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金銀銅閣寺巡礼
@京都
2016年12月30日-31日

室町時代の京都という遺産が多い今の京都。私は平安時代の京都が好きだわ、という方も、さすがにこの知名度には脱帽かと。足利尊氏が立てた金ぴかの金閣寺。元々(私がギリギリ記憶のあるぐらい幼少の頃)は、茅引きで、二階部分だけが金箔だったような。それが、これだけ全面的に金ぴかになって、品がなくなった、なんて会話を着物の型師だった父が言っていたのを覚えている。

で、尊氏の時代から5代くだって足利義政の時代。北山の金閣寺に対して、東山に銀閣寺を建てる。文化人義政にとって、銀箔をはるというのは、財政難だったから無理だったと言われているが、そうではなく、これぞ、銀、太陽と月で言うところの月の美、という意思で、今のような銀閣寺にしたのではないかと思われてしょうがない。それほどに、この銀閣寺は、正面からも、斜めからも、坂を登って上から見ても、どれも全てにおいて美しいのだ。特別公開の時期には、四畳半の始まりとも言われる茶室が見られる。

この金閣、銀閣に対して、銅閣寺。京都人でもほとんど知らないし、知っていても、そんなのは偽物だ、と吐き捨てる人が多い。

実際に、高台寺付近で人力車に乗り、この界隈を回っても、紹介されるのは祇園閣というだけで、銅閣寺とは言われない。そもそも、なぜ銅閣寺と言われるのか。観光素材として、売り込みやすいから、というのはそうだろうが、この銅閣寺は一般公開されていない。いまいち、観光素材としての強引な結びつきではなさそうだ。

まず、銅閣という所以。これは、帝国ホテルの創始者、大倉喜八郎という人物が別荘(今の場所)に「金閣も銀閣もあるなら、銅閣を造る」といって建てたのが、これ。大正に入ってからのこと。設計は築地本願寺などを手がけた伊藤忠太氏。彼が祇園祭の山鉾をイメージしてこれを建て、そのことから祇園閣となるが、屋根にはしっかりと銅板葺きになっていることから、喜八郎の意思と相まって銅閣という通称になる。


その場所に、たまたま織田信長・信忠親子の菩提寺、大雲院が移転してきたことから、ここに銅閣のある寺、銅閣寺が成り立ったというわけ。まぁ、金閣、銀閣に並び称されるほどではないにせよ、存在感は半端なく、ここを通る人なら一際目をやるはず。一流建築物であることは間違いない。

昨今、一位を金、二位を銀、三位を銅といって、四位を虹というとか。巨万の富を得たIT起業家なんかが、別荘として京都に土地を買って、虹閣寺を建てることも、あるかもしれない。