野菜や果物、米や魚に肉。食べ物の多くは生産地で値段が違う。それは、それぞれに適した地というものがあり、それぞれの国民の「舌」が関係している。確かに味が違い、よって値段も違う。美味しいものは高く、そうでないものは安い。百円のブロッコリーと三百円のブロッコリーがスーパーに並び、僕たちは選択してどちらかを選ぶ。
ここまでの話になんらおかしな点はないだろう。(誤解のないように記すが、あくまでも消費者としての立場で言った場合だ。安い大量生産の外国産が日本に入ってくると、日本の農家が被害を被るなどの「政治」的な話はWTOに任せるとして)

が、見栄えがそうかわらないからと言って、百円のブロッコリーを三百円で売られたら?これは、もうめちゃくちゃな話だ。たかがブロッコリーと侮ってはいけない。ひとつがそうなら、スーパーに並ぶ全ての食材に疑いの目を向けてしまう。そのうち、食材だけではなく、洋服も、日用品も。何もかも嘘ではないかと疑ってしまう。目の前にいる「人」の笑い顔でさえ懐疑する。

このほど、大阪でおこった野菜産地偽装事件。一昔前には、外国産の肉を国産だと偽ったこともある。天然と養殖にしても、「本当か?」と疑いたくなる。

僕らは、何を信じればいいのか?

夕飯前の食料品売り場。パックされた生鮮食品を眺めながら、色つやを確かめ、賞味期限をチェックする。よりいいものをカゴに入れるため、吟味する。
ここでちょっと待った。賞味期限のラベルは、スーパーの裏で印字されていて、売れ残りをリパックして印字し直しているかも知れない。いや、そのぐらいはしているのだろう、と僕は疑いの構えだ。近い将来、スーパーに並ぶ食料品にICタグを付け、そのタグに生産地、出荷日などを詳しく記憶させる時代が来るらしいが、そんなバーコードにかざして示される多くの情報が、本当に消費者の安心につながるのか?
生産地を偽るくせに?鮮度に関するあれこれを嘘で固めるくせに?
安心なんてできやしない。

先日、ある雑誌に「例えば、生産地や消費期限を偽るような店が出てきても、その先、悪い評判がたって売れなくなる。そんなリスクをしょってまで偽る店主は減るだろう」という記事が載っていた。「そういうもんかね」と思いながら読み進めると「しかし、結局のところは自分の目と舌で確かめることが必要であるかもしれない」と結ばれていた。「はっ?」と、僕は思わず声に出してしまった。全然違うだろう、それは、と。

生産者は消費者に届けてお金を得る。消費者は商品を買うために、また別のところで様々な生産者となっている。それがサイクルして社会が形成される。
「自信」をもって生産し、「信頼」して消費しているのだ。どこかひとつで今回のような「嘘」が行われると、先述のように何もかもが信じられなくなる。
信じられない「不安」は、「自信」を脅かせ、全ての回転を狂わせる。自分の目と舌で確かめながら消費するのではなく、ICタグに記された情報を信じて安心出来る方が、実は温かい。見えない人間同士が「信頼」で繋がれるのだから。僕は、今回の野菜産地偽装事件で、二つのことを思った。
ひとつは、生産者と消費者の、つまりは「自信」と「信頼」の間で仲介する者たちの嘘が、生産者に対しても、消費者に対しても裏切りを意味するのだということ。そしてもう一つは、そんな仲介者たちには、自信も信頼も存在していないのではないかという疑い。彼らは何に自信を持ち、何に信頼をおいているのか。真ん中で宙ぶらりんな彼らの、その意識の低さは、僕らの身近にある驚異かも知れない。
と、ここまで書いて僕はタバコを吸う。言い過ぎか?と反省もした。だからフォローする。
一転、彼ら仲介者がいなければ、遙か遠いところで作られた安くて美味しい食材が食卓に並ぶこともない。だから、不必要な訳ではないのだ。なので、彼らには期待したい。仲介者は、信頼の元に買い付け、自信をもって出荷していただきたい。そうして売り出した結果、お金を得て欲しい。産地を偽って、後ろめたさ(そんなものがあったのかどうかはしらないが)の中で水増しするより、「俺たちのおかげでアメリカ産でも中国産でも、食べられるんだぞ」ぐらいの意義と自信を持って欲しい。

とにかく、自信を持って生産者が作物を作り、それを信頼して仲介者が買い付ける。それをまた、仲介者が自信を持って小売店に流し、僕ら消費者が信頼し、選択して買う。これは、超小型記憶メモリーの開発と流通を待たずとも、つまりは、最先端のICタグがなくても、出来うる健全なサイクルだ、と思うのだが。

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自信と信頼

2004年7月31日