校門にカメラを置いていたのにチェックを怠っていた。
センサーが取り付けられ警報を鳴らす設備はあったが、
昼時は人の出入りが多いためスイッチを切っていた。
そりゃ、ダメじゃないか。学校の安全は守れないよ。

宇治小学校の事件後、そう言わんばかりの意見が目立っているようで、しっくり来ない。
二年前の梅雨、宅間被告の侵した残忍な殺害は、聖域だった小学校内を一変させた。
このまま学校が閉ざす一辺倒へと突っ走るのではないかと危惧した。アメリカの学校で
は入り口に金属探知器がある、なんて話も聞く。不審者の見分けが難しいので、一切の
立ち入りを禁止しようという動きまで起こっている。ここに「さすがアメリカ、極端だねぇ」と、
僕は思う。

が、日本の小学校は違った。閉ざすのではなく、開きながら守るという方向を目指している。
本当に素晴らしい。地域の人たちが学校の運営を共同でやるそんな学校のあり方も実現に
向けて動き出そうとしている。学校の予算、人事、教育方針、授業内容。単に文句を言う側、
言われる側という構造からの脱却は、子供を育てる上でより良くなることは間違いがない。
ダメ!って突きつけらる事件や事態が起こったとき、それは親であり、地域住民一人ひとりに
突きつけられるのだから。校長や教育委員会に言うだけで、文句を言うだけで、済まされる
ものではなくなるのです。

学校を閉ざす。
例えば、僕はこの夏、竹富島で小・中学校共有の敷地内に入ろうとしたが止めた。
誰もいないグランド、シーサーが守る校舎の入り口。「うわぁ〜」と感嘆しながら足は勝手に
グランド内に入っていった。が!横に置かれた立て看板、
「関係者以外は立ち入りを禁止します」と。
確かに関係者ではない僕の立ち入りは禁止されており、それでもなお入ると侵入になる。
関係者?誰だ?それは。
簡単に言えば、先生、生徒、給食のおじさん、おばさん、諸々の学校関係の業者の人、
そして、生徒の親たち、ということになるのだろう。刃物を持って被害妄想にかられながら
殺気だって入っていく人間も、観光ついでにぶらり立ち寄ろうとしていた僕も、
確かに関係者ではない。
学校は開かれていないではないか。このことをもってそう言うのは論外である。

開かれた学校で有る以前に、学校は教育の場である。何も算数や国語だけではない。
もっと様々な事を学ぶ、子供のための場。そうゆう意味において、先述の二者は関係者外
なのだ。
この意味に置いて、最後に何が言いたいかというと、学校の近くに住んでいる人たち、商店、
農業主、交番など、その小学校区に存在する人、モノは全て、関係者なのだ。
そうゆう形こそ「開かれた学校」であり、それら以外の人たちの立ち入りを防ぐ事が
「安全な学校」になり得るのである、と先日の宇治小学校に続いて伊丹でも同じような事件が起こったという記事を読みながら、思うのである。


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2003年12月20日  

開いて守る(小
学校)