アームレストからあげた右腕で、ゆっくりと、目の前に山なりの弧をえがく。
〈頂上、ねぇ……〉
ぼくは、小さなタバコ屋の、狭いハコの中にいる。
駅まで続く一本道を眺めながら、中学三年の担任から聞いた話を思い出していた。
黒板に書かれた山、そのてっぺんを赤チョークでグリグリ塗りつぶす先生。「ここ、この頂上に行くまでには」、チョークを持ち替えて「この道もあるし、こっちだってある。ここも、これも」。下から上に、カラフルな線を何本も引いていた。あの時の先生は、熱かった。ちょうど夏休み前の終業式の日で、
〈それでなくてもくそ暑いのに今さら何言ってんだよ〉と、窓から見たグランドには誰もおらず、〈だいたい、高校に行かないヤツなんているわけないだろうが、いいから早く終われよ〉と、貧乏揺すりばかりしていた。下敷きで扇ぐ風が、妙に気持ちよかった。
「だから、言いたいのはだな――」、ぼくらの方を向いた先生が、ほとんど誰も聞いてないことに気づき、ものすごくトーンダウンした声で「高校進学以外にも選択肢は色々あるってことだ。この夏休みにもう一回、じっくり考えてみなさい」と、冷めた。
「起立」の号令で立ち上がりながら、ぼくはその「頂上」が一体どこにあるのかを考えていた。就職する時か? 結婚する時か? 六十で定年退職する時か? ……それとも、死ぬときなのか?って。
結婚して、離婚して、そして今、ぼくはこうして実家に戻り、車いすの生活を強いられている。もう一年になる。今年で三十だ。
頂上。あの何度も塗りつぶされていた所へ、ぼくは行けたんだろうか、それとも辿り着けなかったんだろうか。どちらにしても、今のぼくは「そこ」へ向かおうとしていたあの頃とは別の世界にいる。これからをただただ消費しなければならないという巨大な空虚の中にいて、この現実が、ぼくをこのハコの中に閉じこめている。
「あら、友介くんじゃない? 久しぶりねぇ、元気にしてる?」
自動販売機からタバコを取り出した義成の母ちゃんが、片手に抱えた薄手のセーターを整えながら話しかけてきた。
「大変だったねぇ、交通事故。おばさんも聞いてびっくりしちゃった。次から次に、友介くんもほんと、大変よねぇ」
あ、はい……、
「そうだ、うちのもやっと結婚して、まだあそこに住んでんのよ。よかったら遊びにきてやってね」
どうも……。
義成の母ちゃんは、セーターを鞄に仕舞い込んでから、駅へと歩いていった。
隣町に住む義成とは、小学校も中学も別々だったが、七歳から同じ水泳教室に通っていた。「友介がいるから」という義成の訳のわからない理由で同じ高校に行き、一緒に卓球部に入った。部活なんて入る気はなかったのに、「大人になっても気軽にやれて、年取ってからも楽しめる」からと、ぼくまで巻き込みやがった。おかげで? ぼくの高校時代は彼女もできず、ずっと義成と連む羽目になった。二人で同じ大学を受けたが、アイツは受かって、ぼくは落ちた。それからは、会っていない。
〈うちのも、やっと〉……かぁ。そういう、ゴールする年になったんだろうな。ぼくは、バックレストのリクライニングを倒して、前輪を何度か振ってみた。あの、小高い丘の上にある義成の家、玄関までに十段近くも階段を上る、あの家。そこへ、遊びに来いと誘われた。リクライニングを戻しながら、〈この、からだでか?〉と、ため息が出た。
「ややこしい家族」。義成の母ちゃんから言われたこの言葉。それまで、ぼくも普通で、みんなと同じで、特別だとか「ややこしい」家庭環境にいるなんて思ってもいなかった。だけど、成長していくに連れて何度もこの言葉にぶつかった。ぶつかっては跳ね返され、またぶつかって。なかなか超えられなかった。
ぼくの家族は、父・猿渡秀之と、小さい頃から「多恵ちゃん」と呼んでいる姉の三人だ。ただ、多恵ちゃんとぼくの母親が違う。十八歳だった父さんが、同じ歳の良子さんと結婚して多恵ちゃんを生み、二十八歳で離婚。それから、父さんが三十五歳の時、ぼくの母さん、弓子と再婚して、翌年にぼくが生まれた。母さんは、ぼくを産んで二年後に死んでいる。十八歳も年の離れたぼくと多恵ちゃん。姉弟というより親子に近く、現に小学生の時なんかは、授業参観に来てくれた多恵ちゃんを、ぼくの母親と勘違いする人がほんとに多かった。いちいち訂正するのが面倒臭くなって、もう来ないで欲しいと頼んだこともある。多恵ちゃんが母親なら、父さんは、ぼくのおじいちゃんって事になったりもした。まぁ確かに、文具店で働いていた父さんは、あの頃からのそのそと動きがおそかったけど。
今も父さんは、その「さるわたり文具店」で働いている。学校がすぐ近くにあるので、それを頼りに生き延びているという状態だ。もともとばあちゃんが一人できりもりしていた店を、結婚を機に父さんが引き継ぎ、隣の空いたスペースで良子さんがタバコ屋を始めたらしい。自宅も兼ねた文具店での同居生活、まだ若い良子さんが、独立した自分の空間を求めたのだろう。ぼくが生まれるずっと前の話だ。それから、良子さんが家を出ると、文具店との並行が大変なのでタバコ屋の方はずっと閉めていたらしい。高校生になった多恵ちゃんが再開したのだという。多恵ちゃんは、母親の作った場所で、今のぼくと同じようにここに座って、ぼんやり目の前の一本道を眺めていたのだ。高校生の頃から何十年間も、ずっと。
文具店とタバコ屋。あくせく働き回るというよりは、定点に居てじっと見ているというか、若い時から父さんも多恵ちゃんもそうして生きてきた。その事が関係しているのかどうかは分からないが、二人とも老けて見えた。僕が十歳の時、父さんは四十六で、多恵ちゃんが二十八歳だった訳だし、おじいちゃんとお母さんという誤解も、二人の容姿が助長していたに違いないと思う。多恵ちゃんは今の方が、つまり四十八歳を目前にした方が、若々しくて活き活きして見える。
あの頃、多恵ちゃんはため息ばっかりついていたから。
交通事故に遭い、自分の下半身がほとんど不随になったと知った時、ぼくは、〈なんで死なせてくれなかったんだ〉と恨んだ。神も仏も太陽も全部、司るっていう象徴に文句ばかりの日々だった。自分で死ぬ勇気のないぼくは、死なせなかったもののせいにして、泣いたし、喚いたし、色んな物を壊した。だけど、バタバタしたってしれているという、無力感。寝かされたベッドから半径一・五メートル離されただけで届きもしないという、仕打ち。
悔しくて情けなくて、微笑まれるのも泣かれるのも、一切を拒絶していた。
「離婚があって、精神的に参ってたんでしょう。だからあんな無茶な運転をして……」という事になっている。勤め先の所長は、警察や保険会社との事故処理を終え、すぐに病院に駆けつけてくれたそうだ。父さんも多恵ちゃんも、あの時は勇気づけられたと感謝している。ぼくの意識がしっかり戻り、リハビリも食事も拒絶していた頃、所長はぼくにも優しい言葉をかけてくれた、と父さんは言っている。「車いすでも働ける業務はあるから、リハビリをがんばって、早く普通の生活ができるようになれよ。焦ることはないけど、できるだけ早く戻ってきてくれ」と。〈普通にはなれないよ〉、ぼくはそれを聞いて、わらいたくなった。ちょうどその頃から、ぼくが熱心にリハビリをするようになったので、父さんは逐一その様子を所長に知らせていたらしい。ぼくはもう、会社に戻る気など、なかったんだけど。
リハビリして、車いすぐらい乗れるようになりたいと思ったのは、別れた妻・茜が見舞いに来てからだ。それはたった一回で、特に何を話したということもないが、その時、ぼくはずっとトイレを我慢していた。ひとりじゃ行けないし、まさか手伝ってもらうのもごめんだった。ぼくらの間に子供でもいれば、茜とぼくの直接的な関係が絶たれても、子供を介して間接的なパパ、ママという立場にいて、溲瓶とってくれないか、ぐらいは簡単に言えたかもしれない。だけど、それが格好悪くて、早く帰ってくれ、と願うばかりだった。だから、だ。あの日を境に、ぼくはリハビリを本格的に開始した。
若いから回復が早いと言われ、退院したぼくは、それからもしばらくは自宅療養が許された。事故から七ヶ月が過ぎ、復職することになった。戻る気はなかったが、父さんと二人だけの家にいるのは疲れたし、あの頃はまだ、〈こうなった以上、ずっとここで、じっとして居るわけにもいかないだろう〉と考えていた。
事故に遭うまで、ぼくはトラックを運転し、決められたルートの決められた自動販売機にジュースを補充するという、言わば力仕事をしていた。それが無理になって、急に事務職を充てられても要領を得なかった。自分の会社で、誰かが下半身不随の大事故を起こすなんて例は過去になく、だから周りの社員は、ぼくの復職に感激し歓迎してくれた。時代はバリアフリーだろ、という波に乗るためのぼくが存在しているような、窮屈な感覚に苛まれながらも、だけどぼくは、何ヶ月も待ち、またこうして働かせてくれる会社の寛大さに感謝もしていた。
結局、一ヶ月もしないうちにぼくは退職した。「迷惑になりますから。それにちょっときついですし」、と辞める理由を話したとき、父さんも所長も同じような顔をしていた。〈ぼくが弱いんだろうなぁ〉、というか。正直なところ、うまく言えない。迷惑になるともきついとも思ってはいなかったけど、辞めたかった。職場ではいつも、それが過剰だなんて気付かないうちに、ぼくにとっては過剰なほど周りの人たちは気を遣ってくれたし、気付いてはもらえない不便も、それをいちいち「お願い」すると協力もしてくれた。だけど、そんな毎日はとても疲れたし、どんどん卑屈なっていく自分が耐え難かった。
もう秋だ。寒くなりそうな気配はまだないけど、うだる程の熱気がサラッと通り過ぎるようになった。朝晩は少し肌寒い。通学していく中学生たちも、二三日前から上着を着はじめた。
会社を辞めてからは、毎日このタバコ屋にいて、小さな窓が切り取る外の世界をずっと眺めている。一度は、〈ずっとこうしては居られない〉と思い飛び出したが、やっぱりダメだった。家でも職場でもどうせ疲れるなら、ここでじっとして居ることにした。
このハコの、内と外。窓から見ることのできる範囲だけど、外の世界は動いていおり、その分、自分が止まっていることを強烈に意識させられる。ただ、ここに居るだけなのだ、と。このからだだから死ぬとか、このからだでも生きるという強さもなく、その真ん中の緩衝地帯にいる。文具店や家の中ですすんで父さんと話すでもなく、窓から見える外の世界に出て行く訳でもない、真ん中のタバコ屋で、このハコの中で、ただ時間を消費している。
いつも静かで暗く、そして安全な無のハコ。
時間だけがいたずらにある。寝たり、ぼんやりするだけでは使い切れず、ついつい、今後の事を考えてしまう。例えば、父さんがもし死んだら自分はどうやって生きていくのか、とか。一度考え始めると、不安やら屈託やら恐怖が襲ってきて、ぼくは、おろおろするばかりだ。だからって、走り出せる訳じゃないし、動き回れない。じっとここで考え耐えるばかりなのだ。一晩中眠れない夜もあった。長い、長い、そんな夜。どっと重く、無限に不可能で、ザワザワ、バクバクする気持ちが、猛スピードで焦燥した。
ぼくは、すぐに違うことを考えるようになった。これからの事は、とりあえず先送りするのだ。昔の父さんを思い出したり、今まで見た映画のストーリーを頭に思い描いたり、仮に事故に遭わなかったとして、ぼくの姿を創造したり。遠ざけると、まるで消去されたかのように、安心できた。
目の前の一本道、駅まで続く道。窓からのぞく日常は、今日も昨日を繰り返しているようで、完全に同じではない。この小さな違いに気づけるのは、こうして一所から観察しているからで、向こう側にいた頃のぼくには気づけなかった。動けた頃のぼくには、止まってみえた光景。その中の微動。同じ時間の同じような人の群れも、毎朝タバコを買ってくれる若いサラリーマンのネクタイも、狭い駐車スペースからはみ出た車の位置も、空の、色も。
人通りが少なくなると、突然フレーム・インしてアウトするまでの「人」たちと、自分の思い出を重ね始める。遅刻しそうで必死に走る小学生と、ラッシュ時間から少しズレて駅に向かう就職活動中だろうスーツ姿の学生と、定食屋の昼間の列に並ぶ作業着の青年と、泥んこのユニホーム姿のまま下校する中学生と。決して、すべて思い出が楽しく、幸せなものばかりではない。けれど、普通に歩き、動き回っていた頃の過日は、どこか甘い果実のようで、それを肴に酒を飲む老人のように耽ることができた。
三十年で終わるぼくの思い出。それはどれも鮮明で、悲しいほどに少なかった。老いたのではなく、突然コースからつまみ出されたような感じ。ゴールしたランナーが座り込んで思い返すそれとは違い、ゆっくりとコース脇の歩道を車いすで進みながら、追い越していくランナーと重ねる思い出。だとしても、懸命に振り返った。思い出して、その中に逃避した。こんなに残されたミチと、まだまだ老いることが許されない自分に、ぼくは背を向けていないと、まったく別の世界にいるのだと閉じこもっていないと、ほら、またこうしておろおろしてしまうのだ。
ぼくは、小さなタバコ屋の、狭いハコの中にいる。そこで逃避し、空想し、安堵している。ブツブツ独り言をつぶやきながら、限られた過去を何度も思い出しては、一つひとつがより鮮明になる。カッチカーチと間延びする時計の針とともに、ぼくは生きている。背を向けながら。こうしていると、年相応よりも早く老けて、早く「終わってくれる」のではないかと、どこかで期待してもいる。四十六歳の父さんがおじいちゃんで、二十八歳の多恵ちゃんが母親だったように。
*
あの頃、多恵ちゃんはため息ばかりついていた。
まだ小学生だったぼくは、学校から帰るとかばんを置いて、このタバコ屋にすっ飛んできた。一つしかない椅子に飛び乗って多恵ちゃんの横に座る。「おかえり」と言いながら、多恵ちゃんがおやつを出してくれる。〈今日は何かな〉、あの待っている時間が妙にもどかしく、だけどワクワクして。なんであんなに嬉しかったのか、自分でお菓子を買って食べられるようになってからは忘れてしまった。カールを食べたり、コーラを飲んだり、ピノを二人で分けたりしながら多恵ちゃんといる時間は楽しかった。宿題をしろとも言われたけど、しないための作戦を練ったりするのも、それはそれで楽しかった。
おやつを食べてるぼくの隣で、ふと気づくと、多恵ちゃんはいつもぼんやり窓の外を見ては、ひとりごとのように静かに話していた。手を突っ込んで残り少なくなったカールを探ったりしてるぼくに構わうこともしないで。
「父さんも昔は……、まだ私が友ちゃんぐらいのころは……、友ちゃんのお母さんはね……、友ちゃんがまだお腹にいる時は……、幼稚園の年長さんの頃かな、友ちゃんはこう言ったんだよ……」。ぼくが母さんの事を覚えているような錯覚に陥るのも、幼稚園に入るまでのいくつかの記憶が鮮明なのも、それは全部、あの頃多恵ちゃんから聞いた話なのだろう。ゆっくり、静かに、あまり表情を変えないままの多恵ちゃんの話は、どれも興味深かったし、続きが知りたくなった。なんで?
どうして? というぼくの質問には、一つひとつ丁寧に答えてくれたし、何度でも同じ話をリクエストすればしてくれた。
ここに居て、誰とも話さず、夕方になって帰ってくるぼくにひとりごとのように話していた多恵ちゃん。ぼくに言いながら、その昔話の中に、耽っていたのかもしれない。今、ぼくにはそう思える。
そんな過去の話をした多恵ちゃんは、決まってこれからのぼくの話をした。中学に行って、高校、大学、就職、結婚、と続くぼくの未来。ほんとに楽しいことがいっぱいあるからいいねぇ、まだまだどうにだってできるから羨ましいよと、多恵ちゃんは無表情に笑っていた。ため息ばかりつく多恵ちゃんのイメージは、あの無表情にあったのかもしれない。「いいねぇ」、「うらやましい」と言った後に見せる、何もない顔。語尾の下がる、あの調子。
「この道をまっすぐ行くと駅があるでしょ。そこから電車に乗って、ずーっと遠いところまで行って、どこかの駅で降りたらまた、そこから楽しいことがいっぱい始まるんだよ」。
何度も聞かされた。「駅」というものが持つ意味は、あの頃のぼくには「出口」のように思えて、だからぼくは、〈この一本道の先には扉のようなものがあるんだろう〉と思っていた。そこを抜けると新しいコトが始まって、それはすごく楽しいのだと想像していた。広くて長い、駅までが遙か遠くに感じられた道の、ずっと先にあるミライ。ぼくは、それを空想していた。すごく無邪気に、とても大胆に。
多恵ちゃんが大笑いする顔も、激怒する顔も、あの中学の入学式前日に始めて見たような気がする。多恵ちゃんは、明日ぼくの入学式だからと、いつもより凝った料理を作ってくれた。当時、良子さんが頻繁にうちに来るようになっており、あの日も、夕飯の支度が整った頃にやって来た。父さんはそうでもないが、とにかく多恵ちゃんが、良子さんを追い返そう、追い返そうとしていたのを覚えている。だけど、良子さんも一緒に夕飯を食べることになって、何の話だったか、多恵ちゃんはお腹を抱えて笑っていたなぁ。確か、父さんが文具店で働き始めたばかりの頃、多恵ちゃんを抱いてタバコ屋にいた良子さんにどうしたとか、ぼくには全然分からなかったが、とにかく多恵ちゃんは大笑いしていた。高校を卒業して、大学には行かずにタバコ屋と文具店を手伝いながら、家事をこなし、ほとんど「お母さん」のような多恵ちゃんも、良子さんの前では違って見えた。それが、ぼくにはおかしくてたまらなかった。夕飯を食べ終わり、台所で良子さんと多恵ちゃんが並んで後かたづけをしていた時、
「これ以上、めちゃくちゃにしないでよ」、といきなり多恵ちゃんの大声が響いた。あんな風に叫んで、あんなに怖い声を出すなんて、ぼくはもちろん、父さんも驚いていた。
「多恵……」、そう言いながら、泣きそうな良子さんの背中は、〈悪いのは多恵ちゃんで、良子さんが可哀想だ〉とぼくには思えた。逃げるように帰っていく良子さんに、「また来てね」と、ぼくは手を振って見送った。
あの日から、良子さんがうちに来ることはなくなった。
怖い顔のまま玄関を睨む多恵ちゃんに、ぼくは「ごめん」と謝った。多恵ちゃんは、ずっと泣いていた。座ったままの父さんも、泣いていた。ぼくはあの時、どうでもいいことをしゃべって、必死で笑ったけど、それを見て二人は余計に泣いていた。〈ぼくも中学生になるんだ、しっかりしなきゃ〉と密かに思っていたのを思い出す。その後、どうなったのかはあまり覚えてない。次の日は朝からバタバタしていて、急いで中学まで自転車をこいでいたことしか記憶にない。そうそう、校章を縫いつけたバッジを忘れて、ぼくは入学式の間、ずっとその事を気にしていたのだ。
ずっと後になってから聞いた話だと、あの入学式の前日、良子さんはまたお金を借りに来たのだという。多恵ちゃんは「たかりにきた」と言っていた。
小学生だった多恵ちゃんを残して家を出た良子さんも、多恵ちゃんの誕生日だけは必ずうちに来て、ごはんを作り、ケーキを食べて、歌をうたって祝っていたらしい。それは、多恵ちゃんが中学生になっても変わることなく、父さんもその日ばかりは昔のように三人で楽しそうだったという。だけど、多恵ちゃんがちょうど高校に入った頃から、父さんとぼくの母さんの結婚話が出て、それに感づいた良子さんが態度を一変させたという。あまり話したがらない多恵ちゃんは、いつも「まぁ、そういうことよ」とはぐらかすので詳しくは分からないが、察するに、「多恵を返して」とか、「多恵が多感な時期に再婚なんて信じられない」とか、そういう理由で、良子さんは父さんの再婚に反対だったのだろう。
良子さんにとって常にいる場所ではなくなっても、娘のいる場所であることに変わりはなく、そこに「誰か」が入り込むことは、おもしろいわけがない。それは、多恵ちゃんにとっても同じだったのではないか? 酔った父さんから聞いた話だと、多恵ちゃんはぼくの母さんと結婚することに反対はしていなかったらしい。むしろ、その逆だったという。高校生になったばかりで、「これからは私がタバコ屋の方はやっていくから」と宣言した多恵ちゃんが、そこに留まらなくてもよくなると、そう考えたのかも知れない。これは、ぼくの推論に過ぎないけど、きっとそうだろう。
酔った父さんはこうも言っていた。多恵ちゃんはこの事を知らないからと口止めしてから、良子さんが父さんの再婚を承諾したのは、多恵ちゃんの進学や結婚費用のために貯めていたお金を渡したからだ、と。
ちょうどその時期、良子さんの経営する小料理屋が資金難に陥っており、それを知った父さんが、直接頼まれた訳ではないけど、お金を渡したらしい。「まとまったお金はそれしかなかったから。良子のやつも背に腹は代えられなかったんだろう」と、父さんは淡々と話した。
ぼくは、この話を聞いたとき、やっと分かったような気がした。多恵ちゃんは、だから大学に行かなかったのだ。全部、知っていたに違いない。多恵ちゃんは恐ろしく頭が良かったのだ。ぼくが中学に入って間もなく、生物の先生から「猿渡さんの、君は、弟?」と声をかけられたことがあった。風貌はまるで校長先生のようで、メガネから除く目玉がギョロっとしたおばあさん先生だった。多恵ちゃんが通っていた時からいて、いかに多恵ちゃんが優秀だったかを聞かされた。だから?って顔でぼんやりしていたぼくを見て、あの先生、笑ってやがった。まぁ、ぼくの生物の最高点は五十八点なので、あの時点で笑われるのも無理はないけど。勉強も出来、離婚と再婚の裏側にある空気を敏感に感じ取った多恵ちゃんの決断に、ぼくは大きな「借り」を作ったような気にさせられた。
母さんがぼくを産んですぐに入院すると、多恵ちゃんはそれまでにも増して働いたという。家事はもちろん、夜中はパン工場で、そのまま早朝のコンビニでバイトをする日々だったらしい。タバコ屋と文具店を合わせると、いつ寝てたのかと心配になるほどの根の詰めようだ。
「私が早くうちを出なきゃ、弓子さんが安心して戻って来れない」。多恵ちゃんは父さんにそう言ったらしい。そのことをぼくに話す父さんの、あの表情は今も瞼に焼き付いている。母さんの入院は長びいて、その間に多恵ちゃんは半年ほど一人で部屋を借りて住んでいた。ぼくは、母さんの実家に預けられていたらしいけど、もちろん、そんな記憶は全くない。結局、母さんが死んで、ぼくを母さんの実家から引き取った時、多恵ちゃんもうちに戻ってくることになった。その時、父さんと多恵ちゃんの間でどんな話があったのかは知らないが、多恵ちゃんが四十過ぎまで結婚しなかったことと、無関係ではないのかもしれない。
ぼくの母さんの死からしばらく経って、良子さんはまたお金を借りに来るようになったらしい。多恵ちゃんが一人で住んでた部屋にも来てたというから、良子さんの店は、多恵ちゃんのための貯金を使い果たしても尚、すぐに資金難に陥っていたのだろう。もう今はその店も潰れてしまっているが、何度も経営難を乗り越えながら十数年続いたらしいので、良子さんにその道の才がなかったというよりは、運の問題だったのかも知れない。今、どこで何をしているのか、多恵ちゃんの方にはたまに連絡があるらしいけど、ぼくは知らない。心配というよりは、このタバコ屋を作って、ここから飛び出した良子さんの今が、気になる。こうなったぼくには、なぜか他人事とは思えない、というか。
こうして良子さんとうちの全体像を知ったのは、ぼくが大学生になってからで、あの日は何も知らなった。今から思えば、多恵ちゃんも、そして父さんも、内緒で良子さんにお金を渡しているのを何度か見たことがあったし、「いつもすまないねぇ」と頭を下げる良子さんも覚えている。何をしてるのか分からなかったけど、良子さんは、ぼくのおばあちゃんみたいだ、と思っていた。
多恵ちゃんに「これ以上」とまで言われた良子さんの背中、今思い出しても、悪いとか悪くないというのではなく、少し悲しいと思う。それは、あの時の多恵ちゃんが、父さんが、そして良子さんが。
中学時代、ぼくはずっと続けてきた水泳教室に加えて、学校でも水泳部に入った。水泳教室は週二回で、泳ぐのが別に嫌いでもなかったので、ぼくは、消去法で水泳部を選んだ。全国大会とか、タイムとか、ライバルとか、そういうことに躍起になる「きっちり」した部でもなく、毎日飽きもせずバタフライの練習ばかりしていた。当時、マット・ビオンディがぼくのヒーローだった。そのタフな泳ぎに憧れ、あの完璧な肉体に近づきたいと一生懸命筋トレもした。今でも、ビオンディの泳ぎは目に焼き付いていて、だから、余計に重くなることもあるんだけど……。
中学二年の夏ぐらいだったか、誰かが「スクール水着をはくと、ピチピチ、モッコリになって恥ずかしい」と言い出した。水泳教室では平気だったぼくも、学校ではくのは恥ずかしくなり、部活を休みがちになった。プールの授業も見学するようになった。部活もプールの授業も、全部を水着姿のせいにしていた。だけど、本当は部活で仲の良かった俊や清司が「休もうぜ」って言ったからであって、ぼくは、あのピチピチ、モッコリの水着さえ、一人では否定出来なかったのだ。
部活をサボる、買い食いをする、自転車で行ける限りの遠出をして、ゲームセンターや、カラオケに行く。そして、タバコも吸う。ダメだと言われることは、どれも最高だった。ただ、そんな悪事も、俊や清司に倣ってしたに過ぎないけど。〈だからぼくは悪くない〉といっているのではなく、〈だからぼくは情けない〉と思っていた。
母親がうるさい、父親が鬱陶しい。俊や清司からは、ずっとそんな話を聞かされた。そしたら、ぼくも何だか注意することがやたらと増えた多恵ちゃんや、サラリーマンではなく、どこの父親よりも年寄りだった父さんが、うるさくて、鬱陶しく感じるようになっていった。そのうち、狭くて汚い家も、文具屋もタバコ屋も、何もかもが嫌になって、
―― はやく、電車に乗って、遠いミライに行きたいと思うようになった。外の世界が開けると、内はものすごくちっぽけにみえた。ぼくには、知らないことが多すぎて、経験したことも友達の半分とない。両手を広げて全速力で走り回っていると、このまま飛べるんじゃないかと思え、だけど出来ない理由は、母さんがいないからだと、つじつまを合わせるようになっていった。
そんな風に好き勝手やれたのも、学校の「不良」グループに目をつけられるまでだった。俊がそのグループに加わり、ぼくらも巻き込もうとしたが、清司が「絶対嫌だ」と言って距離を置くようになったおかげで、ぼくも清司と一緒に逃れることができた。だけど、タバコ屋だからというので、先輩からは何度もタバコを持って来いと言われ、何度か店のタバコをこっそり持ち出して渡したこともある。清司がそれを知って俊と喧嘩したことは、後になって聞いた話だ。当然、在庫管理はしっかりしているので、多恵ちゃんはぼくがタバコをこっそり持ち出していることに気付いていたはずだが、そのことで直接叱られたことはない。俊が番長のように、おとなしそうな何人かを子分のように引き連れて廊下を歩くようになると、ぼくは、俊と話さなくなった。
週二回の水泳教室。これだけはサボらずにちゃんと通っていた。義成とも、小学校の時となんら変わることのない関係だった。オンナの話が異様に好きな義成は、そっち方面の知識が豊富で、ぼくはほとんどアイツから教わった。
「友介はカッコいいからソッコーでカノジョができるよ。だからさぁ、その時に恥かかないためにも覚えておけよ」。義成はいつもそういう、自分の方が上にいて、ぼくを持ち上げるような言い方をする。
コンドームにはいくつも種類があって、薄さや濡れを慎重に選ばないといけないことや、オナニーをするときからできるだけイキそうになっても我慢してその長さに慣れること。っで、実際に女の子とやった時は、その後が大事で、優しい言葉をかけてあげること。楽しそうに義成は、雑誌やビデオを見まくって、ぼくに教えてくれてだ。ぼくもあの頃は、真剣に聞いていた。
ソッコーでできると言っていたぼくより、先にカノジョを作った義成は、その自慢話ばかりで、ほんと嫌にもなったけど。
ある時期、水泳教室内で、ぼくが不良になったと噂されたことがあった。それとなくみんなの視線が変わり、中でもあからさまに態度を変えたのが義成の母ちゃんだった。だけど義成は、アイツだけは何ら変わることなく、カノジョの昨日の様子を詳細に自慢してきた。あの時ばかりはいいヤツだなぁ、と思っていた。
中学三年という区切りは今から考えると大きかった。それまでの環境を変えるにはもってこいの理由があるのだ。「受験があるから、今までみたいには遊べない」と言い出したのは清司だった。だから、一人になったぼくも、勉強した。遊ぶ時間だけで目一杯だったそれまでとは違い、時間ができたのだ。所詮、頭のいいヤツなんていうのは遊んでないだけ、というのがぼくの持論だ。その通り、遊ぶ時間を勉強に回すと、ぼくの成績は「普通」ぐらいまでに上がった。行ける高校がどこもないという、お手上げ状態ではない、普通に。
十五歳にもなると、多恵ちゃんは母親というよりも姉のキョリになり、敵から仲間に変わったような気がした。「塾へ行かなくていいの」と多恵ちゃんがぼくに聞いて、即答で「行かない」と答えた夜、父さんは「友介だって、ちゃんと分かってるんだようちの状況が、な。塾なんか行かなくても、がんばって公立に入ってくれるんだよな。がんばれよ」って言った。それを聞いて初めて、そういう状況なのかと理解した。そうと分かれば、何が何でも公立に合格しなければと焦った。うちには私立に通えるほど余裕がない。〈……やっぱり塾に行かせて〉と言いそうになった。
なんとか引っかかったぼくの高校は、あの一本道の先にあった。
学区で割り振られた公立高校でも、上位の何名かは他の学区の高校を選ぶことができ、その上位の何名かに入って、義成はぼくと同じ高校に入学した。三年間、いつもアイツと連んでいた。
びっくりする程、早く過ぎ去る一週間があって、もうこのドラマの曜日か、なんてぼんやり過ごしていると、それが一ヶ月になって、ひとつの季節になって、一年になって、あっという間に進路がどうのという時期になった。
ぼくの大学進学に関しては多恵ちゃんが執拗にこだわった。この頃のぼくは、成績も中の上で、大学受験を真顔で言っても特におかしいという席にはおらず、だからぼくも何となく大学へ行こうとは思っていた。そんなぼくを見抜いたのか、父さんは不安がって、「とにかく浪人だけは勘弁してくれよ。どこの大学にもひっかからないなら、早いうちに条件のいい会社に入れ」という意見で一貫していた。そんな父さんの意見を聞く度に、多恵ちゃんは「条件のいい会社に入るためにも、大学には行った方がいい」と主張していた。っで、お前はどうなんだ? と聞かれても、ヘラヘラ笑うか、〈知るかよっ〉と寝ころぶことしか、あの時のぼくにはできなかった。そんなことを言われても、どうしろというのだ? 例えば、一日十八時間勉強した者は合格、そうじゃない者は不合格というなら、「うん、がんばって十八時間勉強するよ」と答える気にもなるが、そうしたって、落ちる者は落ちる。
大学に行かずすぐに働き出す勇気も、大学に絶対行けるという自信もなく、曖昧でいた。そんなぼくに、多恵ちゃんは
「いいじゃない、ゆっくり考えれば。そう出来るんだから」と言った。
とにかく、ぼくは勉強した。当時ヒットしていたドラマ、『あすなろ白書』のようなキャンパス・ライフ、「なるみ」よりも「星香」のような女の子と出会い、恋する自分を妄想しながら。予備校に通っていた義成は、講義録や問題集をコピーしてくれたし、高校でも、進学希望者には補習をしてくれた。当時、特に高校に入ってから、映画ばかり見ては、多恵ちゃんに「またそんなもんばっかり見て」と文句も言われたが、スクリーンプレイの本まで買い、セリフを暗記してしまうほど徹底していたぼくは、英語のヒヤリングが得意だった。それが嬉しくて英語が好きになり、好きなものは成績も伸びた。国語は元々嫌いじゃなかったし、社会科目は勉強時間に比例して伸びる。問題は、理数だ。決して嫌いだったわけではないが、点数が悪いので遠ざけた。義成や、映画好きや、奇蹟のようにうまくいっていたぼくの受験勉強も、理数の壁だけは越えられないかと諦めかけていた。だけど、偶然にもラッキーなことが、またぼくに舞い降りた。
当時、奥手だった多恵ちゃんにも、四十を前にしてお付き合いする男性がおり、その人、高塚さんは製薬会社の研究員だった。存在は知っていても会ったことはなかった。ぼくの模擬試験の成績を見て、ぼく以上に胃を痛めていた多恵ちゃんは、「とにかく理数が問題ね」と動きだし、夏休み明けから高塚さんがぼくの家庭教師になってくれた。謝礼は愛する多恵ちゃんの手料理、ってことで。夜、仕事を終えた高塚さんが毎日うちに来て、ぼくに勉強を教えてくれた。そして、毎晩のように父さんと酒盛りをしていた。
そう言えば、あの頃からうちのタバコ屋には、自動販売機が一気に増えて、店番なしでも済むようになった。
このハコから、多恵ちゃんを引っ張り出したのは、高塚さんだったのだろう。
合格発表の日、ぼくは義成と一緒に見に行った。ガクガクと門の前で震えるアイツを、ぼくが掲示板の前まで連れて行ってやった。「せえの」で掲示板を見て、今度はぼくがガクガク震えながら門を出た。うちに帰った時の、あの空気は今でも忘れない。「ダメだったか」という父さんの、あの顔も。
それから、かなりレベルをさげて二次募集でなんとか引っかかり、ぼくは晴れて大学生になれたので良かったが、あのままどこにも受からなかったら、今頃、どうしていたのかと考える。高校も大学も、綱渡りのようにグラグラしながらなんとか渡ってきたことが、もしかすると、今の車いす生活に繋がっているのか? そんなあり得もしないことを、考えることがある。
正に、あの状態を空でも飛んでいるような気分というのだろう。雲海しか見えなくて、つまり毎日は平凡なのに、いちいち楽しくて、機内食が待ち遠しいっていう程度の事なのに、それがたまらなく嬉しい。『あすなろ白書』のことなんて、すっかり忘れていたけど、ぼくは恋もして、浮気もして、奇蹟のようにモテた。
ぼくの大学生活は、毎日が楽しかった。上る一方で、下ることなんて考えもしない勢いというものがあった。何も知らない、強さというか。
義成の家に行ってはゲームばかりしてた高校時代、航空機のシミュレーション・ゲームをしながら「将来はパイロットになる」と言ったことがある。
「それなら、そういう大学に行かないと無理だし、高校三年間を勉強で潰すぐらいがんばっても、たぶんお前には無理だな」と言う義成に、「絶対無理だから夢なんて見る価値があるんじゃないか」と教えてやった。優しい妻と子供が二人で、まぁまぁ裕福な家庭を築くことが夢だった義成に。
そんなパイロットにでもなったかのような、大学時代がずっと続けばいいのにと思ってたし、ずっと続くんじゃないかとも思えた。何しろ、それまでとは違い、面倒臭いとか、無意味だろうとか、苦手とか、そういうのをすっ飛ばしても、何とかなってしまうのだ。大人ではない大人だったし、その立場で甘えられることがラッキーなのだと認識しながら、当然の権利の如く行使していた。
とはいえ、金がないと始まらないのが大学生活の厳しい現実だった。
ぼくは、居酒屋、コンビニ、チラシ配り、夜勤のビル清掃員など、いくつものバイトを掛け持ちした。働いた時間だけ給料が増えるという単純明快な構造の中で、「よくがんばる子」という好印象をそれぞれのバイト先で得てもいた。
大きな節目となったのが一年の冬。ぼくは、名前だけ入れていたサークルで信州まで行き、そこで笹倉さんという女性に出会った。彼女は、どこから来たのか、どこの大学か、携帯番号を教えてくれないか、と「いつもの」女性がそうするように話しかけてきたので、ぼくも何となく恋でもする予感がして調子に乗っていた。そんなぼくを尻目に、笹倉さんは翌日、彼氏の車で帰ってしまった。印象深く、彼女のことはそれからも覚えていたので、数日経って、笹倉さんから電話があった時も、すぐに信州であったあの子だと分かったのだ。
待ち合わせの場所に行くと、妙に大人びて、がらっと印象を変えたスーツ姿の彼女から、名刺を渡され、モデル事務所に勤めるOLであることを改めて自己紹介された。そして、ぼくにアルバイトで雑誌のモデルをやらないかと言ってきた。ブラックコーヒーの彼女と、カフェオレのぼく。純喫茶のレトロな店内には、確か、T―BOLANの「おさえきれないこの気持ち」が流れていたと思う。
ぼくなんか無理ですよ、と断る言葉を遮り、笹倉さんは「例えばこういうのに載るのよ」と何冊かの雑誌を差し出した。どれもぼくの知らない雑誌で、地域特化のタウン情報誌がほとんどだった。普通のバイトのように時給ではなく歩合制で給料をもらうことに、ぼくは躊躇した。「最初は仕事も少ないから、今のバイトを続けながら」ということだったので、何が始まって、どんなことが待っているのかはさっぱり見当がつかなかったけど、ぼくは、やることにした。
言われた時間に行き、言われた通りやるぼくは人気を得た。新しいテーマパークが出来れば、ゲートの前でポーズする。春は桜の下で、夏は海に行って、秋から冬にかけては温泉、温泉、温泉の連続。モデル事務所が大きかったので、ヘマしないぼくは重宝され、一定のペースで仕事が入るようになった。その頃には、いくつも掛け持ちしてバイトするのと、ほぼ同額の給料がもらえるようになっていた。〈ぼくは使い勝手がいいのだろう〉と当時から自覚していたし、遅刻とカメラマンの指示に文句だけは言わない、と決めていた。慣れてしまえば、モデルの仕事は楽だった。
ぼくは、一人の女性を愛した。
今、こんなからだになった以上、あの女性、倉坂茜がぼくの生涯で唯一、愛した女性ということになるだろう。
大学に入ってから〈そんなの言ってるだけで、そうはない〉と思っていた男と女の関係をどこまでも追いかけ、同じように求めていた女性と、ぼくは多くの関係をもった。なんて、要は合コンでもバイト先でも、取っ替え引っ替え付き合っていた。自分から率先して何もできないぼくは、周りからどう見られているかということに敏感だった。これだけは言っちゃいけないと思うことを守るうちに「優しい」と言われ、好きかも知れないという温度で話しかけてくる女性には、こちらから「告白」した。それが恋することだと思っていた。
だけど、茜は違う。すぐに着火して消えるのではなく、じっくり熾して燃え上がったというか、今から考えれば「どこが好きなのか」というより、全部が茜で「それ」が好きだったのだと思う。別れるとき、ぼくはそれに気づけなかったけど。
ぼくが大学二年で、茜が四年の時、たまたま隣の席になった「環境アセスメント」という一般教養の講義で知り合った。
足の妙に長い虫が、ぼくのふでばこの上にいて、隣で知らない女が「フー、フー」と追い払おうとしていた。虫がいることにも、それを追い払おうとしていることにも気付いてはいたが、それ以上は気持ち悪くて知らん顔した。
チラッと横を向くと、バチッと目があって、ドキッとした。
それからは何も言えず、茜も何も言わずに、講義は終わった。環境なんて興味ねぇよ、というぼくの友達のところまでダッシュして、興奮して話していたらしい、茜の、いや「虫の女」のことを。
環境なんて興味がない、それはぼくも同じで、だから毎週きちんと出席するつもりもさらさらなかったが、次の週も、その次の週も、また会えるかも知れないと思って足を運んだ。ぼくの友達は、口にしないまでも、その曜日のその時間は授業があるので外せないことを、ちゃんと分かってくれていた。
なかなか会えなくて、会えないことにも慣れたある日、いつもの席に座っていたぼくの隣に、茜が前と同じように座った。彼女は、「こんにちは」と言った。ぼくも挨拶したかどうかは、忘れてしまった。
山を切り開いて建てた校舎の一室で、環境についての講義を聴く。隣には茜がいて、土地区画整備がどうの、ダムがどうのという話は、対岸での出来事にすぎず、バクバクしながら、〈何か話せ、話せ〉と自分に命じていた。
「これに載ってるのって、君だよね?」
急に話しかけた時、ザワザワとした教室ではすでに講義が終わっていた。全然違うことを考えていたぼくは、「へっ?」と、声が裏返った。茜が持っていたのは、確かにぼくの載っている出来たてのアウトレットモールを紹介する雑誌だった。次の瞬間、〈あちゃあ〉と顔を覆いたくなった。思い出したのだ。その取材ロケは、同行していた編集者もカメラマンも、どう考えても不自然なのに、どのショットでもガッツポーズをするように指示してきて、言われた通りにやったその紙面には、案の定、思い切りガッツポーズを決めるぼくがおり、吹き出しに「えっ、こんなに安いの!」というセリフが付いていた。しかも、ぼくは満面の笑みではないか……。
「すごいね、モデルやってるんだ」と茜に言われたが、それがどう「すごい」のか、しばらく考えていた。安い商品を手にとって、満面の笑顔でガッツポーズするというすごさの意味は、とても好感触ではないだろう。
「たまたまだよ」と雑誌を閉じて彼女に返すと、「えっ、前もこの雑誌の、温泉の特集だったかに出てたよね」と言われた。〈いやそうじゃなくて、こんなガッツポーズのオレはたまたまなんだよ〉と思いながら、その会話のちぐはぐさに参っていた。〈待てよ、確かあの温泉ロケも同じ編集者とカメラマンだった〉と思い出したぼくは、もう何も言わず、認めた。
茜は、モデルなんて知り合いにいないとか、すごいよすごい、とか言いながら、「ファンになるからサインちょうだい」と冗談っぽく笑った。ぼくはフルネームで猿渡友介と記し、その下に携帯の番号を書いた。
「こういうの、慣れてるのね」と言うから、「初めてだよ」と、嘘をついた。
茜とは、講義の後にラウンジでコーヒーを飲みながら、話して、話して、それだけでバイバイするようになった。そんな日々が続いた。ぼくは「倉坂さん」と呼び、茜は「サルくん」と呼んだ。そんな呼び方をされるのは初めてだったけど、茜の言い方は柔らかくて、好きだった。友達の話やバイトの事を一通り話し終えると、「環境」についても話していたような気がする。アイドリング・ストップは意味がないだの、ビオトープは日本じゃ広まらないだの、3Rには賛成だ、だの。その日の講義で聴いたばかりの言葉を使って、それらしく話していたに過ぎないが、時々、茜の本音がちらりと見えたりもした。海面が上昇するような時代にはどうせ死んでるから関係ないという考え方が一番嫌い、屋上の緑地化をガーデニングと勘違いしているような整備されてるだけの建物が多い、ゴミの分別も守れない人は基本的に嫌い。
そんな茜の、多恵ちゃんにはない「外」に関わろうとする力というか、強さというか、そういうのを感じながら、話を聞いていたのを思い出す。
「お茶の仲」。
はじめに言ったのは茜だった。お茶を一緒に飲む(だけの)仲ということ。確かに、あの頃は次の段階に進むなんて想像もできなかったが、それでもいいと思っていた。当然、茜には彼氏がいるのだろうと思っていたし、茜もぼくには彼女がいると感じていたらしい。彼氏・彼女ではない「お茶の仲」。だからなのか、ぼくらは何でも言い合えた。茜は、いつだって誰にだって何でも言えるのかも知れないが、ぼくには、そういう存在は、茜しかいなかった。
その仲が大きく進展したのは茜が卒業する直前だった。学年は二つ違いでも、五歳年上だった彼女は、就職も大変だとよく愚痴をこぼしていた。日本の企業では、新卒でも年齢制限があったりするのだという。一浪して入学した茜は、途中で二年間オーストラリアの大学に留学していた。提携大学なら単位も取れたのだが、留学が目的ではなく留学したい大学があったので休学したらしい。なんとか身につけた語学力が活かせる仕事がしたい。不利なのを承知で茜は就職活動をがんばっていた。アメリカの航空会社で日本人スタッフとして採用されたと聞いたとき、「えっ、それってスチュワーデス?」と、ぼくも嬉しくなって尋ねたが、スッチーではない。「あっ、フライトアテンダントね、そう言うのよ、最近は。違う、違う、日本にオフィスがあって、そこの、まぁOLよ」と、少し不機嫌になったが、茜も嬉しそうだった。
就職も決まって、卒論も書き終えた茜は、それでも「環境アセスメント」の講義だけは来た。そして、コーヒーを一緒に飲む。ぼくらが歩いている所を見た人は、彼氏・彼女という関係を疑わなかったらしいけど、当の本人には、そういう気持ちはなく、あくまでも「お茶の仲」だった。
茜は会社の近くで一人暮らしを始めることになり、卒業すれば引っ越していく。「こうやって、コーヒー飲むのもあとちょっとだね」なんて言われると、会えない、という現実が悲しかった。寂しいというより悲しい。その後も関係が持続されるふたりではない、別れに聞こえるからだ。だからといって、付き合って下さい、という告白は言う時期をとっくに外していたし、これからも会えるよな、という確認もしっくり来ない。茜の会社は電車で一時間ほどの距離なので、会おうと思えば会える。だけど、その理由は、環境アセスメントという講義は、ない。それでも、会いたい。
ぼくは、完全に好きだったのだ。
年が明けると試験休みに入って、そのまま冬休みを経て卒業式になる。追い立てられるように、十二月のある日、ぼくは脈略もなくこう言った、
「オレ、倉坂さんのファンです。前からずっと。だからサインくれませんか?」
茜は少し笑いながら、新しい家の住所と電話番号、そして、最後に猿渡茜と書いた。久しぶりに、彼女にドキッとさせられた。アハハハハと、乾いた笑いの後で「ぼくもですよ」と言うと、「だから、アカネって呼んでいいよ」とボールペンのキャップをしめた。
大学と茜の部屋を往復する日々が始まった。
多恵ちゃんは、「若いからという理由で許される範囲のハメの外し方をしなさいよ」と遠回しにぼくの毎日を咎めた。高塚さんとは良い関係が続いており、父さんは「それだけが救いだな、うちも」とぼくを責めた。朝帰りのぼくに、「どちらさん?」っていう二人からの挨拶にも慣れていった。
多恵ちゃんを見るたびに〈結婚しないのかな〉と思うようになった。あの年であれだけ付き合っていれば、普通は結婚するだろう、と。もしかして、高塚さんには家庭があるのか? それとも高塚さんはゲイで、会社や世間体のためにカモフラージュで多恵ちゃんと付き合ってるのか? もしくは、高塚さんに問題があるのではなくて、母親の離婚と継母の死で、多恵ちゃんが結婚に対してひどく脅えているのか? いずれにしても、世の中にはこんなに楽しいことがいっぱいあるのに、なんで多恵ちゃんはいつまでも家でじっとしているのかが、不思議だった。
不思議な多恵ちゃんの日々が、いつしか、じりじりとぼくを押さえつけるようになる。「誰かの犠牲の上で、オマエはそうしていられるのだ」と言わんばかりの、そんな多恵ちゃんの存在。もちろん、多恵ちゃんはそんなこと思ってもいないのかも知れないが、ぼくがそう感じ始めると、「結婚しなよ」を連発すりょうになり、「最近、そんなことばかり言うね」とうっすら笑う多恵ちゃんに苛立つこともあった。
多恵ちゃんが家を無断で開けたのは、ちょうどその頃だった。
ぼくは茜の部屋に入り浸り、着替えるためだけに家に帰る、いやそのうち着替えも茜の部屋にたまって二三日帰らなくなっていた。
その日、ぼくはモデルのバイトで指定されたパンツとジャケットを取りに朝帰りをすると、「どちらさん?」といういつもの父さんの挨拶があって、ぼくはもう無視して自分の部屋まで行こうとした。そしたら、父さんが玄関まで出てきて、「あぁ、お前か」と言うので、何かあったのかと聞いた。あの時の父さんは、ずいぶん老けて見えた。「多恵に何かあって誰かが知らせに来たのかと思った」といつもになく早口で父さんが言う。そう言うと、また部屋に戻っていく後ろ姿を見ながら、〈疲れ切ってるなぁ〉と気付いた。
高塚さんに連絡はしたのかを聞くと、「もし一緒だったら、多恵の立場がないだろう」と父さんは静かに答えた。四十を過ぎた女が、一日家をあけたぐらいで父親が大騒ぎするということが、多恵ちゃんに与える影響、それを考えていたのだろう。
だから待つのみだという父さんをおいて、ぼくはバイトに出かけた。
「これがいまどきの食べ放題だ!」という企画の取材で、いくつもの店をハシゴした。移動中や待ち時間は、ガサガサした気持ちでずっと心配していた。
〈このまま帰って来ないのかも知れない。多恵ちゃんがいなくなったら、誰がメシを作って、誰が店のことをするんだ? オレか? それは無理だぞ。あぁ、このまま戻って来ないなんてあるんだろうか〉。ぼくは、頭の中で考えていた。〈頼むから、元通りになってくれ、多恵ちゃんがいる、いつも暮らしに早く戻って欲しい。こんな事、早く笑い話にしてしまいたい〉。
もう、祈っていたと言っても過言ではない。ひとりきりの家の中で、待つのみという父さんよりは、もっと不安で祈っていたのだろう。ぼくの場合は、少なくとも、カメラマンの指示でポーズを決めている間はそれまでと変わらない気持ちでいれたし、気も紛れたけど。
バイトから戻ると、多恵ちゃんは台所に立っていた。父さんはいつもの席でテレビを見ている。ぼくは走って台所まで行き、多恵ちゃんの背中を眺めた。突っ立っているぼくに、後ろから「電話ぐらい入れてこい、心配じゃなかったのか」と父さんの声がして、ぼくは安心して何も言えなかった。
多恵ちゃんは、昼ご飯の支度があるからと、十一時ぐらいに戻ってきて、何もなかったかのように平然としていたらしい。その晩も、久しぶりに三人で食卓を囲みながら、話すことを探しあぐねて黙っているぼくと父さんに、多恵ちゃんの態度は何ら変わったところはなかった。
「っで、何してたわけ? まさか、どっかのサラ金で借金しまくって、もうどうにもならない、とか言うんじゃないだろうな」。冷蔵庫にウーロン茶を取りに行きながら、ぼくがその沈黙を破った。まだ、二人とも黙ったままだった。「この塩サバ、うまいな」と、唐突に父さんが言って、「いつもと同じだよ」とぼくが減らず口をたたいた。
「私もね、たまには、あんたみたいにしたかったのよ。ごめんね心配かけて」。
多恵ちゃんがそう呟いたあと、父さんは大根おろしに醤油をかけ、ぼくはコップのウーロン茶を飲み干した。
あんた。多恵ちゃんはそう言った。いくつになっても友ちゃんと呼ぶので、止めてくれとは言ってたけど、友ちゃんからいきなり「あんた」になると違和感があった。それも多恵ちゃんの口から。
「朝までどこにいたの?」とぼくが聞くと、「高塚さんの家にいたよ」と多恵ちゃんは答えた。
父さんは「高塚さんって、あの、高塚さんか?」と訳の分からないことを言った。
「連絡入れた方がいいんじゃないかって、彼は言ったけど」
「いやいや、別に構わんよ。もう、子供じゃないんだし、父さんもそうだろうと思っていたから」
ぼくは、空いたコップに父さんの横からビール瓶をとって自分に注いだ。それから、父さんに注いであげた。「コラッ、目上の人には両手で注げ、両手で」と、父さんはぼくの頭を叩いた。
その後、多恵ちゃんはまたいつもの多恵ちゃんに収まり、外泊もあれ以来一度もなかった。
父さん、多恵ちゃん、そしてぼく。三人がそれぞれ点在し、お互いの距離感を把握しながら暮らしていた。それがぼくらのスタイルだった。家族であり、何十年と一緒に生活を共にした簡単には壊せない線で繋がれてはいたけど、「ぷよぷよ」っていうゲームみたいに、お互いが引っ付いて一つになることはなかった。それは、三人が別々に暮らし始めるまでずっと。口にはしないけど、おそらく三人ともがその距離感を望んでいたのだと思う。無理には手を取り合い、常に抱き合うこともしない、いつも「家族」であることの確認がいるような毎日。
特にそう感じたのは、自分の部屋に二週間閉じこもったあの時だった。
ぼくらの人生には、こんなにも選択肢があって、人によって実に様々なのだと痛感した。一体ぼくは何がしたいんだと、まじまじと自分に向かいあった就職活動の時期、ぼくは、電気も付けず、カーテンも閉め切った暗い部屋にこもった。大学に入ってから、毎日、毎日楽しいことで溢れかえっていたのに。
高校、大学と受験し、確かに選択しながら生きてきたが、岐路に立ったという自覚はぼくにはなかった。高校の場合は今後三年、大学なら四年、自分がどこに「居る」のかを決めるだけだった。その選択が、自分の将来と結びつくことなんて考えもしなかった。
だから、就職活動というのは、変なプレッシャーがり、これから何十年という未来を決めなければならないことに慎重になった。それに加えて、一斉にスタートする訳ではなく、先に走り出すヤツはどんどん活動を始めていく。周りを見ると不安ばかりが積もり、余計にプレッシャーだった。
〈とりあえず走りだそう〉とは、思えなかった。
スタートでつまずくと、その分を取り戻そうと焦る。焦って走り出してはみるものの、結果はいつもダメだった。不採用、不採用、不採用。これじゃダメだと思っても、どうすればいいか分からなかった。これっていう売りも、自分の武器もなかったので、そんなダメな状況が劇的に変わるとも思えなかった。どんどん地中に埋まり、顔だけ出して周りを見ると、走っているヤツらの足ばかりが見えていた。
茜に会うのも嫌だった。会う度に「大変よねぇ」を連発され、「今年ってそうとう就職難しいらしいねぇ」と他人事。「でもサル君なら大丈夫よ」と呑気にカシスソーダのお代わりを注文する。「来年の採用はうちもないみたいだし、どこも不景気なのよねぇ」と言いながら、その日の会計を払ってくれる。惨めだった。〈オレが払うよ〉なんて言葉、言おうが言おうまいが、払ってくれるのはいつも茜だった。学生だからという理由は期限付きで、その期限を終わらせることすら出来ないかも知れないという不安。「ごちそうさまです」といつものように言って、茜の部屋に行って、ヤッて、寝る。
うぉー、って叫びたい日々だった。
ある日、ぼくは面接会場に向かう足を止め、うちに帰ったことがある。それでなくてもおくれていたぼくの就職レースは、内定どころか、面接を受けるための書類選考すらなかなか通らなかった。せっかくの面接だったのだが。
その面接のあとでぼくは同じゼミの公雄の内定祝いに誘われていた。そこにくるメンバー五人の中で、就職が決まっていないのはぼくだけだった。呼ぶのも呼ばないのも気が引けたので、もしよかったら気分転換に来いよ、っていう誘われ方。行くよ公雄のためだし、っていうぼくの返事。
ぼくがいない方が盛り上がるだろうと身を引いたのではない。後になって公雄は「サンキュー、悪かったな」と言ったけど、そんなこと考えもしなかった。ぼくはただ、行く気が起こらず、なぜか飲み会だけパスするのもどうかと思い、面接から行くのを止めたのだ。
うちに帰って、文具店にいる父さんにも、タバコ屋にいた多恵ちゃんにも、何も言わず、午前十一時、自分の部屋に入った。それからテレビを見ながら寝た。「ごはん出来たよ」と多恵ちゃんが呼んだ時、急に突き上げた思い。〈どうなるんだ、オレは〉という根本的な危機。考えても考えても、マイナス、ネガティブ、絶望。多恵ちゃんは下から何度も呼んでいたけど、ぼくは答えなかった。
このまま答えず、ここから一歩も出ない。何も見ず、何も聞かない。そうしよう、と決めた。
もちろん、初めから二週間も閉じこもろうと思っていた訳ではない。
父さんも多恵ちゃんも心配するだろうなぁ、と安心しながら、ぼくの現状を分かって欲しいと、まるっきり子供のようにすねていただけなのだ。その晩、ぼくの夕食はお盆に乗せられ、部屋の襖の前に置かれていた。スライド式の二枚の襖で仕切られているだけのぼくの部屋。鍵もないそんな部屋に、ぼくが閉じこもれた理由は、誰もその襖を開けなかったからで、それが可能な距離感がこの家族にはあるのだ。そう、感じた。
襖を開けてくれたのは茜だった。
どんどん遅れて焦り、だから余計に出られない暗い部屋。あの時、ぼくはずっと考えてた、それまでの自分の人生というか、自分の過去を。ちょうど今、ここで、ぼくが考えているのと同じように。
「明日がないじゃない」。
あの時、茜はそう言った。暗い部屋でジメジメ考えて一日過ごして、寝て起きてもまた繰り返しているなら、いつまでも明日がない。
「明日って、やっぱり変化がなきゃダメだと思う。そのためにみんな、同じように見えても、毎日毎日、電車に乗って学校や会社に行ってる訳だし」
滅茶苦茶だ。今から考えると、何を言っているのかよく分からない。だけど、あの日、あの言葉はぼくに痛いほど突き刺さった。それはまるで、ぼくを外に連れ出してくれる、あの部屋の鍵だったように思う。
そのまま一緒に夕飯を食べることになった茜を、ぼくは父さんと多恵ちゃんに紹介する。ぼくが女の子をうちに連れてくるのは初めてで、それに、二週間もまともに顔をあわせていなかったので、とてもぎこちなく「倉坂茜さん、です」と詰まった。「それよりも先に、おたくさんは、どなたですか?」と父さんが笑うので、ぼくは、「あっ、猿渡と申します」と答えた。「バカだなぁほんとにお前は。ここには猿渡しかおらんだろうが」。父さんの言葉に真っ先に笑ったのは茜だった。それから多恵ちゃんも笑い、ぼくの閉じこもりも、スーッと溶けていった。
茜を初めて見る父さんは、想像通りの顔というか、初めまして、という典型の表情だったが、多恵ちゃんは違った。うまく言えないけど、少なくとも一度は会ったことのある態度だった。茜をぼくの部屋に連れてきたのは、たぶん多恵ちゃんなのだと思う。
結局、ぼくの就職活動はうまくいかなかった。いわゆる企業っていう所に背広を着て行く職業には就けなかったということで、ぼくらの周りでは失敗を意味していた。
あの閉じこもりがあって、自分は何がしたいのかということを前向きに考えた。
―― したい事は夢で、夢とは無理なこと ――。
そう考えていたぼくは、自分に出来ることばかり選んで生きてきたので、何が「したい」のかを突き詰めても、からっぽだった。これは無理、これも無理と、気が付くと×印ばかりで、残ったものから選ぼうとしてしまう。茜は、「それは悪いことじゃない」と言った。そんなに考え込まなくても、とにかく出来ることから経験して、したい事に近づけばいい、と。それに、定年までずっと一つの会社にいようなんて人はいまどき少ないので、経験を元に転職すればいい、とも言っていた。煮え切らないぼくの態度を見て、彼女はどんどん煽った。
〈……その、「したい」ことが自分でも分かんないんだよ〉と、ぼくは黙った。
「結局、何がしたいの?」と聞かれた時、ぼくは茜に、茜と結婚したいと答えた。「真面目に聞いてんのよ」と彼女は笑ったけど、あの時のあの気持ちは本気だった。まぁ、したい事は夢だ、とも思っていたけど。
スタートする前から考えても始まらないし、経験を積んだ者には勝てない。だから、早く動き出すが勝ち。そう考え始めたぼくは、とにかく受けまくった。いくつも面接して、いくつも不採用通知が来た。だけど、いちいち落ち込まなくなった自分がいた。まずは、とりあえず、そんな言葉の下で「経験の場」を求めるだけになっていた。
一つだけ、内定をくれた会社がある。小さな映画配給会社で、映画がいかに好きかを熱弁したぼくに、一緒にがんばりましょう、とその場で内定をくれたところで、小さなビルの一室にあった。きょとん、とするぼくに面接官の若い男性は、「わたしも最近みた映画の中では『シクロ』がいいと思いますよ」と微笑みかける。その人が、社長だった。
確かに映画ばかり見ていたし、密かに作る側の人間になりたいとも夢みていた。だったら、少しでも関連のある映画配給会社はもってこいじゃないかと、茜は言った。だけど、ぼくは返事を躊躇っていた。理由は二つある。一つは、夢に近ければ近いほど、その違いを常に意識させられるものだと思っていたからだ。〈こうじゃない、やっぱり作りたい〉と思い続けるはずだ、と。「引きずるほど、夢ってものはよくない」。いつだったか多恵ちゃんが言っていた言葉だ。もう一つは、その会社の規模だった。当時のぼくは、就職は安定した収入を意味していたし、茜と飲みに行ってもぼくが払えるようにならなければと思っていた。その点からいって、この会社で大丈夫なのか、という迷いがあった。
ぼくは悩み、考え、内定の返事をする期限がきても、踏ん切ることが出来ず、結局辞退した。茜は、その理由が分からず、ぼくを無視した。
その後も面接をいくつか受けた。夏も本番になると、大半の企業は採用を終えており、残ったところから探すという作業になる。あの頃、ぼくの中では収入の二文字が重要になっていたような気がする。どうしてもしたい事、それは、茜との安定した「これから」だったのかも知れない。
何とか引っかかった大手飲料水メーカーの自動販売機オペレーションに、ぼくは就職した。トラックに何十ケースも積んで、決められたエリアの決まったルート上にある自動販売機に、ジュースを補充するという仕事だ。
現実は厳しく、年が明けても内定は一つもなく、卒業も間近になって、ようやく決まった会社だったので、安堵と一緒に喜びもあった。だけど、この先何十年と続けていこうとは、思っていなかった。
あるヤツは親や親戚のコネで会社に入った。またあるヤツは海外で住むからと飛行機に飛び乗った。そして多くのヤツは、内定をくれた会社の入社式まで、最後の学生生活を謳歌していた。そんな大学最後の春、ぼくは磯田と出会った。
食堂で公雄たちとしゃべっていると、見るからに写真部の格好をした磯田が話しかけてきた。前置きも挨拶もなくいきなり本題に入るので、最初は何を言っているのか分からなかったが、要は、カメラマンを目指していて、卒業の記念に自分のポートフォリオを作るので、そのモデルをやってくれないかという依頼だった。「いつ?」と、ぼくがあまりにもあっさり答えたので、調子が狂ったような声で「天気の良い日に」と磯田は答えた。
就職もしないで呑気なヤツだとか、間違いなくアイツはゲイだとか、公雄たちは言いたい放題だったが、ぼくは、磯田の勢いというか、熱さというか、そういうものが嫌いではなかった。
撮影当日は、磯田の車で海へ行った。
「あのうですねぇ、桜って暖かいイメージがあるじゃないの? そこにきて、海ってのは暑いじゃないの。その桜と海が一緒に見れたらいいのになぁ、ってずっと思ってたわけなのよ」。磯田の話し方は、慣れるまで違和感があったが、すぐに気にならなくなった。
「したら、あるじゃないの。偶然テレビでやってたんだけどね。っでね、猿渡君には悪いんだけど、今日、その海辺で水着になってもらおうと思ってるわけだけど、いい?」
「水着なんか持ってきてないぞ」、なんてぼくもしょうもない返事をしたものだ。もちろん、真っ黄色の海パンが用意されていた。
「絶対いいとおもうのよ、こう、なんていうかごちゃ混ぜな感じがね」、磯田は両手にすごく力を入れてハンドルを握っていた。
あの日、晴れてはいたけど死ぬほど寒かった。ふにゃふにゃで弱そうに見える磯田も、一度カメラを持つとガラッと変わり、「寒いから水着はパス」とはいえない雰囲気だった。「そうそう、この春の空の色がいいわけなのよ」。終始満足げにカメラを構えながら、「ところで、なんで君はそんなに色が白いわけなの?」なんていいやがるもんだから「アホか、まだ春先だっちゅうの」と思わず叫んでしまったぼくを、カシャっと撮った。
とにかく思いっきり走れ、何となく楽しそうに笑え、もう帰ろうかまだ遊ぼうか悩んでるような感じで立て、などなど、磯田の指示はつかみ所がなかった。モデル経験が長いので、カメラマンがどこを狙っているかだいたい分かり、それを分かってくれることが磯田には嬉しいようだった。撮影を終えて、帰りの車の中で、磯田はこう言っていた、
「こっちから見れば、とにかく内定だって走り回って、決まれば勝ち誇るヤツが多いじゃないの。アレってすごいなぁと思うけどそんなの絶対に嫌なわけよ。オレのことを呑気なヤツだなんて言いながら、それがものすごく怖かったりする訳でしょ、みんな。オレは恐れないで行くつもりなのよ。だってさ、先に何があるかなんてわかんないじゃないの、ねぇ?」
ぼくは、羨ましいと思った。色んな道から大学四年生まで来て、そこからまたバラバラになる。いっぱい道はあって、交差したりぶつかったり交わったりしながら大人になっていく。その中で、「絶対行きたい道」や「絶対嫌だという道」がある事すら、ぼくには無く、だから磯田にやいていた。その後、アイツがどうなったのかは知らない。卒業してすぐ、モデル料の代わりだといって写真集を一部もらった。手作りで不格好だけど味のある、そんな素敵な作品だった。磯田は、ぼくが望み、だけど恐れて選べなかった道を進むのか、と妬んだ。たった一日の出来事なのに、今思い出しても、はっきり覚えているし、ついつい、微笑んでしまう。
大学卒業を機に、家を出て一人暮らしをしようと思っていた。
それは、ずっと思い描いていたぼくの出口。タバコ屋から続く一本道の先にある、次のステージ。就職は出口なんだ、と思っていた。就職が決まってすぐに探し始めたが、すでに条件のいい物件は押さえられており、ここでも残り物から選ばなくてはいけなかった。煮え切らないのも相変わらずで、家賃と条件のバランスを何度も何度も迷った。安かろう悪かろうというどこかの国の電化製品みたいな物件には手を出さない。逆に、この家賃でこんな好条件という所も避けた。絶対、何かあるはずだと考えていたのだ、例えば、お化けがでる、とかね。そうやっているうちに二月が終わり、三月も半ばを越えた。多恵ちゃんも父さんも、ぼくが部屋を探していることも家を出ることも知っていた。詳しく話したことはないが、いつものことで決めかねているのだろうことも、感づかれていた。
いよいよ三月も末になり、不動産屋に押さえてもらっていた二つの物件から、どちらかに決めようと、茜と一緒に最後の物件見学をしていた時、珍しく父さんから携帯に電話があった。
出るや否や「祝いだから今晩は帰ってこい。いいな、絶対帰って来いよ」と言って一方的に切った。祝いというには似つかない、怒鳴ったような声だった。茜にも漏れ聞こえており、「就職祝いをしてくれるんだよ、きっと。今日は早く帰った方がいいんじゃない」と言うので、見るつもりだった映画を今度に回した。
帰ると、父さんは泥酔状態だった。なんとなく電話の声でそういう予感はしていたが、あそこまで酔っぱらった父さんは珍しい。いつも台所に立ってる多恵ちゃんもテーブルに座っているし、高塚さんも来ていた。
「就職おめでとう。来週からいよいよ仕事だね。がんばってね」と、高塚さんはいつもの高塚さんだった。だけど、父さんと多恵ちゃんは違った。空気を震わせて伝わってくる気、みたいなものが特別だった。
「お〜、友介ぇ〜、帰ったか。あのなぁ、おい、こら友介。あのなぁ、お義兄さんだ、なっ、友介、これから高塚くんは、お前の義兄さんだ」
呆気にとられるぼくに、高塚さんが「よろしく、これからも」と握手をしてきた。「あっ、はい。え〜っと、おめでとうございます」と、ぼくは多恵ちゃんの方を向きながら高塚さんと握手した。
多恵ちゃんの照れ笑い、小さな、小さな、笑い。あの、幸せそうな顔。ぼくまで嬉しくなった。きちんと座り直して、「おめでとう、姉さん」と多恵ちゃんに言った。ぼくは、猿渡から高塚に名字を変える直前、最初で最後の「姉さん」という言葉をかけたことになる。
父さんは支離滅裂で、何遍も同じことを繰り返しながら、しんみりと多恵ちゃんの小さかった頃の話をした。
「すまなかったな、多恵は良子の代わりじゃないのに、この歳になるまで縛ってしまって」とか、「高塚さん、多恵を幸せにしてやって下さい。とにかく、ワシができなかったのはそれだけですから」とか、「だけど、多恵と、友介、お前らがいてくれたから、ここまで父さんはやってこれた」とか。しばらくうつむいて、泣いた後で、眠ってしまった。
式は、「この歳なので恥ずかしい」と多恵ちゃんが拒んだらしく、役所に婚姻届を出して籍だけ入れた。
多恵ちゃんの結婚と、ぼくの就職。父さんにとっては、あの時が大きな節目だったのではないかと思う。十八で結婚して四十年間、文具店から支え続けてくれたのだ。
多恵ちゃんが高塚さんのマンションに引っ越して、父さんと二人きりになったぼくは、自分まで家を出る事に気が引けたが、五月の連休を境に、ぼくも茜の部屋に引っ越した。うちは良いけど相手の親御さんに申し訳が立たないという理由で、父さんは同棲に反対だった。「部屋を探してたんじゃないのか」と父さんに言われた時も、「なんでわざわざ家を出て同棲するんだ」と詰め寄られたときも、ぼくは何も言い返せなかった。自分でもまったくそう思っていたのだ。多恵ちゃんの結婚があったり、ぼくの新入社員研修があったりで、バタバタしている間に賃貸契約は流れた。それに、光熱費や買いそろえないといけない電化製品なんかを考えると、そこまでして家を出ることに決心がつかなかった。
勤務先である倉庫兼事務所に行くのに、家からだと一時間半かかり、茜の部屋からは三十分ほどでいけた。地の利が良かったのと、「一緒に住んじゃう」という茜の軽い誘いが、ぼくに決断させた。なんであんなに家を出ようとしていたのか、今でも分からない。ただ、多恵ちゃんが結婚して家を出たことが変にぼくを焦らせた。
結局、父さんには職場が近いことと、無駄に冷蔵庫や洗濯機を買わなくて済むこと、そして、ゆくゆくは茜と結婚しようと思っていることを理由に同棲を何とか認めてもらった。結婚なんて、茜にはまだ一言もいってなかったけど。
父さんと二人で、近くの居酒屋に行った最後の日、急に大人になった気がした。「多恵もお前がようやく落ち着いたんで思い切れたんだろうなぁ」。ぼそぼそ呟く細く小さな父さんは、あと二年で六十なのか、と思った。ポツリと、父さんは「ついに、ひとりになっちまったかぁ」とわらった。
仕事はすぐになじんだ。まず先輩社員に付いてルートを覚え、自動販売機の場所と一日にどのぐらい売れるのかを把握する。三ヶ月もすると、一人で任されるようになった。一日の勤務時間で、そのほとんどが一人だった。それがぼくの性に合っていた。担当するルートによって大変さは違う。当然、それぞれに給料も違った。新人のうちは、とにかく遠くのエリアを持たされた。何時間働いても給料は決まっているので、単純に距離が遠いと拘束時間も長い。みんなそれを経験してきているので、文句は言えなかった。新卒で入社する人はほとんどおらず、ぼくの周りには年上の先輩ばかりで、同期入社した人も二十六歳の中途採用だった。仕事には早く慣れたが、帰りに一杯どう? という仲間はいつまでもできなかった。おとなしい、コツコツ真面目、面白みのないヤツ、付き合いが悪い。こんなところがぼくの評判だったのだろう。
早くやればやるほど効率がいい。七時頃に倉庫兼事務所に出勤、トラックでルートを回る。道路状況によっても違うが、四時か五時には倉庫に戻る。それから一時間ほど倉庫に積まれたジュースの山からそれぞれの商品を必要なだけトラックに補充して明日に備える。最後に、事務所でその日の清算をして修了。これがぼくの毎日だった。
仕事が終わって部屋に帰ると、茜はまだ残業中で、ぼくはビデオを見ながら待っているのが常だった。相当遅くなる日は電話が入り、そしたらぼくはコンビニで弁当を買う。朝が早いので、ビールを一本飲んだだけですぐに眠くなった。それの繰り返し。同じルートを堂々巡りして、このまま年とっていくのかと思った時、急に虚しくなることもあった。「今日こんなことがあった」、「スーパーバイザーにこんなこと言われた。ムカツク」などと茜の会社の話を聞いていると、〈オレには何もないな〉と余計に感じさせた。あれ? 昨日だっけ、一昨日だっけ? 一ヶ月前だっけ? ということはざらにあった。だらだら引きずった続きのような感覚。家を出て独立した実感もないまま、宙ぶらりで居心地が悪かった。
ちょうどそんな時期、ぼくは合コンにはまっていた。たまたま担当していた会社で大学時代の友達が働いており、そいつに誘われたのがきっかけだった。新しく誰かに知り合う機会は合コンぐらいしかなく、いつも異常にテンションが高いとよく言われた。なんて言うか、スーツ着て並んでるヤツらよりも、オレの方がいいだろ、ってところを無性に分からせたかった気持ちもある。
〈勝ちたい〉と、負けたぼくは意地になっていたのかも知れない。
もちろん茜は、そんなぼくに気付いていなかった、と思う。合コンで帰りが遅いときはミーティングの日だと伝えていたし、酔っぱらって帰るのも、会社に飲み友達が出来たからだと思ってくれていた。「最近、自信みたいなのが表れてるっていうか、負けるかみたいな意地が出て来て、すごくいいよ」と言われたこともあるぐらいだった。
茜にプロポーズしたのは、働き出して二年が経った頃だ。合コンにも飽きてきて、それ以外に金を使わなかったぼくには、貯金もあった。もう少し広い部屋に移ろうという提案と共に結婚も切り出した。
無理な事が夢で、夢はしたいこと。ぼくは茜と結婚したかった。初めて、夢を実現させようと強く思ってもいた。それまでの自分ではない、自分になろうと。当時、二十九歳だった茜は、三十になるまでには結婚しなくちゃと言っていたから、ぼくがプロポーズを急いたのだと思っていた。そうじゃないけど、そう思ってくれてもいい、ぼくは、茜と家庭を築きたかった。与えられた家庭ではなく、自分で作る家庭。そこには、育ってきた家庭には欠如していたモノをも含む理想があった。母親がいるという事だけではなく、くっつき合える家族というか、そういうものだ。
結婚式は、かなり豪勢だった。茜の貯金から回したのだが、その貯金額を聞いて、彼女が勤続七年のチーフなのだと改めて感じた。父さんは親族代表の挨拶でガチガチに緊張してしまい、締めに「今度はもうちょっとうまくしゃべれるようにします」と言い出す始末。ぼくが再婚するまでそんなチャンスはない。式も終わって、引っ越した新居は、かなり広くなったが、買い足したものが多いので、かえって狭く感じた。
「孫の顔、父さんに早く見せてあげてね」と多恵ちゃんが茜に言っているのを聞いて、多恵ちゃんは産む気がないのだと知った。その事がいつまでも頭の片隅にあったので、ぼくはどこかでそれを焦っていたのかもしれない。還暦も超えた父さんに、孫の顔を、と。
結婚生活は、それまでの同棲時代とあまり代わり映えしなかった。「はい、猿渡です」と茜が電話に出るときぐらいだろうか、実感したのは。それまでと同じように暮らし、一年、二年と知らない間に過ぎていった。
ぼくらの間に、微妙な差が生じ始めたのは、そんな知らない間を超えて、さらに一年、二年と過ぎる時期だった。
茜の会社は寿退社というのが希で、外資系だからということらしいが、彼女自身にも結婚してすぐ退職という気はなかったのだろう。いや、はっきりなかったと言い切れる。結婚して一年半後にはセクション・アシスタント・マネージャーに昇進もして、それまで国内オフィスで事務をしていたのが、広がる東アジアのマーケットを全て管轄する部署に移った。上海や北京への出張も増えた。すぐには辞められないという立場から、辞めたくないという位置への移動のようだった。孫の顔を見せたいというぼくとの温度差が、日に日に広がった。
ぼくは、茜の性格と彼女の立場を理解した上で、物わかりのいい旦那を維持しようとした。収入面でも、茜の収入がなくなると当時の生活レベルを保つのが苦しくなるというの事実だった。まぁ、子供は四五年のうちに作ればいいかと考えるようになっていった。
離婚の理由は、子供を産む、産まないの不一致だった。
ぼくと茜は、四年で破局した。ぼくは二十八になり、それなりに安定してきた時期で、それは収入面でもそうだし、所長から「近々、猿渡君にはセールスの方にまわってもらう」とも言われていた。茜も三十三歳になっており、子供の問題をそれ以上先送りすることはできなかった。
そんな中、茜が「子供は作らなくてもいいんじゃないか」と言い出した。
産休制度も職場復帰も、茜の会社では何人も経験しているので、その問題はなかったが、産休後、茜の実家は遠く、ぼくの実家には父さんしかいないので、保育園の送り迎えや、どうしてもという時に、親に預けることができない。負担、と彼女は言った。そんな負担を強いてまで子供を作るより、今のまま二人だけでも十分幸せではないか、と。
ぼくも、茜も、それから何日も考えたと思う。茜の言っていることを理解しようとする自分と、ぼくの望みとの違い。それを埋めるための方法はないものか。考えても、考えても、それはまるで1+1=2であるように、もうどうしようもない事のように思えた。子供の事から派生して、些細な、つまりぼくが描いていた「作りたい家庭」とのギャップも次々思い浮かんで、あの日を迎えたのだと思う。
茜の描くぼくとの家庭は、ぼくが高校や大学時代に描いていた自分の家族に似ていた。つまり、つながりはあっても、くっつかない関係。自分が作る家族はそうなりたくないというぼくの気持ちは、最後まで分かってもらえなかったのだろう。
あの日、離婚を決めたあの夜。「ごめん、やっぱりまだ子供は作りたくないし、先のことは分からないけど、ずっとふたりのままでもいいと思ってる」。茜のこの言葉で始まった。ぼくは、茜がよく使っていたコントラクトという言葉を使って反論したが、結婚は契約ではないかと思い直した。ぼくがプロポーズした時、茜も「子供は二人ぐらい欲しいわね」と言っていたのに、なぜだ、なんで変わった、と問いつめても、彼女は謝るばかりで、まさか今の立場まで昇進できるとは思わなかったことや、子育ての現実がいかに厳しいかを説明した。茜の話を聞きながら、急に浮かんで、つい口にしてしまった言葉、
「お前、オレより好きな奴でもできたんじゃないか」
これが決定打になった。お互い心の中では何とかうまくやっていこうと思ってはいたが、少なくともぼくは、顔を合わせると相手のちょっとした表情の変化が癪にさわって、ついつい余計なことを言ってしまう。そんな悪循環の、最後の最後が、あの夜だったのだ。
結局、茜が家を出た。同期の家に泊めてもらいながら住むところを探すといっていた。離婚届は彼女が取りに行き、ぼくが提出した。
多恵ちゃんも、父さんも、ぼくの離婚について多くを語らなかった。ただ、二人ともが、「もうどうしようもないのか?」と呟くように言うだけだった。それはまるで、ぼくが「じゃ、良子さんの時はどうだったんだよ」という返しの言葉を用意しているとでも警戒するように。
茜が家を出てからも、離婚届を提出してからも、ぼくは変わることなく仕事に行った。所長にだけは離婚したことを知らせていた。
雨が降っていた訳でも、夕暮れの薄明視ではあったけど特別に異常だったわけでもないが、ぼくは、何度も通っていた道で事故にあった。ハンドル操作を誤り、カーブを曲がり切れずガードレールにぶつかった。対向車が、違法駐車の車を避けるためにセンターラインぎりぎりまで迫ってきたことも事故の原因ではないかと言われている。警察に聞かれても、何も思い出せなかった。考え事をしていたとか、携帯でしゃべっていたとか、あの時、なぜあんな事故を起こしてしまったかを、ぼくは何一つ思い出せないでいる。
事故を起こしたとき、茜はまだ同期の家に居て、新しい部屋は決まっていなかった。ぼくの部屋にはまだ彼女の家財道具がそのままで残されており、着替えを取りに行った多恵ちゃんが茜の携帯に連絡を入れたそうだ。茜は、警察から電話があって知っていたという。ぼくの財布には、彼女の連絡先があった。
*
頂上は、茜と結婚した時だったのかも知れない。
小さなタバコ屋の中から駅までの道とその駅からのミライを想像して走り出した。走り回り、そのまま飛べるのではないかと勘違いして、勢いに任せて飛んでいるかのような毎日を送ったこともある。どこかで夢だと諦めていた茜との結婚に至った時。そこまでは登り続けて、そこからは惰性というか、余力というか、それ以上は上がない、と思っていた。その地点を守り続けていかなければ、とそればかりで。
茜は、さらに登り続けようとしていたのかも知れない。ぼくとの結婚よりも上に登る道があって、ぼくがただ、疲れてしまっただけかも知れない、と最近思ったりもする。
ぼくの毎日は変わることがない。今日が何曜日なのかも、今が何時なのかも分からず、小さなハコの中で過去に逃避している。ぼくは、今年で三十になる。はぁ、ため息ばかりの日々だ。
このタバコ屋の狭いハコ。誰かぼくに鍵をくれないかと、すがるような気持ちになる時もある。多恵ちゃんにとっての高塚さん、大学時代のぼくにとっての茜のように。茜……、彼女がまた、ぼくを連れ出してはくれないだろうかということも考えてしまう。
多恵ちゃん夫婦は、最近よく来る。高塚さんは本当に良い人だ。ニコニコしながら、「おっ、友介君、顔色がちょっと悪いぞ。運動不足だろ?」とか、「お義父さん、孫は僕たちに任せて下さい」などと、平気で言う。多恵ちゃんは慌てて「ちょっとぉ〜」と高塚さんの頭を叩く。二人を見ていると、ぼくはなんだか、元気が出るという訳ではないけど、仲がいいなぁと嬉しくなってくる。そういう関係も、つまり子供なしの夫婦だけでという茜との未来図も、楽しかったのかもしれない、と思えてくる。
一昨日、高塚さんからある提案をされた。それは高塚さんだから言ってくれたんだと思う。実際、多恵ちゃんは「私は止めたんだけど」と言っていたから。
彼の知り合いが、近くにアート系の小さな映画館をオープンさせるので、そこで働いてみないかという。多恵ちゃんからぼくが映画好きなのを聞いて、高塚さんはすでに先方に話を通しているらしい。先方が言うには、まだ自分たちにも何ができる分からないので、車いすだからできないことも分からない。つまりは、ぼく次第だということらしい。バリアフリーという言葉にぼくが敏感なのを知ってか、高塚さんは慎重にその言葉を避けていた。
だけど、とぼくは思う。相当に気を遣うことは間違いないし、遣われもするだろう。何もかもが始まりの状況でいっても、迷惑をかけるだけだ。「考えてみます」とは言ったけど、やっぱり断ろうと思う。
たぶん、高塚さんは父さんが言っていた事に触発されてこの話を持ってきてくれたんだろう。文具店で三人が話していたのを聞いたことがある。
「友介、そろそろ外に出るように言った方がいいんじゃないの?」
「外に出るっていっても、あいつの閉じこもってるのは家でも部屋でもないんだぞ。あれはハコだ。それも蓋のないハコなんだ。だから、開けてやりたくても開けれないだろ。こうなった以上、あいつが自分で突き破ってこないことにはどうしようもないんだよ。あいつはまだまだ若いんだ。そんなに焦ることもないだろ。きっと、何か見つけるさ」
「そうですよね、お義父さん。まだまだ、何だってできますよ」
義成の母ちゃんと話した翌日、今度は義成がタバコ屋にやって来た。ずいぶん久しぶりだったが、何も変わっていない。
「おー、せっかくの男前が台無しだな。それってトイレとかどうするんだ?」
なんともストレートな言葉だった。男前っていうのは相変わらずの義成節だし、車いすを見て一番始めにトイレを連想するのもコイツらしい。
「竹ちゃんとかとも話してたんだぜ。覚えてるか? あの野球部の」
「あぁ」
「お前、大学入ってから、モデルとかやってさぁ、噂じゃ、その辺のオンナとやりまくってたらしいじゃないか」
「はぁ?」
「まぁまぁ、若気の至りだな。それよりさ、オレ最近、卓球始めたんだよ。チームも作ってさ。卓球やったことないヤツらだし、友介も来いよ。出来るんだろ、卓球ぐらい。ほら、お前高校の時うまかったし。毎週土曜、高校の体育館使わせてもらってるからさ。な、来いよ、絶対。じゃ、オレ仕事あるから」
義成は、手に持っていたパンフレットのような物を鞄に仕舞い込んで、駅まで歩いていった。
卓球をしている自分を想像してみた。まず、台が高すぎることに気付いて、諦めた。義成が歩いていく。アイツの後ろ姿は、小学生から全然変わらない。多恵ちゃんの横でカールを食べていたあの頃、あの駅からの遠くミライを空想しては、浮き立つような気分になっていた。このハコの中で広げた世界が、ぼくの道だった。登っていく道。
頂上は、死ぬときなのか? ふとそんな事を思った。いや、死んだってそれは一部で、もっともっと、あまりにも高いところにあるから頂上は見えないのかも知れない、な。
もう三十。いや、まだ三十。いやいや、やっと三十なのか。
「スーパー・サーティ」。声に出して言ってみた。なんだか元気が出る。スーパー・サーティ、そうか、これからなのかも知れない、な。
タバコ屋から伸びる一本道を眺めてみる。その真ん中を進んでみようかと思った。段差もあるだろうし、自転車や歩行者や軽自動車なんかに嫌な顔されたりするんだろうな。車いすで行くんじゃ、駅までずいぶんかかるんだろう。とても広くて長くて遙か遠くに感じる駅。あそこから電車に乗って、遠くに行って、どこかで降りて、そこから始まる何か。それはきっと楽しい……。
ぼくは目を閉じて想像した。車いすで駅まで行き、駅員さんに補助されるながら電車に乗り込む。大学の最寄り駅で手こずりながら降りて、大学のラウンジに行く。そこでコーヒーを飲む。環境の話なんかをしゃべりながら、ドキドキする。「明日がないじゃない」という茜の声がする。その声が、「な、来いよ、絶対」というさっきの義成の声に変わり、目を開けるとまた、狭いハコの中にいる。自分は今、どんな顔色をしてるんだろう。「男前」が台無しになっているんだろうか。ここで、こうやって、もう思い返す過去もないぞ、と。
アームレストからあげた右腕で、高校時代の放課後の、あのつまらなかった素振りを何度かやってみる。
〈卓球でも、行ってみるかな〉。
【了】
Storiesに戻る

Copyright (C) Shogo Suzuki. All Rights Reserved.