発売された電子書籍端末「iPad」が、iPhoneの2倍のペースで売れているという記事が掲載され、音楽、携帯電話に続き、電子書籍の世界も変えてしまうのかもしれないという「現実味」が帯びてきたりもした。

ゲームチェンジャー。アップル社は、これまでにも音楽業界でCDからダウンロードへの転換、携帯電話端末もボタン操作からタッチパネルへと転換させてきた。スマートフォンがこれほど一般的になったのも、グーグルの頭脳云々の前に、やはりiPhoneの圧倒的なファッション性とアトラクティブな「遊び心」にあったような気がする。とにかく、人が「手に取り」、実際に「移行」するには、ビル・ゲイツ的眼鏡くん発想ではなく、ファッション性が大いに関係するのだ。その点、アップル社は非常にうまい。今回のiPadも、目が疲れるバックライト方式をあえて採用し、グラビア雑誌並みの鮮やかな画面を作り出した。そこに革新的な操作性と、次世代を見越した「ネットワーク」を付け加えたのだ。今月末、日本でも発売されるiPadは、店頭予約だけで行列ができたというから注目度は高い。

今、電子ブックの世界で起ころうとしているのは何か。
それは、簡単に言うと「紙」に勝つために、「紙」に限りなく近づこうとしているということらしい。

とはいえ、本はやっぱり、「持った感」に限る。ぼくはそう思っている。数百ページの単行本。それを両手に包むようにしてページをめくる。見開き1ページの数十行がいっぺんに視界に収まり、その行間に溢れる世界を浮遊する。それが読書だ、とも思ったりする。


しかし、ふと電子辞書を思ったりもする。
辞書が電子化されて一般的になってからもう随分経つ。

外国部学部だったぼくは、ジーニアスやコウビルトなどの重い辞書を持ち運び、丈夫なグレゴリーのリュックでさえ重さに耐えられないのではないかと心配するほどで、カシオの電子辞書を見つけた時、即買いした覚えがある。確かに「手クセ」のついた自分の辞書は引きやすい。マーカーを引いたり、同意語の「ドイツ語」などをメモして、自分なりの辞書にカスタマイズもできた。iPhoneのCM風に言うと「紙の場合はねっ」といったところだ。それが出来ない電子辞書には、いつも検索する単語が「初めまして」と言ってるようで他人行儀にも思えたし、だからなかなか頭にも入らなかった。『そこが紙と電子ブックの違いだよ』と勝手に思ったりもして、《あの持った感が奪われる電子書籍》への時代はまだまだだと安心もしていた。何十冊もの辞書が、こんなに軽い。そんな便利さにはとって代われない普遍的価値みたいなものが「本」にはあるんだよ、と思ったりもしていた。

なのに。紙に近づく電子ブックの技術。例えば、「めくる、書き込む、曲げる、折る」。それらを可能にする電子ペーパーが開発されようとしているらしい。そして、最大の欠点であった「液晶画面は目が疲れる」ということも、すでにアメリカのイーインク社がバックライト方式ではなく外部の光を反射させる(紙と同じ)画面技術を開発しており、それを台湾の会社が買収して、中国の工場で量産体制に入っているという。すでに発売されて話題になっているアマゾン社の「キンドル」は、このイーインクを使用しており、だから目が疲れぬくく読書向きだといわれている。じゃ、iPadは?となると、先述の通り、バックライト方式をあえて使っている。これは、現在、書店にいって書籍コーナーより雑誌コーナーの方が立ち見客が多いのを反映してか?ツルツルのコート紙に綺麗な写真があるファッション雑誌や写真集などに的を絞ったかのようだ。長時間、じっくり読書するより、綺麗な「ページ」をペラペラめくりながら気に入った所だけ読む。そんな読者にはiPadが最適かもしれない。

そんな使い分けを「端末」ごとにしなければいけないのは面倒だ、ということで、ダブル画面を擁する端末の発売も予定されている。さらに言うと、端末開発で乗り遅れた「日本勢」が、紙の代用は本だけではないと言わんばかりにポスターや円柱にはる看板など、電子ペーパーの技術開発に邁進しているとも記事では紹介している。つまり、iPadが「次」とすれば、「次の次」を見越した動きもすでに進行中なのだ。


これからの「紙」と「本」。どうなるのかは誰にも分からない。が、着実に新しい器が出来ようとしている。紙に追いつき、紙には出来ない付加価値を得た時、紙を回想して「古きよき時代」をベリベリとめくったりするのかと想像してしまうそうにもなる。そんな先にまだまだ「そうは言うけど」と思っている方は、アメリカ・プリンストン大学での実験を聞くと、考えも変わるかもしれない。結論から言えば、「慣れ」の問題なのだ。よく言われる〈アフリカ諸国では固定電話を飛ばして携帯電話が普及した〉という例にならって、画面でものを読んだり見たりする「習慣」が根付けば、プリントアウト(紙出し)しないという時代がすっ飛ばしに来るかもしれない(特にインドや中国の地方都市などで爆発的に)。しかも、その「画面世代」には、紙では出来なかったリンク性やネットワーク、動画、立体など可能性はどんどん広がっていくのだ。そんな時代(例えばもっと、画面すらないSF映画さながらの時代)が来たとき、ぼくたちの部屋には書棚はもとより、手に取る紙のモノがなくなるかもしれない。それは寂しいなぁ、とここでもまだ思う方もおられよう(ぼくも含め)。が、少し見方を変えれば、そんな時代も悪くないと思うかも知れない。

つまり、今まで紙モノが占めていたスペースを空白にすることで、何もない空間ができる。そこに何かを創造することができれば。目の前にある物質を越える想像上の質量。それは「これまで以上」の付加価値を生んで、そしてまた、次の次なる時代を待つのかな、と気の遠くなるような姿まで見通せる気がする。そんなずっと先よりもっともっと目前に、電子ブックや電子ペーパーという「次」の時代は近づいているのかも知れない。



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