全国の数百という公立高校で、履修漏れが発覚し、「たまたま」こんな時代に高校3年生をやっている今の受験生にはかなりコクなしわ寄せがきている。センター試験まであと2ヶ月と少し。本来ならこの時期にこそ、試験対策をしたいところだろう。正直、試験に「必要のないこと」に割く時間が1分でもあるなら、英単語の一つでも覚えたい。それがたとえ、本当の意味で何の「意味」もなく、「価値」もない勉強だとしても、受験生にとっては、試験にでること「のみ」が意味があり価値があるのだ。
いきなり体育館に集められ、校長先生から説明を受け、「だから補習をうけてもらうことになる」なんて言われても「え〜」というざわめきと悲鳴は痛いほどわかる。

さて、と思う。
そもそも高校は義務教育ではない、、、という現実と乖離したそんな大前提から考えると、個々の生徒が学びたい科目を「より」高等レベルで勉強すればいいのであって、「基礎解析はパス」とか、「世界史はけっこう」というならそれでいい。学校側は、卒業までに必要な単位数を決め、その中で専攻別に必修単位を課せば、それをクリアした生徒に卒業資格を出せばいい。本来はそうものだろう。

が、今の教育課程ではそれを許さない「ルール」があるし、どこかで、そういう専門教育は「大学」で、という風潮になっている。もう五年もすれば、大学でようやく「一般常識」がつくようにと、あれもこれも「必修」科目が増えるような時代になるだろうことは容易に想像がつくが。

とにかく、みんながみんな高校へ行き、大学へいくのだ。まだ「上」があるとなると、最低限のことは最終的なところで身につけて社会へ出ればいいから、とにかく今は、その「上」へいくための科目だけをやろう・・・。こんな感じだろうか。

う〜ん……、とうなるのもバカらしくなる。

そもそも、今回の履修漏れの発覚は、生徒ではなく学校側の責任であり、ルール違反だ。それを非難することは「夏は暑い」というほどに明らかで恥ずかしくなる。まぁ、よく言えば、社会に出たらいくらでもあるだろう「虚偽」や「偽造」の実態というのを、高校生のうちから体験しているという「社会勉強」かもしれないが、そんな笑い噺に済ませたいことが、笑い事ではないところがとてもおそろしい。

東大合格者数がそんなに必要?
もっとないのか、こう「だからうちの高校へ来い!」という魅力が。
……ないか。

では、もう割り切って「うちの高校は大学へいくためのところです。その他、友だちもできるし、クラブ活動なんていうオプションもあるので、一石二鳥ですよ。塾とはそこが違います」ぐらい思い切ったことを謳えばいい。そうすれば、中学三年生の時点で、「誰がそんな学校いくものか」という判断ができるし、「高校進学」という一本道しかなかった選択肢が、いや、これもある、と「考える」だろう。それを、あたかも「受験」だけじゃない、清く正しく楽しい高校生活の上で、勉学に励み、その結果、行きたい大学にも行けるような学力がつく、、、なんて「夢のような」ことを言いながら、受験をあたかも魅力的なオプションのようにいうから詐欺なのだ。正直に、「塾+α」だと言い切って生徒を集めればいい。おそらく、生徒は集まるだろうし、得てもない単位を「隠す」作業が減る分、教師も楽になる。

そういうルールに変えればいい。教育基本法のあれこれの中から、「理想」的ルールは排除する。「必修」、つまり必ず学ぶべきことは、必要なもの「のみ」にする、と。その「必要」という範囲を、大学入試のためだけという狭い範囲に絞って、「それだけ」ですようちは、という高校には、それを認めればいい。社会に出てから必要になるものは多岐にわたって本当に多用だ。だからその基礎部分は確実に学ぶ必要がある、、、ということから文科省は必修科目を課しているのだろうが、それはもう七年も八年も、現実離れし、嘘で塗り固められ、素通りされている。なら、そんな「大学に入るためだけの高校」だと謳う所には、それをよしとすればいい。

そして、大学が、もしくは企業が、求める人材の質を変えるしかないのだ。
例えば、世界史の基礎知識がないと解けない英語の長文問題や、道徳的なことを記述させる現代文の問題、十八歳にもなれば当然知っているだろうという前提にたった政治経済や倫理の問題、または論理的に「考える」力を試す面接試験など。なんなら、試験案内の「持ち物」の蘭に、「試験当日は、筆記用具と『一般常識』を忘れずにお持ち下さい」と記述すればいい。

ダラダラと何が言いたいかというと、社会に出てからも学び続けるし、社会に出てからの方が学ぶことは多い。「あの企業との商談」という【ターゲット】が決まれば、その対策をする。そして、必要な(必修)なことを学んで商談に臨む。それが「社会に出てからの必修科目」だと考えると、大学入試を【ターゲット】ととして、そのために必要なもの「しか」学ばせない高校があるから、必修科目の履修漏れという事態になっている。高校から履修したという証拠があれば、当然はそれはありきで、大学側はさらに必要な知識を問う試験をしているのだが、それはもう「きれい事」になってしまっているのだ。高校側の証拠を、いちいち試すような「確認」を兼ねた入試問題。それを出題するしか、高校生が「必修科目」を勉強することはないだろう。なぜなら、必修科目が必要ないのだから、、、大学受験という【ターゲット】には。悲しいし虚しいし、それをよしとしない教師で溢れているだろう現実が、どうして必要とされないのか。偉そうに、ぼくは悲しがる。



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必要のない、必修?
2006年10月29日