ニッポンならではの
「富士の山」

富士山に登ってみようという計画を、これまで何度も立てては実行せぬまま……。何年か前には、登るのはやめて絶景ポイントから眺めようと、田貫湖まで行き、どんより曇り空の下「あ〜あ」なんてため息をついたこともあった。

僕は国内の移動に飛行機を利用することが多い。が、早朝6時に出発しなければならないという状況で、「空港まで行くには、げ、4時起き!」ということで諦め、新幹線に乗った。京都発品川行きの東海道新幹線、700系のぞみ200号。

余談だが、300円もする新幹線の珈琲は、うまい。が、カチカチのアイスクリーム同様、熱すぎる珈琲。どうも車内販売のどれもが「いいあんばい」をしらない。
ま、いいや。そんな珈琲を飲みつつ、新聞を読みながら。おっさんか、俺は、、、と自嘲もしたり。ウトウト…。っで、見えたのが富士山。

朝、7時半ぐらいかな。予報では雨か曇りだった朝の、奇跡的な晴天のもと。キラキラしてた。15分もないか、いやもっとあったような。ずーっと眺めていた。首が痛くなるぐらい。左側の富士。ぼーっと。後ろの席で、朝からパソコンをはじいていたビジネスマンが、カシャー、カシャーと写メしている。おっと、カメラがあった。僕もカメラを構えて三枚ばかし撮った。

綺麗だった。それは単純に。

日本人がその美しさに心奪われ、数多く詠い、数多く描いてきた「富士の山」。自然に対して「神」を感じるのは、こういう景色を目前にしたときだと思う。壮麗さの中に、詫び・寂びまで感じさせてくれる。突き刺さるように伸びて、微笑むように安定している。これが活火山というところに、またその秘めたる魅力がある。

以前、僕は『3776』という詩の中で、「たかだか標高3776mなんて世界の山からすればたいしたことない。この数値だけから、そんな風に思うけど、銭湯の富士の絵ですらその美しさに愕然とするときがある」ってなことを書いたが、本当、目前にするとガクガクだった。

ふと、これは日本人だからだろうなとも思う。つまりは、この山にこれだけの思い入れをしてきた日本人。なんというか「潔く」一つだけで「山」としての理想的な弧を描き、そして、頂に万年雪を蓄えてデコレーションしている。その様。手頃な大きさと、その形の美。島国ニッポンだからこその、絶妙なバランス。いいんですよ、視界の遮り方が。後ろに見える空の面積の加減が。本当に。

そんな富士山もゴミだらけなんて聞くと悲しい。世界遺産になんて登録されなくてもいいとは思うが、その理由がゴミなんて聞くと空しい。

違うんですよきっと。富士山は神の領域に達するぐらい、絶妙なんですよ。なのに…、と思ってみたり。

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