2003年8月10日  
少年犯罪

― 少年犯罪 ―としてある意味、特別に扱われているうちに何とかしなければいけないのではないか?そのうち「犯罪」を見るときに少年も青年も垣根なしに一面化してしまう時代が来ないように。
統計的にみて、例えば現在の触法少年(14歳以下)による検挙数は、異常なほどに増えていることもない。むしろ、減少傾向にあるらしい。それを殺人、強盗、放火、強姦の凶悪犯罪に絞ってみると、数というよりもインパクト、病理性、が際立っているのかも知れない。5年前の神戸の事件はまさに「それ」を如実に表しているような気がします。
殺人ということに絞って考えると、それが少年や少女に限らず、どんな場合でも怒りや恨みの感情が沸点を超えたときに突発的に出るモノ。その感情がじわじわと沸騰し続けて計画的に起こるモノ。色々あると思います。アメリカなどでは、「そこに銃があったから殺人が起こった」という例も多い。例えば、夫婦喧嘩をする。それが徐々に激しさを増す。ある一言や些細な反応に一気に上がった怒りの感情が、【そこに銃がある】事によって相手を殺してしまう。倒れた相手を見て、すくんでしまうかもしれない。また、実際起こった事件に4歳や5歳の幼児が誤って引き金を引いてしまい、前にいた幼児を殺してしまう。
アメリカ銃社会のことをここでどーのこーの言ったところで、2時間半のドキュメント映画ですら答えなど出ないのだから結果は分かっている。

日本において、【そこに少年がいたから】殺人が起こった。
そんな恐ろしい時代、憂うべき時代が来ないことを祈りながら、祈るだけではなく考えていかないと!
考えてみると、現在でも少年犯罪の多くは集団vs個人の構造で起こっているらしい。となると、それは何十年も前からつづいている構造で、未だに解決策はないのか?と気を揉んでしまう。もうひとつは、個人vs個人。それも加害者側の性的問題。神戸の少年のように性的サディズムによる行動などが挙げられる。こちらの方がよりインパクトがあるので重要視されかねない。が、被害者の親にとって、同じ奪われた命。「これから」を見据えた議論なり対策が必要であると思う。
後述の個人の特殊事情によって、個人で殺人を犯してしまう少年。そんな少年をもつ親たち。最近、自分の子供が被害者になるのを防ごうと、そこに重点をおいて論じていた親たちも―いつ加害者の親になるか分からない―という不安があるという。
「不安」・・・、親なのに?それほどに深く見えにくい親と子供の関係。
ある大臣が「市中引き回し」なんて親の責任を問うていたが、親は「不安」なんですよ。そんな家族関係の中で「より強固に!しっかりと!」な〜んて、それしか言う事がないから強調しているようにも思えてしまうのは
僕だけ?これは、一般論ではなく、あくまでも〈そうゆう場合がある〉という観点です。

親がダメなら学校か?
一人や二人、それも自分の子供でさえ「不安」なのに?少人数制のクラスになったって三十人前後はいる。その中でふか〜い心の闇をどうやって?スクールカウンセラーがいるじゃないか!という意見。なるほど。確かに(また例にあげて申し訳ございませんが)アメリカのパブリックスクールではかなりの成果を挙げているようです。金八先生などでは保健室が、おそらくそれに近い役割を果たしていたように思います。ソーシャルワーカーとして定着した【職人】が対個人を個別にじっくりと対応できるか?もちろん「YES」という意気込みで新任教師のように言うでしょう。しかし、そこは現実。大変なことだと思います。
何が大変なのか?つまり言いたいことは「誰かに」任せよう、「ある人」に決めようとしてしまう論点が、その対象になっている人にとっては【大変】だと感じてしまうのです。
コミュニティ。そこにおいて地域社会、もっと言ってしまえば少年がかかわりを持つ関係の人達。友達関係だって一つのコミュニティだと思います。その人達が少しずつ、強い志をもって対応していく。少しずつでいいから。
山となった【優しさ】で個・少年を包んであげることが、それも強く本気の気持ちで。
それが対策!になるのでは・・・?と、記している僕自身、
「しかし、そこは現実だぞ!」と思ってしまうのであるが。
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