- ナクヨ ウグイス ヘイアンキョウ -
僕が歴史として実感できる基準は、この平安京遷都以降である。
建て直しや修復を何度か重ねてきたとしても、その形が僕の目の前に現れている事を確認できるからだ。僕が生まれ育った京都という街には、そんな寺社仏閣が多くある。あまりにも多すぎて、一つ一つがいつ、どの時代に出来たのかを完全に把握しているわけではないが、小学生の頃の社会科見学、遠足などで、いつも目の前にしたその歴史建造物を見ながら、

今から一二〇〇年以上前に平安京が遷都され、それ以後の鎌倉、室町時代に多くの寺社仏閣、庭園が造られた。何度か建て直しや修復を繰り返し現在に至っている。僕が生まれ、そして育った京都には、そんな歴史的建造物が溢れ、何度も目の前に立ち、貴族が日本庭園でマリをつき、庶民が慎ましい生活の中で農作物を育てている様子を想像しては、そんな過去の町並みの中にポツンと立ってる自分を仮想する。想像は無限だが、いつも教えられてきた「歴史的事実」を重ね合わせ、考えられ得る限り実際に近いだろう過去の日々の中に自分をおいてしまうのが、少しもの悲しいが。

ギリシャの首都、アテネにあるパルテノン神殿の前に立った時、僕の中にあった歴史的建造物にたいする基準が大きく揺らいだ。時間軸を頭の中でグルグルと逆回転させ、1200年前という基準から更に1300年ほど過去に標準を合わす。この2500年前という想像するのも難しい太古は、僕にとって宇宙空間をイメージするほど想像が無限で、「もしかしたら、こうかもしれない」、「こんな風に暮らしていたのかも知れない」と、世界史の教科書には載っていなかった風景を思い浮かべることができる。そんな時代に、この国では都市国家が形成され、神聖なるアクロポリスという丘にはパルテノン神殿が造られた。その事実が目の前に、存在するのだ。当時の市民はこの丘を見上げ、神聖なるアクロポリスから生きる力をもらっていると信じていたのかも知れない。夜になれば、月明かりでぼんやり浮かぶ神殿に、神の姿を重ねていたのかも知れない。そう考えると、崩れかけ、そして、工事中であるその建物から存在した時間の長さが質量となって、重く僕を圧倒するように感じられる。現在でもアテネの南部を歩いていると、目印のようにパルテノン神殿が見える。シンダグマ広場から細い道に迷い込んでも、ふと視界が開けたのと同時に丘が見え、そして神殿が堂々と立っているのだ。もしかしたら、僕を迷わせないように、神がそこにいて、手招いてくれたのかも知れない。それ位、想像的でもいいような気がする。頭ではどれくらい昔かと言うことが分かっていても、実際目の前で見ると、その完成度の高さと規模から、それが遙か2500年も前だと実感する事が難しく、過去において時間軸が曖昧な分、金閣寺や銀閣寺が建てられた時代、ここではこの神殿が造られたのかという錯覚さえ起こしてしまう。その丘の上から、遙か昔の都市国家を想像し、アゴラと呼ばれる庶民の生活空間で、歩き、働き、話し、笑い、そして食べる古代ギリシャ人の姿を浮かべては、同時にその未来像を実際この目で眺める。全てのモノが過去から現在につながっているように思えた。人は遺伝子を繋ぎ、建物は技術の基盤を変えず、料理は味付けを増した。そうして、ずいぶん進化してきた万物の中で、取り残されたように崩れかけの神殿に、今も尚圧倒させるのは、やはり時間の経過と、その経過にも揺るがないある種絶対的な安定感からくるのだろうか。ただ、丘の四隅に大きなライトが神殿に向けられており、それを見たら少し興ざめしてしまう。夜には煌々と光りを当て、ぽっかりと丘の上にパルテノン神殿が浮かび上がる。そんな人工的なライトアップで綺麗さを強調しなくても、この神殿には強く、圧倒する力があるし、恐らく古代の人達がしたように、月明かりの下、ぼんやり見えるパルテノン神殿の方が美しいように感じた。高級レストランから丘を見上げ、ショウウィンドウにディスプレイされた綺麗なドレスを見ているのとは根本的な違いがあるのだから。この跡で訪れたそれぞれの都市でも神殿跡は見たが、やはりアテネのパルテノン神殿が一番保存状態も美しさも持ち合わせていたように思う。かつて最大の都市国家であったが故なのかも知れない。

アクロポリスまでの登り坂は、神聖な場(サンクチュアリ)へと続く獣道だった。古代アゴラが広がっていた場所は、現在大規模な遺跡が残っており、この時代のこれだけの規模の遺跡は、まず日本では見る事はできない。やはり一見しておく価値はある。かといって、アクロポリスと古代アゴラ遺跡の入場料は別なので、両方をおとなしく払うのは気が進まない。空港のインフォメーションでもらった市内マップを凝視して、どうにか入場料を払わずに古代アゴラ遺跡を見ながらアクロポリスに登れるルートはないか探した。僕が泊まっていたホテルはアクロリスの近くで、ホテルを出ればすぐに丘へ続く坂道にでる。観光バスはその舗装された坂道の前で列を作って駐車し、観光客はぞろぞろとアクロポリス目指して登っていく。僕が見つけた古代アゴラ遺跡から登っていくルートは、その舗装された坂道の丁度裏側、百八十度丘を中心に迂回する。車の量が多く、歩道とは名ばかりの小さな歩くスペースはあるが、周りに歩いている人はいない。黒い煙を上げた大型のトラックが行きすぎた後に責めてくる風は、殺人的に僕の鼻と喉を痛める。ホテルを出たときには少し肌寒く感じた気候も、歩いたことと、陽射しが強くなってきたことが重なって汗が吹き出る。そればかりか、歩いてる僕に邪魔だと言わんばかりのクラクションが浴びせられる。そんなものには決して屈しない。買ったばかりでまだ冷たい水を口に含んで、息苦しいが精一杯鼻歌を歌いながら歩いた。古代アゴラ遺跡の敷地を仕切っている金網の切れ間に出た。その近くには掃除をしているのか、遺跡の保護をしているのか、二、三人のおじさんがいたので、「ここ歩いてもいい?」とアクロポリスへ伸びる道を指さすと、「いいよ」と返ってきた。許可を得たからには進むあるのみ。僕は金網に沿ってアクロポリスを目指す。イメージで言うと、少々急だが真っ直ぐの坂道は、あの舗装された道で、僕の歩く道はジグザグになだらかな長いスロープが、右に左に折れながら丘まで続いているといった具合だ。その横には古代アゴラの遺跡が広がる。午前九時半、古代の人達の生活空間であるアゴラから見て、太陽が昇る方向に造られたというパルテノン神殿は、見上げてもまぶしくてよく見えなかった。この日、アテネは快晴だった。風が冷たくて、ホテルを出てすぐに羽織った薄手の上着はもう邪魔でしょうがない。両サイドに遺跡が広がって、広場だろう跡には何本かの柱が立っている。民家だと思しき小さな家も、こじんまりとした教会も(おそらく教会だと思うのだが)、全体的に茶褐色の風景が広がる。ゴロゴロと転がっている大きな石も、きっと意味のある石なんだろうと思う。何人かの人とすれ違った。「上は霧が出てるよ」、などとさながら山登り中の会話をする。それにしても午前九時半で既に下ってるあの人達は、一体何時に登ったのだろうか。このアゴラの遺跡には生活に密着した政治、経済、宗教、そしてもちろん買い物をする市場などがあったと言われている。今となっては全てが同程度の風化で、一見してそれぞれがなんなのか見分けが付かない。ガイドを雇って詳しく説明されたらまた違った角度でこの遺跡を見ることもできるのだろうが、あえて僕は勝手に想像することにした。ソクラテスはここで哲学を説いたんだ、そして、この溝には小さな川が流れてて、食料を売り買いしてた市場この辺りに広がってたのかも知れない、などと。何分かかっただろうか、いや何時間か。やっとアクロポリスの入場門に来た。アゴラが広がってた平地部は目移りするほど楽しかったが、ある程度登ってからは、ひたすら鬱そうとした中を歩き続ける。団体旅行者達は正規のルートをものの何分かで登ってきて、列になってアクロポリスに続く狭い階段を登っている。人混みが大嫌いな僕は、チケットオフィスの前にあったベンチで一休みした。ここまで来るのに相当疲れた事を改めて実感する。古代アゴラの町並みをまた想像してみた。頭に濃厚に浮かんだ言葉は「無知の知」。初めてこれを教わったの恐らく中学時代だと思うのだが、その時は何も心には刺さらなかった。でも高校生になり、世界史の授業中、先生から聞いたこのソクラテスの言葉は、ずっしりとした重みを持って僕に刺さった。ソクラテスが言ったかどうかは不明らしいが、そんな事はどうでもいい。無知の知、自分が無知であると言うことを知っている。そうとも知らず専門用語をつなぎ合わせて知ってる振りをする知識人にだけはなりたくないと思った。用語辞書を丸覚えして、詰め込むだけ詰め込んだ言葉の楽園で世界史を得意気にしているクラスメイトにも、尊敬などしなかった。イメージした景色は、その昔、知識人を自称する髭を蓄えたえらそうな男が、今で言う飲み屋のような大衆寄り場で何人かの男達にさも知っているかのような知識を吹聴している。周りの男達が「へぇ〜」「ふぅ〜ん」と納得したようにうなずき、あんたすごいよ、という尊敬の眼差しをその男に向ける。男はいい気になって、どんどん知りもしないことを、さも知っているかのように話し続け、人は徐々に集まり出す。その人混みの一歩外から、本当の知識人が、「それは違うのではないか」と水を差す。焦ったその髭男は、食いつくように知識人に攻撃を仕掛け、自分の方が正しいのだと、哀しい反撃を加える。無知の知。知らないと言うことを自覚してない、そんな髭男は、現代でも溢れ返っているように思う。そんな事を想像していると、肌寒い風が吹いてきたので、また歩き出した。

アクロポリスへはくねくねと階段を登る。大きな門をくぐれば丘に出て、いきなりパルテノン神殿が見える。僕が言ったときは丁度工事中。アテネ市内中工事中という印象が残っている。工事中であることよりも僕をうんざりさせたのが、人、人、人で溢れ返っていること。パルテノン神殿を一枚写真に収めようかとカメラを覗けば必ず人が入ってしまう。大観光地である悲しい性だ。パルテノンの横にはアテナ・ニケの神殿がある。こちらは少し小ぶりだが、青空をバックに真っ白に映えたその宮殿はより美しさが強調されていた。ここに神がいてその昔、人々を見下ろしていたのかと思うと、苦労して歩いてきた古代アゴラの遺跡も一気に単なる廃墟から、様々な色をもった景色へと変わっていく気がした。同時に自分がまるで神にでもなった気分で高揚し、大袈裟に一歩一歩音を立てながら丘を一周ある歩いてみたりした。ギリシャの国旗がはためく一帯があり、そこからは市内の北部が見渡せる。見下ろし先には十五本の柱だけが形を残すゼウス神殿が午前中の強い陽射しで逆光し白くぼやけて見える。ちょうど雲の上に突き抜けた柱の様に。また東側にはアクロポリスよりも高いリカビトスの丘が見渡せる。ここからリカビトスの丘までは相当の距離があるのだろうが、アクロポリスから見渡すと、それ以上に高い建物が無いのではっきりとその姿を捉えることができるし、距離感も大きく狂う。腰をおろしてぼんやり眺めていた。それにしてもそこら中工事だらけだ。来る2004年のオリンピックに関係しているのだろうか。オリンピック。古代オリンピックが行われていたギリシャで、約百年前に近代オリンピックとして復活した。記念すべき第一回開催都市はアテネ。その競技場がアクロポリスから二十分程歩いたところに残っている。二十一世紀最初のオリンピックもまたアテネで行われると言うのは、ギリシャにとってオリンピックは切っても切れない関係があるように思う。丘を下るときは正規のルートで、登って来た時間の半分以下で降りた。そのまま、オリンピック競技場へ。現在の競技場は、外と中が完全分離した、いわゆる異空間を作りだしている競技場が多い。観客席が高く、周囲をぐるりと覆っているからだろう。しかし、今から約百年前に作られたアテネオリンピック競技場は、前を通る道路と中にあるトラックを分けるのは、高さ一メートル強の門だけ。それも横へスライドすれば開く。U字型に石造の観客席があり、トラックの奥には5本のポールが立っている。当時は五位までを表彰していたのだろうか。まずはトラックを走る。このトラックは決して昔のままの形を残しているのではないだろう。それにしては綺麗すぎるし、踏みだした足を蹴り返す時に感じるホップする感覚がしっかりと残る。全力疾走で第一コーナーを回ると息が上がり、すぐやってくる第二コーナーで走ることを断念しようかと思い、なんとかUの字を描いた僕の記録は、恐らく目も当てられないくらい遅かっただろうが、久しぶりにゴールを切ったときの爽快感が体中を巡った。考えてみれば、ここ最近、スタートして、ゴールテープを切る生活から遠のいているように思え、明確なゴールも決めずスタートを切り、適度な所でゴールと決めつけ走るのを止めてしまっているような、そんな気がする。競技場の中には僕一人。立ち入り禁止なのではないかと、走り終わった僕は我に戻って心配になった。誰かに怒られるまでは中にいようと決め、観客席に登る。一段一段が非常に高い。階段とは決して呼べない高さだ。一番上まで登りたくなるのは僕だけではないと思う。何度も「よいっしょ」と声に出して一つ一つ登る。一番上から見下ろしたトラックはとても小さい。この規模の空間でオリンピックが開かれていたことに驚きさえ感じるが、今ほど商業的になり、勝つことだけにこだわるようになったのは、そんなに昔の話ではないのだろうと一人で納得した。しかし、一番上の階は暑かった。ちょうど日陰になっている真ん中あたりまで降り、そこで寝ころんだ。街の真ん中にあるがとても静かで、穏やかな気候。眠くなり、そして眠った。寒くなって上着を着る。ひんやりと背中から石の冷たさを感じ、何処かで鳴いてる鳥の声を聞く。完全に眠ってしまうまでにそう長い時間はかからなかった。「ギャー、ワー、キャー」。子供達の声。トラックを走り回っている。何人かは観客席をよじ登っている。目を覚まし起きあがると五十人くらいの小学生が大騒ぎをしていた。そう言えば、アクロポリスを下る時、この小学生御一行は同じくらいのテンションの高さで騒いでいた。遠足なのだろうか。アテネの観光地を台風のように荒らし巡っている。鳥の声しか聞こえなかったさっきまでの光景は夢の中だったかのようだ。時計を見るととっくに昼飯時は過ぎており、そのままシンダグマ広場の方まで北上した。道路標識も売店にかかる新聞もギリシャ語。書いてある意味なんて以前に、それが連なって特定の意味を現すことさえ疑問を感じる。ハドリアヌス門まで小さな道を通り、その門からシンダグマまではかなりの大通り。バスも車もタクシーも、クラクションを鳴らして走り抜ける。三十分ほどかけてシンダグマ広場に着く。完全工事中。白い囲いを巡らせ、落ち着いて座れるベンチ一つない。通りに面した一角で蒼い服を着た衛兵が国会議事堂を守っている。昼食を食べてから目的も持たずアテネの街を徘徊する。市場もあるし、チェーン・レストランもある。デパートもバーも時計屋もカフェも。現代の生活空間が一国の首都として相応の規模で存在する。それにしても自動ドアというものがない。どこもかしこも手動ドアだ。少なくとも、アテネを歩き回った僕の日々の中で自動ドアを見たのは一回あるかないかだった。ユースホステルや安宿の集まるエリアで、夕食をとり、アルコールの入った体でホテルへ戻る。来た道を帰る。夜、行動するときの最低限のルールを僕はあっさり無視して、さっき通った道とは違う方、違う方へと歩き続けた。薬、女。様々なモノを勧誘される。一人で歩いている成年男子は、それだけで売り手市場の恰好の獲物なのだろうか。一々答えるのも面倒臭くなるほどそんな声をかけられる。段々帰り道が分からなくなって焦っていると、小道の先にパルテノン神殿がライトアップされた姿で現れた。それを目印にどのくらいかかったか定かではないが、ホテルにたどり着き、シャワーも浴びずに眠った。歩いて、歩いて、疲れて眠った。一人旅の法則だ。
次の日も、その次の日も、僕は地図を持たずにあるいた。リカビトスの丘を見上げながら、ケーブルカーなんて使わず全て徒歩で登りきった。アクロポリスよりも高い分、その疲れも大きかった。丘の頂上にあるカフェに目もくれず、展望できるエリアから、パルテノン神殿を眺めていた。晴れ渡った快晴。遙か郊外の湾まで見渡せる。アクロポリスを見下ろしている自分が不思議に感じた。

何をしてたのか、特に記憶はないが、アテネの街を歩き回っていた時間は、退屈などしなかった。ある程度は全て回ったので、アテネを離れ、ペロポンネソス半島をバスで一周することにする。泊まっていたホテルから、長距離バスのターミナルまでは歩いて四十分はかかる。重いバッグを背負って、バスターミナルへ向かう。途中で市場を通る。丸ごと豚が何匹も足からつるされ、カゴの中で鳥がバタバタと羽を振っている。飛べない鳥。おだてても木に登れない豚。明日は誰かの胃の中だろう。

ペロポンネソス半島。その覚えにくいが故に、決して忘れない名称。その半島には僕の知っている都市の名前が溢れている。ギリシャといえば、エーゲ海に浮かぶ島々や、アテネをずっと北上し、奇岩の上に建つ修道院を見に行くのがたいていのコースだが、断然バックパッカー率の多いのはペロポンネソス半島バスの旅だ。安い。これにつきる。かといって他にないわけでもない。コリントス、スパルタ、オリンピア。古代都市国家として有名な都市はこの半島に溢れている。名前は聞くが、どんな町かの想像は容易いものではない。以上の理由で旅することに決めた。アテネを出て、コリントスを抜け、パトラを経由する。内陸から半島の海岸部へ車が進むと、真っ青な海が太陽にテラテラ照らされている。誰の目から見ても美しい、そう感じられるのは、もしかしたら唯一自然のおりなす風景だけなのかもしれない。そう思える程に普遍的な美しさがそこにはあった。バスは空いているわけでも、混んでいるわけでもなく、ただハイウェイを走って行く。日本とは違い、ハイウェイと言ってもガタガタ。途中で料金所を通った。チケットブースがあり、そこでお金を車窓から手を出して払う。なんら日本と変わらない光景だが、すこしびっくりするのが、排気ガスに包まれて、ブースのすぐ後ろに、袋にも入っていないむき出しのパンを売っている。ちょいっと手をのばして買う客が目当てなのだろうが、そんな人いるのだろうか?と疑ってしまう。山積みのままで売れ残っているところを見ると、僕のように思っている人が多いのだろう。せめて、袋に入れて売ればいいのに。その一工夫が売り上げをグッと伸ばすのに、と訳の分からないアドバイスを声に出さないように、それも通じもしない日本語で呟いた。

バスは進む。太陽が差し込み、揺れにも慣れて、それが心地よくなり少し眠った。朝は早起きして、小雨とはいえ、アテネの町の南端から北上を続け、ずっと歩いてバスターミナルまで行ったのだ。疲れるのも無理はない。ウトウトと眠ってしまい、ふと目覚めるとちょうど休憩らしく、僕も降りて水を買う。100Dr。水が安いのはギリシャのいい所の一つだろう。それまでは何の変哲もなかったハイウェイ沿いの風景が、この休憩を境にガラリと変わった。景色に驚いた。まったく圧倒されてしまった。頭に雪をかぶった険しい山々。少し遠くになだらかな山が見えると、視線が安定して風景に向けられどこか心和むが、これだけ目前に切り立った山々が接近し連続すると圧迫感があり、圧倒されてしまう。長く見続けることが困難にさえなってしまう。道路の状態は更に悪くなり、加えてバスのシートは木の椅子に薄い布一枚を被せただけで、2、3時間経つと背中が痛くなる。それに反比例するように美しい景色はどんどん広がっていく。舗装など行き届いていないから、そんな人間の手が入っていないから景色が素晴らしいのかも知れないと思わせるほどに僕をワクワクさせた。圧倒され、感嘆し、落ち着いた景色は心をケアをしてくれる。このパトラまでの道は、見なきゃ損と思わせる贅沢な一品で、右にはモスグリーンの綺麗な海、左側には田舎の農園、オリーブの木々に、羊もいれば、家の一つ一つが別々の外観で風情を持っている。と、思えばその向こう側に険しいゴツゴツした高い山々。あそこを抜けて海沿いまでやって来たことになる。ビューティフルだ。これを日本語で「美しい」と表現するとき、僕は自分の中で一種“わびさび”をもった落ち着いた風景を連想する。そうではなかった。興奮していた。ワクワクして、何も考えず、何も思わず、ただ首を左右に動かして、海に山に、を楽しんだ。今日は晴天。雲は多いが太陽が十分に降り注いでいる。「太陽の光はこうも海を輝かせ、景色を一変させるのか」。昨日、スニオン岬までの道中。アポロ・コーストを通ったが、残念ながら曇っていた。何度も「曇りでもこれだけ美しい景色なのだから、太陽がさせばどれほどに美しいのだろうか」と思っていた。想像を越える絶景。太陽の光は僕の想像出来うる色彩を軽く越え、何百、何千種類の光りで、それも一定ではなくきらきらとその色を変えながら輝く景色。海の向こうには、島や半島が見える。

そのバスに乗っていたのは、ほとんどが里帰り人達のようで、日本人は僕だけだった。演歌の様な民族音楽を大音量でかけ、派手なハンドル装飾と、それに見合う荒い運転。鼻歌を通り越して、大声で陽気に歌う運転手。そのすぐ後ろに座っていた老人が、合いの手を入れ、そのうちみんなで大合唱を始めてしまうのではないかと思われる雰囲気が車内を包んでいた。バスは行く、田園と海の間を。かつてフランスのカレーという町からからリールを経由しパリまでバスで行ったことがある。農業大国フランスだけあって、あの田園風景も素晴らしかった。が、それは整理されているようで、きっとそこから効率的にたくさんのマネーを生み出しているようで、すぐに飽きてしまった覚えがある。でもこのペロポンネソスは違った。ただのんびり太陽にさらされて、存在している。それがいつまで見ていても飽きない景色になっていた。バスはパトラに着く。大きなクルーズ船が4隻泊まっており、海沿いの街だけあって、それに見合うだけの開放感を持っているように感じた。イタリアのブリンディジという町からここにやって来る旅人が多いと聞く。エーゲ海をクルーズする人も、イタリアまで行くなら、この港町は必ず訪れるだろう。楽しそうな街だった。実際、港町には何がそうさせるのか、どこか楽しそうな雰囲気がある。ピンク色と蛍光色の混じった黄緑色がやけにぴったりと来る景色。サンフランシスコから少し南下したモントレーという町も同じ香りを持っていた。もちろん実際鼻をつく潮風とそれの持つ匂いもあるが、どこかまぶしく、サングラスを通して見ないとそれぞれの色彩が光り過ぎてぼやけるような。そんな景色だ。アイスコーヒーのないこの国のオープンカフェでは昼間からビールを飲み、そうでなければ、コークでゲップする。暑いときには熱い物を、という迷信があるのかどうか、ホットのグリークコーヒーをすする老人もいる。外国の港町ではテラスに腰掛ける老人もまた似合う。そう言えば、夕べのアテネのタベルナで話していた店員が、
ペロポンネソスに行くなら絶対パトラに行くといい、と推薦していたっけ。影になってもモスグリーンの鮮やかな海は、日の光を浴びるとエメラルドグリーンに輝く。この町の開放感に僕の気分もすっきり良くなった。

パトラを過ぎるとバスは内陸部を進み、やがて山間部へと風景を変える。トラクターがほっぽり出され、バスのクラクションにも無反応な人達が、ゆっくりゆっくり砂地の道を横断する。危険を知らせるよりも、苛立ちの感情をそのまま現したように激しくがなり立てられるクラクションで首都のアテネは騒々しかったが、この村は違う。歩いているんだから、車は通れないよ、少し待ってな。そんな風にも見える村人の生活が、なぜか僕は素敵に思えた。まだ陽射しが高いので、働くのには適していないのか、男達が小屋の中でチェスをやっている。タバコを吸っている。大声で笑っている。そしてみんな決まって、バスに向かって軽く右手を挙げ挨拶をしてくる。使う時間もないように日々働き詰めで、何のためにお金を稼ぐのか。その残したお金の上手な使い方など知らないのではないか、とあざ笑うかのような、彼の生活に見える。ただ、そう見えるだけなのかも知れない。
バスの乗客は、そんな小さな村で次々降りていく。二、三人づつ大きな荷物を抱えて降りていく。僕の目的地はオリンピアだ。このバスの終着点がきっとその町なのだろうと思い、窓の外からぼんやり見ていた。それにしても、ガタガタ道が続いて疲れる。

いくつか村々を転々とし、大きめの町でバスが止まった。みんな降りていくので、やっとついたかと、僕も小さなバックを背負いバスを降りた。僕はいつも、新しい行動なり、行動と行動の曲がり角では必ず一番詳しいそうな人に確かめる癖がついている。バスの運転手に「ここがオリンピアでいいんだよね?」と訪ねると、英語は解さないが、オリンピアという言葉にえらく反応を示し首を大袈裟に振っては、両手で「ここで待ってろ」とジェスチャーをする。その後に自分の腕時計上で長針から指を滑らせ「6」でストップさせると、また両手で待ってろとジェスチャーをする。その時丁度午後二時だったので、あと三十分ここで待ってろと言っているらしい。つまりこのバスはオリンピアまで行かず、ここで乗り換え。三十分後にオリンピア行きのバスが出るのだと理解した。が、どのバスがオリンピアに行くのか分からない。運転手は満足げにもう僕から歩き去った後で、こうなったら誰か英語の話せる人を捜さないと思い、辺りをウロウロする。焦っていたので、辺りをチョロチョロする、という表現がぴったりくるかも知れない。ギリシャでは本当に英語が通じる。それは紛れもない事実だが、それも大都市と観光地に限られる。田舎町に来ると、その数は歴然と減る。そもそも途中どこかの町で乗り換えがあるなんて思ってもいなかった僕は、焦りが増す。とにかくここがなんという町なのか位は知りたい。丁度学校が終わる時間帯なのだろう、高校生くらいの若者が何人家のグループを作ってバスを待っている。そう確かにバスが並んでいる。という事は時刻表くらいはあるだろうと、こうなったら自力で探す。探して、探して。やっと見つけた。と思うと数字まで読めないギリシャ語だ。チョロチョロする僕を、みんなジロジロみる。日本人が珍しいのだろうか、僕がその光景の中では完全に浮いてしまっていて、ジロジロ視線を送る対象になっているのか分からないが、とにかく周りの視線を感じる。こうなったら最終手段だ、オリンピアという名前を連呼する。近くにいる人に、並んでいるバスを指さし「オリンピア?オリンピア?」と聞き回る。そうしている間にも一台、二台とバスは発車していく。僕が相当に焦っていたのだろう、訪ねられた人も一様に「あれかな?いや、これかな?」と一緒に考えてくれる。というより、この町からオリンピアに行く人はいるのか?本当に?と疑うほどに誰に知らない。少し離れた所から男性が「あれだよ!」と声をあげる。それも発車寸前、いやもう発車しているバスを指さしながら。僕は慌てて、そのバスの前に立ちはだかり、「僕は死にません!」という勢いで、「オリンピア?」と運転手に大声で聞く。運転手は「違う、違う、どけ、そこ」と不快感を露わにしてバスをそのまま走らせた。そんな大騒ぎを起こしてからは、余計に視線を感じる。そして恐らくはその大半が、僕がオリンピアに行きたいことを知っているように思う。それ程に、大騒ぎだったのだ。

とにかく三十分まで待つかと、一息つくと、急に簡素なテーブルと椅子だけがあるチケットオフィスが目に入った。中に入って英語で「オリンピアに行きたいのですが」と訪ねる。通じた。完全に英語が通じる。女神が微笑んだ。おばさんだったが。彼女曰く、この町はピルゴスといい、オリンピア行きのバスは午後二時半に出る。あのバスよ、と指されたのは僕がアテネから乗って来たバスだった。そう言えば、バスの運転手がここで待ってろ、とジェスチャーしていたのは、そうゆう事だったのか。午後二時半にこのバスは出るから、それまでここで待っていればいいと。そうと分かると、少し気分も落ち着き、タバコを一本吸う。自分の時計を見ると、まだ二時十分。あれだけ走り回ったのに、十分間しか経っていなかった。アテネからここに来てひとまず降ろされるらしい。そんな事知らなかった。無知のせいで焦ってしまった。そして、その焦りようが自分で笑えた。

午後二時半になり、また同じバスに乗り込む。休憩中に車内清掃が行われたらしく、バスに置いていた水は捨てられてしまった。元の同じ席についた。ピルゴスの学校に通い、少し離れた村に住んでいるのか、バスの中は若者で溢れていた。声に張りがあり、演歌調の民族音楽をならしている運転手の、その鼻歌も聞こえてこない。時々、大きな笑いがいくつかのグループから溢れる。それにしても日本人がいない。バスがオリンピアに向かっていることは確かだ。乗り込む時にもう一度運転手に確かめた。すると優しい彼は車掌さんを呼び、「オリンピアで彼をオリンピアで降ろすように」と頼んでくれているようだ。車掌さんは僕に「オリンピア?」と聞くので「イェス」と元気いっぱい答えた。バスの席でも視線を感じる。これはきっと若者、それも高校生くらいの好奇心がそのままむき出しになっている視線なのだろうと思う。きっと、だからこんなにもジロジロ見られているように思うのだ。加えて田舎町の子供達だ。その好奇心は非常に強い物なのだろう。僕にも覚えがある。外国人を学校帰りに見かけるだけで、知らず知らずのうちにジロジロと視線を送っていた。それは決して憎い気持ちや、逆の愛する気持ちもない、ただ好奇心のベクトルがダイレクトに向いたそれだったように思う。きっと僕の後部座席から送られてくる視線もそれに違いない。気にならなくなるのにそれ程時間は要さなかった。バスは停車を繰り返す。家と呼べる建物は一、二軒しかない村に、一人か二人づつ降りていく。僕の隣には女性が座っており、すぐ後ろに座っている友達から何か言われては、怒ったような、笑ったような声で言い返している。残念ながら、「素敵な男性」という眼差しで僕を見ていることは皆無に思えた。田園風景が続き、甘く、すっぱい風の匂いがした。

バスは一時間近く走り、車掌が僕の頭をポンっと叩いて、次がオリンピアだと知らせてくれた。またバックを背負って降りる準備をする。アテネからここまでの通しチケットを持っていたので、それを車掌さんに見せ、バスの下に大きな荷物はあるかと聞かれたので、背負ってる小さなバックを見せて、「これだけだよ」と伝えた。バスが止まり、後ろのドアから跳ねるように降りると気分がパッと晴れ、ウキウキとした興奮がにじみ出てきた。そう、カバンも気分も軽かった。
オリンピア。その名前から、知名度から、僕の中で勝手にこの町の姿は想像され、間違いなくその想像を破ったのがこの町の実際の姿だった。とにかく田舎町だった。メインストリートが1本だけある。バスの乗客でオリンピアで降りたのは僕だけ。ツーリスト・インフォメーションを示すイクスクラメーション・マークの看板がバス停の近くにあり、その中に入ると膝に毛布の膝掛けをして、本を読んでるおばさんが一人いた。彼女にユースホステルを聞くとすぐコピー用紙を一枚取りだし、メインストリートが一本だけ太く通った地図に現在地とユースの場所にそれぞれ丸印をした。近い。百メートルも離れていないだろう。次の目的地スパルタ行きのバスと時刻もついでに教えてもらった。インフォメーションを出て西に二十メートルも歩けばユースホステルにつく。結局ここまでアテネから六時間かかった。風情たっぷりの小さなユースホステルは、一階は元々レストランだったのか、テーブルや椅子が並んでいるが、営業している感じではない。入り口の二階にあがる。老夫婦が経営しているらしく、僕がついたときは喧嘩の真っ最中。ヒステリックなおばあさんの声が廊下まで響いていた。それが止むまで少し「喧嘩宿り」をした。どうやら落ち着いたのか、声が聞こえなくなってきたので、扉を開ける。一泊八百円。そこで二泊する。毛布代として五十円が必要。その時は暖かかったが、夜になると分からない。一応借りておいた。部屋は全部で4つほどの小さな規模で、一つの部屋に二段ベットが3づつある。計二十四人収容のユースホステルだ。部屋には洗面台もついている。言っても仕方ないが、もちろん、汚い。トイレはそれに輪をかけて汚い。基準をどこに置くかでも変わってくるが、僕はアテネでホテルに泊まっていたので、それから比べてそう感じる。同じ部屋にはすでにニックとジョンというアメリカ人が二人いる。彼らもバックパッカーだった。今までどういう旅をしてきて、これからどうするのかを少し話した。ニックはテッサロニキから、そしてジョンはこれからミストラに行くらしい。ジョンは大陸横断バイクの旅の真っ最中で、そう言えばユースの前に大きなバイクが停まっていたが、あれは彼の物らしい。話していると。「シャワーが水よ、寒いわ。」とハイテンションな声をあげながらアメリカ人女性がやって来た。彼らは三人とも一泊しかオリンピアにいないので、これからさっさと古代オリンピアの遺跡へ向かった。僕は明日も一日、このないもないような田舎町にいる。急いで、夕方の遺跡を見に行く必要もないので、ベットに寝ころんで、少し眠った。風邪をひきそうな程寒い。夕方五時頃、食事へと町に出た。

日は傾き、夕暮れの少しひんやりした風が頬を撫でる。人通りは全くと言っていいほどなく、メインストリートに車が通るのも希だ。自由に横断をしては、右に左にずらりと並んだ店を見て回る。完全にシーズン・オフだ。店主は揃って暇の潰し方に四苦八苦している。と、思いきやそうでもないらしい。忙しいときにもうけるから、今はコーヒーでも飲んで、ここに座っているのさ。派手なTシャツを壁一面にディスプレイした店主の男性が笑った。シドニーオリンピックもまだ始まっていないのに、2004年アテネオリンピックと書かれたTシャツが目立つ。二十一世紀始めてのオリンピックは、またアテネから始まる。近代オリンピックが今から百年以上も前に始まり、都市を転々としてまた始まりの地に戻ってくる。オリンピック自体が完全な商業化となり、ビッグマネーを生む産物になった今、それにあやかろうと考えているギリシャ人は、それでもたくさんいるのではないだろうか。古代オリンピック発祥の町で、近代オリンピック初代開催国の、そして二十一世紀始めての開催都市の、そんないろんな「始まり」を持ったここで買うTシャツは、こじつければ価値が段々増す。一つ買おうかと物色していた。僕自身、オリンピックが大好きだ。白黒はっきりしたスポーツの、それも世界が舞台のイベントは、やってくる度に夜中の中継を次の日の事も忘れて見入ってしまう。そして愛国心って意味さえ分からないが、お家芸の柔道で金メダルが続くと、なんだか誇らしくなり、同時に表彰台のてっぺんで君が代を口ずさむ選手に憧れる。都合の良いことに、その瞬間だけ入れ替わりたいと。水泳競技の中継を見た翌日には、近くの市民プールへ行き、マット・ビオンディのようになりきってクロールで泳いだり。嘘のようで、本当にしていた。画面に映るトップ・アスリート達を、ただただ拍手を送る対象にし出したのはいつ頃だろうか。それはもう目標でも、追いつきたい、ああなりたいという夢の対象ではなく。そうだな、大学に入る少し前だろうか。そのうち、彼らをエンターテイナーのような対象にしてしまうのだろうか。夏目漱石の言葉を借りれば「卒業証書をもらう度に、先が狭まっていく」感じがする。その証書で得たモノよりも、それは明らかに狭まり失った物の方が多いように思う。

シルバー製品を作っている工房兼売場の店に立ち寄り、客の相手そっちのけで、次々にシルバーのリングを仕上げている男性も、きっとピークが来れば、今作り貯めした物を売るのだ、と見込んでいるのかもしれない。薄れがちだが、ここはかつての古代ポリス。遺跡からでる様々な文化遺産のレプリカもある。それらを集めたアンティークショップもある。レプリカでもアンティークになると結構な値段を付ける。皮肉なもので、豪華な神殿跡よりも何もない原っぱ同然のオリンピック競技場跡の方が、このオリンピアの遺跡を象徴しているのか、店先にあるポストカードのラックには競技場跡の写真ばかりが並んでいた。つまりは、何が存在したかと言うよりも、そこで何が行われていたかと言うことの方が重視されている気がして、これから未来、今の時代を振り返ったときどこの、どんな物が未来人からみて重要文化財になるのかと、暗くなりはじめたメインストリートの歩道を歩きながら考えていた。

暗くなると、まるで田舎町の盆祭りのような、一見チープな電飾が灯る。通りを横断するように電線がつるされ、間隔を置いて電球がつるされている。それがうっすらと灯る。電線が中央で大きく凹み茶碗型をした電飾は、この町の、この雰囲気にぴったり来ていて、なんだかとっても暖かかった。そうだ、人々がとっても暖かい。友達のように挨拶をしてくる。英語も通じる。そして、狭い町なので、少しブラブラするだけで同じと事を何度も通る。そうすると、必ず話しかけてくる。ちょっと前に軽く会話をしたなら、その会話の内容をそのまま引き継ぐように、また自然な会話へと流れ出す。ここに住んでいるのではないかと言うほどに、知り合いと感じる人が増える。決まって、さっき日本人がいたが、会ったか?話したか?と聞いてくる。それもほとんど全員が。この町にいる日本人は皆兄弟だと思っているのだろうか?

夕食は軽めに済ませた。ギリシャ名物のスブラキ。いわゆる串焼きだ。大きめも串に、大きめの肉を刺し、炭火で焼く。安く上手く、満腹になれる。ビールを飲んだら急に疲れがどっと出た。ユースホステルに戻ると、おばあさんが僕のベットに毛布をセットし、すぐにでも寝られる状態にしてくれていた。今日一日晴れてはいたが、シャワーは水しかでなかった。曇っているとシャワーも浴びないのだが、晴れていたので大丈夫だろうと安心しきって浴びたシャワーの冷たさで、風邪を引いたのではないだろうか。バスルームから部屋に戻る途中でおばあさんに会い、僕が一度大きくブルッと震えてから「おやすみ」と言うと、しばらくして、毛布をもう二枚持ってきてくれ、その時にはすでにベットに潜り込んでいた僕の上に重ねて掛けてくれた。ありがたい。湿気を含み、ジメジメした匂いがして、ダニが大量にいるのか、胸も太股も痒いが、とっても暖かい毛布がさらに二枚、僕の上に加えられた。初対面でいきなりヒステリックな声をお見舞いされたこのユースのおばあさんは、とても良い人で、笑顔が耐えなかった。入り口に宿泊者リストが置いてあり、泊まった人が母国語で名前とメッセージを書いていた。日本語もたくさんあった。ここに記してある数だけ、このおばあさんの優しさに触れたのかと思うと、その皺一つ一つに深く、重く、時間の流れと濃厚さを感じた。

翌日は、同室のアメリカ人二人が旅立つ日なので、早朝から騒がしかった。ニックはこのまま昼過ぎの列車でアテネを経由してトルコへ向かい、ジョンはなんと大陸を横断して中国まで行くと言う。もちろんずっとバイクではなく、船も列車も可能な限り使うそうだが、彼が遙か極東に辿りついたとき、どんな言葉を思い浮かべ、どんな風にアジアを感じるのか興味があった。アジアから欧米をみる「見上げる感覚」とその逆。オリエンタリズムに彩られたイメージをそのまま具現化するかも知れないし、それ以上の驚きや感動に感情が動くかも知れない。僕自身、欧米を「見上げていたか?」と聞かれれば、素直に「YES」なのかも知れないが、実際に触れたその社会は、同じに目線に、同じ毎日が流れる世界だった。そう、大袈裟に言えば、「地球」という大枠で括られた同類だったのだ。彼を待っている毎日に、僕も勝手に想像上同乗して、色々と考え巡らせた。
歩いて十分程の西の端に古代オリンピアの遺跡が広がっている。入場料を払おうとすると「フリーだ」と嬉しいことを言われる。なぜかは分からない。フリーの日だったのか、時間帯なのか、曜日なのか。謎のままだが、幸運であることには違いがない。中へ入る。泊まりがけでこの町に来て、この遺跡を見る人は少なく、午後に入ってから観光バスがどっと押し寄せ、中から何人もの観光客がガヤガヤと入り、さっと全体を流して次の町へと移動していく。そうゆう事から早朝とも言える午前九時の遺跡内は静かで、人影がなく、涼しく乾いた朝に程良く陽射しが降り、虫達が鳴くと言うより軽やかに歌っているように耳に馴染む。そんな光景に包まれる。木々の緑が深い。空気は白っぽく、口に入ってくる感覚を何となく感じる。とても静か。歩く度にジャラジャラ音を立てる石と砂。何千年も前に、この地で生活をし、泣き笑いを繰り返した人達の姿を重ねてみると、単に「残っている」だけとは思えない活き活きとした町の風景が蘇る。柱だけだったり、残っていたとしても一二段の外壁であったり。そんな空き地のような空間に、過去の栄えた町を想像する。いつの間にか、想像上の世界に自分も周りの人と同じ格好をして歩いている。宮殿跡の前に立つと不思議と緊張する。遺跡内は正装するおじさんが何人か歩いているだけ。「カリメーラ」。声を掛けると、右手でかしゃかしゃと回している数珠のようなモノを一旦停止させ、カリメーラと返してくれる。おはよう。気持ちよくそう話しかけることの出来る朝だった。草が生い茂る。ライトアップ用のライト装置などなく、ここに残ったままの姿をただ保存する目的で、風化の妨げをしていない。アテネで見上げたあのパルテノン神殿が一気に陳腐に感じた。ベンチのような格好をして、大きめの石が一つ枠からはみ出して転がっていた。そこに座って日記を書く。膝に止まった虫が僕にみられているのを気付くと飛び去っていった。しばらく太陽を浴びながら日記を書いては、前を見て、見上げて、後ろに反って、そのまま大きく伸びをして。心地よい眠りに突入できる体制は整っていた。ひんやりと湿っている芝生の水滴が乾けば、あそこに寝ころんで昼寝でもしよう、と起きたての僕はそんな事を企んでいた。後ろから肩を叩かれた。書くことに寝注していたので、呼んだけど返事をしなかったらしい。ニックが列車待ちの時間、またこの遺跡に来て、一人でビデオカメラを撮っていた。撮りながらブツブツと何かしゃべっている。聞くと、アメリカの両親に当てたビデオレターだという。今感じたことや映像に映らない匂いや風や雰囲気を言葉で足しているのだろう。それにしてもでかいビデオカメラだった。彼はまた別の所へ移りビデオ撮影を始めた。僕も日記を切り上げ、この遺跡の中で最も行きたかった競技場跡へと向かう。昨夜少しだけ雨が降ったのか?陽射しをシャットアウトする日陰にはまだぬかるみが残っている。そんあ日陰の場所にアーチがある。石を積み上げてアーチを作り、そのアーチ状のトンネルを抜ければ競技場跡にでる。かつて古代オリンピックが行われていたオリンピック競技場跡。ポリス内から運動自慢の猛者達が集まり、力の限りを競い合った神聖なる場所だ。大きさ的には中学校の運動場ほどで、正方形に切り取られた砂地のグランドを加工用になだらかな芝生が堤防の用に囲っている。観客席だろう。今でもいくつかの野球場は、外野に芝生席を持っているが、丁度それと同じ様ななだらかな傾斜を持ち、詰めて座れば何万人という単位で収容できた思う。メインとバックのスタンド(観客席に)には、ロープで仕切られた祭壇がある。古代オリンピックは祭典であり、この祭典の為に家畜が捧げられた。この両サイドにある祭壇に捧げられた肉や酒を飲み食いし、競い合う猛者達に声援を送っていたのかも知れない。活気溢れる過去の祭典を思い浮かべ、何万人という観衆の声援を受けたアスリート気分でブロックを並べて作ったスタートラインから、同じように石を並べて作ったゴールラインまで走った。本気で走った。ゴールする頃には歩いているよりも少し早いくらいのスピードになっていたが、それでも両手をあげてゴールラインを切った。無呼吸運動をスタートラインからゴールまで持続することができなくなっている。そしてゴールをした後、膝が笑っている。振り返って入り口のアーチをみると、ニックが今度はビデオカメラから普通のカメラに持ち替えてこちらを撮っている。恥ずかしかった。一人で走って、バテバテのゴールで両手を高々とあげていた自分の姿を見られたのかと思うと。そしてさらにこれだけの距離を走っただけなのに、地面に座り込んで、笑った膝に困らされ、なかなか立ち上がれない状態をみられていることが。照れ隠しに精一杯強がって笑顔で手を挙げてみる。彼はファイダー越しに軽く手を挙げ返す。それにしても彼はビデオカメラもさることながら、普通のカメラでさえ大きかった。バックパックの中に偲ばせている彼の記録用機器は、いったいどれくらいあるのだろうか。座り込んだままグルリと一周見渡してみる。アーチを潜り、最初みたときには単なる河川敷グランドのようにしか思えなかったこのグランドが、息を切らしながら駆け抜け、周りの芝生に何万人という観客を想像しただけで、一気に広く、そして美しくこの空間を感じられるようになった。単なる河川敷ではない、かつてここが競技場であったという思いが頭の中で広がる。僕はいつの間にか英雄気取りに歩き出していた。全速力で最後まで走れなかった自分の不甲斐なさなどもう忘れ去っているのだ。空想の世界では、僕は英雄になっていた。この古代オリンピック競技場を再現したのが、アテネにあるオリンピック競技場だと言われている。近代オリンピックはそこから始まった。あっという間に一周できてしまう競技場跡を何周かしてから、入り口のアーチの横で腰掛ける。段々陽射しもきつくなり、人の数も増えてきた。ニックはもういない。ヘラ神殿跡の前には団体客がガイドの説明を聞いている。あと何ヶ月かしたら、この神殿の前で聖火が採火され、それを二十世紀最後のオリンピックが開かれるシドニーまでリレーされるのだ。そんな説明を受けて、大袈裟に頷いているのかもしれない。なんだか、遠い遠いどこか別世界から、日だまりの遺跡の前の外国人観光客をぼんやり眺めていた。喉も腹も乾かず減らず、欲望と言えば眠りたいというだけの心地よい時間だった。最後にもう一度ゆっくり一周して写真を撮ろうかとカメラを出すと、電池切れを示すランプが点滅するでもなく点灯している。無くなりかけているのはなく、すでになくなってしまっていた。スタートボタンを押してもレンズが出てこない。これは買うしかない。このバッテリーは半年前にニューヨークで買ったものだ。タイムズスクエアのカメラ屋に入り、ぼったくりに注意を十分にしていたが、優しいそうな顔と、丁寧な応対についつい自分のカメラを手渡してしまい、勝手に電池の交換をされた。電池をカメラに入れてから、それが入っていた箱を裏返し僕に見せる。三十二ドル。完全にぼったくられている。高くても十ドルが良いところだ。必死にその時はそんなにキャッシュがないからもう買わない、カメラを返してと言ったが、後ろから三人の店員がやって来て四面楚歌。入り口も知らない間にしまっている。どうすることも出来ず、払った。最後にそのぼったくり店員は「このバッテリーはスペシャルだから、十年は持つよ」と言っていた。あれから半年、一番大切な時に、カメラの電池が、そうだ、たった半年で切れた。この遺跡はいったん退場しても再入場できるのだろうか。一度目が無料だったのでまだ救われたが。

それからメインストリートに戻ってカメラの電池を買い、もう一度遺跡の中に入る。また無料だった。と言うよりは、チケットオフィスに十人ほどが群になっており、その横を何食わぬ顔で通り抜けてしまった。この遺跡を保存するために働いているスタッフやその諸費用を考えると入場料は払うべきだが、僕の旅は先が長い。払わなくて良いのなら払わないに越したことはないのである。いつの日か僕がおお金持ちになったら、寄付します。

また、ぐるりと一周カメラを構えながら、立ち止まり、時には少ししゃがんで写真を撮った。一番時間を費やしたのは、何もない、ただの河川敷グランドのような競技場跡だった。何もない風景は派手なポイントがない分、ファインダー越しに少しずらすだけで、違う顔を見せる。しっくりきたポイントは石を並べたスタートラインに立ち、その目線の高さからゴールを見据えた風景。目指すべき位置があることへの一種の安心感のようなモノを感じた。

遺跡を出て、メインストリートとは逆のスロープを登る。黄色い花が咲き乱れていた。遺跡から少し離れると農家がポツン、ポツンと立っており、霞んで見える山々をバックに日光を浴び濃く色づいた緑と、黄色い草花。半袖のシャツで丁度の心地よい風が吹く。崩れかけたまま保存している古代の街並みと、現在の田舎町。この地に人々が溢れ、栄えていた時代を思い、今はもう草木の生い茂る田舎町になっている風景を見ても松尾芭蕉のように「栄枯盛衰」を感じると言うよりはむしろ、風に触れながら笑顔一杯で咲き誇る黄色い草花に「栄」と「盛」を感じていた。それは何も人工的にではなく、普遍的に。遺跡から長い並木道を歩けば博物館がある。資本にモノを言わせて遙か遠い欧米の大博物館に本物は飾られているが、この目の前の博物館にも、オリンピアの遺跡から出た彫刻などを展示している。僕は、大部分の時間を復元されたオリンピアというポリスの街並みの模型の前で過ごした。実際に自分の目で見た「跡」から想像していた街並みよりも、整然とした、実感できるほどの整理された街並みがそこにはあった。想像の世界で僕は、あり得ない程の理想空間を創り上げていたので、その模型の前で細かくチェックした後、少し笑えた。

この町に到着した初日は日本人に会うことはなかったが、二日目の今日、次々に出会った。まずはこの博物館で、日帰りのオリンピア見学に来た男女二人組。夕方の列車でアテネに戻るという。昼食をご一緒することにした。メインストリートの一本北側に、店が二、三軒ある細い通りがある。その中の一軒でスブラキとムサカという二大ギリシャ料理を頬張った。ムサカよりもスブラキの方が美味しいのは、それが単に大きめの串焼きであるが故、食べ慣れていたと言うことも大きい。ビールが喉を通ると心地よかった。道路に大きくはみ出した簡易テーブルだったので、車が通る度にその風に悩まされた。人なつっこい店主は英語で僕たちにしきりと話しかける。僕たちもその会話を大切にした。聞かれたら答え、こちらから新たな質問をする。子供は都会にいて、シーズンオフの今は気楽に働いている。もう少しすれば観光客で溢れるぞ、と簡素な通りを挟んで少し先に見えるアマリアホテルを指さした。その店主は何度言っても僕たち三人が一緒に来たと思いこんでいるらしく、この町でたまたま会った関係だと言っても、頷くだけで理解していなかった。日本人が三人、同じテーブルで昼食をとっているのだ、誰がどうみてもそう思うだろう。日本人なら、関西弁の僕と、関東弁の二人をみて違和感を感じるかも知れないが、ギリシャ人に分かるはずがなかった。
彼らを駅まで送る。駅の敷地内に入るとむき出しになった線路が一本、控えめなホームには形ばかりの屋根がついていた。チケット売場は開かずの扉で、彼たちはキップを持っていたが、もしここで買うつもりならどこで購入するのか分からなかった。駅はメインストリートから十五分ほど歩く。周りには民家らしき建物が並び、学校が終わったのか子供の姿が目立った。春休みと言うべきイースターはまだなのだろう。列車を待っているとニックがやって来た。彼にとって僕は無口に映ったのか、元気よく日本語を話し笑ってる僕に「楽しそうだね」と笑いかけてきた。英語を話す場では無口になる、のだろうか?それともただ大笑いしている僕に向かって何気に発した言葉なのだろうか。ニックとその二人の日本人を見送る。列車は単線の線路をやって来て、この駅で行き止まる。先頭車両が最後尾の車両と変わり、やって来た方向にまた、進んでいった。大きな音を立てて出発したその列車でその三人はアテネに向かった。しばらく響いた轟音が遙か向こうまで進むと、急に押さえつけるような静寂が町中を包んだ。

駅から一度ユースホステルに戻る。昨日の今頃、ちょうどこの町に着いていた。階段を上り僕の部屋に行くと、なんと昨日までニックがいた二段ベットにも開いていた残りのベットにも全て、二人づつ日本人が寝転がっていた。聞くとピルゴスからみんな同じバスでこの町にさっき着いたという。そしてユースホステルに来ると、おばさんに案内されるままにこの部屋に入ってきたという。入ってくると日本人だらけだったというわけだ。何も一カ所に集めなくてもいいのに。挨拶程度の会話をしていると、また日本人が一人やってきた。みんなで夕食に出かける。僕以外は全てもう一泊この町に滞在するので、遺跡は明日ゆっくりみるという。夕方から夜にかけて、のんびり夕食でもしようと言うことになった。といっても、限られた数しか店はない。選ぶほどの種類と違いもない。開いている一番最初目についた店に入った。そして乾杯し、スブラキを食べた。全員一人旅だった。トルコから、イタリアから、日本からアテネに来て、そのままここへ来た者までそれぞれだったが、一様にこんなに日本人に会うとは思わなかったらしい。日本を二日前に発ったばかりの人が、今日本で「ダンゴ三兄弟」という歌が「およげ!たいやきくん」をしのぐ勢いでヒットしている事や、宇多田ヒカルという、デビューシングルが大ヒットした歌手の二枚目のシングルもまた売れまくっていることを教えてくれた。僕は日本を出てまだ三週間ほどしか経っていなかったが、その間にダンゴ?なんていう歌がヒットしているのかと、想像にも及ばないその歌のメロディーが、「およげ!たいやきくん」のように粘っこく頭の中を流れた。次の日、僕はスパルタに向け早朝のバスで発つため、早めに切り上げてユースホステルに戻り、水シャワーはあきらめ毛布被って眠った。夜は冷える。

白い朝の町に出て、深呼吸すると妙に懐かしい香りがした。山に囲まれ、澄んだ空気が淀んだ朝は霧が出て少しぼやけていた。心地よかった。寝不足でもないし、昨日のビールなど少しも残っていなかった。オリンピアからトリポリと言う町を経由してスパルタへ行く。八時四五分出発のバスは一時間遅れでやって来て、一瞬停車するとすぐに出発した。時刻表の意味はあるのだろうか?気まぐれでやってくるバスに偶然乗れた幸運者のような気がした。幸運者?とんでもないか、僕はきっちり時刻表通りにバス停に来て、まだ通り沿いの店がしまっている中一時間バスを待っていたのだ。乗り込んだバスは空いていた。窓際に座り、澄んだ景色を眺める。遙か遠くに見えた山は以外に近く、バスが三十分も走ると、その山の中へと入って行く。バス、観光バスほどの大きな車が荷車でもスロースピードで走らないと落っこちそうな、細く狭い、本当に頼りない橋を渡り、渡ると今度は細く、クネクネ曲がった山道を走って行く。道の横は崖。反対側は山の斜面。幸運なのか?崖側に座っていたので、眼下に広がる小さな村や、山の木々を眺める。「緑を見ると視力が良くなる」という噂を思い出し、最近低下の一途を辿っている視力を気にして食い入る様に緑を眺めた。そして食い尽くしてしまわないほど豊富な緑がそこにはあった。雲は太陽で光り、端になるにつれ金色になっていく。山の坂道を昇り、やがて下り一つの山を越える。オリンポスの神々は、もしかすると伝説ではないのではないかと思うほどに神秘的な風景だった。高低差を一気に登り、降りするので耳がおかしくなる。山の中に点在する村々に朝刊を届ける役目もこのバスにはあり、それぞれのポイントで運転手は新聞の束を窓から放り投げる。それを新聞配達の人か、たまたま居合わせた村人か分からないが、拾って配る。毎朝繰り返し行われる行動なのだろう、すごくスムーズだったが、僕にとっては興味を引く光景だった。雨で崩れたのだろう、大きな石の固まりと、それ相応の土砂が道路をふさぎ、車は更に崖よりに迂回する。窓からは道が見えず、窓越しに広がる風景に地面がない。下に地面がないというのは、それが仮にこのような状態であっても不安になる。残念ながら完全信頼できる程安全運転をする運転手でもなかった。途中何度かすれ違った対向車に対して、強気な姿勢を崩さずほぼ直進のまますれ違う。その分対向車が大きく道路からはみ出して避ける。対向車がバスの場合、もうすれすれを通ってすれ違う。お互いのバスの運転席がすれ違うとき、三分ほどの会話をする。完全に道を塞いでいる状況で。さらに一時間遅れのスケジュールに構うことなく。時間に追われない。その意味が分かったような気がする。日本の生活の中では時間に追われ、時には時間を追う。時間がほとんどの基準だ。期限が来たから完成したレポート。作業の結果は時間の長短でその基準が決められ、これだけの短時間でこれだけの成果をあげれば良しとする、という暗黙の了解があるように思う。そうだからこそ、無期限に与えられた時間の中で、最高の成果をあげろと言われると、どこまでやればいいか分からなくて、一歩も足が出なくなる。それは、僕だけだろうか?とにかく、バスが遅れてるから、すれ違った対向車のバスが知り合いの運転手でもあっても、会話をせずそのまま先を急ぐ、などと言うことは頭の隅にもない発想なのかも知れない。慣れるまでは、それに苛立ったりもするのだが。そして、この運転手の平均速度が、僕の安全運転に対する信頼を勝ち得ない理由の大きな一つだ。山道で、狭く、クネクネしている。そんな道をかなりのスピードで走る。何度も何度も、もしかすれば、毎日のように通っている道だから「慣れ」から来る技かも知れないが、乗客である僕に不安を抱かせるには十分なほど、「荒い」運転に映った。あまり関係ないが、朝から大声で鼻歌を歌いながら運転している。大丈夫なのだろうか。「自己は一瞬、怪我は一生」。そんなスローガンを思い出した。一生の怪我を通り抜ける危険さえある。膨らんだ不安は僕の胸を締め付け、安堵の中で次の一瞬を待つことが出来なかった。他の乗客を見渡すと大半が眠りに就いていた。妙に暢気な寝顔に見えた。

トリポリには不思議なことにほぼ予定通り着いた。大きなバスターミナルだった。バスが何台も止まり、待合室には自動販売機もある。ベンチが空港のゲートのようなスタイルで並んでいる。この街はペロポンネソス中央部の起点となっているのだろうか。ターミナルの建物を出ると、前にはタクシーが並んでいる。スパルタ行きのバスは、このターミナルからは出ていない。客街のタクシードライバーにスパルタ行きのバスがどこに行けば乗れるか聞いてみる。僕のバックを持ちタクシーに乗り込ませようとする優しそうな男性に「タクシーの必要はなく、ターミナルを教えて欲しい。」と言うと、そっぽ向かれるかと思いきや、なんと懇切丁寧に「この道を真っ直ぐ行って、左折すればすぐにあるよ」と教えてくれた。この街は都会だ。若者の多いことが妙に目に付く。言われたとおり三百メートル程歩き、左折する。さらに少し直進して左角に駄菓子を売り、カウンターでコーヒーも飲め、店の後ろ側にある小さな机ではバスのチケットを打っていた。スパルタまで一枚を買う。バスは三十分後に来るらしく、そこでコーヒーとスナック菓子を買い食べる。本日始めての食事だ。これを食事と呼ぶなら、ではあるが。グリーク・コーヒーは体に染み込むように濃い。スプーンで混ぜると、カップと擦れて重い音を立てる。日記を書いた。三十分と言われれば、だいたいその倍の時間でバスはやってくると、この頃になると考えており、案の定三十分遅れで勢いよく店に横付けされたバスを指さして店員が「スパルティ」と何度か繰り返した。フロントガラスの上に書かれた行き先はギリシャ文字で読めない。運転手にもう一度スパルタ行きかを聞くと大きく頷いてから僕の肩を二、三度叩いた。
乗り込んだバスは座席分丁度の客が乗っており、通路側に座り窓側を空けて座っている女性の横に座った。僕が乗り込む前に立ち上がって僕を通してくれる。オリンピアからトリポリまで三時間、さらにそこからスパルタ行きのバスで一時間走る。また山道だ。山をいくつか越える。お腹に何か入れてからの山道は少々きつかった。クネクネと坂道を登り、そして大きな円を描くように下る。全員そうなのか、昨日から乗り込むバスの運転手はみんな陽気だ。そして運転が荒い。クラクションを必要以上に鳴らす。車窓の風景はぼんやり眺めていても飽きない。下の平地に広がる小さな町。高度を下げるバスの中で耳がまた圧迫される。唾を飲み込むと、スパッと抜ける。眠りを誘うような心地良いものではなく、不規則にバスは揺れる。いくつか小さな村を通り過ぎて、少し大きめの町の中に入ると、そこがスパルタだった。いくつか山を越え、何個目かの山を登り、まだ降りきっていない中腹にその町はあった。かつてはアテネと並び強大な都市国家であったスパルタ。教育熱心で、スパルタ教育なんて言葉を生み出した町。そんな最も栄えた大都市だった古代から、それ程成長はしていないかのように、現在は田舎町という印象が濃い。バスターミナルは町の外れにあり、そこで帰り分のチケット購入してから中心部へと歩いていく。ターミナルを出て、中心に向かう道の真正面に、雪を被った鋭い山々が目の前に広がっていた。

ターミナルから民家沿いの道を行けばメインストリートのパレオログウ通りに出る。ホテルに関する情報は一切なく、ただユースホステルはこの町にないことだけは知っていた。片っ端からフロントの雰囲気を見ながら泊まる場所を探す。バッグが重い。シーズン外れなので看板が出ていても閉まっているホテルが目立つ。通りの広さから考えると決して車量は多くないが、それでも横断歩道以外の場所で渡るには少し気が引ける。何軒か周り、ここはダメだろうと少し躊躇した小綺麗なホテルが、僕の言い値で承諾してくれた。部屋は広く、シャワー付き。お湯も出る。出るには出るが、夜になるとそんな事夢だったかの様に冷たい水しか出なくなる、そんな経験は嫌と言うほどしている。鉄は熱い内に、シャワーもお湯の内に、叩き、浴びるの一番良い。疲れていたが、一番にシャワーを浴びた。気持ちよかった。なぜか、すごく気持ちよかった。さっぱりした気分が僕の気持ちを高揚させ、隣の部屋に聞こえるのではないかと思うほどの大声で鼻歌を歌っていた。口ずさんだ日本の歌がとても暢気だったので、無性に懐かしくなり、そう言えば今日本で流行ってる「ダンゴ三兄弟」ってどんな歌だろうと想像してみた。

さっぱりした体で外に出る。クラクションを必要以上にならしながら走る車が連なり、さっぱり気分が失せた。市中心部から離れた所に残っているスパルタ遺跡に行く。歩いて十五分ほどのその遺跡は田園と森の中で、ただひっそりと残っていた。道を間違えたのではないかと思うほどに、そこには何もなく、ただ緩やかな坂道の両側に広がる牧草地と、クネクネと曲がりながら伸びていく舗装された遊歩道。民家が何軒か立ち並び、そちらに行く道と、さらに上へと登っていく道の分かれ道で、羊の群に出くわした。道路を渡る羊をぼんやり立ち止まりながら待っていた。最後尾にいた羊飼いが「エフハリスト」とニッコリ笑った。ありがとう、そう言われて僕は「どういたしまして」というギリシャ語を知らないのに気づき、小声で「エフハリスト」と言い返した。まったくちんぷんかんぷんな返事にその羊飼いはまたニッコリ笑って通り過ぎた。もしかしたら、僕の声は小さく、彼には届いていないのかもしれない。ただその言葉を発したときの僕の表情が「どういたしまして」という言葉に相応していたので、会話はスムーズに成立した。表記すると、羊の群の為に足止めをくらって待っていた僕が、羊飼いに「(待ってくれて)ありがとう」と言われた返事に「ありがとう」と言ったので、まったく不可思議な会話になるのだが、その羊飼いもまさか僕がギリシャ語を話しているとは思わず、僕のギリシャ語の発音だって定かではないのも手伝っているが、彼にしてみればきっと日本語でどういたしまして、と言っているのだろうと感じたのかも知れない。言葉は重要不可欠だが、それを越える、人間と人間の間に流れる空気がもっと重要で、そこには言葉を越える感情表現がお互いを繋いでいるように思える。ちなみに、僕は「エスファリスト」と発音していた。これでは「ありがとう」を意味しないのだろうか。

民家が離れて木々が増えた。木漏れ日があちこちに日向を点在させる。影になった箇所は涼しくて良い気分だ。大きく旋回するように歩道が円を描き、その真ん中に古代スパルタの遺跡があった。狭く小さい。石がただゴロゴロしているだけで、どこが何の跡か見当もつかない。見当をつける必要はない。仮に、この崩れ駆けた石は宮殿の前にあった建物の跡です。と、そんな説明を受けると、その宮殿の前にあった建物しか想像することは出来ないが、こう単なる空き地に石が転がっていると、こんな森の中に古代スパルタというポリスはどんな建物を建て、どんな生活をしていたのかを自由勝手に、そして無限に考えられる。それにしても狭く小さい。きっと全体のほんの一部だけが発掘されているのだろう。ここから出てきた彫刻などの品々は市中心部にある博物館にある。ちょうど休館中だったので入れなかったが、そんな残念だとは思わなかった。僕の中ではこの場所にかつて存在していた様々なモノを想像し終えていたので、具現的に目の前に提示されても、恐らくは大きく食い違っており、残念に思うだろう。白壁の宮殿の前に銀色の鎧をまとった兵士が立っている。歴史的背景からして、それがおかしいのかどうかも、改めて調べる気はない。きっとそんな日々が古代にはあったと想像した。民主主義において全員で創り上げた都市国家アテネから遠く離れたこの地に、その規模と肩を並べた巨大都市国家が成立していた。完全なる厳格な教育と軍国政治。スパルタのイメージは、堅く厳しいモノだった。そんな雰囲気は、今では風と共に朽ち、周りには木の実が茂り、遺跡のすぐ横にはゴミ捨て場がある。家庭ゴミが大きめの幹を支えにしていくつか捨てられていた。少年達がモトクロスバイクを乗り回し、急な坂道になっている遺跡のすぐ横を走り回っていた。誰でも自由に出入り出来る。この町に生まれ育った子供達にとって、ここは単なる広場でしかないのだろう。遙か遠く離れた極東アジアの日本から、この地を訪れる者がいることなど、もしかしたら想像もしていないのかもしれない。もう少し坂を昇り見下ろすと古代の劇場跡の様な、ステージから扇形に広がる観客席に似た遺跡が広がっていた。この劇場跡はさすがに過去の栄光を少しだけ現在に伝えているような代物で、とはいえ崩れ駆けた雰囲気は否めない。その真ん中辺りの席に腰掛け、ぼんやりと全体を眺める。森の中にひっそりある。二、三人の観光客がいるが、一様にみんな無口だ。大きなカメラを持ち歩き回りながら写真を撮っている白人のシャッター音だけが響いている。さっきまでモトクロスバイクで走り回っていた少年達はもういない。虫の声がする。この遺跡には入場ゲートはないし、入場料もいらない。それらを支払って中に入り、遺跡を眺めたとき、一種の「さぁ、見るぞ」という気持ちが働きチャンネルが心の中で変わる。そして待ち受ける遺跡の中にも、「どうぞ見てください」というあれこれが用意されており、どこかきちんとした姿勢で鎮座しているようにさえ思えてしまう。見る方ももられる方もどこか構えて映ってしまう。しかし、そんな入場ゲートや「括り」が一切ないこの遺跡では、風景の中に溶け込んでおり、その時代背景をわざとらしく考えることなく、自然に風化した姿のままで見ることが出来る。ペットボトルが転がり、ビニールのゴミ袋が捨てられている。時間に比例して滅びている。そこに立った者が、それぞれにこの遺跡を写しだし、そしてそれぞれの頭の中でカラフルな過去の栄光が蘇る。訪れる者に何も語りかけてこないディスプレイされたような遺跡ではなく、横に座って一緒に風の音を聞いているかのような、自然な雰囲気を醸し出している。劇場の遺跡は高低差をかなり持っていた。ギリシャの遺跡はだいたいそうだが、階段の一段一段が高い。いや、僕の足が短いのか?海外に出るとそんな風に思うことがよくある。一番感じるのが、トイレの便座が高いことだ。普通に座ると下に足が届かないとまでは言わないが、日本のそれに比べて異常な高さを感じる。小さいときからこんな高い便座に座って毎日用を足せば、足は長くなるのかも知れない。僕は将来子供を持つことがあるとするなら、自宅の便座は高くしよう。そんな風に思っている。

その高い階段を一番下まで降りて、扇形に広がった客席を見上げる。陽が沈み駆けて、まぶしい。草は石の間から生え、長くなっている。一番下から全体をカメラに一枚だけ収めた。ファインダー越しに見た空の色がとても綺麗だった。またこの階段を一番上まで登るのにうんざりしたので、ステージ跡の横に伸びる細い道をそのまま市中心部に向けて歩いた。完全に農地。草が生い茂り、一歩一歩踏みしめる地面の感触が違う。家畜の鳴き声がする。険しい山々に囲まれたこの農地は田舎町となったここスパルタを最も現した光景のように思えた。スパルタ教育を受けた後なのか、小学生らしく集団が僕を追い越して歩き去った。戦士になる。かつての都市国家で子供達に望まれ施された教育は、良き戦士になり国家の為に尽くすこと。今の日本で考えれば何がその代替となるだろう。政治家か?国を守るという箇所でそうではないと思えてしまう。悲しいことだ。
どこをどう歩いたのか、そもそも地図なんて存在しない所まで歩いてきたので、気分次第で歩いた。余り人気が多いわけではないので、また、暢気な日本の歌を口ずさんだ。「赤トンボ」。日本の風景にどこかしら似ていた。

市街地に出た。そこには若者が集まるオープンカフェがあったり、大きなビルが立ち並んだりと、オリンピアに比べれば別格な程都会だった。かといって快適なモノ全てが揃っていると言うわけはない。大都会特有の人々の熱気があつ訳ではない。ロンドンでもニューヨークでも、歩いていると伝わってくる人気と言うのがある。それは暖かい気持ちだったり、恐怖に似た寒気だったり。白も黒も、熱いも冷たいも全部がごちゃ混ぜに存在する。このスパルタにはそれがない。ビローンと伸びきった中途半端な空気が漂う。それはあの完全に朽ちている遺跡のようにはっきりしたものではなく、都会でも田舎でもなく、都会の悪さの一番下、田舎の便利さの少し上といった所にこの街はあった。つまり、都会ほど危険ではない変わりに、そこにある尖って鋭く刺してくる空気もないし、田舎ほどののんびりさもない。街中歩いた。半日駆けてグルグル歩いた。広さから言って一日中くまなく歩けば丁度良い広さだ。銀行や博物館は休み。なのに学校はあるのか、小学生の姿は見た。バイク屋、喫茶店、ケーキ屋、服屋。ショウウィンドウに飾られたソニーのMDは一昔前の型だった。何もかもがふにゃふにゃしてて、僕の心や目や頭に残らない。ただ歩いていて、時間だけが過ぎる。何とも中途半端だった。スーパーに入って、原色に近い赤色のクリームを施したパンとスプライト買い、ホテルに戻った。ホテルに戻ると、妙に心地よい西日が窓から入り、スヤスヤと眠ってしまった。寝心地はすこぶる良かった。

スパルタは予定の二泊を止めて、一日で後にした。いいイメージを持てないまま去ることになる。バスターミナルに向かう道から振り返ると、またあの険しい山脈が朝陽を浴びて光っていた。スパルタから港町のナフプリオンという町を目指す。起点になる都市がトリポリなので、スパルタから一度トリポリに戻り、そこからナフプリオンまで乗り換えないと行けない。とりあえずトリポリまでのチケットを買う。何台かバスが並んでおり、その中で最も外観の良かったメルセデスが、トリポリ行きのバスだった。なぜか嬉しくなる。時刻表はあってもなくても一緒で、時刻通り出発したり到着することなどあり得ない。そんな風に思って、バスターミナルに隣接しているセルフサービスのカフェでクロワッサンとグリーク・コーヒーを飲む。出発時間が迫っていたが、ここまで来ると暢気なものだ。新しいタバコに火をつけた。と、四コマ漫画のオチのように、トリポリ行きのバスに運転手が乗り込みエンジンをかけた。吹き出しそうになって大慌てでバスに向かう。セルフサービスのカフェだったが、急いでいたのでカップを返却口に戻し忘れた。すいません。運転手は「日本人だろ?お前、時間守れよ」とでもいいたげな顔で僕を中に入れてくれた。年齢にして五十はとっくに過ぎているだろう。白髪が頭髪と髭に目立つ。席はガラガラ。また真ん中あたりの窓際に座って、外を眺める。トリポリに向け一時間、バスは走る。一度見た風景だが、二度目もやっぱり圧巻させられる。山道、崖、緑、険しい山。僕は車窓の風景が大好きだ。日本いても、それがたとえ高速道路を走っていても騒音防止の灰色の壁が所々でなくなり、景色が開けたときには、気持ちの扉が開いて深呼吸が出来る気がする。それにしてもメルセデスもえらい事になっていた。僕が座っていた席はリクライニングが壊れており、もたれるとそのまま後ろに倒れていってしまう。動き出したバスの中でチョロチョロと席を替われるほど、近くの席に空きはない。ガラガラといっても二人席に一人は少なくとも座っていた。仕方がないので窓側を止めて通路側に座る。車窓の風景も見れないので眠ることにする。目を閉じる。バスは進む。快適に進む。と、やけにスピードが早い。車が頻繁に走っているわけでもない高速道路で、このバスは次々に車を追い越す。と言うことはかなりのスピードだ。たまに追い抜かれると、それが許せないのか、必ず抜き返す。運転手の顔を思い浮かべる。安心感を持って乗っていられるベテランドライバーと呼ぶには少し歳を食い過ぎていたように思う。不安だ。飛ばしすぎだ。大丈夫だろうか。一度心配になると止まらなくなって、次々追い越していく車を見ながら、どうか、どうか、無事につきますようにと願った。トリポリには予定より十五分も早く着いた。飛ばした成果なのだろう。トリポリに着いてから、ナフプリオンまでのバスは待ち時間を挟まずすぐに出発した。同じようにバスに揺られる。車窓の風景にも見飽きて来た。足かけ何日連続でバスに乗っているのだろうか。険しい山々の風景にも慣れてきた。坂道を登り、そして下り山を越えていく。いくつか越える。また下ったと思ったら登り始めた。長い坂道ではバスが轟音をたてる。そして旋回しながら見下ろした町には茶色い屋根を持ち、白い壁の民家が立ち並び、その向こうにエーゲ海が見えた。太陽の光を浴び、コバルトブルーに輝いた海。海だ。海を見ると嬉しくなるのは盆地で海に面していない街、京都で生まれ育った僕のいつもの癖だ。知らない間に何時間か眠っていたので、海が広がる景色を見た時、それがナフプリオンだとは思わなかったが、それから一時間ほどして、バスは港町、ナフプリオンについた。バスを降りると潮風が吹き、少しざらついた感触が頬に残る。決して大きな街ではないが、細い石畳の裏道が複雑に入り組むヨーロッパ的な顔を持っている。ホテルはもう決めていた。オリンピアで会った日本人から教えてもらっていた安くて快適な所にチェックインする。部屋に荷物を置くとすぐに、その入り組んだ細い道を何度も曲がって海に出た。漁船がいくつも停泊している。昼下がりの穏やかな気候で、ユラユラ揺れる船は昼寝の真っ最中のようだった。カフェには白人や地元の人がコカ・コーラを飲んでいる。カラフルな店の看板が目に付く。そして以上に土産物屋が多い。それに比例するかのように旅行者の数も多い。オリンピア、スパルタとあまり見ることのなかった団体客を見て、どこかでホッとして、一方で残念に思った。この港町、それも旧市街と呼ばれる海沿いには、観光客が多かった。
海の色は遠くから綺麗だが、近づくと濁っており、釣り糸をさげてポータブルチェアーに腰掛けるおじさんもどこか疲れて映った。果物の匂いが漂い、粘っこい潮の香りと混ざり合う。少し出っ張った半島の西の端にアクロナフプリアというホテルがあり、その横に遊歩道があった。海沿いに作られた遊歩道。自転車に乗った人、犬を連れた人、観光客。雑多な人がそれぞれのスピードで小石の音を立てながら歩いている。海に面して歩く。少し先に小島が見える。遊歩道のすぐ下は海で、その壁に当たり返す波の音が絶え間なく聞こえる。綺麗な青色に輝く海。港で見た海の色と違って見えた。距離はそう離れていないが、ここからの海は綺麗だった。歩く。見上げる空が青い。半袖から出ている腕が熱を持ち、焼けているのが分かる。陽射しは確かにきつかった。汗も出る。すれ違う人達と挨拶を交わす。ただ笑顔で微笑みかけるだけでも挨拶が成立する。ずいぶん歩くと丁度裏手に来たのか、行き止まりのようになった。そのままくるりと振り返り、同じ道を帰っていく。静かで綺麗な遊歩道だった。

アクロナフプリアの横にパラミディの城跡がある。そこはかつて牢獄として使用され、脱獄を避けるために九九九段の階段を上った先にあると言われている。細く狭く曲がりくねった先の先に、その建物はある。アテネでは、リカビトスの丘を登りきったのだから、これくらい平気だろうとスタートさせたこの坂道は、かなり骨折った。まず階段の幅が狭すぎる。そして草が多すぎて真っ直ぐ歩けず、所々で腰をかがめないと進めない。十五分も登るとそこからは風が吹き付け飛ばされそうになりながら、狭い石段を登る。その途中で降りてくる人とすれ違うと、お互いが接するようにして通らないといけない。石段の途中で崖に牢屋のような空洞が幾つもある。ここに収められていたようだ。手すりなどもちろんない。崖に細い石段が着いており、その眼下には吸い込まれるほどの空間が存在する。大袈裟に言うのではない。怖いくらいにありのままなのだ。そして、茂みが深いので視界が広がらない。てっぺんがどこかさえ、曲がり角が多いので見当がつかない。途中で腰をおろして休むにも、それようのスペースがない。石段を登り、狭い踊り場を挟んで、百八十度回転して、また登っていく。汗が噴き出し、足はつかれる。そうなればなるほど、高さは増し、石段は狭くなる。二人同時に立つことは難しいほどの狭さだ。そして同時に上に行けば行くほど風が強くなる。休むためには壁に掘られた空洞に入るしかなく、しかし、間違いなく牢屋だったので、どことなく気味が悪い。登り切るしかない。スタートしてから途中であきらめることを得意にしている僕も、この状況下、もう引き返せない。となると、がんばるしかないので、汗が体中から吹き出しても、風に体が持って行かれそうになっても、とにかく一段づつ登る。遠かった。九九九段なんて、それは長いと言うことの比喩に過ぎないのかと思っていたが、ほんとにそれくらいの段数はあるように思う。ガイドブックのフレーズが気になった。「登り始めるのが閉館時間ぎりぎりなら、登りきったときに閉まってると言うことがあるので、早めに登りましょう」。僕が登り始めたのは午後二時少し前だったように思う。 夕方四時まで開いているので、そのてっぺん存在する白の中身は見学できるだろう。それにしても下ってくる人にはよく会うが、登る人の姿は見えない。一歩一歩登っていく。

もう体は自然に、何段か登り、踊り場で回転してまた登っていく。見えた。頂上が見えた。最後の階段へとさしかかり、そのちょうど真ん中くらいで視界が開けた。海が広がる。茶色の屋根と白壁とそして青い空と海。これだけ登ると鮮明にその風景が見下ろせる。この町に向かうバスの中から見た風景より近く、そして全体を見渡せるほどに遠い。ちょうど良い距離で独占できる。後ろからも上からも人は来ないので、しばらく呆然と見ていた。口はぽっかり開いていただろう。人間、圧倒されるほどの美しいものや、逆に醜いモノや、悲しいことや嬉しいことが目の前に現れると一番簡単な形容詞しか浮かんでこない様に思う。感嘆文。英語の時間にならったあの表現方法で言うと「綺麗」とか「怖い」などの単語がHOWの後には続いている。「綺麗なぁ」。頭の中それだけだった。一々理屈をこねて、何々だから綺麗んだ、なんて説明は野暮だろう。良いモノは良い。風が髪の毛をオールバックにさせる。それでも見入っている景色の中には、ネガティブな要素が全部吹っ飛んで、清々しくて幸せをいっぱいに感じていた。ただ、目の前の光景を目に写し、頭はカラッポになり、心では一番簡単な形容詞と大きな高揚を覚えていた。良かった。登って良かった。満腹感が体中を満たし、その後、午後四時に閉館とかかれたガイドブックとは違い、最終入場が二時四十五分で、着いたのが二時半。結局城には入れなかったが、そう残念には思えなかった。入場ゲートの前には心持ち広い場所があり、その端っこからファインダー越しに、そして、多くは呆然と眼下に広がる絶景を見ていた。船が白いラインを引きながら進む。太陽で照り返す光りがこんなに高地まで届く。確かに届く。ただ、存在しているだけで、多くを語りかけてくるような景色。うまく言えないが、ここには存在した。もちろん、そこに辿り着くまでの苦労があった分、余計に綺麗に見えるのだが。エーゲ海に浮かぶ島々の写真を思い浮かべた。青と白のコントラスト。サントリーニやミコノスといった有名な島々の持つコントラスト。この港町にはそのコントラストの間に茶色い屋根が入る。そして足下には、今登ってきたばかりの森の緑が迫ってくる。写真には映りきらない広がりを堪能し、汗も引いて少し強い風に寒さを覚えたので降りることにした。降りる。これがまた恐怖だった。狭い階段を、しかも急な。風が吹く。これだけ揃った九九九段の下りは、楽とはいえ、緊張感も手伝ってしんどかった。降りきった広場に屋台があったので、そこで水を買い、一気に飲み干した。飲みきったペットボトルを枕にして、そこに寝ころび、目を閉じても瞼を透き通ってオレンジ色の光りを感じる。風が心地よかった。

その後も入り組んだ小道をウロウロして、土産物屋を覗きながら歩いた。潮風に運ばれた砂が商品について、少しザラザラしたポストカードを何枚か買った。この町には予備知識や潜在意識がなかった分、ありのままの姿をそのまま受け入れられる。スパルタ、そう聞いて想像していた町の姿と実際の姿のギャップがあったのと比べれば、素直に受け入れられた。旧市街の入り組んだ小道と、そこを抜けだし海に面した開放感は、歩いているだけで楽しいと感じられる。僕はナフプリオンが好きになった。極めつけにこの町を気に入ったのは、夕食でテイクアウェイのケバブを買った。それが絶品だった。豚肉を吊し、回転させながら焼いた肉を薄く削ぎ、その上にオニオンと数種類の野菜を乗せ、上から塩とレモンを振りかける。僕が確認できたのはそれくらいだが、もっと深い味がした。美味だった。あっさり具合も料も。もうすっかり暗くなった公園を通り抜け、ホテルに戻ってそのケバブをビールのつまみに食べた。静かな港町の夜はひっそりしていた。

古代ギリシャ時代。栄光の時代は全て紀元前になる。壁画など多くを残しているギリシャ文化。それ以後に現れる都市国家。そして近隣諸国との戦争。アレクサンドロス大王によるオリエントとの融合。さらにはトルコ帝国による支配。これら全ての歴史は紀元前に起こっている。比べるまでもないが、その頃日本では、縄文紀から弥生文化の頃だ。現在のギリシャに古代の栄光の影は見えないかも知れない。ふと、ずっと前に火星には水と空気があったかも知れないという話を思い出した。繰り返し行われた戦争。現代の様に全環境を壊滅させるほどの兵器はなかったにしても、人々の心には、戦うことや殺し合うことへの無力感に似た感情が湧き、それを遺伝して来た子孫が、青い海と空を保つため、のんびりした国民性とシエスタを大切にしてきたのかも知れない。経済という基準からみて、現在のギリシャは消して進んでいない。欧州通過統合の際も最後まで加わるための基準をクリア出来ない程の水準だったことでも分かる。しかし、魅力をどの基準で感じるか。それは人それぞれで、少なくとも僕は、今のギリシャには、古代にあれだけの都市国家が成立していた事も含めて魅力を感じる。

昔は昔。今は今。今から昔への距離を濃厚に感じさせ、なおかつ現代を持つ合わせる街、ローマ。ヨーロッパにはそんな現代と古代を持ち合わせた街が多い。ロンドンもパリも。しかしローマの違う点はその歴史の深さと現代的な要素の持つ魅力だと思う。加えるなら、うるさいくらいのローマ人の人なつっこさも一味あるだろう。

中心にしたのは中央駅とも言えるテルミニ駅。空港からこの駅への直行電車があるし、他都市へのアクセスもこの駅となる。テルミニ駅周辺には安宿があつまり、観光箇所は少々離れるが、バスを使えばなんて言うことはない。そもそも僕の場合、ほとんどが歩いて回ったので、宿の立地に問題はなかった。そこで1週間強滞在し、貪るように毎日、毎日ローマを歩き回り、朝から晩までグルグルと回った。それだけの要素がこの街にあり得ると考えるよりむしろ、ロンドンなどに比べて、完全に観光客用とその他が別れているようにも思えた。うまく言えないが、ロンドンやニューヨークの場合、そこに1週間、いやもう少し長く1ヶ月という時期を過ごしても、エンターテイメントが溢れ、そして次々に興味をそそる現象が起こるのだが、ローマの場合、観光客は決まって「ここ」と指定されており、現地人は「そこ」となわばりがあるように思える。唯一、その二者が融合し、熱狂できるのはオリンピコサッカー競技場で、地元のローマやラッツィオを応援しているとき位だろうか。先に述べなければならない、僕はイタリア語を全くと言っていいほど話せない。英語でコミュニケーションのとれるロンドンやニューヨークと、ここローマの間にそんな違いを感じたのには、イタリア語が分からない僕個人の問題があるかもしれないが。朝、日が昇り、夜沈むまで、毎日歩いた。履いていたナイキのシューズの底が減るくらいに。大袈裟ではなく。そして、太股の筋肉痛は毎日感じていた。
テルミニ周辺にはこれと言って見るべき所はなく、これと言って美味しいレストランもない。宿から近いという理由で、ブランチには共和国広場に面して建つ古めかしいビルの、その一階にあるマクドナルドをよく利用していた。エスプレッソを飲む。それぞれの国で、メニューも変わるものだ。ピッツァにパスタ。まず浮かべるイタリア料理は、決まって現地人が並んでいる奥の細い道にある店を狙って探した。安くない。全然安くない。毎晩食べられるわけではなく、何日かに一回、それまでに目を付けておいたレストランに行き食べる。薄い生地のピッツァ。かまどの中で小さな膨らみが出来、全体に焦げ目が広がる。スコップのような平らな棒で取り出すと、トマトソースの赤がルッコラの緑とよく合う。赤と緑。相対する二つの色彩が、ジュウジュウと音を立てながら濃厚に香る。奮発する夜はワインも飲む。そうでないときは、スプマンテを注文する。食前酒らしいが、料理と一緒に飲むその味は、程良く甘く、爽やかに口の中で弾ける。可能である限りかまどの前のカウンター席で食べた。絵に描いたようにくるくる回しながら生地を薄く伸ばし、適当に見えるが、おそらく考えながらソースを敷く。その上にハムやチーズを乗せてかまどに入れる。どんどん入れる。かまどの中はオレンジ色で、整列したピッツァが順番に焼かれて行く。パリッとした食感と、ソースの控えめな味が口に広がり、また、次のピースに手が伸びる。美味しかった。単純にそう感じた。僕は日本で宅配ピザをよく取る。あれはあれでとても美味しく大好きだが、ピザとピッツァは基本的に違う料理だと考えている。もちろん、イタリアにもピザはある。ファーストフード感覚のテイクアウェイの店では、ショーケースに並べられた分厚いピザがピース毎に売られている。それはそれでまた、美味しいのだが。僕はイタリアに行く前に、日本のイタリアンのレベルは高く、少なくとも日本人にとっては、日本で食べた方が、ピザもパスタも美味しいと。それは完全な間違いであるとは言い難いほどに日本のイタリアン・レストランも味はいいが、あとひと味、どうしても加えることが出来ない雰囲気というのが加わっている分、やはりイタリアで、本場のリストランテで食べた方が美味だ。むろん、高級なレストランで食べた訳ではないので、その味の違いが分からなかったのかも知れないが。もう一つ言えることは、南に行けば行くほど美味しいと言われるイタリアンやフレンチ。パリよりも南仏の方が美味しいというし、きっとローマよりもナポリの方が美味しいのだろう。そこまで行くとその違いも非常に繊細で微妙なモノになるのだろうが。

僕はピッツァよりもパスタの方が好きだ。アルデンテ。歯ごたえのある、とでも訳すのだろうか。パスタのゆで具合が良く言われるが、聞くところによると気候風土の問題で、パスタの場合、断然本場イタリアで食べた方が美味しい。讃岐うどんをこよなく愛する僕にとって、歯ごたえは麺になくてはならない要素だ。ソースや具はあまり気にならない。ペペロンチーノベースがトマトソースよりも好きだが、僕が食べた中で一番だったのはトマトソースのバジリコスパゲッティだった。パスタ屋は毎日歩きながらよく探した。細い道をグルグルいったので、よく覚えていないが、コロッセオの近くに一軒見つけた。そこも地元ローマっ子が並んでおり、決まってカップルで、そしていつもキスしていた。パスタの事を考えていた僕は、もしかしたらぼんやりそんなカップルを凝視していたかも知れない。傍目から見たら、とても奇妙なものだろう。パンと水が先に置かれて、そのパンに手をつけ、パン代も取られるのだろうか?と自分の懐と相談しながらパスタを待つ。不思議なもので、パスタのメニューであれば、それが何を意味するか読めるようにもなっていた。スターターとして出すパスタの量は非常に少ない。一番安いメインと一緒に食べた。チキン料理を頼めばまず外れはない。これは僕が滞在中発見した法則だ。カッチャトーラしかりだ。

中華料理店は、やはりローマでも多い。大都市に行けば、必ずある。そして、それがいつも僕を救う。中華料理はどんな店でもほとんどの場合外れがない。

僕が訪れたのはちょうど中田英寿がセリエAに行った年で、ペルージャ帰りの日本人で溢れていた。それまでもブランド目当ての日本人は目の色を変えてローマを目指し、それに加えてサッカー観戦をイタリア中回って行う男性がやって来ているのだ。トレビの泉もスペイン階段も、僕も含めて日本人が多い。サッカー人気。日本ではよくそう言われる。スポーツの王様は野球である日本で、サッカーはまだ人気の根付いたスポーツではない。そのファッション性ばかりが目に付く。とはいえ、見た者にはそのスピード感と、単純なルールの中に存在する玄人好みの深さを感じさせ、虜にさせてしまう要素が確かにある。僕はその中の一人だ。世界中でもっとも愛されるスポーツは、ここローマでも例外ではなかった。異常な阪神ファンが西宮に終結しているのと同じように、ローマしないにあるバールではトトを賭け、青年も壮年も老年もビール片手に全員が解説者の様に選手を切って行く。少年達は贔屓のチームのマフラーを首に巻き、スターを夢見ながらボール蹴っている。毎週土曜、シーズン中であれば昼前から街中がソワソワしているように思えた。ポポロ広場を越えて、少し行ったところにトラムの駅があり、そこからオリンピコ競技場まで向かう。トラムは混み、ハイテンションに試合を予想している。僕は前もってサンタ・マッジョーレの近くにあるローマ・ポイントでチケットを買っていた。カードはASローマ対ACミラン。ローマにはサッカーチームが二つある。ローマとラッツィオ。その二つのカードは“ローマ・ダービー”と呼ばれ、チケットの入手は困難だ。ガンバ大阪対セレッソ大阪もチケット入手が困難なのだろうか?それは分からない。そんなローマダービーに次いでの人気カードがミランとの試合だと言う。トラム内の人達の熱気も理解できた。スタジアムは周りにトラックを持つ総合競技場なので、サッカー専用グランドに比べると見にくい。両サイドのゴールに別れたそれぞれのサポーターが真っ赤な煙を上げて、大きな旗を振って、一定のリズムで飛び跳ねて。心なしかスタジアムが揺れているようにも思える。ミラノとローマのそれぞれのサポーターの間は広く観客席が空席にされており、そこには何百人単位の警備員が完全武装で立っている。試合開始まではあと一時間近くもあるが、もうすでに始まっている。スタジアムの全てが動き始めている。そうして僕の気持ちも高ぶりホイッスルをまっている。映画館ではポップコーンを食べながら、野球観戦はビール片手にフランクフルトでも頬張りながら。それがお決まりのようになっている。しかし、サッカー観戦につまみは要らない。ゆっくりと流れるストーリーを追うわけでも、順番通り整列しながら進むイニングを追うわけでもない。サッカーは、とにかく早い。スピーディーだ。バスケットボールを観戦したときにも思ったことだが、とにかく、ディフェンスとオフェンスが表裏一体。コロコロ変わるカメレオンの目ん玉のようだ。そんな試合から目を離せない。登場した選手達がホイッスルでボールを蹴り始める。ゲーム。単なるゲーム。しかし、そのグランドの中には、様々モノが点在しており、ボールを追う選手、それを見る観客のそれぞれに、単なるゲームという意味を越えた、もっと大きなモノがうごめいている。その空間では、敵と味方しかなく、国籍や性別は特に関係を持たない。大きな括りの中で、この時の場合なら、ローマか、ミラノか。それだけだ。僕の隣の紳士はおとなしく試合を見るのかと思っていたが、大声を上げながら、残念がり、また時にはガッツポーズをとった。ローマの席にいたので、ローマを応援した。トッティなんていうスーパースターもこの時始めて知った。ローマを応援して見る。ローマが得点を入れると、心の深いところから沸き上がった溶岩が一気に噴火したように、顔を真っ赤にして喜んだ。真っ赤にしていた顔を自分で確認したわけではなかったが、隣の紳士の顔が真っ赤だったので、おそらく自分も同じだと判断した。後半も残り少なくなると、一気に観客が増え、前のフェンスギリギリに終結する。この試合のチケットを手に出来なかった人は、ダフ屋から格安で後半の何分間かだけ観戦するのだ。ダフ屋も残り時間が少なくなると一気に値を下げる。どっと押し寄せる「あと組」はのっけからトップスピードでピッチに食いつく。フェンス沿いに座っていた人は、良い迷惑だろうが、それを理性的に注意できる雰囲気ではない。理性より感情が支配する空間。警備員を導入して止めないと、そんな感情だけが飽和した空間で、「暴動」という方向へ向かった人々は手に負えないだろう。結果は一対0でローマが勝った。トッティのアシスト、セルジオのゴールだった。オリンピコ球技場の前の広い広場ではいつまでも大騒ぎが収まらず、トラムは一声に帰路に向かう人達で混み合った。サッカー。虜になってしまった。

オリンピコから歩いて市内へ戻る。一時間くらいかけてようやくポポロ広場まで来た。その広場から北上するとボルゲーゼ公園があり、そこにひっそりある神殿風の建物を見に行く。建物と水。この二つは切っても切れないほどの関わりがあるように思う。日本では寺院の前に池がある。金閣寺にも平等院鳳凰堂にも。しかもその池はわざわざ作ったと言うことも珍しくない。神殿や宮殿の場合、建物の前にあるのは噴水だ。この二つが混ざり合った、何とも奇妙でいて、とても美しい建物がその公園の中にある。小ぶりだが神殿と呼ぶにふさわしい建物の前に、噴水ではなく池がある。池に神殿が映る。何とも素敵な光景だった。華やかな噴水ではなく、「わび・さび」の池。日本人の血は、僕の中に濃厚に流れており、池を見るとホッとするのである。周りには木々が生い茂り、人々はそこで憩う。

歩き回ったローマで見たもの。それは映画やテレビで繰り返し見てきた有名なモノばかりだった。トレビの泉では、後ろ向きでコインを三回投げた。この時ちょうど、世界的に漢字ブーム、仮名文字だったのか、トレビの前にあるベネトンのショーウィンドウには平仮名を並べたデザインのTシャツが飾られていた。真っ赤なTシャツに黒い太筆書きの「一番」というデザインは人気があるようだった。真実の口には、順番に並んで手を突っ込んだ。スペイン階段では、白いリボンをつけた紙袋を決まってさげている日本人女性によくあった。近くにプラダの店があり、その店の紙袋だ。お土産を頼まれていたので、一度中に入って覗いたが、日本人だらけで、店員は日本語を話している。圧倒されてすぐ店を出た。かつては猛獣と奴隷の対決をしていたというコロッセオ。今では地下の猛獣を入れていた檻がむき出しになっているが、その上に地面があり、生と死の対決に、何万人という観客が酔いしれたという。約二千年も前にこの大規模なスタジアムが作られていたことに改めて驚いた。サンタンジェロ城の奥から沈むピンク色の夕日は言葉を失うほどに絶景だったし、ほのかなライトアップでぽっかり浮かんだフォロ・ロマーノも一見の価値があった。「エイシェント」、古代ローマ時代の残りは、「モダン」、現代に置いて観光スポットとしてフル活用されている。
何度も通ったのは、勝手にダイエット公園と僕が名付けたチルコ・マッシモ。その昔、戦車のレースが行われていたという競技場跡だ。広大な敷地の真ん中にぽつんと木が生えており、その周囲をトラックのような形で楕円が描かれている。その木の下で寝ころぶ。周りのトラックは一周何メートルあるのだろうか、結構な距離だ。そこをウォークマンを聴きながら、両手両足を大きく動かし、黙々と歩くおばさんが二人。訪れる度に人は違ったが、みんなただ黙々とそこを歩いていた。ダイエットが目的かどうか分からないが。木陰は小さいが、何もない所なので風が気持ちよい。そこに寝転がっていると、ローマという大都市の中にいることを忘れてしまう。競技場の周りは土手のように少し高くなっており、そこから緩やかな芝生のスロープがある。真ん中の木陰から、そのスロープ目指して全速疾走してみようと、ふと浮かんでから間髪おかず僕の体は走り出していた。思っていたより、遠い。そしてその坂道が長く、傾斜もある。登りきって、土手沿いにある手すりにタッチすると、そのまま競技場中央にある一本の木まで戻った。息が荒く、足がブルブル震えている。肺が燃えているのではないかと思うほど硝煙の様な匂いがする。同時にせき込む。ダメだ。運動不足だ。僕こそ、このトラックを回らないとダメなのではないかと、明日から午前中の涼しい時間来よう、と決めた次の日からここに訪れることはなかった。

印象的だった光景は他にもある。エマヌエーレ二世記念堂は、昼前の時間に真後ろから太陽が照りつけ、建物を黄金色に染める。前に扇形の広場があり、そこから見上げる記念堂は、イメージ通りの宮殿そのものだった。クイリナーレの丘からは、サン・ピエトロ寺院の丸屋根がぽっかり浮かび、一番バランスのいい街の風景が眺められた。風景や建物ばかりではない。イタリアの銀行も印象的だ。まず、第一扉を入ると、鍵付きの小さなロッカーがある。そこに通帳や貴重品以外のカバンを預ける。そして丸いカプセルのような第二扉に向かう。入り口が開くと、円形の空間に閉じこめられ、向こうで店員が僕の風貌を見て、危険でないと判断した、入ってきたのとは逆側の扉を開ける。店内が込んでいると、そのガラス張りのカプセルでしばらく待たされる。やっと店内に入ると、防弾ガラスでガードされた店員が両替をしてくれる。ここまで厳重にしなければならないのだろうか?と最初は疑問に思っていたが、夜のテルミニ駅周辺、そして、地下鉄の落書き。歩き回るに連れ、この街の危険度が肌で感じられるようになった。地下鉄の落書きは、綺麗になる前のニューヨークのそれよりもひどい。そんな地下鉄でテルミニ駅に着き、改札を出ると、午前零時を過ぎれば確実に恐怖すら肌で感じる危険な雰囲気を漂わせる。見た目の判断で言えば、殺人にドラッグ、売春にと、様々な犯罪に手を染めたに違いない風貌の人達で溢れ替える。あくまでも見た目だが。

観光スポットの多いローマにおいて、それでもここだけは外せないと言うところはどこですか。そんな事を聞かれた場合、僕は真っ先にシスティーナ礼拝堂を挙げる。ミケランジェロの「アダムの創造」「最後の審判」。これらのフレスコ画は数年前に修復され、色の鮮やかさを取り戻した。何年もかけて修復したそれらの天井画は確かにすごかった。テルミニ駅からバチカン市国までは市バスを利用する。大観光地なので、そのバスにはスリもたくさん乗る。もちろん観光客ねらいだ。「泥棒バス」と呼ばれているらしい。リュックは前に抱きしめる。後ろポケットに財布なんて入れていたら最後、しかもそれが長い財布なら募金してくれてると、泥棒からすれば思うほどに、日常茶飯事に起こる。そこで話した日本人にも一人いた。バックを抱えてたが、あまりにも混んでいたので自分の足下に置いていたらしい。そしたら前のチャックが開けられ財布がなかったという。そう、このバスはやたらと混んでいるのだ。テルミニを出てから市内中を横断するようにバス停が多く、イタリアのバスはキップを降りるときに必ず見せるシステムではなく、時々キップチェックにやってくる。その時持っていないと莫大な罰金があるが、キップなしで乗って、降りても特に問題はなかった。少なくとも僕が行ったときは。名誉の為に言うと、僕においてはちゃんとキップを買って、バスの中のキップ通しでパンチ穴をしっかり空けていたので、いつ何時チェックに来てもあたふたする必要はなかった。泥棒バスで泥棒を企む人は往々にして途中のバス停から乗り込み、仕事を済ますとさっさと降りる。盗まれた事に気付かず、終点のバチカンで気付いてもあとの祭りなのだ。現在のローマでは、テルミニ駅も綺麗になったと聞くし、この泥棒バスなんて称されていたバスも、そんなモノは昔の話だということになっていれば幸いだが。バスの中では一番後部座席を狙う。無理なら窓際に立つ。そしてバックを自分の後ろに置き、周りに怪しい人がいないかを十分にチェックする。とられる者が鈍くさい。そんな風に思われる国では、義務のようなものだ。チェックを怠ってはいけない。バチカン市国に着く。この国にはローマ法王が住んでいる。世界一面積の狭い国。敷地内にはバチカン博物館と隣接したシスティーナ礼拝堂。そしてサン・ピエトロ大聖堂とその前のばかでかい広場。以上で一つの国になっている。バチカン博物館は最終日曜日の午前中、無料開放されるので、それを狙って入ったが、同じように考える人も多く、長蛇の列だった。暢気に開館時間に到着した僕は2時間近くそこで待つことになる。入り口なんて遙か先にあるか、ないか。最後尾からは確認でいなかった。かといって、また別の日にいくらするか知らないが、入場料を払って入るくらいなら、並んでも無料を選択する。これが間違いだった。少なくとも、バチカン博物館の場合、いや、特にシスティーナ礼拝堂に行くなら、少々入場料を払っても、空いているに越したことはない。当然入場制限はしているのだろうが、やっとの思いで入っても、人、人、人で立ち止まることは出来ない。流れにそってただ自動的に動いて行くだけ。世界地図のギャラリー、彫刻のギャラリー。小部屋になったところにフレスコ画が所狭しと描かれている。ラファエロもミケランジェロも。キリスト教というバカでかい宗教の、カトリックという主流の、その総本山であるここに描かれたフレスコ画は、いうまでもなく世界最高峰だ。芸術に詳しいわけではないが、ネームバリューを無視して考えてもラファエロの「アテネの学堂」はすごいし、タイトルは知らないがダ・ヴィンチの天井画も見事だった。絵に動きがある。絵を描くことが大好きで、着物職人であった父の口癖だ。伸びやかな絵。漠然とだがそう感じる。長い道のりの人混みの中歩いていくと、ようやくシスティーナ礼拝堂に入る。五百年前、ミケランジェロが四年の歳月をかけて完成させたフレスコ画は、天井に「アダムの創造」正面の壁に「最後の審判」。礼拝堂の中で一人一人に許されたスペースは直立不動がギリギリ出来る程度。天井を見上げながら絵を追っていき、気に入った絵の下で立ち止まり見上げていても、後ろから押され、横からもつつかれる。忙しない。最後の審判に鮮やかなブルーが戻った。キリストを中心に天国行きか、地獄かの審判を受けている。正しく大作と言うべき作品だった。こればかりは必見の価値ありだと思う。上手く言えない。写真では最後の審判の全体を写すのは難しいだろう。この礼拝堂に立った者だけが、全体を見渡し、そしてその絵から強力なパワーみたいなモノを感じることが出来る。

礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂に抜けられるが、決まったルートしか歩いてきてないので、まだ博物館内で見ていないモノがたくさんあった。礼拝堂を出ると、多くの人がサン・ピエトロへと抜けるので、幾分空いてきた。彫刻がずら〜っと並べられた廊下で、一つ一つ丁寧に見ていった。実に細部まで精巧に掘られている。ほくろも、皺も。髪の毛さえもきっちりと掘られている。古代ローマ時代の英雄を紹介する写真には、決まってそんな詳細に掘られた彫刻が使われているのも納得できる。さすがにここだけは、プラダの店のように日本人独占状態ではなく、世界中から観光客が集まってきている。それぞれがカメラやビデオを持ちながら。色んな言葉が飛び交うが、天井を見上げて、一様に感嘆していた「アダムの創造」はそれだけの価値があることを示しているのではないだろうか。芸術は金持ちが育てる。そう言われていた時代、富と名声を溢れるほどに持ち合わせた歴代のローマ法王が、集めたコレクションだけあって、どれもこれも「本物」のもつ純粋さがあった。バチカン博物館を出て、サン・ピエトロ大聖堂へ。ちょうど来年に迫った二千年、ミレニアムに合わせて外壁の大工事中で、デカデカとシートが張られていたので、外観からの感動はなかったが、中に入ってからは、その吸い込まれるくらい高い天井に圧倒された。でかい。間違いなく僕が今までに訪れたどの寺院よりも大きい。広場は円形になっており、いるべくして鳩は大量にいる。またこれも世界中どこでも同じだが、鳩には餌をやっている。広場の端に腰掛けていると、僕の食べていたスナック菓子目当てに鳩が近づいてきた。両足をバタバタさせて追いやる。「やるもんか!」と意地になっている。隣をふと見ると白人女性二人組。鳩が僕に近づいてくるので、「かわいいわぁ」とでも言っているのだろうか、鳩に注目している。バタバタさせて追いやった鳩もしつこくおねだりに近づく。隣の女性と目があった。こうなると、渋々ではあるがスナック菓子を放ってやる。三羽で競い合いながらそれを取り、向こうに飛んで行く。かわいげもくそもない。隣から笑い声。「かわいいわぁ」とでも笑っているのだろう。次の空気は「もっと、あげなさいよぉ」とひしひしと伝わってきて、ランチ代わりに買ったスナック菓子なので、やりたくはないのだが、また渋々放る。またお礼の一つも言わず取って去る鳩。その場を離れた。広場にいる鳩がどうも好きになれないのは、僕の潜在意識の中でトラウマになっているのだろうか。幼い頃、何かあったに違いない。平和の象徴の鳩も、香港に行けば高級料理店のメニューなのだ。広場の鳩が嫌いな位、良いだろう。

ローマから電車で三時間半、フィレンツェに行った。東京と大阪が違うように、ローマとフィレンツェも異なった空気を持つ。はじめに、どちらが好きかと聞かれれば、僕の場合フィレンツェだ。街自体が手頃な大きさなのだ。車の入れないエリアにドゥオモやシニョリーア広場、ウフィッツィ美術館がある。穏やかにゆったりと時間が流れるので、その広場に座ってヴェッキオ宮殿を見上げているだけでも気分は落ち着く。馬車が通り、レプリカの彫刻が立ち並ぶ。広場沿いのパン屋で買ったチキンサンドを頬張り、ゲータレードで流し込む。うまい。素朴で美味しい。天気もいい。このまま動きたくもなかったのだが、せっかくだからとウフィッツィ美術館の前まで行く。長蛇の列。並ぼうかとも思ったが、アカデミア美術館に行くことにした。ダビデ像。ミロのビーナスと並んで、僕の中で彫刻と言えばこの二つだ。入り口を入るといきなり出た。そしてまず、「でかい」と声が漏れる。美術の教科書で見た印象からは、この彫刻がこれほど大きなモノとは思っていなかったので、四メートルを越す大きさに驚いた。ダビデの像を中心に円を描くようにベンチがある。幸い空いていたので、それぞれの方角から何分かづつ眺めた。斜め左を向いたダビデを正面から見るのが一番いい構図だ。また最初の位置にもどりしばらく眺めた。そして近づいて細部を見る。美しい。男性なのに、こんなに美しい。もしミケランジェロが、同等の力で、同等の大きさの彫刻を女性の体で残していたなら、もっと美しいのではないだろうかと、男性も僕には思えてしまう。アカデミア美術館は少し奥まったところにある。狭い石畳の道路は迷路のように続き、両サイドの建物が高いので圧迫感を感じる。日本並にスクーターを乗り回す人が多く、この小道では、その排気ガスが建物の壁に遮られたまってしまう。せき込むほどに空気が悪い。悪いが、小道は楽しい。店がたくさんある。小さな店ばかりだが、小物からポストカード、洋服。小道がいくつかに別れる箇所には決まって小さな広場があり、そこでは果物を売る市場が出ている。バイクに乗っている人がしているあのマスクが僕も欲しい。道路自体が狭いので、歩道も狭い。すれ違う時にはどちらかが一段降りて車道を歩く。レディーファーストに慣れきっているイタリア人女性は、堂々と直進してくる。「あなたが避けなさい」とでも言いたげに。どうやら僕は大きな人の流れに反して、逆方向へ歩いていたらしく、ずっと車道を歩いていた。スクーターの甲高いクラクションが何度も僕に向けならされた。

またドゥオモに戻り、ウフィッツィ美術館を越える。そこで、唖然。ダビデが立っているではないか。レプリカらしいが、大きさも形も同じだ。元々あんな建物の中に収まってあったのではなく、広場に大きく飾られていたのだろう。レプリカといえども、広場にある方が似合っていた。美術館を越えベッキオ橋を渡る。そのまま直進しピッティ宮殿へ。宮殿の中に入って涼んだ。とても涼しい場所だという印象が強い。歩き回った後だったので。自分の疲れ具合から相談して、迷った末にミケランジェロ公園まで登ることを決心した。ベッキオ橋を右折して、細い坂道をひたすら登る。民家が立ち並び、縦列駐車の車も多い。落ちていた空き缶が、風が吹いて、それまで止まっていたタイヤから外れてまたコロコロと転がり落ちる。坂道なのだ。それも登り坂、疲れた体で、登る。人影はほとんどなく、その広場までは地元の人も観光客も車で上るのだろう。もちろん僕が登っていた細い坂道ではなく、広場の東側にある大きな道を通って。僕は黙々とあるいた。小学校の時、躍起になって一番を目指して走っていたマラソン大会を思い出した。あの時見えていた竹藪、沿道の保護者。そして前には誰も走っておらず、トップを走る自分自身。そんな全てを客観的に眺めている自分を想像していた。坂道を昇ることは、登りきるという目標がわかりやすいので好きだ。

広場につくと、夜景の綺麗な港のように、等間隔でカップルが陣取り、ちょっと温度が高かった。汗だくで登りきった僕には、勘弁して欲しい光景だ。とはいえ、この広場から見下ろすフィレンツェの街並みは絵に描いたように美しかった。ドゥオモの丸屋根。茶色一色の屋根、屋根、屋根。バランスの取れた位置に小ぶりの丸屋根もある。風が吹いて、僕に当たる。ふと、フィレンツェに着く前、電車からみたトスカーナの田園風景を思い出した。緑の田園に小さな家が山の斜面にあり、茶色い屋根が妙に目に留まった、あの長閑な風景。ここは都市だが、確かにゴチャゴチャと建物が密集しているが、こうして少し離れた高台から眺めると、まさしく絵に描いたような風景だった。空が青く、風が心地よく、すぐ横では愛し合う者同士の見えない電波が飛び交う。全部ひっくるめて絶景だった。疲れていたので、芝生に少し寝ていた。背中が湿る。汗で湿る。腹は風が撫でるのでサラサラしているが、背中はグッショリと湿っている。フィレンツェの街並み。ミケランジェロ広場から眺めた景色は整然と美しいが、実際その中を歩き回ると排気ガスにむせぶ。街自体が世界遺産のこの都市で、排気ガスにむせぶのも妙な気分だ。生活している人がいる以上、現代生活に置いて排気ガスは仕方がない。でも、また勝手に、この景色は守ってもらいたいとも思うのである。

古代と現代。古代の遺産を現代の観光資源にしている。現代の街の中に保存されながら古代が息吹いている。そんな現代人が古代に思いを馳せるべきは一体何なのだろうか。アクロポリスを見て、コロッセオを見て、それからどうすれば良いのだろうか。そんな事も分からず、保存を続ける。そこに意味はあるのだろうか。人々を魅了するのは間違いがない。あれだけの観光客が僕も含めて押し寄せるのだ。そこに何があるのだろうか。また、そんな古代の遺跡から見て、現代社会はどうなのだろうか。かつて古代の人が夢見た未来の街になり得ているのだろうか。それらは何一つクエスチョンマークのままで、ただある遺跡から歴史を明らかにする。繰り返される歴史のリズムを掴む。奥深くに眠っている感情が、それら古代遺跡の魅力となる。古代と現代。イコールで結ぶとしたら、僕たち人間が生活し、そして人間が創り上げた遺産だと言うことだ。同じ空の下、時間と時間の壁を幾つも経て、現在風化した形で残っている。そこに魅力を感じるのは、奥深くに潜む人間の力ではないだろうか。そんな力に感嘆し、魅了される。皮肉なもので、そんな人間の業によって、古代の遺産を消し去ろうとしている。現代の人間の業によって、古代の人間の偉業が、消し去られようとしている。遺跡だけではない。変わることのなかった、空や海や森の色まで変えてゆき、そのまま消し去ろうとしている。古代からみた未来。現代からみた過去。その時代、僕たちの祖先は突っ走り、後の事を考えないまま、現代の、この破戒のシステムを作った。快適という名の下に。そして、現在、僕たちはその生活の中にどっぷり浸かっている。はじめから用意された発展へのレールをただ突き進み、たまたま僕たちはそのゴール地点の付近を生きているのかも知れない。そんな風に考える程僕は無責任ではいられない。古代と現代を繋ぐイコール、すなわち人間の業を、素晴らしき偉業を、これからも過去を継承しつなげていきたい。そして、土台である地球の中に、今が過去として埋まる前に、分かっている限りの修正をかけたい。微力ながらそう思った。



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第五章:エンシェント in モダン