2003年11月4日  

生体移植
人のためにできること。それが、自分の持っているものから、自分に【在る】ものにまで広がっている。

自分の臓器を提供する。親が子に、またその逆。親族に提供する枠を超え、同意があればそれ以外でも。さらには、十六歳以上なら未成年でも。臓器を提供する、またはされる。そんな時代になった。

「代われるものなら、代わってやりたい」。無力感に苛まれながら泣き崩れるシーンは、もはや代わってあげられる状態にある。

魂と身体が別のものだという観点から話す。つまり、「僕」とは魂であり、身体を借りているという一種SF的な方向だ。それでいくと、提供するという立場にはなく(自分のものではないから)、提供されても違和感はない(同じ意において)。

脳死状態で臓器を提供するドナーカードには、全臓器に○を付けている僕。僕のでよければどうぞ、という姿勢だ。
が、生体に在る場合。これは正直迷う。輸血には問題なく応じられる。なぜ?に対して強引に言うと、再生されるからだ。
なら、臓器の一部にも再生するものがある。それならいいか?

やはり迷う。いや、おそらく、ノーだ。
その提供者が自分の親族なら?
……避けたい。それが正直な所。
しかし、僕が親なら、もしかすると、僕の親は、子供に対してはイェスかも知れない。いや、イェスだろう。子供に対して、もともと親は自分の分身という考えがどこかにあるのかもしれない。それとも、愛情などという一種形而上のとらえ難い、それでいてとてつもなく大きなチカラからくるのか。

生体移植。アメリカでは実例が多く、日本も動き始めているらしい。そもそも脳死は死か?などという議論も何年か前にあったような。尊厳死にしてもしかり。医療の発達は進んでいる。だから、出てくるそれらの新しい秩序。っと、進んだ医療も、アフリカのある国では、風邪に近い簡単な病気で多くが死んでいる。また、頭を抱える。

とても幸せなことだと思うが、現在の僕には、尊厳死も生体移植も他人事だ。が、いつ自分にふりかかるか分からない。求めるかも知れない、求められるかも知れない。そうなった時と仮定して、ここで考えてみることも、まったく無駄ではないような気がする。

僕には百万円あります。困った人に十万円提供する。もっと言えば、十万円どこかから借りて百十万円提供する。それは可能か?
イェスだ。しばらくなぜだろうと考えた。やはり、それは再生する(また百十万円にする)ことができるからだ。

膵臓のない人に、自分の膵臓を半分わけてあげる、または分けてもらう。自分という魂が、身体の行き来を決定する。

とても難しいことなので、あえて僕は、「それはできない」と言おうと、今のところ結論づけた。

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