ヒト型ロボット

2004年5月15日

ネコ型ロボットには聞き覚えがある。ドラ焼きの好きな例のカレである。そんな未来からの使者に助けられる小学生に自分を重ね合わせた日もあった。好きな娘がいて、ガキ大将に怯え、金持ち野郎を恨めしく思っていた。
そして、心の中で叫んでた「ドラえも〜ん」と。

今、日本ではヒト型ロボットの開発が熱い。ホンダの「アシモ」、ソニーの「キュリオ」、トヨタの「ワカマル」。二足歩行して踊るロボットたち。空を飛んでみたいという憧れから生まれた飛行機、未来への空想から生まれた高層ビル群。どうもこの延長線上にヒト型ロボットもあるように思えてならない。だからこそ、魅力を感じる。憧れが実用性に結びつくと実現する。このヒト型ロボットの実用性は、現在のところ留守番、介護、話し相手などであるといわれている。もっと先には、被災地での救助活動や絶対にミスのない手術なども考えられているかも知れない。が、当面(とはいえ、まだまだ数十年先の話になるが)は、少子化に伴う福祉分野での活用を視野に入れている。
いつの日か、ロボットが「ココロ」をもち、人間に牙をむくようなことになるのではないか、という心配は漫画の読みすぎだろう。

「いいじゃないの、おもしろいよ」。そんな暢気に「期待」している僕。その正反対に、実際、動いている企業は手堅い。確かに、宇宙開発などに莫大な費用を投じるアメリカとは反対に、莫大な費用をこの「ヒト型ロボット」開発にかけているのだ(朝日新聞)。
失敗はゆるされない。成功したらデカいぞ!という投資でもない。その分、これは単なる夢物語ではなく、地に足をつけた動きだと伝わってくる。

そうか、ロボットのサーブするコーヒーで眠気を覚まし、ロボットがアイロンをかけたシャツを着て、ロボットが運転する車に乗って出勤する。信号待ちをしていると、ロボットが犯人を追いかけて、ロボットと朝の散歩に出かける婦人が行き交う。
そんな「人」と「ロボット」の混在する街で、いつまで僕らは人間を愛することができるだろうか。「急増中!もう人間なんて愛せない症候群」。そんな記事が携帯メールに送られてくるのかも知れない。我が家のロボット自慢、っくらいの話なら二、三年後には実際のものになるように思える。

僕らは、留まることなく人間を放棄し、留まることなく人間に執着する。
人として倫理をもち、ピンチになったら神に祈る。それは、何千年たっても変わらない。
二千年以上前の、あの始皇帝だって、皇帝という新たな権力をもってしても、聖山・泰山で神事を行ったほどだ。これからどんなに進化しても変わらないだろう。
ハードは変わらずソフトを次々生み出し、そして、いつかはキャパシティを越えてしまう未来。心配するのはそこだ。

いかん、いかん、マイナス思考すぎる。

大火事の中を耐熱ロボットが飛び込み、救助するシーンを想像しながら「あぁ、いつかそんな日がくるといいなぁ」と想像することにしよう、微笑みながら。あんなことも、こんなこともできるといいなぁ、ってね。

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