「いい日」
(鈴木正吾著)

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セカイ ヲ ミテコイ。

 呪文のような父の言葉が、今も宥和(ゆうわ)の頭を公転している。
『だからさ、内定したトコ、夏休みにインドで研修あるんだって。悪いけど、やっぱ無理だわ。ほんと御免』
 ペコリ、と頭を下げた絵文字を付けて、恋人の亜実にメールした。
 暑くもなく、寒くもない。空気の澄んだ晴天。宥和は、オープンカフェに座って、初めて手にした自分のパスポートをペラペラとめくっていた。鼻をつく独特の匂い。ICチップの入った真ん中の堅い紙を引っ張ってみる。DO NOT STAMP THIS PAGE. 「誰も押さねぇよ」と、鼻で笑った。

 叔父のコネで就職も無事に決まった。卒業に必要な単位も心配ない。後は、来年の春まで、残りの学生生活を謳歌すればいい。ぐーっ、と伸びをしながら見上げた太陽が心地よかった。晴れた気分とは、きっとこういうことだろう。若さと、目の前の冒険、それに向かう勢い。そして、小さな嘘。

『嘘つき』
 亜美の返信は、いつものように素早い。

 就職が決まったら、奄美大島に行こう。ずいぶん前から二人で約束していた。宥和は、嘘までついてその約束を破ろうとしている。なぜなら、彼はもう決めたのだ。この夏、ひとりでインドへ旅に出る、と。大きく息を吸い込みながら、返信メールを打つ。

『御免』

 人や車で溢れた東京の街は、相変わらず整然としている。
 全てが、高級絨毯の上を滑っているかのように滑らかで、静かだ。
 セカイ。宥和を魅了したこの言葉には、クラクションや喧噪、貧しさ、血と死。掻きむしるように生きる人間の右往左往した姿。そんな混沌とした街の熱を、東京にはないそんなセカイを、宥和はちょっと囓ってみたいなと思った。

 矢印のように南を指すインドには、高校生の頃から興味があった。
 地図帳を眺めながら思い描いていた未来。この先の自分が、南へ南へと進む像。それをまるで、後押しするかのような国の形が、宥和を惹きつけ、いつからか未来への中継地点のようになっていた。セカイの熱を帯びたインドという国。南へ向かう将来への布石。

『何それ? 嘘だって認めちゃうわけ? 信じられな〜い。知らないからね、もう。帰ってきたって私、他のオトコのものになっちゃってるかも。も〜、知らない』
 熱を冷ますようなメールを見つめ、宥和は冷めたカフェ・モカを飲んだ。
 とても、甘かった。「やっぱ……止めようかな、インド」

 今、自分が持っているモノを失うかもしれないのに、わざわざ「新しいモノ」を求めるなど、今、こんなに幸せなのに、こんなに気分が晴れているのに、わざわざ。
 もし、本当に亜美が誰かのモノになって、そしたら……最悪だな、と宥和は憂鬱になった。彼はいつもそうだ。やる前から、後のことばかりを考える。だから、なかなか動けない。バイトも授業もサボれないのは、その後で顔を合わせた時、言い訳のしようがないからで、嘘で友達との約束をドタキャンするなんてとても無理だった。それまで通りの安定した関係を保つ自信が、彼にはないのだ。たった一つの嘘やサボリで崩れてしまう関係。それ以上に強く誰かと結びついているという実感は、ない。何より、誰かとの繋がりを壊してしまうことに、宥和は「恐れ」さえ抱いているのだ。

― もう、あんな気持ちになるのは嫌だ。絶対に、あんな、あんな気持ちだけは ―

 一人言のように呟いた宥和は、重い気分のまま家に帰った。

 玄関先で誰かと話していた母が、宥和に向かって手を振った。か細い糸のギリギリの繋がり。ペコリと頭を下げ、自然と作れるようになった笑顔で、挨拶した。

「田中さんよ。ユウワも覚えてるでしょ? 前の家の、近所に住んでた」
「あ、うん。こんにちは」
「ほんと、大っきくなったわねぇ。四年生だよね、もう」
「そうなの。お陰様で就職もなんとか決まってくれてね、私も安心してるのよ」
「それで学生生活の最後にインドに行くわけね。若さって、羨ましいわ」
「田中さんのところは? ミワちゃん。ユウワと同じ歳だったわよね」
「うちはほら、高校もやめちゃって、もう結婚したから」
「え! そうなの。私ぜんぜん知らなかった。お祝いもできなくて」
「いいのよ。突然、子どもが出来たから結婚します、ってね。何を考えてるんだか」
「そう。じゃ、もうお母さんなの」
「そうよ。子どもが、子ども連れてるわよ。ほら、うちのミワもユウワくんにふられちゃったからね」
「またぁ、そういうこというでしょう」
「嘘よ。でも、ほんとに、立派になって、ユウワくん。モテるんでしょうね」
 いやぁ、という顔がうまく作れない。
「ユウワ、田中さんのご主人が、あんたの航空券、手配してくれたって。パスポートは? 取ってきたんでしょ、今日」
「あ、うん」
「航空券だけでいいの本当に? ホテルとか、列車とか、日本で手配できるものはやっておきなさいよ」
「今井さん、最近の若い子はみんな向こうでやるらしいのよ。三ヶ月も行く長い旅なんだから、向こう行ってからしたいことなんて、変わるでしょ」
「そうなの? この子、そういうタイプじゃないから、心配になっちゃって」
 インド、止めるとは、もう言えなくなっていた。

 世界を見てこい、と父が号令を出し、インドに行こうかな、と宥和がスイッチを押した。後は、いつものように母が、そのためのレールを敷いた。





 真夜中のニューデリー上空を旋回している。眼下に見える街は真っ暗だ。雲が多いせいで、街の灯りはほとんど見えない。
 出発前、亜美からメールがあった。『楽しんできてね』という短いメール。
 宥和はあれから、彼女に本当の事を告げた。研修というのは嘘で、時間のある今のうちに、ひとりで旅がしたかったのだ、と。だけど「一緒に行かないか?」と誘ってもみた。
 大学三年生の亜美は、夏休みを丸々つかって旅行に出ることは出来ず、もう就職活動に向けて準備をするという。宥和の誘いを、亜美は嬉しく思ったのか、頼りなく思ったのか。その時を境に、亜美の態度は微妙に変わってきたように思う。決まったことだから、やる。時間が進んで、準備がどんどん整って、宥和はただ、飛行機に乗った。空港も、チェックインも、出国も、初めての事ばかりで、二時間も前に行って何をするんだろうと思っていたが、結局、二時間つかって、なんとか飛行機に乗れた。
 夜は、いつも寂しい。知らない街、知らない人、知らないセカイ。そして、ひとり。宥和は、眼下を見下ろし、言いようのない胸の痛みを感じていた。今まであったモノが、すべて愛しく思えた。グルグルと旋回する飛行機。どこかへ向かうでもなく、上がるでも、下がるでもない時間。宥和は、不安に負けそうになって、後悔していた。

「なんで、来てしまったのだろう」
 機長から英語のアナウンスがあり、機体は徐々に高度を下げる。雲の間を抜けると、灯りが見えた。ぐーっ、と腹が締め付けられると、後悔より、これから先のことで頭がいっぱいになる。「まずは、ガイドブックで見つけた宿までタクシーを拾って、パスポートは、あるな、航空券も、あるな。あ、その前に両替だな」。ブツブツと声に出しながら、一つずつ確認していく。来てしまったんだもう、と少し大きめの声で宥和は呟いた。
 競争するかのように降りていく乗客を全て見送り、宥和は、ようやく席を立った。「ナマステ」と、キャビン・アテンダントが両手を合わせた。宥和も真似して「ナマステ」とお辞儀した。

 空港を出ると、タクシードライバーに囲まれる。宥和は、その群れに向けて宿の名前を連呼した。中から一人のインド人が現れ、日本語で「ソコ シッテマス イキマショウ」と腕を引っ張った。反射的に振りほどいた腕を、もう一度掴んで男は言った、

「ワタシハ マルゲ デス。ニホンジン トモダチ イッパイ。シンパイ イラナイ」
 マルゲと名乗った男が、ドライバーを捕まえ、その車に宥和を乗せた。そして、タクシーは街に向けて出発する。ドライバーとマルゲが現地の言葉で会話をしている。時々宥和の方を向いて、「エイゴ ハナセマスカ?」などと質問してくるが、宥和は硬直したまま、うまく返事ができなかった。
 到着した宿は、確かに宥和が告げた名前だった。少し安心してロビーに入る。もう夜中の十二時を過ぎていた。マルゲがフロントの男と何かを話しているので、宥和はぼんやり二人を眺めていた。ふと、奥のソファにタバコを吸った女が座っている。軽く会釈した宥和に、その女は「フー」、と煙を吹き出した。
 マルゲにタクシー代を渡し、フロントで宿代を支払った。階段に向けて歩く宥和を、ソファの女は凝視している。組んだ脚の上に肘を乗せ、真っ赤なマニキュアに、真っ赤な口紅。真っ黒いストレートのロングヘアー。日本人、じゃないよなと宥和は頭の中で考えながら、通り過ぎようとした。「グンナイト」と、声をかけたのは宥和だった。女は、タバコを持っている方の手をヒラヒラさせて、「おやすみ」と宥和を見上げた。
 
 階段を二、三段上ってから、宥和は振り向き、「あ、いや、日本の方ですよね?」と尋ねてしまった。そして、慌てて「いや、すいません、お休みなさい」と打ち消した。

「以外、に見える?」と、女は言う。
「いや、もしかしたら外国の方かな、と思ったので」
「外人よ、ここでは。あなたもね」
「あ、まぁ、そうなんですけど」
 
 宥和は、ドッと安心した。胸から喉にかけて固まっていたモノが、スーッと落ちてきて、とても温かい気分になった。

「ここに泊まってるんですか?」
「そうだけど」
「よかったぁ〜」
 思わず声に出した後、また、宥和は慌てた。
「何が?」という女の言葉を先回りしたからだ。

 女の横に座り、宥和は次々に質問した。ここに来てどのぐらいなのか、ここで何をしているのか、この宿には他に日本人がいるのか、さっき払った自分のタクシー代は高くないか、この宿はお湯が出るのか、この辺りの治安はどうか。

 日本を離れてから一日も経っていないのに、宥和は、日本語で話せる安堵と同時に、それまでの不安な気持ちを一気にはき出した。それは、普段無口な宥和には珍しく、まるで、大雨の後で音を立てながら流れる小川のようだった。

 曖昧に頷いたり、首を振ったりしながら、最後に女は、「君が思う通りよ、すべて」と流れを断ち切った。その言い方は、聞き返すことを拒むような確固としたものがあり、もっと大きな、漠然としたリアルの解答を告げられたように思えた。

 しばらく沈黙が続き、女は唐突に「お母さんもお父さんも、日本人?」と、宥和に尋ねた。ハーフみたい、と言いたいのだろう。宥和はこれまでに何度もこの質問を受けてきた。そして、それが嫌で嫌でしょうがない時期もあったが、もうその事を特に気にすることもなくなっている。

「いえ、両親ともに完全な日本人ですよ」
「ふ〜ん」
「以外、に見えました?」
 
 笑いを含んで言った宥和に、女は、声をあげて笑った。
 そして、急に表情を和らげた。

「最初はね、入口から入ってきたとき、あれ? 日本人かな、違うのかな、ってね。でもこっちにお辞儀したから、あ、日本人なんだって思ったけど」

 そのまま、宥和は女の部屋に行き、キスをして抱き合った。

 肩から足の先まで、女の肌に自分を滑らせ、密着した皮膚から熱を吸い込んだ。黒くて長い髪に指を通し、唇を自分の口で閉じた。それから、何度も挿入した。
 ドッと放り出した興奮の塊は、宥和の中では正しく非日常の形。アジアの夜だった。旅に出て、出会ったばかりの女と関係を持つ。その関係は、きっとそこだけの、先に繋がらない関係。

 セカイを見ようと思った時、囓ってみようと決めた時、「こんなこともあったりして」と、少し期待していた非日常を、宥和はベッドの上で噛みしめた。

(二)

 女の名前は沙織。半年前に会社を辞め、日本を旅立ってからずっとインドにいるらしい。
 大学を出てから七年勤めた会社、と言っていたので、歳は三十近いだろう。それ以外に、沙織のことは何も分からない。彼女は、自分のことをあまり話さなかった。
 話さないばかりでなく、聞くことすら許さない空気をつくっていた。生まれた所も、育ったところも、これまでどんな仕事をしていたのかも。ただ彼女は、宥和の腕の上で、小さな頭を微動させるだけ。

 時差ボケと興奮で、その夜、宥和は眠れなかった。
 小さな窓から、夜が明け始めたのがわかると、沙織を起こさないようにそっと腕を抜き、外に出た。
 昨夜は暗くて分からなかったが、宿の前は、とても汚い。軒を連ねるようにして何軒もの店があったが、閉まっているので何の店かは分からない。路上で眠っている人もたくさんいる。その前を、何台かのリキシャーがベルを鳴らしながら走っていく。宥和を見る度に「乗らないか?」というジェスチャーをして、宥和が断ると、そのまま通り過ぎていった。

 朝は、いつもわくわくする。知らない道でも、不思議と不安はない。
 眠気は多少あったが、インドの朝を全身に感じながら、宥和はとにかく前進した。気分に任せて右折し、左折した。鼻の奥を突き上げる匂いが、この街の隅々にまで染みついている。
 まだ眠りの中にある街でも、その匂いは濃厚で、それを思い切り吸い込むと、なぜだか嬉しくなった。
 しばらく歩くと、目の前に川が現れた。
 それは、聖なる河でも何でもない、ただ普通の川。宥和は草むらに寝ころび、紫色の空を見上げた。ひんやりとした背中。右の方で何かが動くガサガサという音。そして、急に襲ってきた強烈な睡魔。
 川の方からピシャピシャと音がして、それがやがてバシャバシャという数になり、体を起こしてみると、見たこともないような魚の群れが飛び跳ねていた。

 川面の色も、紫色に濁っていた。川岸の方に誰かいる。
 この川はどのぐらいの深さなのか。宥和はぼんやりとその人を眺めていた。どこの国かは分からないが、欧米人の女性。金色の髪に白いタンクトップ。そして黒いパンツ。彼女はこちらを向いている。と、突然、後ろ向きになって、川に飛び込んだ。

 バシャバシャという音の中で、ひときわ大きく、ドボーンと響いた。
 顔を出したその女性は、奇声を発しながら吸い込まれていく。ちょうど、流し台の排水溝のよう。ゴーゴボッと音を立てると、女性の姿は見えなくなった。
「死んだり、しない、よな」と、宥和は慌てた。「死んだりは、しないだろう」と、首を振って頭を掻きむしる。
「だって、自分から飛び込んだんだから」と、納得させる。

 宥和は一歩も動けず、頭の中だけで考えを高速回転させた。望んでまで死んだりしないという宥和の常識の中で、それは怪奇だった。自殺。その言葉が頭に浮かぶと、よく見る、あの奇妙な夢を思い出した。超どアップのハエのような顔、両目を真っ赤にさせて食い下がるヌルヌルの両手。宥和の胸元を掴み、目があった瞬間、少しだけ微笑む、あの夢。

 死んだりは、しない。
「しない、しない」と叫びながら、宥和は、その場から走り去っていった。

 汗だくの自分に気づいた時、宥和は道に迷っていることに慌てた。
 夜明けの街をあてもなく歩き、戻ることができなくなった。空腹、喉の渇き、目の前の雑然。何とか、しなければ。ふと、「外国」にいることを強烈に感じた。頭の中にブツブツと吐きだしている自分の言葉を、通り過ぎる何十人という人達には理解されない。「セカイ」を前にした時、圧倒されるという現実はこういうことなのだろうか。よく父が言っていた言葉の意味をかみしめる。

「宥和、セカイはでかいぞ。だから怖いし、だけど面白い。距離をおこうとするな。ぶち当たっていけ。そして、できれば砕けずに、頑張れ」

「すいません、あ、エクス・キューズ・ミー」
 絞りたてのフルーツジュースを並べた屋台の店主に、宥和は声をかけた。この道をまっすぐ。宥和が連呼した宿の名前を聞き、店主は、ジェスチャーと現地の言葉で教えてくれた。
 気分なんて実にいい加減だ。店主に道を聞いた、時間にしてたった数秒間のそんな触れ合いが、宥和の中から不安と後悔をかき消し、「インドにいるのだ」という実感をもたらす。そして不思議なことにワクワクさせた。

 ようやく宿にたどり着くと、奥のロビーに沙織がいた。
 その隣には、外国人の青年がいる。隣?ではなく、正確に言えば、沙織の上にいる。後頭部しか見えないその青年は、沙織の耳たぶのあたりを噛み、沙織は、彼越しに無表情で宥和を眺めている。青年の肩に回された彼女の手は、昨日と同じく真っ赤なマニキュアが塗られていた。

 何も言わず、横を通り過ぎ、階段を上がろうとした宥和に、
「何も言わないの?」と沙織が言った。

 急に沙織が声を出したので、青年も振り返った。
「何も言わずにいなくなって、戻ってきても、また何も言わないの?」
「誰ですか、彼?」
「彼、ジャックだって。イギリス人よ。おそらく、ジャックなんて偽名だけどね」

 ジャックというらしい青年は、日本語が全く分からないのだろう。沙織と宥和の顔を交互に見ながらキョロキョロしていた。
「Hi」。
 差し出されたジャックの手を、宥和は軽く握った。そして、そのまま階段を駆け上がり、自分の部屋に入った。扉を閉めてから数分間、宥和の頭の中は混乱していた。

 宥和の前に突如として現れた沙織は、誰の前にも平等に、突然現れるのか。なぜだか自分自身が安っぽく思えて、無性に腹が立った。同時に、沙織という「女」が、とても寂しく感じた。昨夜、ベッドの中で話そうとしなかった彼女の過去が、宥和の中で創り上げられていく。

 ベッドに寝ころび、宥和はマスターベーションをした。
 そして、そのまま眠ってしまった。

(三)


 首筋にまとわりついた汗が不快で、宥和は目を覚ました。
 夕方の七時を指した壁時計が、眩しいほど白い。周りの壁の黒ずみと、穴のあいたカーテンが余計に時計の綺麗さを強調している。
 朝見た光景。
 紫の川辺。
 一人の女性。
 封印したはずの記憶が、宥和の頭の中に浮かんでは消える。
 ひとりで海外。
 この特殊な行動が、堅い鍵をこじ開け……。

 首を振って、宥和は「像」を振り払った。

 あの時、と宥和は思った。あの時、あの川辺から立ち去らず、誰かを呼んでいれば、あの女は助かったのだろうか。自殺だとしても、もう一度全てをゼロにリセットして、やりなせたのではないか。

 夕食に出かようと宥和はロビーに下りた。そのまま出口へ向かうと、なんと、宿の前の小さな椅子にあの「女」が腰掛けている。隣にある雑貨屋の、前に張り出したTシャツに埋もれるようにして、今朝見た、今朝、死んだはずの、女が座っているのだ。

 何かの間違いだと、宥和はそのまま通り過ぎた。
 無性に胸がドキドキする。頭の内部が圧縮されてワンワンと鈍くうなる。恐る恐る、宥和は振り返ってみた。やはり、そうだ。間違いない。あの髪、あのタンクトップ、そして、黒いパンツ。間違いなく、今朝、あの川に飛び込んだ女だった。はっきりと顔を見たわけではないが、顔なんかよりも、もっとはっきりした何か。あの女が持っていた強烈な印象が、軒先に座っている女性と合致するのだ。

 「化けて出たか?」という推測が、本当に恐怖に思えるほど、今朝、確実に死んだはずの女が、確実に目の前にいるのだ。
 映画で見たことのあるような光景の中で、映画で見たかのような女の行動。だから、女は死んだと思っていた、だけなのか? 映画じゃない。これは現実だ。十メートルほど距離をおいて、宥和はもう一度、じっくりと女を眺めた。力のない瞳から強烈な引力を感じる。心なしか、長い金髪も、濡れて見える。映画じゃないことが、何よりも恐怖だった。

「あそこで泳いでただけなのかもしれない」、と宥和は自分に問いかけた。飛び跳ねる魚の群れと一緒になって、もしかすると彼女は、遊んでいたのか?

 違う。浮き上がってきた時の彼女の顔は、決して遊んでいたのではない。次々に浮かんでくる考えは、片隅を解いても、もう片方が絡まるという混乱をうみだし、抜け出せなくなっていた。

 宿の前を三往復。宥和は、行ったり来たりを繰り返した。その間も、女はいつも同じ瞳でぼんやりと椅子に腰掛けていた。宥和の方は向かない。人混み、ゴミの塊、自転車に車に砂埃が、ゴチャゴチャとした光景をつくる中で、彼女だけが、「あの顔」で座っている。このままどこかの店に入って、一人で夕食を食べる気にもなれない。「もう、宿に戻ろうかな」と、宥和は思った。そうは思っても、宿の前にはあの女がいる。宥和は、今朝と同じく、当てもなく歩き、宿から遠く、遠く、離れていった。

 この街の夕暮れは、どことなく不快だった。

 日が落ちても、昼間の余熱で熱気を帯びているというより、まだまだ新しい熱を発しているかのような喧噪。路地裏の隅々にまで、その熱と声と匂いが充満していた。カレーの匂いから逃れるように、宥和は裏道をグルグルとまわっているうちに、不意に宿の前に出てしまった。日が暮れ、道路はなぜか濡れ、暑いのに長袖を着た現地人が、一つの椅子に何人も腰掛けて、肘をぶつけながらチャイを飲んでいる。

 宿の前の椅子に、女は、もういなかった。
 そのことに安心した宥和は、自分の部屋に逃げるように戻った。ベッドに寝ころんだ自分の体から、カレーの匂いがした。

 性・眠・食。
 インドにきてから順番に満たされていった欲の中で、宥和が未だ手にしていないもの。彼は、昨夜から何も口にしていなかった。

 とても空腹だった。それを紛らせて眠ってしまうことも出来ず……、「ロビーに、沙織、いるかな」という期待が浮かんだ。「ジャックと一緒かな」という不安も攻めてくる。「とにかく何か食べよう」と起き上がり、宥和は再びロビーに下りた。

 ロビーでは、ソファに座ったジャックが一人でテレビを見ていた。BBCという文字が画面の隅に出ている。かわったばかりのイギリスの首相が、何やら難しそうな顔で話しており、それを聞いていたジャックが「信じられない」というジェスチャー。その後で、何やら叫んでいた。いい話、ではなさそうだった。

 宥和に気づいた彼は、軽く手を挙げ「Hi」と挨拶をすると、また画面に集中した。「いくつぐらいなんだろう」と思いながら、ロビーの横にあるトイレに入る。鏡に映った自分の顔が、信じられないぐらいに黒い。出の悪い蛇口をいっぱいにひねり、顔を洗った。

「サオリ・ウィズ・ユー?」
 トイレから出た宥和は、ジャックに尋ねた。
「She takes a shower now」
「カム・ヒア?」
「Maybe」

 ジャックの顔を正面からちゃんと見るのは初めてだったが、宥和にはそんな気がしなかった。まるで、ずいぶん前から知っていたかのような親しみがある。すまして画面に集中すると、ずっと年上にも思えるし、こちらを向いてにっこり笑うとまだ若い。耳と鼻と眉毛にピアスをして、右のふくらはぎにタトゥーをいれている。何て書いてあるのかと、ぼんやり眺めていると、ジャックが英語で話しかけてきた。宥和には、まったく分からなかった。イエスかノーを問うているのかすら判断がつかなかった。宥和は、ジャックの息継ぎのタイミングで曖昧に頷いた。すると彼は、自分の隣をポンポンと叩き、宥和に「隣に来い」と誘った。対面に座っていた宥和が、そちらに行こうとした時、「ダメよ」と背後から声がした。

「何が?」
 振り返ると、口紅を落とした沙織がいた。
「コイツが座れっていってるからさ。何も、あんただけのモノじゃないだろ」
「じゃ、なくて。あんたの、その相づちがダメだって言ってるの」
「は?」
 つんけんした言い方になっていることは、宥和にも分かった。

「あんた、相づちと同時にイエス、イエスって言ってるでしょ。それ。それがいけないのよ。相手が何言ってるかも分からないのに、簡単にイエスっていっちゃダメよ」
「なんだよ、それ。別に、そんなたいした意味こめてないだろ」
「それはあんたの気持ちでしょ。相手には完全に同意って取られんのよ」
「別にいいよそれでも。同意してんだから」
「バカね、つくづく。もしも今、彼が『今夜、君と一緒に寝たい』って言ってたらどうすんのよ」
「は? 言うわけないだろ。コイツ男なんだし。それに、そういうこと言われてるなら雰囲気で分かるよ。そもそも、寝たいなんて簡単には言わないもんなんだよ」
 
 あんたじゃあるまいし、という言葉は飲み込んだ。

「ま、いいけど別に」
 沙織はジャックと宥和の間に座った。二人が話している間も、ジャックはテレビに向かって文句を言っていた。彼と同じように文句を言う青年が、画面に映し出されている。ジャックに近づいた沙織は、英語で二言三言会話をして、今度は沙織も「文句」を言う表情に変わった。ポツンと一人にされた宥和は、その場で立ちすくんでいた。

 夕食を一緒に食べよう。宥和を誘ったのは沙織だった。宿から十分ほど歩いた路地裏にある店。暗い店内には、英語の曲が大音量で流れていた。一通り見回すと、店員にも客にも欧米人が多い。ビールを瓶のままくわえ、立ったまま飲み干している。ムンムンとした雰囲気が、ドライアイスの煙のように立ち込めていた。慣れた様子で、カウンターに向かってジャックが注文した。そして沙織も、聞いたことのない名前のお酒を頼んだ。カウンターからこちらを見る店員に向かって、宥和は「同じやつ」と応えた。そう言った後で、宥和は注意深く沙織を見たが、彼女は意味深に微笑むだけで、タバコに火をつけた。ひとつ大きく吸い、はき出す煙と一緒に「ジャパニーズ」と口を動かした。両サイドに置かれた高い椅子に座り、三人は改めて乾杯する。ジャックがしきりに沙織の方を向き、「これでいいんだろ?」という仕草をしていたので、沙織と一緒に日本人を連れてきたのは初めてではないのかもしれない。

「よく来るの、ここ?」
「三回目、かな」
「彼と?」
「そう。なんか欧米人に人気らしいのよ」
「ユアー、アナタハ インド ハジメテデスカ?」
 宥和と沙織の会話に、割って入るようにジャックが話しかけてきた。
「ヤー」
「Me, too」

 店内に溢れる外国人達の笑いが、三人の会話の連続を断ち切る。
 暗い店内であっても、どこか日差しを浴びたようなアカルイ雰囲気。
 宥和はとても不思議な感覚に包まれていた。

 日本語を話す意志を失ったジャックと、英語を話せない宥和。その仲介にいる沙織だけが、常にどちらかと会話をしている。時々ジャックが沙織を介して質問し、それを沙織を介して宥和が応えた。目が慣れてくると、色んなモノが見えるようになる。雰囲気に慣れてくると、色んなことを話したくなる。宥和は、その法則に従って、頭に浮かんだ質問を英語に直してジャックに尋ねたり、それを訂正する沙織に腹が立って、黙ったりしているうちに時間が過ぎていった。過ぎていった時間に比例して、宥和はより雄弁になった。

 途切れ途切れで繋がらない会話。そんな中で、驚いたのはジャックという青年が、まだ少年とも言える十九歳だったこと。なのに、イギリスを離れて、もう一年近くもインドを旅しているという。十九歳の頃の自分。宥和は、テレビの画面に向かって必死に文句を言ったりしていただろうか。それも政治家が映るような番組に対して。ぼんやり考えている宥和に、ジャックが話しかけた。それを沙織が通訳する。

「インドに来たのはなぜ、って聞いてるわよ」
「なぜ?」
「旅の目的よ。なんでインドに来たの?」
「あぁ、えっと、サイトシーイング」

 宥和の応えが余程おかしかったのか、沙織とジャックは文字通り「腹を抱えて」笑った。
「ワタシハ コーシンリョ ヲ モトメテ インド キマシタ」
 ジャックは自分の「旅の目的」を日本語でそう応えた。
「コーシンリョ?」
 首を傾げつつ、沙織に尋ねると、「スパイスよ」と答えた。

「Yes, spice」
 嬉しそうに、ジャックは笑っていた。
「どういう意味、それ? スパイスって何?」
「知らないわよ。コロンブスにでもなった気でいるんじゃない」
 沙織の冷めた言葉が、店内に流れる音楽の「ゲッタウトヒィア」の連呼にかき消されようとしていた。コロンブス? 香辛料? 宥和の中で繋がらない二つの言葉から、漠然と大航海時代の、それもなぜか、海賊のイメージが浮かび上がっていた。

(四)

 ロンドン郊外の町で育ったジャックは、高校には行かず、父親が勤める小さな町工場で働いていた。しかし、不況の風に煽られ工場は倒産。父親は何とか次の就職先を見つけたが、手に職のない彼はうまくいかなくなった。当時まだ十六歳だった彼は、逃げるようにしてロンドンに出た。

 田舎育ちの彼にとって、ロンドンは正しく夢の街だった。少し手を伸ばせば「気持ちいいこと」に触れられる。その感覚に犯され、それが手軽であったことからどんどんはまりこみ、次第に抜け出せなくなっていった。ロンドンに出て一年、ジャックは戻れない所まで深く沈んでいた。街の外れで夜を過ごし、友人とシェアした安アパートで昼間を眠った。遊ぶための元気とお金のバランスは、「雇用」によってのみ保たれていたが、それが崩れ始めると、フラフラと不安定な暮らしの中で、苛立ちばかりを抱え込むようになる。雇用を崩した社会の新しい波。それは、かつて東側と呼ばれた欧州諸国や、アジア、アフリカなどから大量に流れ込んだ労働力だった。ジャックがありついていた仕事は、どれもそんな移民達にとって代わられた。時間通りに来て、言われたとおりの働きをする。そんな「ロボット」のような労働力に太刀打ちできるほど、ジャックは「真面目」ではなかった。そもそも、その「真面目」というものに価値など置いていなかった彼は、遅刻しただけでクビになったり、マニュアルを覚えろという雇用主と喧嘩して職を離れていった。クビになっては職を探し、そしてまたクビになる。そんな生活は、何もジャックだけではなかった。彼の周りには同じような境遇の同年代がたくさんいたのだ。

 ジャックが最期に働いていたのは、イギリス国内に十八店舗を構えるチェーン店のインドレストランだった。その店の厨房で、彼が皿を洗っていると、インド人オーナーが嬉しそうに眺めているようなところだった。店のスタッフも大半がインドからの留学生や学生で、ほとんどのやりとりが「彼ら」の言葉で成立していた。言葉だけではない。食事の味付けや習慣、生活する上での細かいルールなど全てが「インド」なのだ。ジャックには分かるはずもない、遠い国の常識。それが、自分の国でまかり通っている現実。雇用とクビ、そして再雇用というサイクルを繰り返しながら、ジャックは、やり場のない怒りと、声にならない不満を鬱積させていった。

 ちょうどそんな時、フランスで発火した「移民反対」の炎が、ロンドンの、それもジャックと境遇を同じくする若者の間で広がった。

「イギリスでの雇用は、イギリス人のために」。
 
 そんなスローガンが街のあちこちで掲げられ、赤い二階建てバスには、「まずはイギリス人の雇用を!」とペンキで落書きがされるほどだった。ジャックも、そんな「声」を挙げるべく、デモに参加したり、集会を開いたりと精力的に活動するようになった。
 雇用のない自国民の若者。彼らの主張は、最低賃金の確保と、ゆがみのない社会だった。安い労働力の上に成り立つ企業体制の裏で、自国民でありながら職にありつけない若者が出てくるのは、「ゆがみ」のある社会なんだという主張だった。

 新聞やテレビは、「行き場を失い、バラバラだった若者が塊になった」と報じた。そして、それは「脅威」だと結んだ。脅威。彼らのムーブメントは鋭角に尖っており、クスリと暴力が結びついていたのだ。小さな子供を持つ親たちは、「あんな風にならないためにも教育を」と訴え、ジャック等らよりも上の世代は、諦めたように嘲笑しているばかりだった。
 街頭のインタビューで「彼らを雇うより、外国人の方が会社のためだし、社会のためだ」と真面目に応える経営者の姿も珍しくなかった。
 つまり、ジャックらの声は、大きくなればなるほど疎んぜられ、世の中に浸透しなかった。外国メディアの中には、「イギリス国内で、移民の若者が暴動。雇用確保を訴える」などと、平気で誤った記事を流すものもあった。下降線をたどったグラフの最底辺、すり鉢状の底。そこに、ジャックらはいたのだ。

 流れが変わったのは、ムーブメントが始まってから数ヶ月した頃だった。

 ちょうど、選挙時期だったということもあり、野党議員の一部が彼らの「数」に注目したのだ。数週間で爆発的に広がったムーブメントは、数ヶ月もすると選挙票として当てにできるまでに成長していた。テレビに映るジャック等のファッションや言葉使いが「スタイル」となり、全国各地の同年代の若者に受け入れられた。彼らにすり寄った野党議員の一団は、彼らの主張を「国」に挙げると確約した。そして、ジャック等は、その野党議員を応援するようになる。
 すり鉢の底でぶくぶくと吐いた泡が、やがてすり鉢全体の空気を変える。ジャックは、そんな未来を信じて疑わなかった。そのための活動として、日夜走り回った。
 インドレストランで働いていた頃よりも体力的にはきつかったが、代え難い充実感を得るようになった。いつの頃からか、ジャック等の活動は、「バーガー・ムーブメント」と呼ばれるようになる。 それが政治家と結びついたことで、それまでとは違った形でとらえられるようになった。

 バーガーとは、彼らの多くがバーガー・ショップで働いていたことに由来していた。そんなアルバイト店員たちの逆襲。正規雇用への道。野党議員が作成した改正雇用法の抜粋が新聞に掲載されると、難しい顔をしたコメンテーターがあれこれと意見するようになる。必死で排除するための「正論」を考えるうちに、彼らの主張も一理あるかと思った国民が、パラパラとではあるが、賛同し始める潮流も生まれた。
 
 しかし、バーガー・ムーブメントの「脅威」は変わることがなかった。毎日毎日、国内のどこかでデモを起こし、そしてけが人を出した。市民生活を脅かしていると反対する政治家に、「彼らを抑えられるのは雇用だけだ」といった意見も出始め、与党議員が質問攻めにあうシーンもテレビに何度となく映し出された。
 そんな中、ジャックはいつの間にか「組織」となっていたムーブメントの、幹部ともいうべき位置にいた。日々街頭に出て訴え、室内にこもって話し合った。朝も昼も夜も、矢印で示されると、そちらに向かって走りやすくなる。そんな特急列車に乗って、ジャックは声をからした。
 点として存在する一日はとても長いのに、線となった一週間は意外に短い。そして、その線が面になる頃、半年間という選挙期間は、過ぎてみれば一瞬だったようにも思える。

 バーガー・ムーブメントに結果が出る時がきた。
 各紙の世論調査では、与党安泰の風潮が乱れ始め、若者にすり寄った野党の躍進を予想するものもあり、時代が変わると肯定的に受け止めるものもあった。が、結果は与党の勝利。ジャック等の応援した数名の議員は当選したものの、それは、同じ野党の中で吸収され、少数意見にしかなり得なかった。改正雇用法という言葉は、自然に消滅していった。

 選挙が終わるのを待っていたかのように、バーガー・ムーブメントに参加した者に逮捕者が続出した。麻薬、暴力、傷害罪。大きいものから些細なものまで、徹底的に調べ上げた警察が、この運動の壊滅を狙って動き出したようだった。ジャックにも操作の手は伸びる。次に逮捕されるのは自分かもしれない。それが、恐ろしくてしょうがない。何も変えられなかった数ヶ月の活動で、自分は以前よりも悪い状況に「落ちる」かもしれない。
 無力感、脱力感、諦め。
 ジャックは思った、「この国には、もう、無い」と。組織化したバーガー・ムーブメントに流れ込んだ資金のうち、出所のよく分からないお金がジャックの手元に入ってくるようになり、その金を持って、彼はイギリスを出る決意をした。出国が許されなければ、捕まるしかない。捕まるなら、それでもいい。ジャックは「先」を任せて空港へと向かい、そのまま出国ゲートをくぐった。


「スパイスってどういうこと?」
 宥和は、瓶をくわえたジャックに尋ねた。
「My life. My smile. My……everything」

 天井を見つめ、呟くように吐きだしたジャックの声は小さく、その意味は、不明だった。
 沙織がいくつか質問して、その質問にジャックが応え、そんな二人のやりとりが、暗い店内の中でより沈んでいく。

「刺激ってことなの?」
 宥和は、ジャックとの会話の後で黙り込んでいた沙織に尋ねた。
「う〜ん、そういうのも少し違うかな」
「じゃ何? コイツ、商売でも始めんの?」
「商売?」
「だから、何かインドで仕入れて、イギリスで売る、みたいな」
「売ったり買ったりは、絶対しないと思う。よく分からないけど」
「そうなんだ。ま、よくわかんないけど。スパイスねぇ」
 このまま聞いても理解できないだろうと、宥和は諦めた。

 心地良いアルコールの揺れに任せて、眠ってしまいたい、そんな事を考えていた。
「つまりあれよ。イギリスにはなくなっちゃったものを探しにきたってこと」
 沙織もおそらく、眠ってしまいたいと思っているのだろう。
 右の肘をテーブルにつき、左手でグラスの中の氷をクルクル回していた。
「コロンブス、だね」
 宥和は、俯いたまま小さく言った。
「そう、彼は今、冒険の途中なのよ。高騰した香辛料を、手頃に流通させるために、なんていうか、人間的な新しい海路の発見のためのね」
「あれ? 香辛料を求めて海に出たのって、コロンブスじゃなかったんじゃないかな?」
「そんな気もするけど、いいんじゃない、そんなことは」
「サオリは?」
「何?」
「どうしてインドに来たの?」
「私は、そんなに若くないから」
「え?」
「先を求めて冒険するほど、若くないってこと」
 よく分からないが、宥和はそれ以上聞いてはいけない気がしてジャックの方に目をやった。彼は、両腕をテーブルに乗せて、丸くなって眠っていた。


(つづく)