旅について
2008年02月10日
人はなぜ旅に出るのか。
雑誌『SWITCH』を立ち上げた新井敏記氏のインタビュー傑作選『人、旅に出る(講談社)』に、こんな唐突な疑問が出ていた。現在は『coyote』という雑誌を手がける同氏が追い続けるもの。それが『旅』ということなのだろうか。井上陽水が、吉田美和が、北野武、浅野忠信、岩井俊二……。彼らの旅。

ふと、浮かんできたことがある。ぼくの旅は、【あの時】に変わったんだな、と。
ぼくは、旅が好きだ。ひとりで、海外の知らない街を歩いて、いつも思い切り「ひとり」の中に浸る。寂しいし、不安だし、だけど、不思議な出会いや、奇跡のような幸運に巡り会ったりすると、「やっぱり止められない」とほくそ笑んだりも、する。

旅=好奇心。
それ以外のなにものでもなかった。

日本すら知り尽くさない歳で、ぼくは飛行機に飛び乗り「海外」に行った。そこで見たもの、触れたものに感動して、自分なりに理解して、知らない間に吸収して(その多くがかぶれてる、というやつかも知れず)。ただ、単に、旅とはそういうことだった。

僕が旅に出るのは 
「立派な目的」を達するためでもなくて
ただ
「無意味なこと」に特別な強さ感じるため

或昼下がりはグリーンパークで。夕刻の薄ぼんやりした夏の日は、タイムズスクエアで。肌寒い秋の始まりはプラハで。早朝の、キリッとした朝は、ガンジスで。

無意味なことに、特別な強さを感じるため。もともと「旅びとマインド」という題のこの詩で、ぼくはそんな風に書いていた。まだ、十代だったような気がする。10ヵ国、20ヵ国、30ヵ国と、訪れる国が増えていくうちに、上記の詩には、『ひとり旅』という題を改めてつけた。旅した先の光景なり風景なり、言葉なり匂いなりが最優先だった「初期」に比べ、二十代後半になったぼくは、「ひとり」ということに価値を置き始めたからだ。

日常がある。非日常は、その別のところに存在する。だからそれを見に行く。
好奇心が先導する旅は、そんなところだった。が、「あの時」だ。ぼくの中で旅することが、ある明確とも言える意味を持つようになったのは。

それは、ネパールの首都、カトマンズだった。街の外側に大きく張り出した環状線沿いを、ぼくは安宿を出て中心部に向かって歩いていた。歩道は狭く、その狭い歩道に露天商が並び、歩く者は人混みに紛れて車道にはみ出すこともしばしば。そんな中、奇妙な形で寝ころぶ「人」がいた。右手をあり得ない形で掲げ、左足はない。頭は傾き、目だけがギョロッと大きかった。口は横に歪み、そして、左手を必死に伸ばしている。

ギブ・ミー・マネー。

彼の目に、空は、あのとき奇跡のように青かった、あの空は、映っていたのだろうか。

世界は広い。そんな広さを体感しつつ、「そういう人」を他の国や街でも見たことはある。が、この時、カトマンズでのあの光景は、他にも増して衝撃だった。

通行人は、何食わぬ顔で、「その人」を、またいでいたのだ。

確かに、物理的な問題もある。そこしか通る場所はなく、ちょうど「そこ」に寝転がっているのだから、日本でなら間違いなく遠巻きに見るような場合でも、それが例え、「そんな格好をした人」であっても、またぐしか仕方がないのだ。
カトマンズの、あの午後の光景は、何食わぬ顔でまたぐ、そんな人達で造られていた。

そして、ぼくも、流れるまま、またいでしまった。

あの時に変わった。
旅が好奇心だけではないということ。
同時に、日常とは、なんと怖いのかということを。

ものの善悪の話ではない。日常となってしまった中では、なかなか疑問に思えないのだ。慣習化した行動が、それを慣習としない人には奇妙であったり、悪と見えてしまう場合がある。だけど、毎日、毎日、日常化されてしまうと、奇妙や悪は、慣れの元に普通に変わってしまう。

ぼくは旅をして、様々なシーンを目に焼き付ける。そんなシーンが、単なる好奇心だったころ、頭の中に蓄積された世界は多様でごちゃ混ぜで、それがどこか「世界」という言葉の現れだった。しかし、「感じて吸収」できるようになってからのぼくにとって、「非日常」の光景が、ぼくの「日常」のなかに変換されていくようになったのだ。

旅先のシーンが、ぼくの日常の中に侵入してくる。

それだけの「幅」ができたということだろうか。単純に「歳」を重ねたということか。なんとなく納得しそうだが、決してそうではないと思っている。

大学や会社に所属していたぼくは、「日常」のなかに団体があり、そこの一構成員として存在していた。そんなぼくがひとりで旅をすると、その時点で、すでに「非日常」な訳で、それが例えば「旅」でなくても、好奇心は満たされるだろうということに気づいたのだ。

会社を辞め、ひとりで転々とする「日常」の中で、ひとりで旅をすることは、もはや非日常ではなくなった。あの時、またいでしまった「自分」は、旅先だからではなく、日本での生活の中でもシミラーなことがある。強烈な印象だけを別個にして、身勝手に整理して理解するのを止めると、あの日のカトマンズが、違って見えてくる。

旅をして、見聞きし触れたものを、自分の日常に変換する。
エンターキーを押す要領で、自分の中に侵入してくる。

目の前の日常も、旅先の非日常も、そんな風に変換していけば客観的に判断できる。善いこと、悪いこと。宗教も民族も越えて、もっと大きな共通認識の元で。

そう、旅をするというのは、飛行機にのって「非日常」に出向いて行かなくても、日常の中にある。日常? そんなことすら、もしかするとゼロで、いつも違っている毎日を勝手にカテゴライズしているだけかも知れないという、恐ろしい事実。ぼくは、旅をする。色んなものを見て、感じたものを、単に非日常的な好奇心で終わらせない。旅をして、非日常を日常の中に変換するのだ。

人はなぜ旅に出るのか。ぼくにとってその質問は、つまり、日常をどう生きるのかに似て、だから「人はなぜ生きるのか」ということに近づく。

旅はゴール(目的地)があるから成り立つのだ。そんな話を聞いたことがある(これは、前述の著書「人、旅に出る」の中で、ヴィム・ヴェンダースのインタビューにも記されている)。

ぼくのゴールは死だ。それがどこにあるか不明だ。そこが空間なのか、時間なのかさえ定かではない。であるにしても、そこをゴールにしたのはぼくだ。だから、ぼくは今も旅の途中で、フラフラしていると言われても、浮遊しているだけと言われても、ぼくはひとりで旅をしているのだと思う。旅をしながら、あるいはフラフラ(いや浮遊か?)しつつ、ぼくはそうやって見聞きし触れたものを、一つずつ変換して、それをうけいれるだけの人としての幅を、増やそうとしている。

そんなぼくだからか。旅行のパンフレットを見ても、ガイドブックを開いても、今ひとつ気分が高揚しない。それなら、明日の自分を想像した方が、よほどワクワクする。


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