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意外にそれは、とてもヴィヴィッドだった。
空港を出たバスが、あっという間に幹線道路を抜け、真っ暗闇のあぜ道をひたすら走っても、香奈は、窓に映る自分の顔を見ながらとても鮮やかな空想をしていた。
そこには未来という言葉の持つべき輝きがあり、「もしかして」という奇蹟が、いとも自然に起こるように思えたのだ。三十二歳になって未来を思い、そこが輝いているということは、彼女にとって皆無だったのだが。
前から五列目。指折り数えて振り返り、香奈は乗客を確かめた。全部で四人、大きな荷物を抱えていたのは、自分だけだった。
バスの行き先を、香奈は知らない。
空港を出てすぐに、同じ飛行機で来た日本人が行列を作っているのにうんざりして、市街地とは逆方向のバスに飛び乗ったのだ。
真っ暗闇の先にある未来、どこに向かっているのかも知らず、香奈の心臓はバクバクして不安なのに、それでも、気持ちが妙にウキウキしていた。
ひとりで海外に行く。それは香奈にとって「普通」の決断だった。
当たり前をしっかりとこなし、決められた通りにやる。慎重に物事を進めながらも、ひらめいたかのように思い立ち、傍目からは見れば驚くような決断をする。それは、外から見る香奈と、内なる香奈に乖離があるとも言えるが、実のところ、そう難しいことではない。彼女は、一人で考え、結論を出し、それをいつの間にか「目標」に変えてしまうのだ。とにかく、どこかへ向かって歩いていると安心するのだ。「自分で考えて、ちゃんとやれる娘」。母は、香奈のことをそんな風に自慢する。
上京して十四年、香奈は大学を卒業後、商社で十年間勤務した。十年という区切りに気付いた時、彼女は「限界かな」と思った。日々ごちゃごちゃとあり過ぎて無いに等しく、真っ白になった頭のまま辞表を書いた。途端に、結婚という言葉がつきまとい、それを振り払うのにも疲れ果て、駆け足で退職した。会社を去ろうとする数ヶ月、彼女が未練という言葉に苦しめられたことはなかった。「なんで?」「これからどうするの?」、そう聞かれる度に、「まぁ、いろいろと考えてるの」と繰り返した。
時間ができて金もある。退職後、香奈は色々と考え始めた。何しろ、思い立った「退職」という目標を達成した後、次なる浮標が揺れるばかりでぼやけていたのだ。何かやりたいこと、できること。しかし、それは考えても考えても浮かばなかった。ふと、「海外にでも行きたい」と願いつつ、会社帰りの電車でパラパラとめくっていた旅行パンフレットを思い出した。あの海、あの空、澄んだ空気。ピタッと照準が合い、香奈は、ひとり旅に出たのだった。
飛行機は落ちるし、お金は盗られる、病気にもなる。母にとってアジアとはそういうところらしく、だから猛反対だった。会社を辞めたというだけでも驚きなのに、その上、ひとりで海外に行くと言われたのだ。さすがの母も、今回ばかりは人生最後の力を振り絞るかのように止めた。その奥で、テレビを見ながら呑気に、「じゃ免税店でマイセン買ってきてくれ」と言った父が、香奈は、嫌いだが、好きだ。
ジリジリと暗闇を進むバスの中、香奈は、午前0時を過ぎているという現実に向き合った。空港を出てから一時間以上もあぜ道を走っている。
「現地には深夜着になりますので、空港からホテルまでの送迎をお付けしますか」と聞いてきた旅行会社の、あの女性の声が、今はとても力強く思えた。
それを失った現状が、香奈には心細くもあった。
香奈は必死になって楽観した。「終点まで行けばターミナルがあるし、そこに行けばホテルだってすぐに見つかるだろう」。
田園風景が広がっているに違いない真っ黒い景色を眺めながら、また空想する。空想が回想に変わり、なぜか、「幽霊が見える」と自慢した小学生の頃の休み時間が頭に浮かんだ。
あの時、友達の輪の中で、香奈は一番のヒロインだった。周りの目がキラキラと自分に向いていた。それからすぐに、「香奈は嘘つきだ」ということになり、あれから、香奈は本当の悲しみや悔しさを、幽霊と一緒に嘘にした。
いつからだろう。嬉しいことも全部、嘘になってしまった。香奈は、小さくため息をついて、そんな自分をやめよう、新しい「私」を作ろうと、つぶやいた。旅に出るという目標を果たし、その次なるねらいをそれに決めた。古い自分から新しい自分。香奈は、心の中で再確認する。
「これからの私は、思いっきり泣くし、笑うし、怒る。その為の、行き当たりばったりの旅じゃないか」
強くなろうとする弱い自分の顔が、深夜の行き先不明な異国のバスの窓に映り、その顔がまだ真っ白なので、空想しては鮮やかな色彩を塗りつけた。
バスが急に停まったのは、不安と安堵が交互に入れ替わり、香奈の中で、本音と強気が錯綜するそんな時だった。
運転手が乗客の方を向き、何やら叫びはじめたのだ。辺りは真っ暗闇。あるべきターミナルの灯りも、ホテルも安心も、そこにはなかった。ただの田舎道だ。
他の乗客は慣れているらしく、文句を言うでも驚くでもなく、バスから降り、どこかへ散らばって行った。ひとり残った香奈に、運転手が近づき、英語で話しかける。
リバー。フラッド。ブリッジ。ストップ。
ぶつ切りで理解する単語から推測して、香奈は「イェス」と言うしかなかった。川が洪水で橋が通行止めなのだろう。彼女の返事を聞き、運転手は運転席の方へ戻る。その背中を見ながら、香奈は無意識のうちに、「だからこうしなさい」という次なる指示を待っていた。
なかなか降りようとしない香奈に、運転手はあからさまに苛立った。バックミラー越しに覗いていた彼の目が、大きく香奈の方に向けられたとき、香奈は小さく会釈して、バスを降りた。
そしてすぐに、バスは走り去ってしまった。
完全にひとりになった。
香奈は、ねっとりとした蒸し暑さの中、真っ暗闇に冷たくなった。今まで、自分には突然降ってくるような幸運はないのだと諦め、だから、毎日に刺激がないと憂えていた。しかし、よく考えると、トラブルやピンチもまた、突然降りかかってくることはなかったのだ。
決算には一円の狂いもなく、全ての書類には誤字脱字を許さない完璧な事務職で、その中でも一番「出来る」といわれた香奈にとって、解決の糸口さえ掴めない「問題」は思いもよらぬことだった。
この時の香奈は、呆然と冷たくなるしかなかった。
時計を見ると午前三時半を回っている。時差を計算すると、今、午前一時半。嘘のように灯りはなく、こんな時でも星はきれいだな、と香奈は思った。
スーツケースを転がす音が響き、その音に追われるように香奈は歩いた。心の奥の方にある、それを本能というならそれのみで、この局面を解決しようと香奈は動いた。角に立てば曲がり、匂いを必死にかいだ。灯りの匂い、人間の匂い、第六感にある嗅覚に似た感覚。
体の中には水槽があって、淀んだまま沈殿した疲れが、ちゃぷん、ちゃぷんと揺れる。バランスを崩し、不安定になるにつれ、「私、今まで幸せだったんだ」と、淀んでいたあのオフィスの、自分の机が、妙になつかしかった。
十時間にも二十時間にも感じた不安の後、香奈は、前に現れた看板に目をとめた。ここが外国であることなどすっかり忘れ、「平和倶楽部」と漢字で書かれた文字を読んでも、「ゲストハウス」というカタカナを読んでも、不思議には思わなかった。ただ、それが宿であることを直感したのだ。
泊まる所も決めずに行って大丈夫なのかと言われると、ホテルなんてどこにでもあるから大丈夫だと答えていた。飛行機に乗った半日前、香奈は、まさか自分がゲストハウスという所に泊まるとは思ってもみなかった。名前を聞いたことはかろうじてあるが、よく分からないというのが本当のところだ。しかし、この時の香奈は、落ちた分、そこを少しでも昇れるのならそれでよかった。簡素な外観を見てもなお、やっとシャワーが浴びられると、香奈は、安堵したのだ。
実際に歩き回ったのは数十分程度だが、香奈は疲れ切っていた。
宿の中に入っていくと、小さなテーブルに若い男性がひとり、腕時計のストップウォッチをいじりながらぼんやり座っていた。目のやたら大きな少年だった。
こんな真夜中に、荷物と悲壮感を抱いて入ってきた女性を見て、フロントの少年はビクッと体を震わせた。そんな彼にかまうことなく、香奈は早口の日本語で助けを求めるように捲し立てた。
「バスからいきなりおろされて、真っ暗で地図もなくて、だから泊まれますか?」
少年は香奈をじっと見つめ、はてな、と奥に消えていった。
消えた彼をおって、暗がりに向かい香奈は叫んだ、
「すいませ〜ん。ここ、どこですか?」
しばらくすると、奥からひとりの老人が出てきた。彼はにこやかにこう言った、
「ササキサンデスカ?」
「えっ?」
「アナタハササキサンデスカ」
「いえ、松下です。松下香奈です」
「ソウデスカ。ネマスカ?」
「えっ?」
「ココ、ホテルネ。ステイ、ヒア?」
「あぁ、イェス、イェス」
「ツイテキテクダサイ」
香奈はどっと安心した。腰の辺りがじんわりと温くなり、「ついてきて下さい」という老人の声の中で幼児のように漂った。
前を歩く老人はこの宿の主人らしく、カタコトの日本語を話すが、アクセントの位置がどれも変だった。「ココ、ヤスイネ、ヘヤモキレイネ、オジョウサン、ラッキーネ」。ス、キ、ジョ、ラ、にアクセントをつける。
みしみしと音をたてる外に面した廊下には、セミに似た虫の声が溢れていた。
「パラダイスネ! ホントニイイトコヨ」
老人は振り返ってウィンクすると、203号室の扉を指さした。
その部屋からは、男と女の、いわゆる絶頂のリズムが漏れており、扉のすぐ横にある小さな窓から、香奈は部屋の中をのぞいてみた。オレンジ色のトランクスがベッドサイドに放り投げられ、ベッドの上では、アジア系の男女二人が抱き合っていた。それに合わせて、床が軋んだ。
香奈がのぞいている間、老人は何も言わず隣で待っていた。その存在を忘れるほど、香奈は凝視した。
急に、ベッドの上の男性が香奈の方へ振り返り、二人は目があってしまった。「しまった」と香奈は思い、慌てて反らそうとしたが、固まったままで動けなかった。
「あっ、こんばんは」
ベッドの上で、男は小さく挨拶をした。
暗がりとはいえ、仰向けになった女性に素っ裸でまたがっているのは分かる。そんな状況で、挨拶をする男。「まったくどういう神経してんのよ」、香奈は無視して、歩き出した。
その部屋の隣、204号室の前で老人は立ち止まり、
「アナタノヘヤハココデス。キレイナヘヤネ、グッド・ベッド、グッド・テレビジョン、ヒロイネ」と案内された。何となく、香奈は嫌だなと思った。
汚くて狭い、バッド・ベッドに香奈は倒れ込んだ。
とにかく一泊分だけの料金を払い、明日になれば宿を探すことにして、とりあえず今夜はここで眠ることにした。相当に疲れていたのか、不眠症気味だった香奈も、目を閉じると引っ張られるようにしてすぐに眠りに落ちる。「あっ、部屋の鍵、かけたかしら」と、心配になって確認に行こうと考えているうちに、香奈は完全な眠りに落ちていった。
夢も見ない、漆黒の眠りだった。
突然、紫色の光線が脳の中を横切り、香奈はハッと目を開けた。目の前に誰かいる。「夢か?
真か?」。混乱する香奈のベッドに、入り込もうとする男。
「キャー」
その声を、いつもは冷めきった表情で聞き流す「もう一人の香奈」もまた、慌てふためいていた。
男は香奈の服を脱がせようとする。香奈は何度も叫んだ。叫びながら相手の顔を見て、それがあのフロントの少年だということに気付くと、底なしの恐怖を感じた。両腕に力を込め、少年の肩を必死に押しながらも、「だけど……」と莫大な無力の中に引き込まれる。
「助けの声をいくらあげたところで、みんな、グルなんじゃ、ないか」
もう限界だな、と香奈が断念しかけた時、ガタガタガタッと廊下が揺れた。別の誰かが部屋に飛び込んでくるのが気配で分かった。そして、その誰かが、ベッドの上の少年に殴りかかり、少年も応戦してふたりでベッドから転がり落ちた。
香奈の頭の中、崩れ去るマリンブルーと白壁の光景、「楽園」という文字。無意識に抱いていた海外ひとり旅のイメージが、波にさらわれて、雷に打たれた。
少年はそそくさと逃げ出し、助けてくれた男は、扉の前に突っ立っていた。暗がりの中の彼は、後ろからほのかな光をうけ、まるでスーパーマンのようだった。時間が、止まる。
香奈の胸の中、きっとスーパーマンは、サラサラと優しい言葉をかけてくれる……、はずだった。
「大丈夫ですか?」
扉の前に立つ男からかけられた言葉は、完璧な関西弁だった。
香奈は、ものすごく微妙な感覚に陥り、一変にコテコテとした風が吹いた。
さらに、彼はさっき隣の部屋にいた、あのオレンジ色のトランクスを脱ぎ捨て女性にまたがり、それなのに会釈してきた、あの男だった。
スーパーマンのような颯爽とした姿が、さっきの印象とぶつかり合う。
「何があったんですか?」
「私にも何が何だか」
男は近づき、床に腰を下ろすと、
「なるほどな」と小さく頷いた。
「何ですか?」
「いやな、確かに、そういう気分になるのも、ちょっとは分かるなぁ、と思って」
「はっ?」
「いやいや。何でもないです」
「はぁ……」
「あっ、オレ永沢です。永沢陽太。一週間前から、ここに泊まってます。ここは危険じゃないですけど、安全でもないですから。日本の標準からいうと、そやなぁ、とても危険、要注意ってとこですか。だから、気付けて下さいね」
「はぁ。あっ、ありがとうございました」
「そうや、オレ、しばらくここにいましょか? そやから、安心して寝て下さいよ」
「はいっ?」
「だって、また誰か来るかもしれへんから、オレがちゃんと見張っときます」
「結構です、大丈夫ですから。っていうか、あなたがいると、安心なんてできませんよ」
「オレ? あぁ〜、大丈夫、大丈夫。だって、ゲイですから」
「よく言うわ、よ」
「あっ、そうか。さっき、目、合いましたよね」
「挨拶も、されました」
「そうやった。でも、ほんまに大丈夫ですよ。ほら、もう、ね。だから。」
「本当に結構ですから、ありがとうございました。お願いですから出て行って下さい」
一階から老人の大声が響いたのは、陽太が香奈の部屋を出てすぐだった。
何を言ってるかは分からないが、叩く音や、突き飛ばす音、そして鍋のような金属が派手に散らばる音が響いた。香奈は、老人が少年を叱っているのだろうと思い、少しホッとした。底なしの恐怖ではなかったことに安堵した。
それから、香奈は目を閉じることすらできずに朝を迎えた。
考えることと言えば、とにかく一秒でも早く宿を移ること。朝一番に市街地に出て、ホテルに泊まろう。真っ白いフカフカのベッドで寝よう。香奈は、痛くなった背中をかばって寝返りをうった。
「やっと朝だ」
香奈は声に出してつぶやいた。少し眠ったのかもしれないし、一睡もしていないようにも思う。その辺りが香奈にも曖昧で、まだ一度も開いていないスーツケースから着替えを取り出し、シャワーを探した。「しまった」と、香奈は舌打ちをする。そう言えば、廊下の突き当たりに共同のどうとか、カタコトの日本語で老人が話していたことを思い出した。「まっ、ホテルに移ってから、ゆっくり浴びればいいか」。香奈は髪だけとかして、下に降りた。
何も告げず、老人と目を合わせることもなく、香奈は鍵だけをテーブルに投げた。
「チェックアウトデスカ?」
あの声だ。昨夜はそれにホッとさせられたのだが、今朝は苛立ちを呼び起こす。「ふっ、チェックアウトっていうほどのもんでもないでしょ」、香奈は振り返りもせず、宿を出た。
気温は四十度を超し、湿度は雨上がりのように高かった。クラクションが騒がしく、屋台から漂う何かのタレの匂いが鼻につく。
市街地に出た香奈は、スーツケースを押しながら汗だくで歩いた。ガイドブックに丸を付け、その「候補」のホテルへ向かう。昨日まではあんなに嫌だった「日本人だらけ」という状況に、今日は安心させられる。たった一日で、香奈は戻ってしまった。変わろう、と決意する前の自分に。
丸を付けていた五件の候補ホテルのどれもが満室だった。少々の予算オーバーは覚悟で、とにかくキレイで安全な所を足が棒になるほど回ったが、決まって「フル」の連呼だった。香奈には聞き覚えのない、数年に一度開催されるというスポーツの国際大会が開催されており、世界中から人が押し寄せているのだと言う。
もう、無性に帰りたくなった。なんだっていいから、日本の、自分の部屋に戻りたい、と香奈は思った。例えそれが、以前の自分の鞘の中に戻るとしても、こんな現状よりは、ずっとましなはずだ、と。
香奈は、その足で航空会社のオフィスに行き、少しでもはやく日本に帰れるチケットと交換して欲しいと頼んだ。しかし、そこでもフルブックの壁にぶち当たる。そう言えば、ここに来る時も、なかなか航空券の予約が取れなかったことを思い出した。
「じゃ、どうしたらいいんですか」
叫ぶように訴えた香奈の声音には、恨みにも似た強さが伴っていた。
どうすることも出来ない。
気がつくと、香奈はまた「平和倶楽部」の近くで終点まで行けないバスから降りていた。
辺りは田園風景ではなく、ただの田舎町だった。何もない訳ではなく、昨夜は何も見えなかっただけなのだ。数軒の店もあった。レストランや散髪屋、その間を埋めるように、露天商が腰を下ろしている。
「平和倶楽部」という漢字の看板が、今日の香奈にはとても不思議に映る。下に英語でPEACE
CLUBという文字も併記されていた。これでもか、というほどに「外国」を意識させられ、一日中歩き回った末、とぼとぼ肩を落としている香奈には、「何が平和よ、どこがピースよ」と、文句のひとつも吐き捨てたくなる対象だった。
最悪でも、この辺にある別の宿にしようと、香奈は「平和倶楽部」を通り過ぎて少し大きな通りに出た。
その通りにはスーパーのような店もあり、ここならホテルだってあるかも知れない。疲れと焦りで速くなった呼吸が、胸の中の「希望」に似た風船を、どんどん膨らましていった。
コンビニエンスストアからコンビニエンスを抜いたような、それでもストアというほどの明るさや賑わいのないそのスーパーの前で、香奈は空腹に立ち止まった。
アルミ製のドアを開け、店内に入ると意外に広かった。陳列された商品を手にとり、目的や用途の分からないそれらを眺めた。昔から、香奈は珍しいものや新しいものが好きなのだ。箱の裏を見て、ひょろひょろとミミズが這うような文字と、簡単な図から推測する。
いつの間にか屈み込み、険しい表情で箱の裏を凝視する香奈に、「こんにちは」と挨拶してきたのは、陽太だった。彼の隣には、ほとんどの肌を露出した女がいて、暑っくるしく体を密着させていた。アジアのどこか、暑い国の女だろうと、香奈は思った。
「あっ、こんにちは」
慌てて立ち上がった香奈に、陽太が、
「それ、何ですか?」とたずねた。
「分かりません」
「だって、そこ、何て書いてあるんですか?」
「いや、見てただけなので」
「なるほどね。まぁ、文字なんて、基本は眺めるもんですからね」
何わけの分からないことを言っているんだ、と香奈は思った。
「じゃ、オレ、先に帰りますから」
「あっ、あの、昨日は、ほんとにありがとうございました」
「もう大丈夫ですよ。ササキさんが、あの少年をクビにしたらしいんで」
「ササキさん?」
「ピースクラブのオーナーですよ」
「あぁ」
ピースクラブの、オーナー? なんだかものすごくリッチでタキシードを連想させるが、香奈には、ちゃんとあの伸びたシャツと短パン姿の老人が結びついていた。ただひとつだけ、
「ササキさんっていうんですか、あのご主人?」
「いやちゃうでしょう」と、陽太はカラカラ笑った。
「オレも名前は知らないんですけど、初めて会った時にササキサンデスカ?って聞かれたから、勝手にそう呼んでるんです」
「あ、そう言えば私も聞かれました」
「日本人を見ると、絶対に聞いてくるらしいですよ」
陽太の隣で、「はやく〜」とでも言うように、腰を振りながら催促する女に小さく頷いた陽太は、「じゃ、あとで」と言い残して行ってしまった。
もう会わないわよ。陽太の後ろ姿を見ながら香奈はつぶやき、こうしてはいられないと、店を出た。
ホテル、ホテル、ホテル。生涯でこんなにこの言葉を言ったことはないと香奈は思った。通りすがりの人に、露天商に、屋台のおばさんに、手当たり次第「この辺りにホテルはありませんか」と尋ねた。しかし、決まって返ってくるのは、「ピースクラブに行け」というものだった。日本人はきれい好きだからそこが一番いいとまで言われた。あの宿が一番か、とため息をつきながら、この辺で他を当たるのも無駄足だろうと見切りをつけ、香奈は「平和倶楽部」へと向かった。
フロントのテーブルには老人が座っており、香奈を見ると、申し訳なさそうに出迎えた。香奈は少しだけホッとして、「部屋、ありますか?」と尋ねた。
「モチロンアルネ。シバラク、ユー、フリー。コンペンセイションネ。キノウ、ホントニスマン」
思わず香奈は吹き出してしまった。スマン、とは。
老人は、昨夜のお詫びにただで泊めてくれると言っているようだ。「ただほど高くつくものはない」という映画のセリフを思い出し、その結末を教訓に、香奈は、「いいですよ、払います」と言った。差し出した香奈のお金を、老人は受け取らなかった。
昨夜と同じ204号室のベッドに寝ころんだ。「スポーツの国際大会も、ここには関係ないのね」と、香奈は日本から持ってきたお菓子を食べた。
汗と砂にまみれ、お腹が落ち着くとシャワーを浴びたくなった。
とりあえず、廊下の突き当たりにあるという共同シャワーを見に行くことにする。昨夜は気付かなかったが、廊下は鬱蒼とした林に囲まれている。熱帯雨林の匂いというものが、そこから発生しているように思った。つるつるして尖った長い葉っぱが、ゴワゴワの幹から垂れ下がっている。
五つ並んだ部屋の奥に、共同のトイレがあり、その隣にバスルームがあった。香奈がのぞいた時は、誰かが使ったすぐ後だったようで、欠けた鏡が曇っていた。「一応、お湯は出るのね」とつぶやいた香奈にも、少しは自分のいる環境がつかめてきたようだ。だだっ広いだけのタイル張りの空間に、ポツリとシャワーヘッドが壁から顔を出している。
廊下の突き当たりに、少し大きめのベランダがあり、そこにプラスチックのテーブルと椅子が置かれていた。ベランダからは、黄土色でとにかく大きな川が、音も立てずに流れているのが見えた。
部屋に戻り、準備をしてからシャワーに向かう香奈は、ちょうど陽太と出くわしてしまった。彼の隣には相変わらず「密着女」がいる。ふと、昨夜の相手も、彼女だったのか? と香奈は思った。
「どうも」
陽太の、この軽い感じが香奈は苦手だ。彼の人なつこい笑顔も、それに少しだけイケてる感じも、本当に嫌だった。
香奈がまだ新入社員の頃、まさしく陽太のようなタイプの男に惹かれ、つい乗っかってプカプカと舞い上がったことがある。そのまま落下した時の恐怖と痛みは、今でも忘れていない。
香奈は小さく会釈して陽太の横を通り過ぎた。
「あのっ、メシ、食いました?」
「はい。」
「あっ、そう。ほんならいいんですけど」
「それじゃ」
香奈はバスルームに向かい、陽太は「密着女」と自分に部屋に入っていった。あんなところを助けてもらい、次の日にちゃんとお礼も言った後で、さらにもう一度出会ってしまうと、何を話していいか分からずばつが悪い。これ以上、陽太に会いたくないのが香奈の本音だ。
今度は何度も鍵をチェックして、香奈は眠った。
真夜中、隣の部屋からベッドの軋みと陽太のあえぎ声、さらにあの「密着女」の高い声が聞こえた。「ったく」と、香奈は舌打ちしながら、部屋の壁が薄いことと、陽太のあの軽い笑顔に苛立った。毎晩、毎晩、よく飽きもせずに、まるで動物ね、と香奈は嫉妬した。嫉妬している自分にため息をつき、カラカラだった体の濡れを感じた。その軋みと声がスーッと遠くなり、香奈はそのまま眠った。
「ちょー、おいっ、何やねん、またやんけ。カラコ〜、レバー上げてくれ〜」
香奈は、ベランダで村上春樹を読んでいた。
「もう、何回も同じことやんないでよね。浴びる前にちゃんと最後まで上げないからこうなんのよ。ったく。はい、上げたよ〜」
「サンキュー」
香奈が「平和倶楽部」に泊まって十日が経った。
バスルームに隣接するベランダに黄色いタンクがあって、そこのレバーを上げなければシャワーのお湯が出ない。カチッと音がするまであげきらないと、自然に下がってしまい、そうすると水しか出なくなるのだ。
陽太は、何度もその失敗をする。その度に大声で叫び、それが理解できる日本人の香奈が、仕方なくレバーを上げるはめになる。何度言っても出来ない、できの悪い新入社員の男の子に、香奈はめっぽう頼りにされていた職場を思い出す。
この十日間には色々なことがあったが、殊に何がということもないので、結局は何もなかったとも言える。
二泊目の朝、香奈は昼過ぎまで眠ってしまった。
また市街地に出てホテルを探しても、どうせどこも満室だろうし、この辺りにホテルもありっこない。スポーツの国際大会とやらが終わるまで「平和倶楽部」に泊まろうと、香奈は決めたのだった。
一秒でも早く出たいという気持ちは、いつの間にか溶けてなくなっていた。
良いことも悪いことも一定の間隔をおく。香奈は経験上、それを信じていた。あんなことが起これば、宿側もいつも以上に慎重になるだろうし、ぜんぜん信用はできないが、日本人も同じ宿にいる。「二、三日なら問題ないわよ、ね?」と、香奈は自分に問いかけ、言い聞かせたのである。
三日目の夜も四日目も、陽太は隣の部屋で例の「密着女」とベッドを揺らした。そんな陽太とも、梱包された箱の中で触れあい、急速に仲良くなる海外特有の効果で仲良くなった。二人はまるで、高校時代からの友人のようになった。
次第に生活のリズムを掴んでいく香奈は、九時頃に起き、フロントに行ってその日の宿代を払う。「シバラク、フリー」と言った老人も、三日目からはしっかり料金を請求した。その足で町を歩き、川の見える空き地で子供たちを眺めたり、バイクタクシーと呼ばれるカブをつかまえて少し遠出をしたり、気が向ければ市街地に出た。クーラーの効いた店で、見慣れない商品を手に、箱の裏を凝視する。
それ以外は、つまりほとんどの時間、香奈は「平和倶楽部」のベランダで本を読んで過ごした。そこが、香奈のお気に入りの場所だった。
夕食は決まった屋台でとっている。そこは、日本の味に非常に近く、そして安く、さらに「冷たい」お茶が出る。奇蹟のような所だった。「生水はもちろん、氷にも注意すること」などとガイドブックの忠告を読んで、警戒していた香奈はもういなかった。
その屋台は、陽太のお気に入りでもあった。何日も連続して顔を合わせことになった。二人の他に、日本人は、少なくともこの十日間で香奈は出会ったことがない。
香奈と陽太、そして「密着女」。その三人で食べる奇妙な夕食も、いつからか待ち合わせるようになった。
陽太は「密着女」のことを「ピーチ」と呼ぶ。ピーチはインドネシア人で、めちゃくちゃお金持ちのお嬢様、らしい。今はバカンスで来ていて、山手のほうにある別荘に泊まっているという。「まぁ、ほとんどオレの部屋で寝泊まりしてるけどな」、と実に軽く、軽すぎる陽太の笑顔が香奈には腹立たしい。
「二人って、どうやってコミュニケーションとってるの?」
「あっ、ピーチは英語しゃべれるから」
ふ〜ん、っと納得しかけたところで、香奈は慌てて尋ねた、
「えっ、永沢さんも英語話せるんですか?」
「一応ね。ササキさんのニホンゴ程度やけど」
「へぇ」
意外だね、という言葉は飲み込んだ。
三人でいる時は、ピーチこと「密着女」はほとんど話さない。話すにしても、それは目で何かをくねくねとお願いするだけで、彼女の口から英語なりインドネシア語が発せられるを、香奈は聞いたことがない。しかし、香奈には彼女の声が想像できた。きっと濃く、甘く、ねっとりしているのだろうと。
冷たいお茶からスーパーで買ってきた缶ビールに変わり、そのビールの酔いが回り始めると、陽太はイスラム教徒であるピーチの習慣や考え方を語り始める。彼女の繰り広げる「アメリカ批判」を、陽太はそのまま日本語にして香奈に話す。何を話しているのか、「密着女」にも分かるらしく、時々、そうそうと頷く仕草を見せる。
“持ってしまった力(パワー)の使い方を知らずに、ただ振り回しているだけ。正義と悪しかなくて、悪者に限って、正義を主張する典型がアメリカだ。結局のところ、ラブだけで全てが解決すると思いこんでいる単純な国”
概論するとそういうことを「密着女」は言っているらしい。知らず知らずのうちに、香奈はムキになって反論していた。そのアメリカ批判に対し、勝手に回転し始めた香奈の口から、独りでに反対意見が飛び出し、「愛が全てよ」とまで言ってしまった後、香奈は、恥ずかしくなった。
「なんでそんなムキになんねんな」と陽太が言い、香奈は、
「だって、日本人だからよ」と、訳の分からないことを言った。
そんな夜も、陽太は隣の部屋で、「密着女」と甘いピーチーな夜を過ごすのだ。
数日経って、「密着女」が帰国した。見送りには行かないのかと、香奈が陽太に尋ねると、「そういうんじゃないから」と、彼はキッパリ断った。毎晩、毎晩やっといて、何がそういうんじゃない、よ。
香奈の中で陽太という人間の軽薄さが定着する。
「それよりさ、毎日、何してんの?」
「私? 別にその辺ウロウロしてるだけだけど」
「ふ〜ん。あ〜、オレもどうしよかな。ピーチもいいひんようになったし、どっか移ろうかな」
「どこかいいところ知ってるの?」
「どっかって?」
「いや、私、ホテルに移りたいんだけど」
「オレと一緒に? な、わけないよな」
凝り固まった陽太という人間が、こんなことを言ったところで、香奈はもう何とも思わない。だから、
「あたりまえでしょ」と、簡単に対応することができる。
「オレ、ブローシャー持ってるで。ここに来る前、安めのホテルも一応おさえとこうとおもって、コピーとったから。ちょっと待ってや」
陽太が部屋に戻り、手にしてきたのは市街地にある香奈の知らないホテルだった。
「もう、カラコでとってよね。部屋の様子がぜんぜん分からないじゃない」
「カ・ラ・コ?」
「カラーコピーよ。写真がある書類は普通そうするでしょ」
「ふ〜ん」
「ふ〜んじゃなくて。あなたも働いてたんでしょ」
「カラーコピー、っじゃなくてカ・ラ・コ? なんかもったいないやん。今どき、裏紙でコピーとる時代なんやで。そっちこそ、どんな会社で働いてたん」
「こんなイメージもつかめないようなコピーじゃ、その方がよっぽど無駄じゃない」
そんな言い合いの後で、香奈は陽太の持ってきたホテルに電話をしたが、やはり満室だった。何でも、例のスポーツの国際大会は、一ヶ月間も行われるらしいのだ。
その日から、陽太は香奈のことを「カラコ」と呼んだ。
香奈も、永沢さんと「さん」付けで呼ぶだけの人間ではないと思い、陽太のことを「ピーチ」と呼んでやった。
香奈と陽太は、それかも例の屋台で一緒に夕食をとっていた。何かの話がきっかけで、陽太が二十五歳であることと、びっくりするほど大手の外資系ディーラーに勤めていたことを香奈は知った。
「なんで辞めたの?」と香奈が聞いても、「なんとなく」と、ふにゃふにゃな陽太の答えに「やっぱりな」と、香奈は少し見直しかけた自分を元に戻した。
「それに、やりたいこともあったし」と続ける陽太を見て、典型的な八十年世代だな、と香奈は思った。
それがこの十日間の出来事だ。
「ごめん、ごめん。何でオレんときだけすぐ水になんねやろ」
「だから、ちゃんとカチッていうまで上げるんだってば」
「やってるよ。ちゃんとやってんねけどな」
「できてないのよ。それより、早く何か着てよ」
「はいはい」
ここ二、三日は昼過ぎから雨が続き、香奈も陽太も「平和倶楽部」で過ごすことが多かった。何もすることがないと、陽太はすぐにシャワーを浴びる。タンクの水がなくなるので節水してほしいと言われているが、陽太にはその意味が分かっていないようだった。
「あっ、知ってる? 昨日、夜中に日本人の客が来たらしいで」
「へぇ。どこに?」
「201」
「えっ、今朝、扉が開いてたから見たけど、誰もいなかったわよ」
「カラコってさぁ、ようのぞくよな」
「チラッと見えたのよ」
「どうも、ピチピチの若い男の子らしいで」
「へぇ〜」
「まっ、夜はのぞかんように。色々あるやろうから、若者達っていうのは」
「あなただけよ、毎晩、動物並みなのは」
雨は夕方になると上がる。それも何か異常気象の現れで、夕方近くにバッと降るスコールとは違い、しとしと半日降り続く雨に、町の人も鬱陶しいともらしていた。
夜、いつもの屋台で香奈が夕食を食べていると、陽太が日本人の男の子を連れてやって来た。
スラッと背が高く、色の白いサラサラとした男だった。「これよ、スーパーマンは。こうじゃなくっちゃダメだったのに」と、香奈は心の中で陽太を睨み、口を尖らせた。
彼が201号室に来た子だとすぐに分かり、香奈は挨拶をする。
「ジャニーズみたいね」
自分の第一声に、香奈は凍ってしまいたいと思った。
「カラコの言うジャニーズは、少年隊やろ?」
「違うわよ、光GENJIよ」
「嘘やん、オレの時やでそれ。じゃ、えっと、あれっ、ジブン、名前なんやったっけ?」
「高峯です」
「高峯くんの時は、誰やった?」
「いや、ちょっと分からないです」
ピシャリとシャッターを下ろす鋭さが、その201号室の彼、高峯義明の言葉にはあった。
「なかなか、壁が高そうやなぁ」と、さすがの陽太も困っていた。
「いいじゃない、そんなの。それよりさ、ピーチの好きな卵と菜っ葉の料理、今日は出てたわよ」
「うそっ、まじで? それはいただきやわ」
飛び跳ねるように陽太は立ち上がり、おかずを買いにいった。取り残された義明は、冷たいお茶の入ったポットをじっと眺めていた。
香奈がそんな彼に話しかける、
「あのね、ここの屋台は、前でおかずとごはんを買ってくるのよ。米ドルも使えるから、すごく便利よ。味も結構いいし」
「はい」
「あっ、それから、それはお茶。冷たいお茶なんてこの国じゃ珍しいんだから。味はちょっと薄いけど、冷たいだけでもほんとありがたいのよね」
「はい」
押しても、押しても、その感覚がない義明に、香奈は小さな恐怖さえ覚えた。軽ければ軽いで「ふっ」と鼻で笑うこともできるし、逆に、重いと押しがいもある。「いちいちお節介に教えなくても分かるよ」と言わんばかりに「反抗」する表情を見せるなり、あからさまにそっぽ向くなりしてくれた方がまだましだ。確実に話は聞いていないのに、返事だけは嫌みなほど「きっちり」返す。屋台など、おそらく初めてなのだろう義明の風貌が、より異様に感じさせるのかも知れない。
義明の無表情には、その奥にさえ、気怠さや、気負い、緊張も緩和も、まして興奮も感じられなかった。ひとりで海外に来て、そこで出会った日本人に相対する「よろしく」という姿勢が、微塵もないのだ。なのに、ちゃんと輪の中にいるべき存在感を擁している。「箱の裏を見ても何が書いてあるか分からない」義明に、香奈は少し惹かれていた。
菜っ葉の煮たおかずを大盛りにして戻ってきた陽太は、スーパーの袋から缶ビールを取り出し、三人に配った。
乾杯、と缶をぶつけ合った義明は、相変わらずの無表情だった。
例えば、おかずを買いに立った義明が、何も持たずに戻ってきたなら納得も出来たかも知れない。しかし、銀色のプレートに二、三品のおかずとごはんを持って戻ってきた義明は、その後も、あまり話さず普通に夕食を食べていた。
そんな彼のシャッターを、陽太は必死に叩いた。叩いて、叩いて、ちょっと顔を出した彼が一言答えてシャッターを下ろすと、また違う質問をもって叩く。そんな途切れ途切れの会話で分かった義明とは、福岡の大学生で、兄がひとりいること。そして将来の夢がない、ことだった。
「だったら、屋台には慣れてるのね」と言った香奈の言葉にも、
「博多じゃなくて北九州なんで」とピシャリと一言で切られた。
義明のことを「ビジョン」と呼び始めたのは陽太だった。
香奈もそれに合わせていつの間にかそう呼ぶようになった。
義明が「平和倶楽部」に来て一週間が経ち、徐々に「居る」ときに限り、シャッターを開き始めた彼が、ある晩、例の屋台で話したことがその渾名のきっかけだ。それまでにも、義明は小難しいことをポツポツと語り、東京出身の香奈にはピンとこないが、きっと義明の通っている大学は難しいのだろうとも思っていた。
「もう、ぼくらはバスに乗り遅れてるんですよ」
と、突然、義明が言った。
「チェ・ゲバラ?」
そんな風に即答する陽太にも、香奈は正直、驚いた。
「その時代で言うなら、共産主義に二の足を踏んで煮え切らないヤツらですよ、ぼくらは」
「そやけど、あれは間違いやったやろ? オレはそう思うぞ」
「それは結果ですよ。今のぼくらは、運転手さんに、そのバスに乗せてくれないか、って頼むこともしないんです」
「ブルーハーツ?」
そう言った香奈に、義明は「十歳離れた兄が、よく大音量で聞いてたんです」と言った。 香奈はそれ以上何も言えなくなった。
「それどころか、きっとぼくらはバス停にも立ってないんです。バスなんて来ないって知ってしまったんですよ。将来のビジョンは、結局、決められたことで、夢なんて、ただ太陽のように輝くだけで目指したところで辿りつけませんから。バスじゃなくて、線路の上を決められた通り走る電車の方が、生産的だって教えられるんですよ」
「オマエがゆうてるのは、ビジョンと違うやろ。高校一年生が三年生になる感覚の話にすぎひんな。社会に出て生きていくのに、太陽ぐらいでっかい夢がある方が、仮に辿りつけへんとしても、突っ立ったままそこにいるヤツより暖かいやろ」
「そういう人って、ほんとは一番、それが無意味で無益なことだって分かってるんじゃないですか?」
陽太は何も言わなかった。
陽太の夢は自分のペンションを持つことだ。
ユングフラウヨッホに行ったことはないが、きっとそういう所が一番似合うだろうペンションにしたいと思っている。陽太は会社を辞めた後、色々と調べるうちにその実現までのルートをおぼろげながらにつかんだ。あとは「がんばる」だけだった。資金、立地、そして人脈。陽太は、最短距離を探るように、頼れるものには「藁」でも手を伸ばした。
あちこち駆け回って人と会い、二十四時間の隙間を埋めるようにバイトをしながら奔走した。勤続年数の割りに貯金があったとはいえ、資金不足の問題はかなり大きく、融資を願い頭を下げ、握手をして、期待を持った翌日には落胆させられるという日々。踊り場を脱したという景気も、吹いてばかりいる陽太の言葉に、お金は貸してくれなかった。
どこへ行っても言われる言葉、「経験不足」。
そんな時は、十年経った自分の姿に失望し、会社を去ったことを思い出した。十数年、会社にあのままいればそれなりに磨かれて、華麗にゴールを決めることだって出来たかも知れない。余裕という弛みの中でガハハと笑いながら暮らせたかもしれない。だけど、そんな将来、自分の周りにいる先輩達の姿には、決定的に魅力というものが欠けていたのだ。
その志を思い返し、また走り回り、頭を下げる。ふと、後悔する日もあった。飛び出して外から眺めると、それは抜け出さなくても「変えられた」未来ではなかったか。半ば勢いで会社を飛び出した者に、差し伸べられる手は、厳しくて少ないという現実を前に、囲ってくれる箱のような存在が、無敵に感じられることもあるのだ。
陽太は、それまでの自分が貯めてきたモノだけで勝負するのを止め、その貯蓄で自分を成長させ、成長した自分で将来へ挑もうと決めた。
そして、彼は旅に出たのだ。この旅に意味もメリットも見出せない。だけど、無意味や無益は、それらが「無い」のではなく、その時には見えないだけで、どこかで繋がる太く強い手綱なのだと、陽太は感じていた。それが、自分には欠けているのだと痛感した。
夢を描いて動き出し、そのこと自体が無益だと吐き捨てる義明に、陽太は怒りさえ抱く。抱きはするが、「形」になっていない現状、それを言葉にすることが、陽太には出来なかった。
無表情の奥で、義明の言わんとする言葉が陽太には聞こえるようだった、
「っで、結局、放浪の旅ですか」と。
義明の言葉に、陽太は何も答えず黙っていた。
「まぁまぁ、難しいことはそのぐらいにして、そろそろ宿に帰りましょうよ」
香奈はそうやって、分離しかけたふたりをなだめて、グレーにした。
それからも、二言目には「ビジョン」を連発する義明と、「夢」を推す陽太は衝突したが、聞き役に徹する香奈から見て、どうやら陽太は、真正面から義明にぶつかる気がないことを感じていた。
「平和倶楽部」の客は、ほとんどが長期利用客だ。数ヶ月単位でとどまり、その後、また別のアジアの国に旅立つ。ヒッピーや、バックパッカーという言葉は死んでも、そういう「人」は居続けるのだ。そんな「人」イコール若者という数式だけは、万国共通に成り立つようだった。ただ、どこまでを若者と呼ぶかは違うと、香奈は思い始めていた。
別々の部屋で寝る以外、朝から晩まで顔を合わせる三人の奇妙な暮らしも一ヶ月半が過ぎた。
昼前になると、三人はベランダに集まりスーパーで買い置きした昼食を食べる。午後は決まって、香奈は本を読み、シャワーを浴びる陽太のためにレバーを上げる。義明は「ササキ」さんと馬が合うようで、フロントに座って話し込んでいる。香奈と陽太が知る「ササキ」さんは、義明から聞いたことがほとんどだった。
転勤族の家庭で育った義明は、福岡出身とは言っても無難な標準語を話す。香奈と義明に囲まれて生活するうちに、陽太もおかしな標準語を話すようになり、それが、香奈にはおかしかった。
話す言葉のイントネーションも、内容も、「ここ」だけのものになり、お互いを「カラコ」や「ピーチ」、「ビジョン」と呼び合ううちに、ここに生きることが「別」のひとつになって、日本を飛び出す前とのつながりを断ち、「新」になるようで、心地良いと思っていた。それは何も、自分だけではないはずだと、各々が感じていた。
「ボーイ・トイってどういう意味ですか?」
義明が唐突に言い出したのも、いつもの昼の、ベランダでのことだった。
「何なの、それ」
「『ササキ』さんが僕に言うんですよ」
「あれじゃないの、つまり、まだまだボーイで、おもちゃみたいな子供だって」
「何ですか、それ」
ベランダからぼんやり川を眺めていた陽太が、
「あのさ、それってカラコの、っていう意味かな?」と尋ねた。
「カラコさんは関係ないですよ」
「どういう意味か知ってるの、ピーチ?」
「えっ、だから、それは大きな意味で『若い』ってことだよ」
訳が分からず、ぽかんとする香奈と義明の横で、陽太はひとり、この二人はまさかそういう関係なのだろうかと考えた。もしそうであるなら、いつの間にそうなったのだろう、それより、香奈は未婚な訳だから、真剣なのかも知れない、と想像を膨らませた。
「『ササキ』さんと、いつもそんなこと話してんのか?」
「いや、何回か言われたので気になってただけです。昨日は、人を殺してもいい理由について話しました」
「何、それ。物騒な話ね」
「ほんまや。何でそういう話になんの?」
「聞いたんですよ、どうして日本人を見ると、ササキサンデスカって聞くのか」
「えっ、それでそれで」
「『ササキ』さんが子供の頃は、この辺にも日本兵がいっぱいいたらしいんです。その中に、佐々木っていう兵隊がいて、ちょうど今のぼくぐらいの歳だったらしいんですけど、その人の息子じゃないかと思って、聞くらしいですよ」
「ちょ、待って。全然、意味がわかんないんだけど」
「その、佐々木っていう人には、産まれたばかり息子がいたらしいんです。戦地に来たから、もう会えないかも知れないけど自分みたいに育ってほしいっていつも言ってたそうです。当時十歳だった『ササキ』さんが言うには、それまでいたヨーロッパ人よりも、顔つきや背格好が自分たちに近いから、日本兵には親しみもあったらしいです。特に、その佐々木っていう兵隊とは仲良しだったって言ってました。
ある日、『ササキ』さんの友達だった子の両親が、日本兵に連れていかれて殺されたそうです。それを聞いた時、『ササキ』さんにはどうしても信じられなくて、いつも佐々木っていう兵隊がいたキャンプに走って行ったらしいんですけど、もうそこには誰もいなかったそうです。日本軍は、現地の人が立ち入れないような施設を作って、そこに移動しちゃったみたいです。自分の息子にもいつかここを見せてやりたい。それが佐々木っていう兵隊が残した最後の言葉で、『ササキ』さんは、もう佐々木は死んだだろうけど、いつか、必ず立派に育った息子がここに来るって信じて待ってるみたいです。人間には、そういう特別な感覚があるから、その息子にはここが分かるって。それまでは、ここにずっといなければならないって『ササキ』さんは言ってました」
「ちょっと待ってよ、初めて会った時、私も聞かれたわよ」
「立派な息子に見えたんとちゃうか」
「どういう意味よ」
「いや、そうじゃなくて、『ササキ』さんも定かじゃないみたいなんです。その子が男だったか女だったか。子供がいるっていうことは確かみたいなんですけど」
「だけどさぁ、戦争中に生まれたってことは、どう考えても、今はもう六十以上ってことやろ」
「ぼくもそれは言ったんですけど、『ササキ』さんは黙って笑ってました」
「もうさ、ビジョンがその息子やっていうことにしとけよ」
「そんなのダメよ。意味がないじゃない」
「ぼくも、それは駄目だと思います」
「なんでやねん。オマエら知ってるか、昨日、『ササキ』さん一人であの屋根に上って修理してたんやで。もう七十歳も超えてんのに。まだまだ、その息子に会うまでわ〜、ってがんばってるんやって。だから、僕が息子です、っていうたら、それで思い残すこともなくなるやんけ」
「違うんです。『ササキ』さんは、その息子を殺したい、って言ってました」
「えっ?」
香奈と陽太の驚きが重なった。
「『ササキ』さんの両親も日本兵に殺されたんだそうです。状況が急変して、それまでは希望者だけが従事してた軍の仕事も、強制的になったり、色んな統制も厳しくなって、その日、『ササキ』さんが川に水をくみにいってる間に、両親は日本軍に連れて行かれて、殺されたって言ってました。その中に、佐々木っていう兵隊もいたらしいんです」
「それはあれやろ、上官の命令とか、そういうことやろ?」
「きっとそうでしょうね」
「なんかさぁ、私たち、大丈夫よね?」と香奈が言うと、
「大丈夫って、何が?」と陽太が尋ねた。
「いや、だから日本人っていうだけで、なんていうか、恨まれたりしてないよね?」
「わからんな。それは、そうされた者にしか、わからんな」
「だって、仕方ないじゃない、戦争だったんだから。異常だったんだから」
三人はしばらく沈黙した。
ものすごく平和な毎日の中で話す戦争は、だからなのか、とてもリアリティがあった。
「仕方がないって、殺すのがですか?」
無表情なまま、今度は義明が香奈にきく。
「そうよ。だって戦争なのよ。逆に殺されるかもしれないじゃない」
「だからって、殺してもいいんですかね?」
「ビジョンは一体、何が言いたいのよ?」
「この話を聞いてから、ずっと考えてるんですよ、ぼく。人を殺してもいい理由なんてあるのかと?」
「そんな理由、ないよ」
陽太ははっきりと、言い切った。
「死ぬってことは、なくなるってことは、全部が終わるってことで、続きが残されたまま、その続きが進むことがなくて、そこでバッサリ切られるってことやねん」
続きを残されたまま死なれたという陽太の過去を、香奈も義明も思っていた。それは、前の日の夜、陽太がいとも簡単に告白した話だ。
陽太は高校時代、上下関係の非常に厳しいクラブに入っていた。近所に住む先輩の妹で、当時まだ小学生だった真琴という女の子が、陽太のことを愛した。クラブの中でも一番上下関係に厳しい先輩だったので、その妹の想いは、陽太にとって冗談では済まされないほどの負担だった。「かわいもん」などとはとても言えない、恐怖すら感じる愛だったという。
練習の前には、必ず真琴からの手紙を先輩から渡される。そして、その返事を強要される。クラブが休みの日は、真琴とふたりでどこかに出かけ、ランドセルを背負って学校に通うような少女から、キスを迫られたりもする。真琴の近づく顔が、先輩の顔に見えて、それを無下に拒むこともできなかったという。
いつからか、真琴は陽太の部屋にあがり込み、彼の帰宅を待つようになった。陽太の両親は、産まれた時から真琴のことを知っていたので、特別、それが不思議なことではなく、ただ、小学生の子がおにいさん程の歳の男の子に憧れているだけだと思っていたらしい。
先輩が怖くて、その妹という存在でしかなかった真琴が、陽太にとって正に恐怖の対象になったのは、一枚の写真を目にした時だという。それまでも、部屋を勝手に片付ける、かばんの中身を全てチェックする、二人で撮ったプリクラを部屋中に貼るなど、その程度が異常だったので、ゾッとしたことはあった。ある日、陽太とたまたま一緒に写っていたクラスメイトの女の子の顔が、釘のようなもので刻まれていたらしいのだ。修学旅行や学園祭、行事ごとにまとめたアルバムを開いてみると、全て、どの写真も、女性の顔だけが白くなっていた。
香奈は、その話を聞きながら、女の子の人形が急に凶暴になるアメリカの映画を思い出していた。
陽太と俺の妹が付き合ってる。その先輩がクラブ中に言いふらしたのを機に、陽太はクラブを辞め、真琴とも会わなくなったのだという。
中学校の入学式の日、真琴が死んだ。
近所に知らせる回覧板には病気のためと書かれていたが、自殺だったそうだ。先輩は陽太を責めた。「オマエ、真琴にゆうたらしいな。中学生になったら好きな人も出来るって。オマエ、そうゆうたらしいな。真琴は、オマエのことが好きで、ただそれだけやったのに。二年か、三年、いやもっと短いかもしれん、その間だけ、真琴の気持ちに応えてくれてたら、あいつは、死なんですんだのに」
それ以来、陽太は誰かの想いを真剣に受け止めることができなくなった。彼の言葉で言えば、「マジになる自身がない。オレの方からマジになるまでは」ということらしい。
バッサリ切られた続きを進めるために、息子か娘かもあやふやな「相手」を待っている「ササキ」さんの六十数年を思うと、香奈には、どうしても納得のいかないものがあった。
「やっぱりさ、佐々木っていう日本兵を恨むのはお門違いよ。その子供に復讐するなんて、もっと間違ってるわ」
誰も何も言わなかった。
それは解答のない問題で、問題にすらならない心の部分と直結したことで、だから考えても分からない。
義明には、「ササキ」さんの話から、実感することが多かった。その言葉の情景が想像できた。
これまでの義明には、そういう言葉を語る「大人」がいなかったのだ。中学生の時は、兄が犯してきた罪と、そんな兄のイメージが義明につきまとい、「先生は、高峯君本人を見ている。お兄さんがどうだからきみもなんて思ったりはしない」と言う教師に限って、真っ先に疑いの目を向けてきた。
父は、大企業と呼ばれる会社の重役だが、まだ中小企業だった時代に高卒で入社し、生え抜きで部長になった。学歴がなく苦労したので「お前には同じ思いをさせたくない」と繰り返すだけで、大学生活がどんなものかという想像は、父の発する大学からは感じることができなかった。
「あの子は自由に育てすぎたから失敗したのよ。もう義明には失敗が許されないから、出来る限りのことはしてあげたい」という母の言葉も、そこに義明は存在せず、いつも「兄」との比較対象でしかなかった。
そんな大人たちに囲まれ、義明は幼い頃から言われるがままにお勉強をして、急行列車で二十一年間を生きてきた。
兄が警察に捕まり、保護観察処分を受け、保護司とあわずに再び犯罪者となり、その度に近所からは白い目で見られる毎日。家の中で、義明は言われるままに成長し、兄とは違う自分になることで在意義を見出すしかなかったのだ。
義明の方をちゃんと向き、お前のためだという名目を抜きにした丸裸の「ササキ」さんの言葉。
義明は、佐々木という日本兵の立場を想像して、「自分も同じように上官の命令には逆らえず戦地では人を殺めたかもしれない」と不安にさえ思った。
三人とも黙り込むベランダで、誰もが「ササキ」さんのことを考えうつむいていた。ポツポツと雨が降り出しても、三人は動こうとしない。
ポツ、ポツと雨の滴が頬に落ち、
ポツリと陽太が言葉を落とした。
「殺されたから殺すとか、悪いことをしたから殺すとか、何て言うの、気持ちの相殺?っていうのは、実際できひんし、あったらあかんねやろな」、と。
次の一秒後には大雨になる。これが本来あるべきこの国の天候だ。三人とも大慌てで自分の部屋に戻り、その晩、例の屋台へ夕食へ出かける者はなかった。
午後十時を過ぎた頃、香奈は日本に電話をかけるためフロントに向かった。階段のすぐ手前にある、201号室は、電気が消えて真っ暗だった。
「ビジョンはもう寝たのかしら」と、香奈は何気なく扉横の窓をのぞくと、暗い部屋の中で、ズボンとパンツを膝までおろした義明が、目を閉じたまま自慰していた。
手の動きにあわせて、彼の座っているベッドが静かに軋む。香奈は、その場から動くことができず凝視してしまった。
急に振り向いた義明と、目が合ってしまい、香奈は思わず会釈した。
義明は慌ててパンツとズボンをずり上げ、左手に持っていたティッシュをゴミ箱に捨てた。そんな彼を見て、香奈も急いで階段を降りていった。
いつ帰るのか、一体なにをしてるのか、早く帰ってこい。電話に出た香奈の母は、元気にしているのかということすら尋ねなかった。
電話を切り、フロントで少し時間を潰してから、香奈は自分の部屋に戻る。義明の部屋を少し急ぎ足で通り過ぎようとした時、「カラコさん」と呼び止められた。そのまま無視して通りすぎることもできたが、一言謝ろうと、香奈は立ち止まった。扉横の窓から顔を出した義明は、招き入れようとした訳ではないが、香奈は自然と部屋の中に入った。
お互いがお互いに、何を考えているかを探りながら、第一声を出しあぐねた。
「この宿も、もう少しキレイだったら、もっと快適なんだけどね」
香奈は当たり障りのないことを言う。
触れずにいようとする香奈の気持ちをくんで、義明もその言葉に返答した。
「もっと快適っておかしくないですか? 快適なのに、それ以上を求めるからおかしくなっちゃうんですよ」
「もっと、もっとって思うのは向上につながるじゃない」
「せっかく快適なんだから、そこに浸る方がいいじゃないですか」
いつもの陽太と義明の会話のようだった。
聞いていただけの香奈が、面と向かって義明と対峙すると、何となく交点のなさに敗北を感じてしまう。
「ビジョンってさ、どうして旅に出たの?」
香奈は全然違う質問をぶつけた。
「突然なんですか?」
「もう一ヶ月半も一緒にいるのに、一度も聞いてないなと思って」
「カラコさんはどうしてここに来たんですか?」
「私? 私は十年勤めた会社を辞めて、時間も出来たし、ちょっとは貯金もあったし。だから何となく」
「ぼくも、かな。何となくです。実は今頃、ぼくの大学は試験中なんです。それを受けずにどっか行っちゃったら、どんな気分なのかなと思って。やらないといけないことを放棄するっていうか、自由?っていうか」
「っで、どんな気分なの?」
「分からないです。ただ、いつも通りきっちり試験を受けていたら、『ササキ』さんのような人がいることを、知ることはできなかったので」
「じゃ、よかったじゃない」
「そうですね。でも本当は、知りたいんです。どんな気分なのかっていうこと」
「自由っていう気分?」
「と、いうか、ぼくには兄がいるんです」
「知ってるわよ。十歳年上で、ブルーハーツが好きなお兄さんでしょ?」
「はい。兄は親に反抗ばかりしてました。反抗して、非行にはしって、警察に捕まって。それでもまだ反抗して、反抗して。でも、結局、二十歳を過ぎたころから反抗することを止めたんです。急にちゃんと働き初めて。っで、僕は思ったんです。何で反抗してたんだろうって。それなら始めから反抗なんてしなければいいのにって、ずっと思ってました。母は兄のためにいつも余所のお母さんにペコペコしてました。別に悪くない時でもずっとです。そんな母を見てると、兄が嫌いになって、絶対にあんな風にはならないって決めました。だけど、最近思うんです。思春期っていうんですかね、ぼく中学の時も特になかったから、遅れてやってきたのかも知れませんね。反抗してみたい、って思ったんです。どうなるんだろう、って興味もありました。父や母は何て言うだろう、って」
「それで、旅に出たの?」
「そうですね。今考えると、やっぱりそうですね。反抗してみせたんです。情けないですよね、二十一にもなって。でも、僕と両親の距離から言うと、これは、立派な反抗なんです」
「まぁ、罪を犯してる訳でもないから、いいんじゃない、そのぐらいの反抗は。思春期にはありがちよ。反抗してみてから思う気分より、反抗してしまう気分が分かっただけでも、お兄さんの気持ちに近づけたんじゃない?」
義明は香奈の言葉に反応しなかった。
停滞する沈黙が、ふたりの間で引き付け合い、香奈にはいつもと違う義明が映っていた。引っ張られるように、香奈は思い立った。
そして香奈は、義明を押し倒した。
湿度が高く、蒸し暑い夜。香奈は義明の上にまたがり義明しか見えず、仰向けの義明には香奈しか見えない。ふたりだけの夜が、ベッドの軋みにあわせてリズミカルに更けていった。
翌朝、香奈の方が先に目を覚まし、横に眠る義明の顔を眺めた。「反抗、か」と、三十二歳の自分と二十一歳の義明に距離を感じた。しばらくして、義明も目を覚まし、二人はしばらく見つめあった。
「おはよう」
香奈の言葉に義明の返答はなかった。義明はベッドから起きあがると、黙ったまま顔を洗いに部屋を出ようとする。扉の前で立ち止まり、背中を向けたまま義明は、
「あの、陽太さんには……」
「うん、わかってる。言えないよ」
香奈も、義明が部屋を出た後、自分の部屋に戻った。
何かが変わったのは確かだった。その「何」というのは分からない。ただ、香奈は義明に、そして義明は香奈に、実際の距離とは異次元の「遠さ」を感じていた。一度近づきすぎたが故に築き上げられた壁のようでもあり、おろされた幕ようでもあった。
そんな二人の変化を敏感に感じ取った陽太は、「ササキ」さんが義明に告げたという「ボーイ・トイ」という言葉を思い出していた。
最初に行動を起こしたのは陽太だった。
香奈が例の屋台に向かおうと「平和倶楽部」を出た時、ちょうどスーパーの袋を下げた陽太と出会った。
「スーパーでメシ買ったから、オレ、今日は屋台やめとくわ」
「そう、分かった」
それだけを交わすと陽太は歩き去り、香奈は少しだけホッとした。
そのまま、香奈は屋台に向かい、いつもの席に一人で座っている義明を遠目に見た。彼は二人が来るのを待っているのだろう、まだ何も買わずに冷たいお茶の入ったポットを眺めていた。香奈の足は、気持ちに正直に、頭とは逆に、屋台から遠ざかった。
次の日、廊下や洗面台で三人が顔をあわせても、お互いに「昨日の夕食」のことについては何も触れず、形だけの挨拶を交わしただけだった。
その日を境に、三人が自と集まって会話することもなくなり、二週間、三週間と過ぎていった。
見えない停止線がそれ以上に進むことを拒み、そのラインの手前で踏み越えることが面倒だった。これまで通り、当たり障りなく引き込めばいい。
陽太はそんな風に思っていた。
一旦は隅の方に追いやっていた日本の暮らしが、その過去の日の続きが、どんどん真ん中の方へと蚕食し、一人で部屋にいると、この数ヶ月間の「平和倶楽部」での日々が無益に思えてくる。ほんとに何もなかった。だけど、とても楽しかった。「かった……」。陽太は、もうそろそろ、終わりにするべきかもしれない、と思った。
香奈もまた、そんな風に思っていた。
会社勤めという自分のリズムを打ち切って、旅に出た。新しい自分を作ろうと決心し、それを目的にした。「なのに何やってのよ、私は」と自問することもしばしばで、部屋にひとりでいることが増えると、その疑問は加速して香奈に迫った。自答することができない。確かに、この旅では「新しい」こともあった。真っ暗闇も、空想も、夢の、色も。ハンモックに揺られながら、真っ青な空と海に溶け込むような日々ではなかったが、ベランダで本を読みながら陽太の叫び声の後でレバーを上げるのも、のんびりしていて楽園のようだった。真っ青な空と海がない、それだけのようにも思えた。
ふと、陽太にも義明にも色々あるんだとを思った。「過去の一つや二つ、かぁ」と目を閉じた。香奈は幼い頃からの自分を思い返し、友達のように何でも相談できた母を思う。中学に入った頃から一般的と言えるだろう関係になった父のことも考えた。両親は、こんな娘をどう思ってるんだろう。
会社を辞めて実家に戻った時、父は、「逃げたのか?」と香奈に聞いた。「違うわよ」と香奈は反論し、その後で、残業がひどい、女にできることには限界がある、このまま仕事を続けても……と、堰を切ったように続けた。だけど本音は、「逃げる勇気なんてなかったのだ」と、十年という長さを噛みしめていた。
「はぁ」と、ため息が声になった。とても静かで平和な部屋から、倶楽部のような興奮に似た感情が消え去る。過去の一つや二つ。香奈にはそれが、ない。そのことが香奈には問題だった。ここに来ることを猛反対した母の顔が思い浮かび、その奥に、高校生の頃によく二人で買い物に行った時の母の顔もあった。ふわふわとわき上がる気持ちを、香奈はまた声に出した、
「そろそろ日本に帰ろうかな」
義明も同じように、そんな風に思っていた。
これ以上は、進めない。あの夜、香奈とのことを悔やむでもなく、その逆でもなく、ただ、ひとりでいる時間がよかった。勢いに任せて初体験し、その後は勢いに乗れず、立ち止まり躊躇した。「反抗して旅に出た、か」と、香奈に言った自分の言葉を繰り返す。義明は、一度も旅に出た理由など考えたことがなかった。聞かれて思わずそうなったに過ぎない。「反抗」という言葉に人一倍の嫌悪を感じる義明には、それをしている自分、そう思われたに違いない自分が耐えられない。兄が家族にもたらしたこと、そして義明に教えたこと。それは、ちょっとやってみたいなと衝動的にすることではなかったはずだ。もっと深く、重く、恨むべき行為のはずだった。なのに……。
誰にも入って来てほしくなかった。自分の領域、狭いスクエアの中だけで生き、踏み込まれる心配もない日本に、自分の家に、義明は帰ろうと思い始めていた。
三人が出会って、最初の一ヶ月はとても長く感じられたのに、話さなくなってからの一ヶ月はあっという間に過ぎていった。
ひとりでいる心地よさを共通して持つ三人には、日本にいた頃の「自分」に戻りつつあることに抵抗はない。何もかもが物珍しく、それを楽しいと感じていた頃から、何となく、こういう日が来ることを全員が感じていたのかも知れない。
ひとりになる。これ以上踏み込むのは、そこに「自分」がいるのは、煩わしい。そう思うといつもひとりになってきた。別に嫌いになったという訳ではない。それを言うなら、「相手」というよりも「相手との距離」だ。それが嫌になった。
ただ、ここでは日本のように自分を守りきれない、ひとりになりきれない。一日一回は必ず顔を合わせる、朝、トイレを待つ、薄い壁を突き抜けて相手の存在が主張する。それは家族のように、口を利かなくても何とかなるという絶対的な安心感をもって距離を置ける関係でもなければ、学校のように、登校拒否すれば離れることができるというものでもない。あくまで他人、それ以上でも以下でもない三人の共同生活なのだ。距離を置こうと意識さえしなくなった頃、そういう「相手」の存在は、より頻繁に目につくようになった。
「ササキ」さんには、そんな微妙な三人の関係性が分からない。今まで、ベランダを占拠して三人で昼食を食べ、夜になれば一緒に出かけて、一緒に帰ってくる。「ササキ」さんは、彼らを日本人という「塊」として考えているのだ。
ある日、香奈がスーパーから戻ると、フロントで「ササキ」さんに呼び止められた。明日、階段の工事があるので「みんな」に伝えて欲しいという。
みんな、と言われてハッとするほど距離ができた陽太と義明に、「私が伝えるの?」と思わず聞き返してしまった。
義明の部屋の前を通り、扉横の窓からのぞいてみたが留守で、三ヶ月もいるのにきれいに片づいているなと香奈は思う。ベランダにいるのかもしれないと思い、そのまま廊下を突っ切った。陽太はシャワーを浴びていた。ベランダに顔を出してみたが、義明はいなかった。ふと、黄色いタンクが目に付き、レバーが下がっている事に気付く。「カラコ〜」という声は、そこにはもうなかった。
部屋に戻り、香奈は本を読み始める。しばらくして、陽太が部屋の前を通ったので、「ピーチ」と呼び止めた。そう呼んだ後、少し恥ずかしさがあった。
「明日、階段の工事があるって、『ササキ』さんから伝えるように言われたの」
「わかった」
「あっ、それから、ビジョンにも言ってくれる?」
「わかった」
自分の部屋以外に部屋のような所がない「平和倶楽部」での日々。例えば、ベランダも、フロントも、廊下もバスルームも、部屋のようにくつろげたのは過去の話で、狭い部屋が窮屈になると、宿を出て町を歩いた。お互いに、顔を会わすのを避けるかのように、三人が三人とも、昼前には宿を出て、夜になれば帰ってくるのだった。
香奈は毎日、そうやって外に出た。この町は、本当に何もない。歩くたびにそう思う。だけど、それでいい、いや、それがいいと思うようにもなった。川の洪水で崩壊した橋は、工事が一向に進まず、空港からのバスがこの町で止まるようになって店も人も増えた。午前中には、そのターミナルと化した場所で新聞を売り歩く少年までいる。散髪屋のひびの入った鏡は新しくなり、スーパーに並ぶコカ・コーラが冷たくなった。市街地に出ると、ドキドキするようにもなった。三ヶ月、それはとても一瞬なのに、七百万回以上秒針が刻むだけの膨大な変化があるようにも思えた。
香奈は、川の見える空き地に向かう。その隅にこっそりとあるベンチに腰掛けて、本を開き、気が向けば読み、気が進まなければ眠ったりが、最近のお気に入りだ。ただ、そこはじっとしていても暑い。暑い、暑いと思えばなおさら暑い。だから、いつも何も考えずにじっとする。すると時々、涼しい風が吹く。そんな風を感じる度に「そういうものよね」と、香奈は思うのだった。ずっと同じ所にいて、時々、他のことをする。だけど、結局また、そこに戻っていく。香奈は、暑いと分かっているその空き地へ歩きながら、どうせどこへ行っても暑いのだからと考えていた。
空き地までの入り組んだ細い道も、香奈の頭にはすっかりインプットされた。もう、迷うこともない。何度も迷った過去の日は、香奈の中から消え去っていた。
空き地に着くと、いつも香奈が座っているベンチに、陽太が寝ころんでいた。そんなことは初めてだったので変な感じもしたが、もともとこの空き地は、陽太から教わったものだ。彼に気付くと、香奈はとても自然に踵を返して来た道を戻った。突然、一つ目の曲がり角から義明が現れた。思わず香奈はびっくりしてしまい、義明も目を大きく開いて驚いているようだった。
お互いに見つめ合うように立ち止まっていると、後ろの方から「カラコ〜」と聞こえたような気がした。ふっと振り返ると、それは「ような気がした」のではなく、ベンチの前に突っ立った陽太が、確実に香奈を呼んでいたのだ。
「久しぶりに、三人でしゃべらへんか?」
陽太が結びつけ、そして離した三人の関係を、また彼が呼び寄せた。
開口一番、「オレ、日本に帰るわ」と陽太が言った。
香奈も義明も、それを聞いても何も言えず、陽太が
「だから、何て言うか、まぁそれだけやねんけど、このままやったらせっかく知り合ったのに、あれやな、とおもて」と続けた。
香奈には、陽太が完璧な関西弁に戻っていることが新鮮だった。
「そうよね、いつまでもここにいる訳にはいかないもんね。私も、もうこんなことしてる歳じゃないし」と、目の前に見える大きな川を眺めながら香奈がつぶやいた。
香奈の隣には義明が座っている。陽太は、ベンチに座らず地面に腰を下ろし、石で何かを描いていた。
「あ〜あ、私、何やってんだろ。知らないうちにこうなってたっていうのが本音なのよね」
香奈の言葉は、二人に向かって話すのではなく、それは独り言のように続いた。
「付き合ってくれませんかって言われたこともあったのよ。だけど、その時はまだ二十四、五だったし、全然そういう気になれなくて。毎日仕事で疲れてたし、休みの日は、それはそれでやることもあったし。まだいい、って思ってたの。でも、いざ仕事も限界かなって思い始めた頃には、二十八、九の頃だったと思うんだけど、もう私には何もなくて、誰もいなくて、だから仕事にしがみつくしかなかったの。友達の結婚ブームも落ち着いて、次の波に向けて結婚はしてなくても、私の周りの友達にはみんな彼氏がいたわ。私、気が付いたら、学生の頃に別れてから十年間、誰とも付き合ったことがないのよ。別に欲しいって願ってたわけじゃないけど、十年、って言われるとチョットね。でも、もう三十二だしね、この歳になると難しいわよね」
義明は隣でうつむいたまま、なぜ香奈はそんなことを話すのだろうと、その真意を探っていた。ヒリヒリしながら聞いていた。
「それは歳のせいとちゃうやろ」と、陽太が地面に何かを描きながら言った。
「どういう意味よ」と、久しぶりに会話が成立した。
持っていた石を投げ捨て、短パンで一度、二度手を払ってから、陽太は、
「だから、今でも出来ることを歳のせいにしてできひんって言うてるけど、それは過去に戻ったとしてもできひんと思うで。今も過去にもできひんことは、これから先もできひんよ、このままやったら」
ドキッとした。ズシンときた。こんなこと言われるのは初めてだった。それは、香奈自身、一番よく分かっていることだ。
「三十二歳も二十一も同じですよ。『もう』って言えばそうだし、『まだ』って思えば、まだまだですよ」
義明がうつむきながら言った。
その彼の相変わらずの無表情に、思わず香奈は、
「あんたに何が分かるのよ。全然、違うわよ。分かったようなこと言わないでよね」と捲し立てた。一瞬、沈黙したが、それでもおさまらず、
「だいたいビジョンは口ばっかりで、何も自分で経験してないじゃない。そりゃ、あんたはまだまだよ。二十一なんてこれからだし、初めてのことばっかりよ。だけど、いつまでもそうやって遠ざけて、面倒臭がっていたら、いつかきっと後悔するわよ」
私みたいに、という言葉は言わなかった。
「カラコさんと僕は、違いますよ」と、義明がまだ、うつむきながら言った。
「できる環境にいたのに、やらなかっただけですよね、結局」と続けた。
「じゃ、ビジョンはどうなのよ。何が違うのよ。お兄さんのことも、ご両親のことも、私の家族とは確かに違うわよ。大変だっただろうなって思うわよ。でも、乗り越えたじゃない」
「終わるものじゃないんですよ。カラコさんには分かるはずもないですよ、『ササキ』さんのことだって、ほんとは何も分かってないんでしょ」
聞き役だった陽太は、香奈がそうであった時のように無難になだめようとはしない。ただ、大きな川を眺めているだけだった。
言い返すことができず、沈黙する香奈は、陽太と真琴のことを思い出し、そして、義明に何も言い返さないでいた陽太の顔を思い浮かべた。
「すいません」
突然、義明が言った。真っ赤な顔をして、謝った。
「いいよ、なんで?」と、香奈も慌てて口を開いた。
「あの朝みたいに、このままうやむやにするのは嫌なんです。あの時、目が覚めた時、ぼく、どうしたらいいか分からなくて、何だか急に恥ずかしくなって、だから何も言えなくて」
香奈は陽太を見た。彼は、相変わらず川を眺めていた。
「私も、何も言えなくて。ビジョンの言うとおりよ。私はほんとは、分かってないのかもしれないわね」
義明も香奈も、何気なく陽太の方を向いた。
ぼんやりと川を眺めながら、
「この川ってさぁ、何ていう名前なんやろ」と陽太が言った。
「知らない」。答えたのは香奈だった。
「オレ、この川見るの好きやったな。こんなにでかいし、汚いし、流れも速そうやし。そやけど、何か向こう岸までいけるんとちゃうかなって思えんねん。言うほどしんどい事でもないんちゃうかなって」
「泳ぐでってこと?」
「そう。なんかいけそうな気がする。日本にいた時やったら、絶対おもえへんかったな。まず服が濡れるとか、警察が来るとか、やる前からそんな事ばっかり心配してたと思う。将来ってさぁ、オレにはめちゃめちゃ不安やのに、目の前の明日はそうでもないねん。それはさぁ、やっぱ将来って言われると、ずーっと先にあって見えへんからなんやろな。狭い所にいるから、全体像も向こう岸も分からへん。ここに来て良かったよ、それが分かったような気がするから。結構、単純なことなんやってな」
「でも、もしほんとに泳いだら後悔しますよ。やってみたいな、っていう衝動はありますけど、それを抑えないと向こう岸がいくら見えたって途中で溺れちゃいますよ」
「オレもそやと思う。そやけど、泳がへんかっても、後悔はするやろ?」
「大丈夫よ、二人とも若いんだから」
香奈は、また言ってしまった、と胸の中で舌打ちした。
「二十五歳のオレも、三十二歳のカラコも、二十一歳のビジョンも、そういう歳の横軸じゃなくて、今っていう縦軸の直線上で、こうやって一緒にいるやろ、オレら。遅いとか早いじゃなくて、この川まで来て立ってる。いつまでもこの辺をウロウロしてる訳にもいかへんから、どっちみち、この川は渡らなあかん。それやったら、いけるかもしれへんって思える方がええやん。そう思えただけでもすごいやん」
「私、ここに来て嫌っていうほど『今』の自分を思い知らされたわ。そのためだけに、来たみたいな気もするわよ。今まで、こんなに他人から自分のことを言われたこともなかったし、他人のことを言ったこともなかったの。衝突っていうのかな、そういうのはできるだけ避けてきたから。でも、ピーチに言われたことも、ビジョンに言われた事も、ほんと、私、前からずっと考えてたことだし、その通りだなって思うのよ」
「オレもそうやで」
「僕もそうです」
「でも、ええんとちゃうかな。岐路っていうか、そういうとこに立った時は、自分がどこにいて、何を持ってて、何がないのか、それを徹底的に思い知らされる方が。無いからって悲観したり、持ってる人を羨ましがったりしてもしょうがないやろ。これから、それを探さんと、無いものは補わんと。どっちみち、進まんとあかんねんから。歳は違うけど、今まで持ってるもんだけで勝負できるほど、目の前の川幅は狭くないやろ、三人とも」
「やっぱり……、ぼくは我慢してたんですよね」
そう言った義明には、明確に表情が見て取れた。
「自制している、それが一番いいって思ってましたけど、ここに来て、ほんとにぼく、よかったです。二人に会えて、色々話せて良かったです。今までずっとひとりで考えてたので、周りが見る自分と、自分が見る自分って、やっぱり違うなって分かりました。いや、ほんとは、自分が一番否定していた自分が、今の自分なんだってことも分かったような気がします」
「オレも、前にカラコから、カラコは覚えてへんかもしれんけど、アンタは普段ペラペラしゃべるくせに、肝心なことを言わない、って言われて、ショックやった。その、『今』の自分っていう現実が」
「あ〜、もう終わりか。日本に帰るのか。終わってみると楽しかったわよね、ここでの三ヶ月」
「はい」
「そやな」
「日本に帰ったら、どうしよう」
「ここに来た時と同じでええんとちゃうか」
「どういう意味?」
「何か、あるはずもないことを想像したり、期待したりしてたやろ」
「確かに、そういう空想も描いてたわね。だけど、そんなの一瞬で吹き飛んじゃったけど」
三人はここで、初めて笑った。
「だけど、何とかなるかな、とは思ってましたね」
「いけるよ。オレらもこの先、なんとか、なるよ」
「どっちみち、そうしないといけないんですからね、ぼくらは」
「そうよね、うん。意外に、単純なのかも知れない。会社も辞めて、収入もなくなって、三十二歳で彼氏もいないけど、それでも、いけるわよね。これからよね」
「大丈夫、カラコやったらうまいこといくよ。それに、なぁ、ビジョン。二人もこの先どうなるかわからんし」
陽太は、人差し指で香奈と義明の間にハートを描いた。
真っ赤になって黙る香奈を見て、義明が慌てて尋ねた、
「それでピーチさんは、いつ日本に帰るんですか?」
「明日」
「えっ、そんなに急なんですか?」
「いや、二週間ぐらい前にチケットは取ってたんやけど、言う機会がなかったし」
「メールするね」
「あっ、僕もします」
「うん、オレもする」
香奈は、陽太が決めた未来を、泳いで渡ることに決めた背中を、羨むでもなく、素直に応援した。自分も続くからと思いながら。
「よし、ほなら行こか」
陽太が立ち上がり、尻の砂を払う。
香奈も義明も、立ち上がって歩き始めた。
[了]
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