少年少女の今を考えてみた。僕自身が少年ではなく、青年になったのはいつか。高校卒業時か?成人式の時か?大学を卒業し、入社式に臨んだ時か。これはあくまでも僕自身の意識の中で、と言う意味だ。それは、とても曖昧である。
がしかし、今、ニュースの多くを見たとき、「自分は少年ではない」とはっきり言える。それは、「少年」という言葉の中に「自分」をまったく含まず、【外】から彼らの行動を語っているからだ。
東京世田谷の中学二年生が偽札を作り、それを使用して警視庁少年課に検挙された。中学二年生が、である。一般的なイメージは、翌年には受験があって、だけどまだまだこの時期は中学生生活をそれなりに謳歌していて、夕食は外で食べるよりも家族そろって食べる方が多く、お小遣いをもらい、出来ることの範囲もまだまだ狭い、そんな「子供」というものだ。
ミドルティーンな彼ら。世間を驚愕させた神戸の児童殺傷事件(当時14歳の少年)から、様々な犯罪を犯した。長崎で、佐賀で、愛知で。殺人、放火、集団リンチ、レイプ、麻薬密売、売春。もうついていけない、と閉じこめてしまいそうになる。かと思うと、オリンピックで、女子ゴルフで、水泳で、ミドルティーンは大活躍し、カンヌでは主演男優賞の栄冠まで手にするニッポンの少年・少女。よく言えば「平均」的におりこうさんだった時代から凸凹した個性を発揮する時代になったのかも、知れない(決して、そうとは言えないだろうが・・・)

日本に住み、日本しか知らない彼らの、いつの間にか「常識」とまで化した様々な状況を、しっかり把握している「大人」がどれだけいるだろうか。常に、僕も含めた「大人」は少年を【外】から眺めて、そして、どうにかしろよ、と誰かに向かって文句を言っている。
海外に目を向ける。アフガニスタンやアフリカ、さらには欧米などでも問題になっている「少年兵」の問題。体つきは大人顔負けでも、顔の表情に幼さが残り、まだまだ「思考」の中に空白があることを思わせる。もう数年、その空白にはしっかりとした考え方や経験を詰め込んで、「大人」へとならなければいけない、子供だ。そんな彼ら(時には彼女ら)が銃を持ち、人を殺す。なぜなら殺されるから、という極限状態の中で。

知識のなさから一色に染められ、教え込まれるままに「銃」を手にする少年がいる。
一方で、未熟な「判断力」と「経験」にもかかわらず、多くの知識だけが詰め込まれ、原爆を実際につくってしまった高校生(アメリカ)や偽札を作った今回の少年などがいる。
世界は、いつも混在している。良いも悪いも一つではない。が、少年少女が大人になるまでの時間で、そんな大切な時期に埋めなければいけない「空白」はきっと同じだと思う。そこにどんな色をつけられるか、それが大人の責任なのに。と、つくづく反省するのである。

一番の問題は、少年少女たちが、〈そうせざるを得ない状況に追い込まれている(少年兵士にしても、おそらくはストレスだらけで大人顔負けの犯罪を犯してしまう日本の少年にしても)〉ということなのかも知れない。
そんなの、甘い!とこれを読んで感じた方への、現実という憂いは、僕も共感するところだが。
今から三十年ほど前まで、6歳になれば親元から離し、施設で育てた国があった。子供は国有財産というバカげた現実。今、これをあざ笑うか、これぐらいしないといけない、と狂気に思うか、はたまた、最も深刻な問題である、「別に何とも思わない」か。考えてみたいと思う、寝る前にでも。

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少年少女

2004年12月6日