「タクト」
(鈴木正吾著)
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 ぼくの中で地球が加速を始めた日、
 全てのモノが「昨日」の方向へ押し戻され、
 引きずられるように、
 ぼくは、過去の濃い記憶にぶつかって止まった。

 あの日。エレベーターに駆け込んでいった男の背中は、きっと「あいつ」に違いない。まさか、同じ会社なのだろうか……。なんでまた、ようやく決まった会社に「あいつ」がいるんだ。平穏無事に刻む毎日の中で、忘れてかけていた高木重典の存在。
 いや、そんな偶然はないだろう。仮にあれが「あいつ」だとしても、もう十年も前に別れてるんだ。今のぼくはあの頃からずいぶん変わっているし、むこうだって、もういい大人だ。心配することなんてないだろう。

 ぼくは新幹線の窓に凭りかかり、ぼんやりと、またこの事を考えていた。
 内定式の帰りに重ちゃんを見かけてから、ずっとこの事が頭から離れない。小さい頃の、あの気持ち。重ちゃんに対する恐れが、何度も何度もぼくをノックして、まるでシャーペンの芯のように、命令通りに自分が押し出されていくのではないかと、そんな未来が憂鬱に思えることもあった。

 トノサマガエルを口の中に入れろ、素っ裸になってどぶ川で泳げ、姉ちゃんのたて笛を盗んでこい、「いい」って言うまで息を止めろ、……。
 何でもない、そんな学校帰りの出来事が全部いやだった、あの気持ち。これから何十年、また「あいつ」と一緒なのか。
 
 新幹線は長野に向かっている。
 三つの車両に分乗した同期入社の新入社員は、誰もがこれから始まる一ヶ月半の研修合宿をまえに、どこかソワソワと修学旅行気分でいるようだった。ぼくの隣では、小学校からずっと同級生の健太が、携帯電話を睨みながらデイトレードに興じている。
 はっきりとした目的地も知らず、だけど妙に安心した空間の中で、ここにいればどこかにはちゃんと辿り着くのだろうとホッとしているぼくら。とにかくまだ始まっちゃいないんだから、というのが共通認識であるようだった。
 加えて、今日は本当に天気がいい。窓を通って膨張した太陽の光が、ぼくの身体をくるみ、自然にうとうとと、なる。
 就職が決まり、東京に出ることになって引っ越しの手続きに追われ、慌ただしく社会人になった、この半年。うとうとしながら、「あいつ」のことなど取るに足らないような気が少しだけして、そんなことよりも今は、もっと大事な事があるように思えるのだが、ここにいる「仲間」の、こののびきった安堵の中にいれば、ひとまずは大丈夫だろうと……、ぼくは知らない間に完全に眠っていた。


 カシャカシャと髪の毛を振り乱しながら「指揮棒を振る人」。
 音のない夢の世界で、半透明なその「人」は、ぼくらの方に向かって、時には緩やかに、また時には激しく、リズムを刻む。
 ぼくは、その「指揮棒を振る人」に合わせて、ラッパのようなものをくわえて必死に吹いている。
 そろそろ来るかな、来るかな、と妙にドキドキし始めると、「指揮棒を振る人」はぼくに向かってカッと目を見開き、両手を一気に振りあげる。


「おい、拓人、おいって。起きろよ」

 そこで、いつもこの夢は終わる。
 小さい時から何度も見る夢だ。まだぼくが、両親の部屋で一緒に寝ていた頃、帰りの遅い父は、大好きなオーケストラの番組を見ながら晩酌するのが常で、コソコソと、母と二人で話す光景を、ぼくは眠ったふりをしながら見るのが好きだった。頭まで布団をかぶり、のぞき見た画面上、髪の毛を振り乱す指揮者。彼の姿が正に、ぼくの夢に登場する「指揮棒を振る人」のモデルになった、と思う。その後、音楽室で見たベートーヴェンやバッハの特徴的な部分が付け足されて、知らない間に、「指揮棒を振る人」は半透明になったけど。
 
「なぁ、なぁ、これ見てみろよ。高木重典って書いてあるけど、あの?」
 健太は、ぼくを起こして入社式でもらった冊子を差し出してきた。もう一度、
「ここ見てみろよ、ほら」と指し示す。『我が社における環境への取り組みについて』という冒頭部分、回収・リサイクルの実績を報告するレポートのページで、作成者、管理部第二課、高木重典と記されてある。

「なっ、びっくりだろ? ちょっと嫌じゃねぇか。まじ、どうなってんだよ。あの高木君が環境のためにリサイクルって、そらねぇだろ」
 健太はそう言いながら笑っていたが、そこには、紛れもなく、重ちゃんの、あの顔が載っており、ぼくは、「まさか」と思っては否定し続けていた現実に、「あいつ」とまた一緒になったという不運に、だんだんと怒りがこみ上げてきた。

「うるさいよ。寝てんだろうが、こっちは」
 と、健太にあたってしまった。

 健太にとって、重ちゃんの存在はただ「質の悪い中学の先輩」として記憶されているのだろう。ぼくらよりも五つ年上で、ぼくの姉、琴音と同級生だった重ちゃんは、決して不良とかヤンキーというのではない。どちらかと言えば、おとなしく、いじめるよりも、られる、方だった。
 しかし、ぼくに対してだけは違った。いつも強引で、強圧的で、小学生のぼくには、何一つ重ちゃんにかなわなかった。小学生だった健太とほくは、毎日一緒に帰宅しており、その途中にあるタバコ屋の前で、重ちゃんはいつもまちぶせしていた。思い出したくもない、あのニヤッとした顔でほくを呼びつけ、ぼくら二人を従えてあちこち連れ回した。

 健太は当時から、「高木君って絶対、学校に友達とかいないんだろうな」と、陰口をたたいていたが、当時のぼくは、そんなこと怖くて言えなかった。同じ団地に住み、小さい子が姉の琴音と重ちゃん、そして少し年の離れたぼくしかいなかったので、三人は幼なじみとして育った。母は口癖のように「重ちゃんと一緒だったらいいわよ」と言っていたし、大人の前では、この高木重典という男、信じられない程おとなしく面倒見がよくなるのだ。
 菜の花畑の花を次々にちょん切っては、食えとぼくに命令し、ザリガニなど何匹殺したか分からない。健太は、命令されたまま行うぼくの数々の「業」を見てきている。きっぱりした性格の健太は、嫌なものは嫌で通しており、黙って従うぼくを叱ったりもした。
 それでも、従うばかりのぼくを見かねて、かと言って自分ではどうすることもできない健太は、一度、先生に「告げ口」をしてくれたことがある。
 おかげで重ちゃんから仕返しをされることにもなったが、姉や母にちゃんと知ってもらえることができた。
 重ちゃんと同級生だった姉は、怒鳴るような声で「これからは来いって言われてもついて行っちゃダメ」とぼくに釘をさし、以来、ことある事に重ちゃんを非難する言葉を並べた。さらに、ぼくはよく知らないが、姉の学校の「不良」に頼んで重ちゃんを「シメて」もらった、らしい。
 それでも、ぼくに対する重ちゃんの姿勢は一向に変わらず、衰えなかった。それどころか、「お前の姉ちゃんは、オレのことが、たぶん好きだな」と言い出すぐらいだから。

 高校生になった重ちゃんは、カメラにはまり始めた。
 週末になると、色んなところへ「撮影」に連れて行かれた。母にも姉にも言わず、ぼくは黙って言われるままについて行き、重ちゃんの写真のモデルになった。あそこに立って空を見ろ、この帽子をかぶってあそこから全速で走れ、帽子が自然に脱げるぐらい、もっと全速で走れ。そんな風に指示しては、「いいぞ、そのまま」、と成りきっている重ちゃんを見ながら、本当のことを言うと、少しだけ「可哀想だな」とも、ぼくは思っていたのだ。
 小学五年生の自分と、高校一年生の重ちゃん。姉が蔑み、健太がバカにする、重ちゃん。「拓人、ほれ、モデル料だ」と言いながら、その時ぼくが一番欲しかった漫画本をくれたりもした。

 ぼくが六年生にあがってすぐ、重ちゃんは東京に引っ越していった。
 よくは知らないが、急に決まって、逃げるように去った。これが最後、というちゃんとした別れもないまま、寝て起きたら、重ちゃんはもういなかった。
 今から考えると、最後に会った週末、いつもと同じように川原で「撮影」をして、終わった時に、「ほれ、これモデル料だ」といいながら、いつものように放り投げて、持っていたカメラをぼくにくれた。ただ単純に、その時のぼくは、これで「撮影」に来なくてすむかなと、思っていたのだが。
「東京に引っ越したんだってね。どうも両親が正式に離婚したらしいよ。っで、お母さんについて東京の実家に帰ったんだって。拓人、知ってた?」
 姉からそう重ちゃんの引っ越しを聞かされたとき、黙って首を振りながらも、「なに嬉しそうに笑ってんのよ」と、つっこまれる程、ぼくは、やっぱり嬉しかった。〈どっか行ってくれたらいいのに〉、そんな風に思いながら「撮影」の帰り道に、重ちゃんと別れてから、その日もらった漫画本やカメラなどは全て草むらに捨てていたんだから。もう、今となってはあの頃の気持ちが分からない。
 仮に、小学五年生に戻ることが出来たとしても、また同じように黙ってついて行ったかも知れないし、「今の自分」がそうであるように、そんなバカらしい奴のいいなりになどならないかも知れない。そう、ぼくは「あいつ」から解放されて、変わった。変わろうと努力してきた。

 それまでの自分を反面教師にして、言えなかったことは言おうとしたし、やれなかったことはやってきた。ふと無意識に出た行動をかえりみて、「これじゃ変わってないじゃないか」と反省することも多々あった。そんな風にして、まったく逆の「自分B」を創りだし、中学、高校、そして大学から就職まで辿り着いた。のに、カメラ製造メーカーに就職が決まって、そこでまた、「あいつ」に会うとは。そして、また、こんなにも気持ちが揺らぐ、とは。
 ぼくは、カメラが好きという訳ではない。本気で狙っていた会社の面接に失敗して、「えいっ、いっちゃえ」と勢いにまかせて好き勝手にしゃべると、「君、いいよ」と、えらく人事担当者に気に入られてしまった。焦ったのはそれからだ。自分のどこがどういいのかを探りながら、最終面接までなんとか無難にクリアしてきた。最後の最後、「なぜカメラを造る会社に入ろうとしたのですか」という、なんとも根本的なことを聞かれ、「写真ほど思い出に直結するものはないと考えたからです。わたくしも、多くの方の思い出をきれいに残せる、カメラに携わった仕事で貢献できればと思ったからです」。これが、◎だった。

 
 新幹線は佐久平駅を超え、もう少しで長野駅に到着する。ぼくは猛スピードで携帯メールを打つ健太を眺めながら、「お前、携帯つくるとこに行けばよかったのに。カメラなんて興味あんのかよ」と話かけた。
「拓人ぐらいだぜ、この会社イコール、カメラとか言ってるの。うちは、今をときめくIT企業でしょ」と、携帯から目を離すことなく応えた。
 そうか、と思った。
 確かにカメラだけじゃないよな。ぼくは無意識のうちに、ずっとカメラの話ばかりして面接試験を受けてきたけど、よく考えれば、そこが面接官にはうけたのかもしれない。
 あの時、草むらに放り投げた「あの」カメラが、この会社のメーカーだったかは覚えていない。が、考えてみるとずいぶん昔から、うちの会社のことは知っていたし、ロゴにも見覚えがあった。
「えっ!」
 と、ぼくはゾッとした。もしかして、頭の中からずっと消えてなかったのか。

 長野駅からは、バスで二時間ほど走り、そこからさらに山道をどんどん登り始めた。パシャパシャと、道路沿いに繁る枝や葉っぱが、バスの窓にあたってくる。カシャカシャ、カシャカシャ、と……、また「指揮棒を振る人」が、髪の毛を振り乱しながら、ぼくの方に向かってリズムを刻む。それに合わせて、ぼくはラッパのようなものをくわえて必死にふく。そろそろ来るかな、来るかな、と妙にドキドキし始めると、「ドンッ」と音をたててバスが跳ねた。
 その勢いで、ぼくは思い切り窓に頭をぶつけた。

 隣では、デイトレードも携帯メールも終えた健太が眠っている。
 またぼくは、目を瞑って、うつらうつらと考えた。

 この、「指揮棒を振る人」は、誰なんだ?
 決まって、最後にカッと目を見開く感じが、ずっと重ちゃんとかさなって見えていたが、重ちゃんと別れてからは、姉だったり、部活の顧問教師だったり、反面教師になった「自分A」だったり、色々だった。
 目が覚めると、いつも「指揮棒を振る人」のことを考える。
 半透明で髪の毛を振り乱し、その時々でぼくの指揮をとる人。未だに、最後の合図でラッパのようなものを思い切り吹くことが、できないでいる。

 くねくねと登りきった所に、何の変哲もないコンクリートの建物が建っており、そこがぼくらの合宿所だった。「さぁ、着いたぞ」という合図で、ほぼ全員がふわぁと伸びをした。
「なんだ、ここ?」と、健太も起きだして、すぐに携帯をチェックする。
「助かったぁ、なんとかつながるよ」

 ここが目的地というゴールで、同時にスタートライン。数年前に廃校になった小学校の校舎だという。
「これが木造とかさ、バンガローみたいなら、ここの雰囲気に合うのにな」
 バスを降りながら、誰かが言った。ほぼ同時に、ぼくもそう思った。あまりにも無機質で、そして不釣り合いなのだ。
 ぼくら新入社員は四十人ずつ五つのグループに分けられ、それぞれが二階の「教室」で研修を受ける。周りにコンビニもなければ居酒屋もない。寝床は、男性が三階、女性が四階。各階の廊下に簡易のシャワーが取り付けられていた。シャワーを浴びているであろう時間帯は、よほどのことがない限り、四階には上がれない。まぁ、よほどのこともないのに、階段をそろっと上るやつもいたけれど。朝は、七時半からラジオ体操があり、食堂で朝食をとり、そのまま研修に入る。「超・管理」体制。「IT企業? 今をときめく? どこがだよ」と、思っていたのは、ぼくだけではないはずだ。
 名刺の渡し方や電話の取り方、繋ぎ方から始まり、企業とは何か、社会に貢献するとは、社会に対して義務を持つとは、企業価値とは……、そんな「授業」が時間割に合わせて進み、配布されたA3版の大きなノートに書き留めてゆく。チャイムとチャイムの間、共有する同じ空間と時間。それは、学校生活そのものだった。
 しかし、そんな錯覚に陥って、ぼくがダラダラと聞き過ごし、見過ごしている途中に、ガツンと気付かされることもあった。
 周りで机を並べているやつらは、「そうだよなぁ」とブーブー文句を言いながら一緒になって「遅れる」クラスメイトなのではなく、少しでも「先」に行こうとするライバルという存在なのだ。仲間、という言葉を使うなら、それは「自分」に対して有益に働くよう、助力として利用する存在にすぎない。
 そうか、別に「一緒に」ゴールしたり、待ったり、待ってもらったり、そんな「結果の平等」など、ここでは確約されていない。そんな社会という場所に、ぼくはいるのか。理解度を試す「試験」は、この後の実践の日々にある。それまでに、得られるべきものは全部吸収しようという姿勢が、例えば漠然とした「あなたは三年後、どう成っていたいですか?」などという質問の答えに現れていた。
「自分にしかない、『これ』という、太っとい価値を見出したい」

 ガツン、だ。
 三年後の自分に? そんな風に思ってスタートを切っているのか。きっと姉なら「そんな勢い、始めだけよ」と鼻で笑ったりするのだろうが、ぼくは「こいつら」の言葉を聞きながら、「そうだよな」と、勢いを強めたりもした。

 ただ、修学旅行気分というのも、皆無ではなかった。それは、雑魚寝の「夜の時間」。スーツ姿で研修をしているときに見せる・話す「姿」からは、想像もつかないようなはしゃぎぶりなのだ。まずは、お決まりの「彼女はいるのか」から始まって、「好きなヤツぐらいいるだろ」と続く。「初めてヤッタのはいつか」を問われて渋ると、「ファーストキスは? それぐらいいいだろ」と物好きなやつはしつこい。ぼくは、「中2の時」と適当に、そして無難に答えておいた。
 本当は、ぼくのファーストキスの相手は、姉の琴音だった。いわゆる幼く仲の良い姉弟がする、そういうレベルを超えた、愛のあるキス。妙に興奮したことを覚えている。小学三年生の夏、ぼくは九歳だった。
 同期の中で一番可愛いのは誰かという話が始まると、そろそろお開きに近く、各々が布団に入り始める。やりもしないトランプをいつまでもくりながら、「なぁ、なぁ、なぁ」と、煌々と興味を絶やさない「カリアゲ君」の扱いに、みんなが困り果てていた。
 電気の消えた教室で、それぞれが眠りにつく寸前、真っ暗な天井に向かってはく水泡のような言葉。それは、やはり「これから」に向けた決意が多く、研修で何度も聞いた言葉と重なって、ぼくの両耳をジンジンと突く。
― 「だから」必要なんだ、とされる存在になること。それが、企業としても個人としても大切なのだ ―

 ぼくはぼんやりと姉のことを思っていた。
 引っ越しの手伝いを口実に、そのままぼくの部屋にころがりこみ、かわいい弟のことが心配だから居てやるという姉。子供を産むことを放棄した一人の女性。出産が「当たり前」だと考え、だからこそ苦しんだ姉の結婚生活。一年半というスピード離婚。
 ぼくは、東京に引っ越してきたその日、
「どうしても無理だった」
 と、いう姉の告白を聞いた。
 引っ越しそばを食べようと言いだした姉と二人で、近くのコンビニへ行き、「やっぱりこっちのほうがいい」とカップうどんをカゴの中に放り投げたいたずらな笑顔。「これだけ近いとほんとにコンビニエンスだね」と、大声で笑った夜道の二人。そんな光景ばかりが思い出されて、あっけなく告白したあの時の、姉の表情はうまく思い出せない。だけど、ぼくは咄嗟に、

「それは肉体的に、ってこと?」と聞いた。
「違う。精神的にもダメだった」

 まさか、姉は弟のぼくに、カミングアウトをしたのか? 異性が愛せない、とでも? じゃ、なんで結婚なんてしたんだ。二十五歳までには絶対結婚する! と言い張って、そんな自分の課題をギリギリでクリアした、一見幸せそうだったあの姉は、何だったんだ?

「好き、だったんでしょ? 高野さんのこと」
「そらそうよ、あたりまえじゃない」
「じゃ、なんで」
「なんでって?」
「いや、だから、その、拒否すんの?」
「だって、私は拓人のことも好きよ。でも、無理でしょ」
「え、え、え、えっ、琴音ってもしかして、オトコがダメなの?」
「そうみたい。薄々自分でもそうだとは思ってたけど、これではっきりしたわ」
「オンナがいいって、こと?」
「何? 違うわよ、私、レズじゃないわよ。好きになるのはいつも男の人だし」

 テレビに映る大雪のニュースを、日本のどこかの、まだ幼い子供たちが屋根の上にのぼって雪かきをする映像を、ぼくは見ていたのを覚えている。

「私はね、他人を愛せないのよ」

 そんな言葉にもちゃんと反応せず、ぼくはただ、そばを啜っていた。「な〜んちゃって」と、笑って見せた姉の顔は、見てはいないけれど、想像できる。そういうことよ、とこの会話を締める一言だった。
 ぼくがシャワーを浴びて、冷蔵庫からビールを取り出していた時、ワンルームの部屋の奥で、姉は、
「でもね、一度結婚したっていう事実は、私にはいいことなの。今後、一生独身でいても、周りに焦らされることもないし、トラウマなのよ、なんて同情されたりするかもしれないでしょ」と、言った。

 二三日は泊まっていくつもりと言っていた姉には、一週間が過ぎても一向に帰る兆しはなく、ぼくが大学の友達と卒業旅行に行って帰るまでの間に、東京で派遣の仕事を決めていた。急にそんな勝手なことでいいのか、母は知っているのか、東京で働くとしても、部屋はどうするんだ。ぼくは帰るなり、それを攻めるように問うた。だけど、あの時のぼくはずっと考えていた。姉が結婚を機にそれまで勤めていた会社を辞め、専業主婦のまま離婚して実家に戻り、ゆっくりこれからのことを考えなさいと父に言われた、そのあと、姉が、誰に言うでもなく「何もかも捨てて楽になりたい」と呟いた言葉の意味を。
 そんな姉が、仕事に就くこともなく半年間も実家にいて、ぼくの引っ越しを手伝うことを名目に「捨てた」ひとつ、ひとつ。
 ぼくは、あの時攻めるように問いながらも、東京でやっていくつもりなのだろうと、理解してもいた。
 それが先週の話だ。もうずいぶん昔のような気がする。ぼくの中で、地球は加速度を強めているのだろう。
 自分と他人、もしくは何か。つまり対峙する対象によって「必要」だと評価される存在になることが、個人として大切なら、姉は、もう自分対何かという分かりやすい距離感すら持たず、ただ、自分ひとりの空間の中に何人をも招きいれないつもりではないか。そんな姉のこれからは、「一生独身でいても」と吐き捨てるように言った、ほぼ確定したかのような未来は、ほんとにそれでいいのだろうか。ぼくは、ぼんやりと、そんな風に、姉のことを考えていた。

 一ヶ月半の研修を終え、自分の部屋に戻る。この日は移動日ということで会社は公休。まだ日も高い午後二時だった。ぼくはこの研修期間に、ある同期の女性から告白され、それを断った。そして、それを後悔したりする勢いの鈍った自分を引きずってもいた。

「いつものことね」

 そんな姉の声が聞こえるような気がする。ドアの鍵穴を探しながら、ぼくは自分で自分を鼻で笑った。もう五月も中旬を過ぎているというのに、なんでこう寒いのかと、身震いした。
 姉のいるはずのぼくの部屋へ入る。そこは、紛れもなく姉の匂いがした。何もかもが、申し訳なさそうに移動されている。コップ、タオル、リモコン、座椅子……。そして、カーテンまで変わっていた。

 姉が帰ってきたのは午後六時だった。五時十五分の定時で会社を出て、そのまま直帰する。帰るなり、姉は自分の話ばかりを捲し立て、ぼくは黙々と聞く。あまりにも詳細で、芝居口調の姉の話は、見たこともない佐藤という上司のオヤジ面をはっきりと想像させた。

「っで、どうだったの、やっぱり、ブーだったの?」
「関係ないよ、そんなの」

 姉は、重ちゃんのことを「ブー」と呼ぶ。
 高木という名字からきているらしく、中学時代には同級生の大半がそう呼んでいたらしい。「別に太ってないでしょ?」と、姉にたずねたことがある。姉は、「太ってるからじゃなくて、人間としてブー、なの。不正解の、ブー」
 心底憎いモノを語る目で。姉は言った。

「あんたがそんなに気にしてたら、余計に変よ」
「別に気にしてなんかないよ」
「そう? そういう風には見えないけど」
「オレは何も言ってないだろ。そっちが勝手に始めたんじゃん」
「ねぇ、拓人」
「なんだよ」
「一つだけ教えてあげる。もしブーに廊下で会ったら挨拶だけはしなさいよ。あんたのことだから、完全に無視してればいいとか思ってるんでしょうけど、そういうのが一番近いのよ。距離を置くなら、上っ面の関係が一番いいんだから」


 「地下室」というだけで通じる部署がある。その存在は、この会社に入ったなら誰もが知ることになる。その部署は、文字通り地下にあって、その中でも一番奥の、とても暗く、ジメジメとした、簡単に言えば絶対に避けたいような所にある、という。新人研修を終えると、ぼくらは三ヶ月間の試用期間中、ローテーションで各部署を回る。そして、七月に正式採用と配属が決まるのだ。が、どこから仕入れてくるのか、耳の早いやつは噂していた。

「ジョブ・ローテーションって言ったって、ほとんど配属は決まってるから、一回でも地下室に行かされたら最後、もう九割方決まったようなもんらしいぜ」
「まじで! じゃ、今日の発表がある意味、決定的ってわけか」
「そうだよ。とりあえず二週間ずつらしいから、多くても三つぐらいの部署しか回れないだろ。その中に、地下室があったら、がー、えらいことだぜ」

 なんでぼくは、こういう話の中で一緒になって「がー」とか「ぎょー」とか、言えないのだろう。一歩引いてしまう。それが吉と出るか、凶と出るか。今までは中吉といったところだが、これからは、その「一歩」が大きく左右する局面がたくさんあるのかも知れない。
 ぼくが「地下室」の存在を知ったのも、そこが管理部第二課で、重ちゃんがいる部署だということも、そういう噂好きなやつから、健太経由で知った。健太がいなければ、ずっと知らないままだったかも知れない。

 東京での出勤が始まり、正にラッシュ時という時間帯、ぼくは始めて電車に乗る。それは、想像していたよりも凄まじい。つり革をもって座席の前に立つと、座席とぼくの間に人が入ってくる。どうなってんだ、と苛々していると、知らぬ間に一列できあがっている。隣の女性を見下ろすことなど出来ず、変に汗ばんで、ぼくはつり革を持っていない方の手も上にあげた。
 変な体勢で直立して、身動きがとれない中、ぼくは何となく、「地下室」にいかされるのではないかと考えていた。それは、ものすごく強い何かが、「赤い糸」とかそういうものではなく、重力や水圧といった、目に見えて明確な力が、ぼくを重ちゃんに向かわせているように思えて仕方なかった。

 そして、今日、ぼくは「地下室」行きを命じられた。

 配属が決まり、新入社員が集められた会議室と、その会議室から「地下室」に向かうまでの廊下と、そして、「地下室」の扉を開いて迎え入れてくれた部署内の雰囲気と。ぼくの中の塊が、灰色の渦が、上がったり下がったり忙しなく動き回っていた。

 新入社員が順に前に呼ばれ、前で人事部長から辞令を受け取る。一番はじめに名前を呼ばれたぼくは、「はい」と大声で返事をした。以降、全員が大きな声で返事をしてから前へ出て行くことになった。
 「誰々ちゃんと一緒だ」と、クラス替えの発表を思わせる歓喜の声が溢れることは、二時間近い「儀式」の中で一度もなかった。ただ、「管理部第二課に配属する」と、ぼくの辞令が読み上げられた時だけ、少しざわついたが。各々が「自分」の行く末を祈るかのように押し黙っており、にんまりと喜ぶ者、あからさまに不服そうな者など、それぞれの表情で席へと戻っていった。
 ぼくは、自分で自分の表情は分からないが、冷静に受け止めることができたんじゃないかと思う。「気にすんなって」と、肩を叩くやつもいてムッとしたが、「いいじゃん、管理第二ってCSRの中でも環境のこととかやるんだろ、これからは環境の時代だしな。ある意味では、赤藤、お前オレ等ん中でエースだよ」などと、長々慰めるやつよりはましだった。
 会議室を出て「地下室」に向かう途中、そんな同期からの視線と、そこにある「あ〜あ、」というような同情に同調して、ぼくは下を向いていた。隣を歩く健太が、「とにかく、今日は拓人のためにパ〜っと飲もうぜ」というその言葉が、ぼくには決定打で、「そうだよな、やっぱ、これって最悪だよな」と呟いた。

 一階の会議室から、ぼく以外は、全員が「上」へ行く。ぼくだけ、エレベーターで地下へ。地下の廊下はバカに明るかった。
 白いタイルが蛍光灯を反射し、白を基調にした廊下全体を煌々と照らす。ライトグレーの扉がいくちも並んで、それぞれに「第七倉庫」などとプレートが貼られている。その、奥の奥。トイレよりも奥に、管理部第二課はあった。
 暗くてジメジメしている、と聞いていた「地下室」までの廊下が、そのゴミ一つもないワックスのピカピカさが、余計にぼくをうつむかせた。
 扉の前に立つと、変にドキドキした。妙に嫌な予感を感じた。これからの膨大な未来よりも、まずはこの先数十分、いや、今日、会社を出るまで、その時間を早くやり過ごしたいと思っていた。
 ふと、姉の顔が浮かんで、じわ〜、っと暖かくなった。
 心臓を二度ほど叩き、ぼくは扉を開いた。

「失礼します」

 下げた頭を上げると、意外な光景が飛び込んできた。整然とした広い部屋、明るくて、コーヒーの香りがする。「意外、だ」。

「あ〜、赤藤君。こっちこっち」

 受話器を肩に乗せて、頭を傾けたまま手を挙げる女性がいる。ぼくは、部屋の奥へと進んでいった。
 キーボードを叩く音、電話の相手と笑う声、向かいの席の人に確認をしているのだろう焦燥気味の早口。ぼくが通る寸前に、両サイドの人が少しだけ椅子を引いて道をあけてくれる。フロアに敷かれた灰色のカーペットが、穴ぼこだらけに見えた。
 管理部第二課の課長、相模光代さんが、電話を終えるとぼくをみんなに紹介した。部屋には、六つ並んだ机の「しま」が、三つある。全員がこちらに注目している。完全なる、ウエルカムな雰囲気に、ぼくは少々ぎこちなかった。戸惑っていた。
 想像通り、暗くてジメジメした、段ボールだらけの部屋の方が、その方がずっとうつむいたまま、「そういう風に」諦められたのに。あまりにも、明るく、こんなにも笑顔が似合うと……。
 自己紹介してくれる?と、課長に言われ、付け足すように「面白くね」と微笑みかけられた。どうしよう、どうしようと焦りながら、口をついて出た話は、今朝の通勤電車の凄まじさについてだった。それも、方言丸出しで。
 ふと気付いて、ぼくは、「あっ」と声をあげ、慌てて標準語で締めに入る、
「ですから、これからもそういう今まで経験してこなかったことに、一つずつ慣れていって、みなさんと一緒に働けるよう、がんばりますのでよろしくお願いします」
 頭を深くさげた。なんとか、なったかな。
 ぼくはゆっくり顔を上げる。相模課長をきっかけに、課員の全員が拍手をしてくれた。ここで、ぼくはようやくゆっくりと全体を見回すことができたのだった。
 八割方が女性社員で、男性もいるにはいるが、ぼくと同年代の若い社員は一人も見あたらない。と、「あいつ」が視界に入った。重ちゃんは、いちばん隅の席で、形だけの拍手を周りと同じようにしていた。
「で、名前は、赤藤拓人君です。みなさんよろしくね」
 ぼくはまた、「あっ」と声をあげてしまった。何人かがクスクスと笑っていた。

 相模課長は、午後から打ち合わせが入っているらしく、夕方まで戻らない。代わりに係長の女性が、簡単なオリエンテーションをしてくれることになった。それまで、ぼくは与えられた場所に座り、手持ちぶさたな様子で、それを悟られまいと、研修でとったノートをペラペラめくったりしながら、時間を潰していた。

「どうぞ」
 そんなぼくの背後から、コーヒーが差し出され、
「あっ、すいません」
 と、咄嗟に振り向いた。
 重ちゃん、だった。
「おっ。久しぶりだな。また、昔みたいに、よろしくな」

 それだけ言うと、重ちゃんは歩き去っていった。
 ぼくはゾッとした。あの、声のままだったのだ。小学生の頃に戻った気分で、ぼくは歩いている重ちゃんの背中を眺めた。
 何か違う。かつての「背中」とは明らかに、違う。いや、一度離れてから客観的に見ると、重ちゃんはずっと、あんなにも小さくて暗く、地味だったのかもしれない。
 ぼくの身体に染みついたリズム、重ちゃんを見ながら、それに合わせて刻んでいた日々。そんな過去に、口では否定してても、やっぱり恐れていた自分に対して、ぼくは何とも言い表せない「安心」を感じた。ドッと溢れるような、安堵と一緒に「ありがとうございます」と、数メートル離れた背中に向けて、呟いた。

 オリエンテーションは、係長の女性とぼくの二人、小さなミーティングルームで行われた。若いのか、そうでないのか、とにかく笑顔の絶えないひとだった。業務の流れや、誰が何を担当しているのか、「詳しいことは追い追いに」と一つひとつ区切りながら、膨大な量の説明を受けた。「一気に言っても分からないと思うけど、流れだけ、覚えてね」と言いながら、いつも微笑む。ぼくはただ、「はい」としか言えない。まず、ここで説明されることの、一々の用語がちんぷんかんぷんなのだから。それが名詞なのか、形容詞なのか、動詞なのかさえ分からない。カタカナの多い説明だった。
 一通りの説明が終わるまで、二時間近くかかった。

「ごめんね、疲れたでしょ?」
「いえ」
「私、初めてだから、こういうの。うちの課に新人が配属されるのなんて四年、いや五年ぶりか。まぁ、一応、私がここでは一番の古株っていうことで、この大役を仰せつかったんだけどね」
 エヘッ、と舌でも出して笑っても、ぜんぜん不自然ではない雰囲気が、この女性にはあった。

「それにしても、赤藤君ってほんとかわいいね。あっ、かわいいは失礼か」
「あ、いえ」
「相模さんがどうしても新人が欲しい、って上と掛け合って、いちばんかわいいコをゲットしたらしいわよ」
 何を言ってるんだこのひとは、と思いつつ「はい」と、ぼくまで訳の分からない応えを言ってしまった。

「うちの課は赤藤君も合わせて全部で十九人。もう分かったと思うけど、女性が十五人、男性が四人っていう構成ね。女性の中で相模さんと私と、あともう一人口田さんっていう人がいるんだけど、この三人が正社員で、あとは派遣で来てもらっているの。ちなみに、男性の三人、赤藤君入れて四人だけが、新卒採用者で、私たちは余所から移ってきた中途採用組」
「相模課長も、ですか?」
 ぼくの質問に、その女性は声を出して笑ったので、ムッとした。それが表情に出ていたのだろう、
「ごめん、ごめん。え〜っと、そう、相模課長(・・)も余所から来たの。去年の夏だったかな、だからまだ一年経ってないわね。かなり良い条件でヘッドハントされたみたいよ。私はもう、十うん年いるけどね。相模さんが来てから、うちの課も少しずつ雰囲気が変わったのよ。それまではちゃんとした課長っていう人がいなかったから、ほんとどうでもいいっていうか、業務の内容的に他の部署と絡むことも少ないから、追いやられてたの。『地下室』って呼ばれてるんでしょ? 聞いた?」
「あ、はい」
「でも、今は相模さんが色んな所に手を伸ばして、さっき言ったみたいに結構有意義な業務もこなすようになってるのよ」
 青と黄色と茶色。三色のボーダー柄の、彼女の着ていたシャツを、ぼくはぼんやり見ていた。
「やっぱり、聞いてたのか」
「えっ?」
「いや、うちの課が『地下室』って呼ばれて敬遠されてること。私、人事に友達がいるのよ。それで赤藤君の配属が決まったとき、二日ぐらい前だったかな、電話があってね、そういう噂を聞いてるかもしれないから、慎重に、って」
「慎重に、ですか?」
「そう。去年の新入社員のうち、二十八人も、一年経たないうちに辞めちゃってて、今年もヒヤヒヤしてんのよ、人事としては」
「あぁ。なるほど」
「ま、そういうことね。ハハハ。ごめんね、なんか。こんなこと言うもんじゃないよね」
「いえ」

 五時半の定時になると、それがまるで学校のチャイムかのように、一気に全員が席をたち始めた。ぼくは相変わらず、手持ちぶさたをかくすように、ノートをペラペラめくっていて、さっきの女性が「今日はもういいわよ」と言ってくれたので席をたった。振り返って部屋の隅、重ちゃんの方を見たが、もう彼は帰っていなかった。

 会社の広いロビーは四階まで吹き抜けになっている。見上げてみて思った、ぼくは、この会社の、地下にいるのかと。「地下室」を出て地上に出ると、なんとも言えない「置いて行かれた」感が迫ってくる。
 ハイヒールの音、台車で何かを運ぶ音、そして、エレベーターからゾロゾロと出てくる同期たちのざわめき。そして、ぼくはひとり。

「お〜、拓人。ちょうどよかった。電話しようと思ってたとこだったんだ。行くだろ? 飲み」  
 その中に、健太がいた。
 彼は同じ部署に配属になったやつら六人で、これから飲み行くらしく、ぼくも誘われた。迷うことなく一緒に行くことにしたが、行ってから後悔した。
 駅の近くにある小さな居酒屋、「これからもがんばりましょ」と、健太が乾杯の音頭をとった。みんなもそれに続いて「乾杯っ」とジョッキを順々にぶつけあう。
 みんなが遠巻きに、触れぬ訳にはいかず、かといってどう触ればいいかわからない「地下室」のことを、ぼくの方から先に話した。別に普通だぞ、と。
 それで一応は義務を果たしたのだろう、彼らは自分たちの配属された先の、誰がどうとか、誰と誰が付き合ってるらしいとか、誰々は新人の教育係みたいなものだから気を付けろ、とか、ぼくには分からない、たった今日一日で知った、そこから続く膨大な「これから」について、興奮気味に話し始める。
 ぼくはまた、ひとりになる。やけにフライドポテトが旨く、チリソースがなんとも言えない辛さだった。そればかり、ぼくは口に運びつつ、みんなの話を聞く。それはまるで別の会社の話であるようだった。
 健太だけは気を遣って、必ず「こちら」を向いて話す。ぼくは、それに相づちを打ちながら、「へぇ〜」と間の抜けた声を漏らした。
 「また明日な」と別れて、電車に乗ったのは十二時近かった。また、明日か。明日、ぼくはあいつらに会社で会うのだろうか。そんなことをふと思うと、また、どうしようもない「置いて行かれた」感を感じてしまう。
 ぼくは、今日一日の、あの「地下室」を出るまでの未来しか考えず、ただそれだけを乗り切ろうと思っていた。だけど、あいつらは違う。これからの、「未来」に向けてのスタートを切ったのだ。同じ一日で、ぼくはあの係長の女性の名前すら覚えていないというのに。
 始まってもいないぼくは、スタートライから飛び出す彼らの、その駅へと向かった後ろ姿を、また明日な、という何気ない言葉を、全て羨んだ。

 部屋に戻ると、姉がどこかに電話をしており、ぼくに気付いて慌てて切った。女子高生じゃあるまいし、と頑固オヤジのような口調で姉に言った。
「どうだった、初出勤は」
「あ、別に普通。重ちゃんと同じ部署になったよ。まぁ、あんまり接点はないけど。あぁ、でもやっぱここからだと、会社まで結構時間かかるな」
 そんな事を話ながら、スーツを脱ぎ、それを姉が何気なくハンガーにかけるので、変に照れた。照れてる自分が、おかしかった。
「良かったわ、私も安心した。ブーとも問題なさそうね」
「なんだよ、それ」
「だって、あんまりあんたが不安がってたから」
「別に不安がってなんかないよ」
「そう? 私には分かったわよ。あんた、会社決まってからずっと変だったじゃない。ブーと同じ会社っていうのも、私が当てずっぽうで聞いたときに初めて言ってくれたし。研修から帰った時だってそうよ、ムキになって『関係ねぇよ』って言ってたじゃない。あぁ、でも良かった。なんとか上手くやっていけそうで」

 そういうと、姉はクラムチャウダーのカップスープの残りを啜り、ぼくは、シャワーを浴びに行こうとした。
「ダメよ、私が先に入るんだから」
「はっ、まだ入ってないのかよ。今まで何してたんだよ。先に入っとけよ」
「あんたのこと、心配してたんでしょうが」
 姉はぼくの頭をはたいた。
「風呂に入りながらでも心配できるだろうが」
 と、言い返し、こんなの食ってるんだから、と思いながらクラムチャウダーの空いたカップをゴミ箱に捨てた。


 ぼくは、「地下室」の事情を把握するのに一週間を費やした。健太たちが、初日だけで聞き感じ取った情報を、ぼくは恒例になったランチタイムに少しずつ集めたのだ。特に、大半が女性の部署に配属されたことを知った姉が、できるだけ早く掴んでおくようにとアドバイスしてくれた三点、「誰が誰と仲が良くて悪いのか」「いちばん口うるさいのは誰か」「絶対敵に回してはいけないのは誰か」を遠回しに聞き集めた。

 課内の女性派遣社員には、二人や三人の五つのグループがあり、それぞれ順番に、さながら日替わりメニューのように、ぼくをランチに誘ってくれた。
 久しぶりに入った新入社員に興味があるのか、それとも、最初に誘ってくれた二人組への対抗心か、いや、義務のようにすら思えることもあった。月曜日から金曜日まで、パスタ屋、カフェ、創作欧風料理、ハンバーグ屋、さぬきうどん屋。OL達の集まる店内では、ぼくは完全に浮いていた。

「それから、よく見極められるまで、どのグループにも入っちゃダメよ」

 姉のそんなアドバイスも忠実に守り、ぼくはいつも当たり障りのないことばかりを話していた。
 それにしても、姉の心配した通り、女の世界は複雑だった。蛍光灯のような薄っぺらい笑顔の影に、疑ってしまうような「悪口」が渦巻いている。ついさっき、一緒になって笑っていた「相手」に対しても、容赦のない批判が飛び交う。男子校を出て、大学では体育会に所属していたぼくには、理解不可能なことがしばしばだった。
 だいたいどのグループも共通して、「昨日、どこで食べたのか」を聞き、「分かってないな、あんな所じゃ男の人には足りないでしょ?」と軽くジャブを入れ、テーブルに着くと、「赤藤君っていくつ?」と尋ね、「えぇ〜、いいなぁ、二十二か、若いな」と苦笑いをする。

 そして、重ちゃんのことについて話し始める。
 ぼくは、この一週間の「日替わりランチタイム」で、課内での重ちゃんの立場を明確に知ることになった。
 素直じゃない、絶対折れない、自分が間違えていても謝らない、暗い・陰気、などなど。初日、ぼくにコーヒーを入れてくれたことにも批判が強く、なんで高木君がコーヒーを入れて持って行くのだ、私たちに気が利かないとでも言っているのか、そもそも新人に気をつかってコーヒーを入れる必要があるのか、と。話し始めると止まらない彼女たちの「勢い」は、お互いがお互いに油を注ぎ合って激しくなっていく。ぼくは、ポツンと閉口する。
 とにかくうちの課では、まず重ちゃんの存在を明確な基準点にする必要があるようだった。それを座標軸の中心において、各々の距離感を測っているというか、もっと言うなら、唯一の共通項として「高木=最悪」を認識して、一つの「課」としてまとまっているというか。そこまで思わせるような口ぶりだった。
 そんな言葉の豪雨の中でぼくが思っていたこと、心の隅の方で警笛のように鳴り響いていたのは、「明日は我が身か?」という心配だった。ここで一歩引いていると、重ちゃんの代わりにされてしまうのではないか。


 二週間が過ぎると、希望者はジョブローテーションで他の部署に移れる。が、それはあくまでもそういう制度があるという程度で、ほとんどの新入社員が「他の部署に移りたい」という意思表示が出来ないでいた。
 そんな雰囲気の中、ぼくも「希望」は出せなかったし、ここで他へ移るのは、「地下室」というのはやはりそうか、と強調することになる。それが、ぼくはどうしても嫌だった。無理かも知れないけどやってみろと言われ、やっぱりダメだったかと落胆されることが、ぼくは一番、嫌なのだ。
 相模課長は、二週間を過ぎて「移動希望」を出さなかったぼくに喜び、その勢いで歓迎会を開いてくれることになった。会の冒頭、「これで、赤藤君もうちの課に確定しました、拍手!」と、相模課長は挨拶し、はしゃぎ回る子供のように、笑った。
 静かに始まった歓迎会も、酔いが回る順番に会話にも熱が出てきて、気付いた時には、大声で話し笑う宴になっていた。そんな中で、意外というより、ぼくにとって驚きだったのは、相模課長までもが重ちゃんに対して他の課員と同じように思っていたことだ。
 いや、思っていたかどうかは分からない。相模課長のことだ、ただ「課」というチーム内のバランスを第一に考えて「基準」とも言える共通認識に乗っかっただけかもしれない。
 きっとそうだろう、と思わせる発言や行動が相模課長には散見される。女性社員の多くは、そんな相模課長の行動を「はちまきをまく」という隠語を用いて嫌っていた。「あっ、また相模さんが、はちまきまきだしたよ。面倒臭いな、早く帰れないかも」などと、苦い顔をするのを、ぼくは何度も見ている。
 そんな雰囲気を知っていて、なおのこと「自分」が先頭にたって「がんばる」相模課長を、第三者的に見てすごいなと思っていた。ぼくは、「地下室」に対して、仲間だと言えるぐらいに早く仕事を覚えたいとも思う反面、どこか、このまま当たり障りのない位置で、やり過ごせたらいいのに、とも考えていたので、はちまきを巻くつもりも、嫌うつもりもなかった。ただ、重ちゃんに代わって、新たな「的」にならない限りは。

「こういう時に参加しないっていうのは、私、ほんとに嫌なの」
 その歓迎会に、一人だけ不参加だった重ちゃんに対して、相模課長は言い放った。
 それまで、次から次に湧き出す「重ちゃん批判」に対して、「そうよね」「そうかしら」「そういうこと言うんだ、高木君って」などと、簡単に同意したり意見したりという風だったが、最後の最後に、「そもそも、」と語気を強めて言ったのだ。続けて、
「これから一緒にやっていこうとしている仲間を歓迎する会でしょ。男性社員の中で一番歳も近いし、赤藤くんが早く馴染めるように、もっと、こう、やって欲しいのよ積極的に。どうして、あぁなのかしら」
 最後の方は独り言のようにフェイドアウトしていった。

「そういえば、赤藤くんと高木くんって知り合いなんだよね?」
 一番端の席に座っていた女性社員の声に、ドキッとした。
「えっ、いや、まぁ」
 と、濁すぼくに、
「そうなの。それなら、なおさらじゃない」
 相模課長は、呆れるようにまた言い放った。
 歓迎会も終わりに近づくと、相当に酔っぱらった相模課長は、文字通り「はちまきをまいて」いるかのように熱くなり、それをあんなにも冷めた目で「被害者」面していた課員たちが、煽る。「えい、えい、おー」でも始まるのではないかと思わせる雰囲気があった。重ちゃんへの非難を、一致団結して徹底させる。そんな「はちまきのまき方」に思えた。
 ぼくは一人、そんな言葉の無数の矢が、ぼくに対して向かってきているかのような錯覚に陥った。


 その時から、つまり、重ちゃんとぼくが知り合いであったことが知れ渡ったあの歓迎会の日から、ぼくは重ちゃんと「遠い」関係であることを強調するかのように周りに同調していった。引いていた一歩を前に出した。
 この課内における共通認識、「高木=最悪」という絶対基準の中に、かつて幼なじみであったぼくと重ちゃんの距離の「近さ」が元で「同化」されるのを恐れたからだ。
 「明日は我が身、だろう」という、必死の回避。ぼくは、それに奮闘した。

 一緒にランチにいくことはなくなったが、ことある事に重ちゃんの悪口を聞く機会があった。例えば、三、四人が給湯室で、たまたま出くわした廊下で、行き・帰りのエレベーターの中で。ぼくは、知らず知らずその「輪」の中に組み込まれ、日増しに意見を求められるようにもなった。
 で、あなたはどうなの。そんな視線と沈黙が必ず用意される。ぼくは、言い淀みながらも、単調な同意の言葉を繰り返した。
 そんな繰り返しが続くうちに、ぼくは、重ちゃんのことを、「ブー」と呼び始めていた。それまで姉が呼ぶのを聞きながら、「なんでブーなんだよ」と否定しつつ、心のどこかで「そんな言い方、ひどいだろ」と思っていたのに。一度も重ちゃんのことをそんな風に呼んだことなどないのに。
 ぼくは、「地下室」の中に「ブー」という隠語を提供してしまったのだ。受け取った女性社員たちは、やっと見つかったと言わんばかりに、「ブー」という隠語を驚くべきはやさで広めた。その広がりに比例して、ぼくは同じ共通認識を持つ者として受け入れられるようになった。

 仕事帰り、ふと思い出すことがある。あの、ぼくが配属されて初めて「地下室」に来た日、重ちゃんはコーヒーを出してくれた。変わらない口調と声で、「また、昔みたいに、よろしくな」と言った。そういった時の、重ちゃんの気持ち。今から思うと、その行動が非難の的になることは容易に想像できたはずなのに、それでもなお、重ちゃんは、ぼくにコーヒーを出してくれた。
 重ちゃんは、昔と何ら変わることなく、あの時もぼくに「助け」を求めていたのではないか。姉と同じクラスだった頃、学校でのひとりぼっちを、ぼくで埋めるためにタバコ屋で待ち伏せたように、重ちゃんは……。そう考えると、いつも胸が痛い。

 よく考えると、ぼくは、重ちゃんのことが嫌いなのだろうか、現時点で彼から受ける実害はあるのか、昔のように恐れているのか。眠る前に、よくこんなことを思う。答は全て「ノー」だ。ぼくの毎日は、朝の決まった時間に起きて、通勤電車に乗って「地下室」に行く。そして、その日の仕事をこなし、定時に帰る。重ちゃんのこと。ぼくには、彼を嫌いになれるほどの接点がない。ましてや、恐れるほど彼も接触を試みない。なのになぜ、ぼくは周りに合わせて「ブー」と呼び、彼の一々の行動を非難するのだろう。悪口の輪の中に、しがみつくのだろう。そうまでして守り続けたい場所なのか、あの「地下室」からはみ出されることに、なぜこんなにも恐れるのか。
 そうだ。ぼくはひとりの静かな時間、眠りにつくベッドの中で決意する。
 明日からは、重ちゃんの悪口は言わない。そんな輪の中で無理などしない、と。

 そしてまた、あの夢を見る。

 カシャカシャと髪の毛を振り乱しながら「指揮棒を振る人」。
 ぼくは相変わらずらっぱのようなものをくわえて必死についていこうとしている。隣では給湯室にある茶葉の袋をバシャバシャと振り、前ではこれみよがしにキーボードをガンガンと叩く。「そう、そう、そう」、といつもの輪の中の、軽蔑するあの同意の声が合唱となって響けば、そろそろ来るかな、来るかな、と妙にドキドキし始める。「指揮棒を振る人」は、ぼくに向かってカッと目を見開き、両手を一気に振りあげる。大きく息を吸い込んで吹こう、とすると目が覚める。

 演奏の中で、自分の楽器を高らかに吹き上げることができない。眠りにつく前、言ってみれば一人立ち止まって考えると決意できることも、流れの中で生きている以上、ぼくはいつの間にか同意し、付け加えるように悪口を言ってしまう。そうやって、「そう、そう、そう」と頷き合っては、安心して過ごすのだ。





 三年間、ぼくはそうやって「地下室」で過ごした。
 変わっていないようで、振り返ってみるとぼくの暮らしもずいぶん変わったような気がする。
 姉がぼくの部屋を出てひとり暮らしを始め、ちょうどその頃に僕にも彼女ができて、その彼女と一緒に暮らし始めている。だけど、ここ一年半ほどは残業に継ぐ残業と、休日出勤が重なって、あまりうまくいっていない。
 そう、残業や休日出勤など考えられなかった「地下室」も、この三年で大きく変わった。まず、数年に一度だった新入社員の配属が、相模課長の強い要望によって二年連続で行われ、しかも、うちの課の仕事が、広報のような会社の「顔」として機能しはじめたこともあって、「残りもの」ではなくメインの新人を指名して獲得したのだ。今年の新入社員は、ここが「地下室」と呼ばれ敬遠されていることを知らなかった。
 ぼくを境界線にして、ぼく以前にいた者と、ぼく以後に来たものではっきりと区別され、「地下室」は二分している。出入りの激しい派遣社員はこの三年で大方が入れ替わった。
 ただ一つ、相変わらず健在なのが重ちゃんへの「共通認識」だ。配属された新人や新しくやって来た派遣社員は、ぼくの時と同じような「日替わりランチタイム」で重ちゃんのことを知る。そして、同調しながら課の一員として馴染んでいく。驚くほどに、誰もがぼくと同じようにして「地下室」のリズムをつかんでいった。
 定時を学校の「チャイム」のようにして帰宅する者、相模課長と一緒に「はちまきをまく」者。この境界線を飛び越えて、向こうからこっちへ、またはこっちから向こうへという移動は、案外容易で、「はちまきをまいて」がんばっていた者が、自分の時間がないのはバカらしいといって定時で帰っていくこともしばしばだった。だからといって、咎める雰囲気はない。それは相模課長の考え方が浸透した証とも言える。彼女が目指す「チーム」には、強制がないのだ。社会人として、遅刻や無断欠勤をしないという最低限の義務を果たす限り、それ以上の「しなければいけない」ことは求められない。逆に、はちまきをまく者、やろうとする者には「してはいけない」という制限もかけない。
 ぼくは、そんな相模課長のやり方が気に入っている。

 だから、ぼくはこの三年間、ずっと「はちまき」をまいてがんばってきた。雑誌や新聞、テレビなどに出ては、我が社の環境活動の報告と、環境の大切さを第一に考えている企業であることをアピールしている。会社名がまずあって、その下に自分の顔と名前が記される。そんなことが、最近は少しだけ自慢に思えてきてもいる。
 そんなぼくを、「はちまき組」の者はキャップと呼ぶ。相模課長でさえも、叱るときは「赤藤」の最後の母音を思い切り巻き舌にして呼ぶが、誉めるときは「キャップ」と尊称する。そんな時はビリッと電気がはしるように、気持ちが良い。またがんばろう、と思える。「やりがい」というのが何なのかは分からないが、それがそうなのかもしれない。

 ぼくの後輩、二年続けて配属されたのが二人とも年齢差のない男性社員だったことに加えて、サッカー好きという共通性もあり、仕事でも、仕事帰りでも、たまには休日のサッカー観戦でも、一緒にいることがとにかく多かった。
 ぼくを頼って、彼らが「キャップ」と呼ぶ。その度に、ぼくは自分がしっかり出来ているように思えて、それがたまらなく心地よかった。入社して三年、二十五歳のぼくは、着実に自立の根をはっている。落ち込んだ夜は、そう思うことで元気になれた。このまま結婚して家庭を持ち、もっと太い幹でもって自立しよう。元気になった後は、勢いにのって、ぼくは必ず結婚を口にした。


「あんた、最近じゃ珍しいわね」
 姉は、ぼくが結婚を口にするたびに、そう言う。

 ぼくの彼女、マコと姉は同じ職場で働いている。「弟がいるって言ったらついてきちゃった」、ぼくがマコと初めて会ったのは、そう言いながら姉と彼女が一緒に帰ってきた日だった。「やっぱり琴音さんに似てますね」「どこがよ」「だって、目とか、肌が白いとことか」「そんなこと言うの、マコちゃんが初めてよ」「そうなんですか?」「うん、オレも一回も言われたことない」
 マコは、その日、コーヒーだけを飲んで、あまりにも狭い部屋で息が詰まったのか、すぐに帰った。それからも二週間に一度ぐらいのペースでうちに来ては、すぐに帰り、そして、またやって来た。
「もう、気を遣ってコンビニに行ったり、読みたい本もないのに本屋で時間潰すの面倒だから」
 姉がそう言ってぼくの部屋を出ると言い出した時、ぼくとマコはつきあい始めた。それまでは、たまに外で食事をするときも映画をみるときも、必ず姉がいたので、急に二人になると会話が続かなかったことを覚えている。とにかく、二人で姉の話ばかりを繰り返して、空白を埋めた。

「最近じゃ、女だって二十四、五じゃ結婚したいなんて言わないわよ。ましてや男のあんたが、なんでそんな早くしたがるの」
「オレは、早く家庭が持ちたいんだよ、それで自立したいんだよ」
「やっぱり、あんた、変わってるわ」
「どこがだよ。琴音だって、二十五の時、結婚しただろうが」
 
 ぼくはそう言ってから、すぐに後悔する。
 それは何も、姉の離婚が腫れ物に触るように気をつかうという訳ではない。そもそも、それを言ったからって、姉がしょんぼりするわけではない。
 だけど、ぼくは後悔する。姉にとって、結婚と離婚の話は封印すべきものだと思っていた。姉の中にある好きという感情と、そこに当てはまる「空白の相手」について、触れさせまいとする特別な雰囲気があった。必死でそれを回避しようとするのではなく、とても自然に、そしてスムーズに。

「だから、自分も同じ歳で結婚するっていうの?」
「いや、もういい、もうこの話は止めよう」
「いつもそれね。なんで止めるのよ」

 いつもなら、「この話は止めよう」と言うと、姉の方から別の話題にかえるのに、この日は違った。
 ぼくの不注意から大きなミスとなり、相模課長と二人で先方まで謝罪に行き、その帰り道で「気にしなくていいわよ。やっぱりまだ無理だったかな、キャップには」と、諦めたように苦笑され、そんな自分が不甲斐なくて、彼女の待つ自分の部屋ではなく姉の部屋に行った、その夜。この日の姉はいつもとは違った。

「なんでって、別に理由なんかないけど。違うよ、琴音がいくつで結婚したからって、オレも、なんて思ってないよ」
「一度ちゃんと聞きたかったの。あんた、マコちゃんのこと、ほんとに好きなの?」
「なんだよ、それ。当たり前じゃん、オレたち付き合ってるんだし。同棲だってしてるし、さっき言ったばっかじゃん、オレは結婚だって考えてるんだから」
「ダメよ、そんなんじゃ。あんた、いま結婚してもうまくいかないわよ」
「どういうことだよ」

「結婚は、周りから固めるものじゃなくて、なんていうか突き上げるものなのよ、きっと。結婚したい、って思ったときにするもので、世間体とか、そろそろかなとか、そういう外の条件じゃなくて、あくまでも内にある気持ちなの」
「訳わかんないよ」
「分かってるでしょ。マコちゃんね、今、あんたがここにいることも知ってんのよ。最近、二人がうまくいってないことも、マコちゃん、相当悩んでるわよ」
「忙しいんだからしょうがないだろ。日曜とかも『こどもキャンプ』があったりで出なくちゃいけないし」
「それだけじゃないでしょ。時間なんて、いくらでも作れるじゃない。現に今、あんたはここじゃなくて、マコちゃんの側に居られるんだから」
 その、通りだった。時間の問題ではないのかもしれない。
「分かったよ、帰るよ、帰ればいいんだろ」

 ぼくは、自分で自分が、全然ダメだなと思っていた。なんで、姉の部屋に来てるんだ、何やってんだオレは、と。
 玄関で靴をはき、ドアを開こうとしたとき、
「……私が、そうだったから」
 絞り出すような声で姉が言った。
 
「私は、大学に入るとか就職するとか、その延長で結婚するもんだと思ってたし、結婚してるって自分を周りに見せたかったの。寿退社おめでとうって言われると、ほんとに嬉しかったのよ。結婚することよりも、そっちの方がずっと」
「みんなそうなんじゃないの」
 姉は何も言わなかった。
「付き合うのは大好きって感情だけど、結婚となると、やっぱり周りも含めたもんだろ? 結婚して、子供つくって、家族持って。そうやって周りに見られることでオレ自身も変われるし、変わっていかなきゃダメなんだよ。うん、やっぱ、はっきりさせなきゃいけなんだ。ちゃんと式あげて、籍もいれてさぁ。このままだったら、中途半端なままだもんな」
 ぼくは、一人でしゃべり、一人で納得していた。

「それは、あんたの考えでしょ。あんたの家庭で、あんたの世間体でしょ。マコちゃんがいないじゃない。そんな結婚、マコちゃんじゃなくてもいいじゃない」
「なんでだよ。マコも変わるよ。自分の夫っていうはっきりした立場になったら、仕事で遅くても、休日出勤してても、家族のためだって思ってくれるよ」
「マコちゃんも働いてるじゃない」
「結婚したらオレが養っていくんだから、仕事はやめるよ。オレは男だし、そうしなきゃいけないだろ」

「ねぇ、覚えてる?」
「は?」
「昔さぁ、お父さんがよく言ってたじゃない。タクトは振られるんじゃなくて、自分で振れよって。そういう生き方、選べよって」
 ぼくには、父がそんなことを言っていたという記憶がない。
「覚えてないか。まだ、あんた小さかったもんね。ほら、私、小学生のときからバイオリン習ってたじゃない。お父さん、迎えにきてくれた車の中でよく言ってたのよ。練習どうだったって聞いて、ついていけない、って私が落ち込んでると、琴音は琴音のリズムでいいんだよ、自分でタクトは振れよ、って。私、この言葉がずっと頭から離れないのよ」
「全然、記憶にないな」
「そういえばあんた、タクト、タクトって、自分のことを言われてると思ってバカにみたいに笑ってたわね。私が十歳とか十一歳だから、あんたまだ幼稚園に行ってたんだもんね」
「そう考えると、長いよな、バイオリン。今もやってんでしょ、これ」
 ぼくは、部屋の隅においてあったバイオリンケースを指さして聞いた。
「そうね。まぁ、今は公民館で好きな人が集まって弾いてるだけだけど」
「オレ、嫌だったな。琴音がバイオリンやってるから、オレまでピアノにいかされてさ。ほんと、嫌だった」
「すぐ辞めちゃったじゃない」
「まぁ、そうだけどさ」

 ぼくの部屋で待つマコから、姉の携帯にメールが入った。
 姉はぼくに、「マコちゃんから」とだけ告げて、短い返信を打った。

「私ね、勘違いしてたの、ずっと。私が旦那と別れて実家に戻ったとき、お父さんと話して思ったわ。私はね、自分で振れって言われたのは、リズムをちゃんととって、規則正しくっていうか、こうあるべき、というのを守れってことだと思ってたの。どこかで、琴音はお姉ちゃんなんだから、っていうのと混ざっちゃったのね、きっと。あんたのお手本になろうと思って、これでも私、必死だったのよ」
「琴音はちゃんとしてたのに、オレがダメだったんだよ」
「そういうことじゃないの。ごめん、あんたは関係ないのよ。あくまでも私が勝手に、ステレオタイプな周りの目を気にしてたっていうか」
「息がつまりそうだったの?」
「息がつまりそう、かぁ。そう感じるほど窮屈になったのは、やっぱり子供がつくれない、って思ったときかな。それまでは、別に無理してたってわけじゃないの。勉強だって、家事の手伝いとかも。なんていうか、ちゃんと乗れてる、あるべき姉をやれてる、って思ってたし。だけど、当然あるべき母親になれない、っていうのはね……」
 また、この話になってしまった。
 姉からこんな告白を聞くのは辛いし、避けていたのに。
「どうしても、ダメだったのよ。身体に触れられないし、振れられたくないの。こんなんじゃ私、出産できないって落ち込んだわ。子供を産んで、育てて、おばあちゃんになって、孫に可愛い服を買って、まだまだ先には成らなきゃいけないことがいっぱい残ってるのに。結婚して一年も経って、このままじゃ、って焦ったわ。焦れば焦るほど、いつもダメで、すごく旦那に悪くて。今夜こそ、がんばろ、がんばって、しようって思うけど、最後までダメだったの。興奮しないとか、そういうのじゃなくて、身体が全部で拒否するのよ」

 セックスレス夫婦。ぼくはぼんやりとそんな像を思い浮かべていた。
 思い浮かべたその像は、もっと特殊で特異な……、なのに姉が、目の前にいるこの姉が。ぼくは、もういいよ、と言おうとした。それを遮るようにして、
「実家に戻った晩、お母さんとお父さんに謝ったの。結婚式の費用とか、他にも色々借りがあったのに、一年半でこんなことになってすいませんでしたって。そしたらお父さんが、謝るなって怒鳴ったのよ。謝るようなことはするな、したなら謝るなって」

「親父も怒鳴ったりするんだな」
 ぼくはそう言って、カラカラと笑った。それで、この会話を締めようとした。

「っで、私は決めたの。それまでは適齢期になったら、適当とされることをやって、そこに居ようってがんばってたけど。だから偉いね、って誉められてきたけど。遅れたって、そこからはみ出したって、もう怖がるのは止めようと思ったの。私は私で、周りに合わせるんじゃなくて、私が周りを変えよう、って。そう決めて、今も奮闘中なんだけどね。苦戦だらけのピンチ、なんだけどね。将来、このまま結婚もしないで子供もいないことを考えると、いつまでも派遣じゃなくて、もっとちゃんとした仕事にもつかなきゃいけないし、やっぱりまだ、結婚とか出産とか、当たり前のことだと思ってる部分もあるし」
「そんなさ、全部をいま決めなくてもいいんじゃないの。これからすっげぇ理想の人が現れるかもしれないんだからさ」
 姉は、静かに、とても静かに微笑むだけで、ぼくは、その笑顔の影に、何も言えなくなった。「分からない」、単純にそう言えばよかったのかも知れない。

 ぼくの毎日は相変わらずだ。外出先に直行して、「地下室」に戻るのが夜の七時を過ぎる。それから明日のための準備を二、三時間して、後輩と会社の近くで少し飲んで帰る。
 そんなぼくを待つマコも相変わらずだ。たぶん、帰りが遅いだの、休日も仕事ばかりだのと姉に愚痴ったり相談しているのだろう。
 これが、ぼくの現状。等間隔のアポイントメントをこなしていくことで一日が終わる。走りながら移動して、次々に回される電話に出て、コピーを頼み、レポートを書き、取材を受ける。大忙し。くるくる回される風車だけど、ぼくは爽快だった。今はまだ、ほんの小さな「昨日との違い」に喜び悲しみ、上下しているけど、早く、細くてもいいから仕事を回せる支柱になりたい。大きな成功で思い切り喜びたい。それからなのかも知れない、「マコとのこと」は。
 今はとにかく仕事だ。今週中に出す資料をまとめなければ。そうやってここで、五年、十年経てば、彼女もきっと分かってくれるし、その頃にはぼくには家庭があり、子供の運動会でビデオカメラを抱えてたりするんだろう。そういう先があるんだ、そこへ向かう道の上に乗っているんだ。


 *


 重ちゃんが、会社を辞めるらしい。ぼくは、それを聞いても、「あっ、そう」としか言わなかった。
 今となっては、定時で帰る重ちゃんと顔を合わすことすら少なく、正直に言えば、彼が何の仕事をしているか知らない。同じ「地下室」にいるが、よく考えると、ちゃんと話したこともなかった。恐れも同情も嫌悪も共通認識も、重ちゃんに対しては何一つ持たない。
 一番下の後輩社員が、「やっぱり、正社員だし、送別会とかした方がいいですよね」と聞いてきたので、「最後の出社の日に花でも渡せばいいんじゃないか」と応えた。そんな事よりも、今日中に上げなければならない仕事が、まだ三つもあるのだ。ぼくは、「それに、送別会したって、オレたぶん行けないと思うし」と突き放すよう言ってしまった。
 ちょっと言い方がきつかったかも知れないと、その日の帰り、ぼくは反省する。一日を振り返って、自分の行動を思い返すのは決まって帰りの電車だ。これを怠ると、どんどん色んなことが消し去られ、気付いたときには軌道から大きく外れてしまうことを、ぼくは経験から知っている。
 そうか、辞めるのか。ここでようやく実感した。重ちゃんも楽になりたいんだろうな。そりゃあんな環境じゃ、働けないよ。それにしても何年だ、五つ上だから八年か。八年もよく続いたよな。ゲッ、ということは三十路じゃん。どうするんだろ、重ちゃん。次、もう決まってんのかな。ま、どうでもいいけど。
 隣に座っていた若い女性が、咳払いをしながら少し腰をずらして遠ざかった。ぼくは、そのまま何も考えず、寝たふりをした。


 いつものように、この日も遅めの昼食に出かける。「地下室」からエレベーターまで行くより、非常階段の方が近いので、その階段からそのままビルの裏口を出て、路地を挟んだ目の前にある「青空食堂」、ぼくはいつもそこで昼食をとっている。狭いし汚いが、安いし旨い。そして早い。とても重宝する食堂なのだ。噂では、会社の本社ビルが建つ前からあって、ビル建設に反対をいつまでも訴えていた店らしく、ぼくがたまたま暖簾をくぐるまで、うちの社内で行く者はいなかったらしい。今は息子が店を継いでおり、ランチタイムもお客さんが少ないので、できるだけ来て欲しいんだけど、と嘆いていた。
 そんな話を聞き、ぼくは「地下室」のメンバーに安くて旨い店が近くにあることを宣伝して回った。そしたら、いつのまにかうちの課のメイン食堂のようになり、安いよりも、旨いよりも、とにかくびっくりするほど早いので、相模課長を始め、贔屓にしている人が多い。

 ぼくは、この日、そんな「青空食堂」で、重ちゃんと居合わせた。
 定時になったら帰宅する「定時組」は、だいたい昼食もちゃんと十二時からとるので、早くても一時半にやっと昼食にありつけるぼくと、重ちゃんとが昼食で遭うことはまずなかった。小さな店だ、すぐに重ちゃんだと気づき、向こうもぼくに気付いた。そして、重ちゃんは、「おぉ」と手を挙げた。

「あ、どうも」
 カウンターとテーブルが2つ。
 わざわざ離れるのもおかしいし、客も重ちゃん一人だった。

「今日はお昼、遅いですね」
「あぁ、いろいろとな。人事に行ったり片付けやったりでな」
 ブー、と言いかけて、慌ててシゲ、と言い直そうとしたが、改まって
「高木さん、退職されるんですよね」
「あ、まぁな。知ってたのか。うちの課の連中、誰も知らないんじゃないかと思ってたけどな」
「そんな。みんな知ってますよ、きっと。いつまでですか?」
 重ちゃんは、チラッとこちらを向いた後、
「今日」と、言った。
「えっ、今日、ですか。今日が最後、ですか?」
 急に大きな声を出したので、日替わりの鯖煮付け定食を出そうとした息子がビクッとなった。
「オレ、有給がいっぱい残ってるからさ。今月末付けで退社なんだけど、有給消化で出社は今日が最後になるんだ」
「じゃ、送別会、とかも今日なんですかね」
「ないだろ、送別会は。だいたい『定時組』が辞める時は、最後に花でも渡して、それでサヨナラだろ。オレも、花ぐらいはくれるんじゃないか。でも、お前も知らなかったってことは、花もないかもな。ま、何もない方がオレも気が楽でいいけど」

 ぼくは、鯖の骨と格闘しながら、「花ぐらいはもらえますよ」と、つい言ってしまったことを悔いていた。そんなことを言われても、重ちゃんは何も答えず、彼もまた、ただただ鯖の身をとっては口に運んだ。

「高木さん、次とか決まってるんですか?」
「まぁな」
「何、されるんですか?」
「焼き物つくるんだよ」
「陶芸ってことですか?」
「そうだな」

 意外だった。重ちゃんが言うには、入社して間もなく陶芸教室に通い始め、五年、六年と経つうちにコンテストで入賞するようになったらしい。たまたま重ちゃんのお父さんが専門誌で重ちゃんを見つけて、うちの窯に来ないかと連絡してきたのだという。
「じゃ、あの町に帰るんですか?」
「帰るって感覚は、正直ないな。高校の時までだし、あぁ、でもやっぱり故郷か、生まれ育ったところだもんな。親父に会うのも、それ以来だよ」
「高木さんのお父さんが陶芸やってるなんて知りませんでしたよ」
「もうずっと一緒に住んでなかったからな。オレも親父と一緒に生活したの三歳までだから、あんまり記憶がないんだよ」
「お父さん、嬉しいでしょうね。息子に継いでもらえて」
「ま、親父の本職は茶筒つくってるんだけどな、ブリキの。何しろ工房が山の中だからさ、趣味で陶芸するのに窯も持ってるんだよ。たぶん、親父はオレがそのまま茶筒のほうにいってくれるのを願ってるんだろうな」
「楽しいそうですね、なんか。ぼくなんか、そういうの何もないから。会社辞めてまでしたいことなんて」
「オレも迷ったよ。たぶん食っていけないだろうし、給料も今の半分以下になるだろうし。焼き物は趣味のままの方がいいのかってな」

 つい、いつもの習慣で、ぼくの食べるスピードは猛烈に速く、重ちゃんの皿にはまだ鯖が半分も残っているのに、ぼくはすっかり食べ終わっていた。

「でもオレ思ったんだよ。親父がさ、もう十四、五年も音信不通だったのに連絡してきたとき、これってオレの岐路なんじゃないかってな。もうオレも三十だしさ、今更なにもそんな、もう遅いよとか母親は言うんだけど。でもオレは、岐路に立つのに、遅いも早いもないと思うんだよ」
 ぼくは黙ったままお茶を啜りながら、お母さんの言う通りだよ、と思っていた。今更、だよ、重ちゃん、と。
「それに、岐路に立ったときって、どちらを選んでもそう大差はないとも思うんだよな。オレが、ここで会社を辞めて焼き物にいっても、その逆でも、どっちにしたって、こっち選んで良かったって思うこともあれば、あっちにすれば良かったって後悔することもあると思う。ただ、ちゃんと考えて、悩んで、答えだけは出さないとダメだなって、ちゃんとどっちかを選ばないと始まらないなってな。それを先送りにするのだけは、しちゃいけない」
「凄いですね」
 思わず出た言葉だった。
「何が凄いんだよ。すごいのはこれからだよ、すごい、大変なのはな」

 重ちゃんのことを、「地下室」であんなに嫌われて、可哀想だなとまで同情して、いつの間にか「上」から見ていた自分が恥ずかしくもあった。どうせ、いよいよ会社には居づらくなって、楽になりたくて、逃げ出すだけなんだろう、と。なのに、凄い。

「でもさ、オレはもう選んだから。決めるまでがほんと大変だったけど、今はさっぱりしたもんだよ。やるしかない、ってな。この先、十年経っても陶芸家として全然ダメなら、その時は、徹底的に敗北を認めるよ。もうその段階になって、会社辞めたのがどうのこうのと後悔はしない。また、全部ゼロに戻してやり直すよ。それぐらいの気持ちじゃないとな」

 カウンターに向かい合わせで、さっきまで洗い物をしていた息子が、奥の部屋に行ったので妙に静かになっていた。重ちゃんの声だけが響く店内。ぼくの携帯がブルブルと震え、その振動の音までもが、はっきり聞こえた。ぼくにも、重ちゃんにも。
「お、悪かったな、忙しいのに。ちょっと話し過ぎたな。悪い、悪い。店長、お会計」
 重ちゃんは、ぼくの分も払ってくれた。また、お願いします。息子の声が背中から突き刺さる。

「いや、ほんとに旨かったよ」
「ここ、よく来られるんですか?」
「始めてきたよ。お前が広めてから、うちの課では有名だっただろ。どんなとこかと思ってさ、最後に来てみたんだよ」

 三時からのミーティングに遅れそうになった。いつもは長くても三十分で昼食から戻るぼくが、一時間を過ぎても帰ってこないというだけで、携帯電話が鳴りまくる、現状。ご馳走してもらって何だったが、重ちゃんにお礼をいってから、走って「地下室」に戻った。走りながら、「花の手配」はオッケーかと、後輩にメールを打った。





 西向き、夕陽、思い切り、ピンクだ。
 ぼくは今、長い長い横断歩道の、中央分離帯に立っている。五時四十五分、そろそろ秋かなと、肌寒い風を感じたりして。う〜ん、久しぶりだ。こんな気持ち、とても懐かしい。「空でも見上げてみるか」。ぼくの真上には、高速道路が立体交差している。救急車が目の前を過ぎていき、その後ろを灰色のセダンがくっついている。「あんなことするやつ、ほんとにいるんだな」、とぼくは呟いた。

 今日、いつも通り色んなモノに追われながら走り回り、はたと気付いたら仕事が全部ハケていた。パソコンの時計を見ると五時十七分。「あれっ?」と、声に出してしまうほど、「意外」。何か忘れていないかと、机に山積みの書類をガサガサと探ってみたが、特にない。仕事が、終わっている。
 「定時組」がゴソゴソと帰り支度を始める。飲み終わったコーヒーカップを捨てに行ったり、トイレに立ったり。そっか、五時半か。後輩の二人に「何か手伝うことあるか?」と聞いたが、彼らはいつもの様に追われており、それに応える時間さえ詰めているような状況、「いえ、大丈夫です」という短い言葉だけを返してきた。
 帰ろう、かな。ぼくは、ここ一、二年で一度もなかっただろう、五時半の定時で「地下室」を出た。
 ロビーでは、大きな台車を押しながら、宅急便の兄ちゃんが全速力で横切り、受付のお姉さんが二人で笑いながら後片づけをしている。入口の自動ドアから健太が入ってきて、「おおっ、今日はもう終わりか?オレもこれ置いたらすぐに出られるから、久しぶりに飲みにでも行くか?」と声をかけてきた。「そうだな」と曖昧に返事をしたが、「やっぱ、いいわ。今日はやめとく」と言って別れた。
 本社ビルは十七階建て。淡いグリーンなんだなと気付く。隣にでかいビルが建っているので、ちっぽけに見えるけど、それでも、やっぱり大きい。振り返って立ち止まり、見上げているぼくの肩に、宅急便の兄ちゃんがぶつかった。「あっ、すいません」。走りながら振り返って謝った。確かにこんな狭いところで、急に立ち止まった自分が悪いけど、あたんなよ、と悪態を吐く。
 人の流れの中に入り、歩道を歩きながら、大特価セール中のドラッグストアに目を奪われた。かと言って、何が買いたいわけでもない。歩きながら、歩くことを考える。ただそれだけで、周りを見る余裕が、気持ちいい。
 流れについてぼんやり歩いていると、目の前の青信号が点滅をはじめ、歩いているマークが、まるで走っているように見える。
 前の女性がコツコツコツと走り始めたので、ぼくもついていくように走る。

 が、赤になった。中央にある分離帯。ぼくは諦めて、そこで立ち止まった。二列になった黄色い点字ブロックに靴をのせて、そのボコボコ感を確かめてみる。目の前を左から右へ、背後は右から左へ、車が過ぎる度に音と風がふく。夕陽をバックに、合併予定の銀行の看板が隣り合わせで並んでいる。

 姉は、これからも人を愛せないのだろうか。本気で誰かを好きになることもなく、これからの長い人生を一人で歩んでいくのだろうか。それは、誰かを好きになって、結婚して、家族を持って、そういう道より良いのだろうか、それとも、やっぱり寂しいのだろうか。どっちを選んだとしても、良い面も悪い面もある、かぁ。重ちゃんは、毎日「地下室」でいて、何が楽しいのかと思ってたけど、定時に帰宅してから、何をしてるんだと思っていたけど、陶芸家かぁ。そう言えば、子供ころから、プラモデルとか版画とか、夏のこども会のときなんか、でかいポスターを描いたりしてたな。カメラとかもはまってたし。そっち系だったのか。……先送り、ねぇ。自分で自分が、ぼくには分からない。

 急に、信号が青に変わって、急に、嬉しくなった。
「よし、帰ろう」
 早く帰って、今日は久しぶりに彼女と一緒にご飯を作って、ドラマを見ながらそれを食べよう。いいじゃないか。そうだ、とにかく早く帰ろう。
 ぼくは、駅まで小走りで向かい、発車ギリギリの電車に飛び乗った。コンビニに立ち寄り、ビールと情報誌をカゴに入れる。次の週末は、二人でどこか行こうかなとも思った。レジの前で、いつもマコが食べているマロン・プリンを見つけ、ぼくは、その横にあった百円高いモンブランもカゴに入れた。
 訳もなく楽しかった。突き上げるようなワクワク感があった。早く帰って、マコと二人でドラマを見ながらご飯を食べる。このモンブランも、きっと「おいしいよ」と礼を言うだろう。

 だけど、マコはなかなか帰ってこなかった。最近、彼女の帰りはこんなに遅いのだろうか。まだ七時だから、遅くもないか。あぁ、せっかく今日は早く帰れたのに、何をやっているんだろう。ぼくは苛々しながら、マコを待った。
 しびれを切らして、マコの携帯に電話を入れたのは八時半だった。買ってきたビールは、もう四本とも飲み尽くした。びっくりしたように彼女は携帯に出て、飲み会に突然誘われたのだと告げた。すぐ帰ろうかと聞かれたので、「ゆっくり楽しんできていいよ」と、携帯を切った。

 空虚、目の前の空き缶。しぼんだワクワクの風船。割れてしまいそうな、これまでの毎日。あると思っていたものが無く、無いはずはないのに、と頭を振った。引っ張っている紐の向こうには、いるはずの「もの」がいないという一種の恐れ。ぼくは、パサパサの髪をかいてシャワーを浴びた。

 シャワーから出て、午後九時。いつもならまだ会社にいる時間だな、と思って携帯電話をチェックした。
 新着メール、0件。あ〜、とため息をつきながらベッドに寝ころんだ。

「ハーモニーだよ、拓人」
 父の言葉を思い出した。
 小学生の頃、サッカーの試合で負けて帰ると、ぼくはいつも、誰々のミスで負けたと文句を言っていた。自分はゴールを決めたのに、アイツのせいで、と拗ねていた。そんなぼくに、父は何度も何度も繰り返した。「いいか、大事なのは調和なんだぞ。自分だけがよくても、自分だけが悪くても、いい結果は生まれないんだぞ」と。


 カシャカシャと髪の毛を振り乱しながら「指揮棒を振る人」。
 音のない夢の世界で、半透明なその「人」が、ぼくに向かって緩やかにリズムを刻む。ぼくは、ラッパのようなものをくわえて必死に吹いている。
 そろそろ来るかな、来るかな、と妙にドキドキし始めると、「指揮棒を振る人」はぼくに向かってカッと目を見開き、両手を一気に振りあげる。

「拓人は拓人のリズムでいいのよ」と、姉がこちらに振り向いて声をかける。
「遅いとか早いはないんだ」と、重ちゃんが後ろからささやく。

 ぼくはその場に立ち上がって、みんなを見回してみる。ぼくのタイミングを待って、止まっているように思えた。ゆっくりと、深呼吸をしてから座り、らっぱのようなものをくわえ直す。
 もう一度「指揮棒を振る人」を見た。半透明なその「人」は、また、ぼくに向かってカッと目を見開き、両手を一気に振りあげる。
 ぼくは、思い切り、らっぱのようなものを吹きあげた。
 その高音で一瞬真っ白になった。音が光よりも早く進むような錯覚に陥り、グルグルと回転しながらぼくは昇っていく。しばらくして、霧が晴れるようにパッと明るくなった舞台では、それまで「指揮棒を振る人」が立っていた台の上に、白いタクトだけが、放り投げられていた。
「自分で振れ」、と?


 目が覚めると、
「あっ、ごめん起こしちゃった?」
 と、マコが化粧をおとしていた。時計を見ると、午後十時。

「早かったな」
「うん、せっかく拓人が早いから」
「途中で抜けてきたのか?」
「でも、もうほとんど終わりそうだったのよ」
 マコは、「何も食べてないでしょ」と言いながら小さな台所へ向かい、ぼくはまだベッドに寝転がりながら、言った。

「あ、モンブラン、冷蔵庫に入ってるよ」


【了】