緩やかな傾斜を転がり、足元で、ビールの空き缶が止まった。
「相変わらず、傾いているな」と、和太郎は思った。
今では、物置と化した屋上のテラス。子供の頃、あんなに欲しがっていた青いスケートボードが、忘れ去られたように立てかけてある。九月も、今日で終わり。生ぬるい夜だ。
和太郎は、目の前に座っている、弟の与楽をぼんやりと眺めていた。二人の間に停滞した生ぬるい空気と、気持ちの中には一切入り込まない視線を感じながら、
「ニセ物」と、頭の中で呟いてみる。
「あ、お疲れさん」
無表情なまま、与楽が智香に声をかける。和太郎も振り返り、「よう」と言った。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」と、智香は笑った。
二人の間の空気が、智香を交えることで動き出す。相変わらずだった。
昔から、和太郎と与楽の間には智香がいて、それで成り立っていたのだ。
「いつもこんな時間まで働いてるのか?」
智香は、倉庫から椅子を取り出しながら、和太郎の質問に答える。
「そうなのよ。他のパートの人は、みんな子供いたりするから、三十分すら残業はしないのよね。だから、ちょっと忙しいと、無条件に残るのは、わたしになるわけ」
「大変やな」
与楽の言葉は、いつもやさしい。
「そんなことより、何時ぐらいに着いたの?」
「成田に着いたのが昼過ぎだから、ここには三時ぐらいかな。ヨラクはもういたよ」
「オレも昼すぎ。びっくりしたよ、トモカが綺麗に片付けてくれてるから」
「片付けてるっていうより、一人だから、散らからないだけよ」
「じゃ、とりあえずカンパイ、するか?」
「そうね。あぁ、おばさんが死んで、もう七年か。ほんとに早いね」
智香は、そう言いながらビールを一気に流し込んだ。
仕事終わりのビール。見ているこちらまで美味しい。和太郎は、そんな智香に微笑みながら、もうすでに、五本目だった缶ビールを流し込んだ。
「にしても、すごい料理ね今年も。ワタロウ、じゃないよね。ヨラクが作ったんでしょ?」
「ウチの畑で採れたもんばかりやけどね」
おいしい、頬に手をやりながら智香が目を細め、確かに旨い、と和太郎がトウモロコシを囓った。与楽は、何も言わずニコニコとしている。
「あれ? ワタロウ、ちょっと太った?」
「なんで?」
「いや、ほっぺたの辺りがほら、ボテッとしてるから」
「してないだろ。大体、ロンドンにいて太れるヤツなんて希だぜ。旨いもんそうないんだから」
「幸せ太りからしらぁ?」
「なんだよ、それ」
「え? 彼女ぐらいいるんでしょ? キンパツだったりしてぇ」
オイオイ、どうなのよ? と言いながら、和太郎の脇腹を智香がつつく。
「はいはい、そうだよ。キンパツでキョニューだよ」
「イヤらしいぃ」
「嘘だよ」
こんな二人の会話を、与楽はいつもように、ニコニコと笑いながら聞いていた。
智香は、近所に住む同級生。だから幼なじみ。三人は、小さい頃から仲が良かった。小さい頃は、と言った方がいいかも知れない。いや、小学生から中学になるまで、と限定して言える。
和太郎が小学校に入ったとき、与楽が養子として家にやって来た。「はい、明日から兄弟だからね」と、まるで新しいカードを与えられたような出会い。
三軒隣で酒屋を営んでいた智香の家とは、家族ぐるみの付き合いだった。右往左往する和太郎よりも先に、与楽の手をグイッと引っ張って「仲良く」なったのは、智香だった。和太郎は、与楽のことを「タンスからはがしたシールみたい」だと思っていた。なかなかくっつかない、くっついたとしても、すぐにペロンと剥がれてしまう。与楽は、家族の中に入り込もうとしなかった。弟、弟、弟。十回呼んだら、ようやく視線だけを向ける。「なんか、ヤな奴だな」と、和太郎は思っていた。
お兄ちゃん。両親からそう呼ばれるようになった。兄弟がどういうものなのか、お兄ちゃんって一体どうすればいいのか。兄と弟。当時の和太郎には、何も分からなかった。が、一つだけ確かな違和感があった。「普通じゃ、ない」と。
普通の兄弟ではないという後ろめたさのようなものを抱え、ある日突然、同じの学年の、隣のクラスに来た弟を考える。ニランセイ。意味はよく分からなかったが、そんな双子なんだということで、みんなが納得することを覚え、和太郎はそれを多用した。
そして、どうにか与楽を受け入れていった。
与楽はどうだったのか。今になっても和太郎には分からない。何しろ、くっつかないのだから。
九月の終わりになってもムシが多く、蚊取り線香が、グルグルと静かに燃えている。智香が話して、和太郎がケチをつける。与楽は、ただニコニコしながら時々、肯定する。去年とさほど変わらない光景だった。
「さすがにロンドンで長く暮らすと、あか抜けるものね。ほら、中学のときなんて、ヨラクばかりがモテてるもんだから、ワタロウ、いっつも拗ねてたもんね。今はそう大差ないわよ。まぁ、基が良いヨラクと、センスが良いワタロウって感じかしら」
腹が、立つ。智香のこういう言い方が、和太郎を傷つける。それを、何も言わず澄ましている与楽が、余計にむかつく。
「相変わらずだな」と、和太郎は自分で自分を鼻で笑った。
一際大きく、玄関のチャイムが鳴り響いた。「は〜い」と、笑いながら智香が下に降りていく。和太郎と与楽の間の空気が、また停滞する。「オレ、出ようか」という和太郎の言葉を遮って、「兄弟水入らず、たまには話しててよ」と、舌を出す智香が、和太郎は憎たらしいと思った。
北海道の田舎で、畑仕事をしている与楽。ロンドンにある、日系の旅行会社で勤務する和太郎。共通点はそう多くない。だからこそ話が弾むという、積極的なやりとりは二人の間にはない。「北海道はもう寒いのか?」「ロンドンであったテロは、大丈夫だったのか?」、そんな短いやりとりが二、三続いただけだった。 彼女はいるのかは、お互い聞かなかった。その質問が頭に浮かぶことさえなかった。
二人静かに、ビールを飲んだ。和太郎は、七年前の今日、母、美奈子が死んだ日のことを思う。ロンドンの大学に進み、入学したてだったこの時期に、智香から連絡が入った。慌ててエアーチケットを手配し、大急ぎで帰国したが、通夜には間に合わなかった。葬儀の後、智香から知らされた言葉が、今でも頭から離れない。
あの日、母はいつものように買い物に出かけ、袋を自転車のカゴに乗せて、家の前の坂道をのぼっていた。突然、小さな交差点で車にはねられた。ねぎに大根、いつも持っていた赤い財布が、妙に綺麗なままだったという。母だけが、ぐちゃぐちゃになって死んだ。「ワタロウに、今度いつ会えるか、おばさん、そればっかり言ってた」
家のカレンダーには、正月まで逆算した日数が、赤いマジックで記されていて、その文字と、智香の言葉が、今でもキリキリと和太郎を痛めた。とにかく、母から離れたいと、そればかり考えていた自分が、申し訳なく思えたのだ。
バタバタと、音を立てながら智香が階段を駆け上がってきた。与楽と和太郎は、ほぼ同時に彼女を見る。
「あのさ、……おじさん、が、玄関に来てるんだ、けど」
おじさん。和太郎には、ピンと来なかった。
「お父さんよ、ふたりの」
父親? 来てる? ぼんやりする和太郎の目の前を、与楽が反射的に走り抜け、屋上のフェンス越しに、下を覗いた。そして、和太郎の方を見る。その視線を感じながら、和太郎は、止まった。全てが停止した。
母と離婚して十三年、父、晶一は、母の葬儀にも顔を出さなかった。今まで、どこで何をしていたのかも、報せてこなかった。少なくとも、和太郎は何も知らない。明らかに、与楽は、和太郎の許可を待っている。会いたがっている。すぐにでも下に駆け降りて、「父さん」とでも言いたいのか? 「オレ」の父親に、そんなに、会いたいのか? と、和太郎は考えていた。
「何しに?」
ようやく出た、和太郎の言葉だった。
「焼香させてくれないか、って」
「そんなの、オレに聞くなよ」
和太郎は、立てかけてあったスケートボードに、意味もなく乗った。
青い色がはげているなと、そればかりに気持ちを向けた。
十三年。おそろしく長い年月のように思えるが、目の前に現れた父は、タイムスリップしてやって来たかのような……、確かに髪は白くなったし、小さくもなった。だけど、それ以外は何も、あの頃のままの父だった。
隣には、亮と呼ばれる息子が、都内でも有名進学校として知られる中学の制服を着て、十三歳にしては大きすぎる身体を、折りたたむようにじっとしていた。父とはまったく別種の、つまり和太郎にも似ていない、端正な顔立ちをしている。
和太郎、与楽、やや向かい合うようにして父と亮。そして、智香が丸い簡易椅子に半分だけ腰掛けている。直線で囲まれた五角形。小さすぎるテーブル。
誰もが口もきかず、ただ静かに、激動だった十三年間を思っていた。父が家を出てから……、今まで。あの頃は、あまりにも突然の出来事だったので、受け入れる前に走り出したという感覚が強いが、もう一度、同じようになるか否かの「選択」を迫られたなら、和太郎は間違いなく「出て行かないで欲しい」と懇願しただろう。そんな気持ちが片隅にある以上、和太郎は、父を許すことができなかった。
ふと、「この人」の有無は、それほど影響がなかったかも知れないとも思った。父はいつも、和太郎の背後にいて、一度も母と和太郎の間や、与楽との間に入り込んではくれなかった。漠然と、「ぼくには父さんがいる」という安心感を与えてくれただけ。しかし、その後ろ盾が、いかに大きなものかを、いなくなってから、思い知らされた。
あの頃の気持ち……、また、沸々と怒りにも似た感情が、わき上がってくる。
父の視線は、さっきからずっと亮に向けられている。それを、ジリジリ受けながら、うつむき、必死に避ける亮がいる。和太郎は、そんな二人を上目遣いでのぞき見て、ふと、与楽と目があってしまう。「……一体、何しにきたのだろう」。
「この子も、あの時分の『きみたち』と、同じ年齢になったよ」
ドキッとした。随分と沈黙が続いた後、父が突然口を開いた。そうか、と和太郎は思った。「父さん」と呼んでいいものかどうか、どういう関係を演じれば良いのか、それに気を取られていた。今の父と父の息子、亮。その二人に、自分の存在を知らしていいのか。親戚? 従兄? それとも……、などと思案していたのだ。「きみたち」と呼んだ父と、距離を感じた。そうしたら急に、「あ、そうか」と、何もかもが理解できた。
父は、亮のために、ここにきたのか。
父の視線を必死になって無視する亮。ツルツルの顔が、赤くなっていた。この子は、一体、どこまで知っているのか。いつもなら、沈黙を恐れるように埋めてくる智香も、さっきから、下を向いたまま押し黙っている。
「中学生?」
和太郎は、思い切って聞いてみた。父、にではなく、亮に。
「恥ずかしい話だけど、一学期の途中から、学校にいけてないんだ」
父が、応えた。
「そうなんだ。何か、あったの?」
智香が尋ねる。
「あ、いや。どうも、知ったらしいんだ。ワタシに、亮以外の息子がいること。中学に入って間もなく、クラスメイトの誰かが、しゃべっちゃったらしいんだ。家内が言うには、それが、学年中に広がって、どうも標的にされてるみたいなんだよ。そういう、『影』みたいなところが、一切ない家庭ばかりだから、亮の学校は」
影、か。和太郎は、自分の存在が「影」になっている別世界があることを知って、ひどくショックだった。勝手に造って、その中で、勝手に「影」呼ばわりする。
父の、いや「この人」の、本性を知ったような気がした。
「それで、『きみたち』が、お母さんの命日に毎年集まっていることは、智香ちゃんから聞いて知っていたし、ヨラクからも、何度か手紙で知らされていたから。迷惑だろうとは思ったが、こいつに、一度会わそうと思って来たんだ」
和太郎は、智香を見た。智香は、慌てて目をそらした。
「会ってみれば分かると思ったんだ。なんていうか、何かが変わるって期待もしてたんだ。ただ、得たいの知れないものを見るように、『きみたち』の事を想像して、憎むんじゃなくて、こう、兄弟……というか」
「変わらないよ。何も、変わらない」
和太郎は、父の言葉を遮って、強い調子で言い切った。
“得たいの知れない”という言葉に、もしかすると、強烈な拒否反応を示したのかも知れない。何を言っているんだこの人は、と怒りが爆発したのかも知れない。きっとそうだ。
「会いたく、なかったよ」と、和太郎は付け加えた。
この歳になって、世間のことがある程度分かった今になって、また、急に「誰か」のお兄ちゃんをさせられるのは、御免だ。
「学校は……」
それまで黙っていた与楽が口を開いた。
「行きたくないなら、行かんでもいいと思う。そやけど、ここに、こうやって来れたんやから、きっと学校にも行けるよ」
顔を上げた亮が、与楽を見つめた。
「オレなら、絶対来れへんかったと思う、から」
*
母のことを考えていた。いつもなら、一通り食事を終えると、きまって智香が話し始める。毎年同じ、母の話。綺麗だった、チャーハンが上手かった、声が大きかった、早く死にすぎた、と。だけど、今年は違う。父と亮がやって来たことで、「母のハ」の字も出ない。和太郎の頭には、みんなが話さない分、余計に母のことが浮かんだ。
まだ、父と母の三人で暮らしていた頃のこと。ある日、父がブランコを買ってきた。それは、和太郎が欲しがった訳でも、仕事帰りにちょっと気が向いて買った訳でもなかった、黄緑のブランコ。大きな段ボールを屋上に運び、もうとっくに日は落ちているのに、口笛を吹きながら父は組み立てた。和太郎も側に座り込んで、じっと見ていた記憶がある。
「父さんな、小さい時、これが欲しかったんだぁ。団地だったから諦めてたけど、ここならほら、場所も充分だろう」
口笛を吹きながら、父はそんなことを言っていた。公園にあるブランコは、和太郎も好きだ。これで、順番待ちをしなくても乗れるのかと思うと、思わず「早く、早く」と、組み立てている父を急かした。
翌朝、目を覚ますとでっかいブランコが、屋上の強い風にも微動だにせず立っていた。和太郎は、嬉しくなって飛び乗った。幼稚園に遅れるから急ぎなさいと、母に注意されてもなお、ギーコギーコ揺られていた。なぜか、あの朝は鮮明に覚えている。
それから、和太郎はあのブランコで、何度泣いたことだろう。
ちょうど、今テーブルが置いている辺りに、そのブランコはあった。中学の頃だろうか、何かのついでに粗大ゴミとして処分したが、妙に懐かしく、もう一度乗ってみたくなった。
「話したいことがあったら、言ってくれないかな。お母さんは、好き? 叩いたり、しない?」
ブランコに乗って泣いている和太郎に、メガネをかけたおじさんが尋ねる。今思えば、おじさんは児童センターの職員だ。母が自ら電話をかけ、その度に同じおじさんがやってきた。彼の笑顔が、とても優しかった。そんな風に微笑む「人」に対して、和太郎は拒否反応を示し続けた。それは、今になっても変わることはない。心のどこかで、― 笑っている人は、きっと叩く ― という、あの恐怖が蘇ってくるからだ。
母は、和太郎をさんざん叩いた後、決まって優しく、そして笑いながら抱きしめてくれた。また、何かの拍子に豹変して叩き始める。和太郎がいくら泣いても、いや泣けば泣くほど、「静かにしなさい」といって叩かれた。その後の笑顔にホッとするより、和太郎には、笑われた後には、叩かれるという、恐怖が植え付けられた。
逃げること、刃向かうこと、誰かに言うこと。そのどれもを許さない「母の笑顔と抱擁」。息は荒く、うっすらと湿った母のシャツ。ささやくように言った「どうしてお母さんの気持ちが分からないの」という言葉。和太郎の脳裏には、今も焼き付いている。
母はあの頃、「分かってちょうだい」とよく言っていた。和太郎には理解できない「こと」を、分かって欲しいと願う。その願いに応えられない和太郎に、暴力をふるう。
じっとしていようと思った。これは、明確な意志をもって、五歳の子供が決意した避難策だった。大きな声を出さない、ご飯を残さない、こぼさない、早く食べる。買い物に出かけるときは、後れないようについていき、わがままを言わない。何か欲しいかと聞かれれば、一番手頃なものを選ぶ。母が納得するような手頃なものを。
二年が経ち、小学生に上がる頃には、和太郎は笑えない子供なっていた。
「何を考えているのか分からない」
担任の先生が、母を学校に呼んでそんなことを言った。和太郎も隣に座らされていた。職員室の、熱いほどのストーブの横。染みのついたソファーに座って。コーヒーの匂いが、とても嫌だった。
母は、「私もそれが気にかかっていた」と言った。それを聞いた先生の表情が、一瞬だけ変わった。「え?」という驚きの声さえ、聞こえたように思う。
次の日から、和太郎は毎日保健室に呼ばれ、担任教師と養護教諭に挟まれて、あれやこれやと質問攻めにあった。あの、メガネのおじさんと同じことを聞く、「お母さんは叩いたりしないか」と。和太郎は、決まって首を振る。どうしてそうしたのか。なんで嘘をついたのか。あの頃の気持ちは、今の和太郎にすら分からない。
きっと、「変えることなんて出来ない状況を、これ以上悪くしたくはない」と、自己防衛をはっていたのだろう、と思う。もっと強く思っていたのは、「早く帰らせて欲しい」ということ。帰りが遅くなる日が続き、学校で何をやっているのかと母はよく尋ねた。そして、学校が終わったら、さっさと帰ってきなさいと言っていた。知らない人が来て、どこかに連れて行かれても知らないわよ、とも言っていた。
フッと、和太郎は鼻で笑う。
「母さん、知らないだろ。あの頃のオレは、誰でもいいから、どっか連れてってくれ、って思ってたんだよ」
ちょうどその頃から、父と一緒に夕食を食べることがなくなった。それまでは、父の帰りを待ってから、三人で食卓を囲み、父がいることで、その存在を確かめることで、「母と、二人だけではない」と安堵していた和太郎にとって、大きな変化だった。いつ何時、降りかかってくるか知れない「恐怖」に、ただじっとして耐えるだけの日々だった。
与楽を引き取る、引き取らないの話は、今から思えばあの頃にしていたのだろう。
父が帰り、母と二人でこそこそと話している声。扉一枚向こうで交わされている、両親の真夜中の会話。当時の和太郎は、全くその意味を理解していなかったが、今になって、つじつまのパズルを当てはめていくと、そういうことになる。
忘れもしない雨の水曜日。学校から戻ると、与楽がいた。
テーブルに座って、うつむいている同じ歳の男の子。「あ、ワタロウ。おかえり」、母は笑っているように見えた。
「お父さんが帰ってきたら、ご飯にしましょうね」
いや、母は笑っているんじゃない、と思った。
「えっと、この子はヨラク。それで、この子がワタロウ。二人は、今日から兄弟だからね。ワタロウの方が、誕生日が早いからお兄ちゃんなのよ。しっかりしてよ」
母は、あの時の母は、笑っていたのか? 今でも和太郎は、誰も応えはしない、そんな問いを投げかけることが多い。
「よろしくね」
和太郎は、自分でも驚くほど咄嗟に言った。
与楽は何も言わなかった。ただ、うつむいているだけで、ただ、じっとしていた。
その後、父が帰ってきて食事をしたことは覚えているが、与楽がどうして家に来たのかなど、詳しいことは一切聞かされていない。すでに、「兄弟」という枠が用意されていて、「四人で家族」という、絞り出された結論の中で、あとは進むしかない。
父にも母にも、そんな想いがあったに違いない。
同じ部屋で寝起きして、一緒に学校へ行き、そして帰ってくる。兄弟、ってこういうことかと、何となく実感したのはしばらくしてからだった。
ボソボソとではあるが、与楽は次第に話すようになった。母の実家に行った時、みんなが話す言葉と同じ。与楽は、カンサイベンだった。
無口な関西人。これは、智香が与楽に言った最初の言葉だ。学校からの帰り道、「それにしても二人は似てるわね。さすがは兄弟よ。じめ〜っとして、ぜんぜん話さないんだもん」
智香のいたずらな笑顔を見て、和太郎は、妙に恥ずかしくなった。
「そんなことないよ、オレは話すよ。いっぱい、いっぱい、い〜っぱい」と言いながら、走り出したのを、覚えている。
和太郎は、テーブルに肘をついて呟いた、「俺はさ、あの頃、嬉しかったんだよ。助かった、って思ったんだよ。家の中で、母さんと二人きりじゃなくなることがさ」
関西にある施設で育った与楽は、その場所を「ホーム」と言っていた。そして、ここを「東京ホーム」と呼んで区別する。「東京ホーム」の方が、「ホーム」よりも周りに店が多いとか、電車がうるさいとか、狭い、とか。「アホか」、そんな与楽の口癖も、和太郎にすぐにうつった。
競走していたのかも知れない。和太郎は、与楽が来てからよく話すようになった。クラスを笑わせる存在。元気の象徴。もはや担任教師と養護教諭に挟まれて、「気をつけられる」生徒ではなくなっていた。母の暴力も、なりを潜めていた。その分、嫌というほど耳にしたのが、クラスメイトたちからの与楽の「陰口」だ。「可哀想だと思って、せっかく話してあげようとしてるのにしかとする」「係の仕事をしない」「すぐにアホっていう」、などなど。
そんなヒソヒソ話に割って入り、和太郎は、「まぁまぁ、あれが、カレのスタイルだから」と、意味もよく分からず言い回っていた。ただ和太郎は、与楽に居なくなられることが、怖かったのだ。
そういう和太郎も、思っていた。与楽は話しにくいと。智香と三人でいると、どうにか会話が成り立つが、二人だけになると、全ての会話がぶつ切りになる。考えて考えて、ようやく用意した一つの質問に、たった一言の回答があるだけ。同じ部屋にいても、喧嘩などなく、そもそも会話すら、あまりなかった。
与楽が来て半年ほど経った頃だったか。「東京ホームは気に入った?」と、何気なく聞いた和太郎の質問に、「なんか生ぬるくて気持ち悪い」と、与楽が答えたことがある。
「え?」と聞き直したが、それ以上は、何も言わなかった。
冷たくもなく、暖かくもない。気持ち悪い生ぬるさ。あの頃、家では父も母も、確かに変だった。心から生まれるのではなく、口先だけで整えた言葉で繋がりを保ち、引っ張ったり、緩めたり、はみ出さないことだけに、注意しているような日々。再び父の帰りを待ってから食べることになった夕食ほどに、冷めかけていた。
二年、三年と過ぎ、与楽が当たり前の存在になるに連れ、大方のことは普通になった。孤児という言葉も、その意味も理解できるようになると、与楽があまり笑わない理由も分かるような気がした。高学年になると、「いじめ」のようなこともあった。与楽のかばんはいつも汚され、体操服が無くなり、教科書や机には、落書きがされていた。
だけど、泣いたり、喚いたり……与楽は、決してそんなことしない。決まって淡々と毎日を過ごしていた。
ある日、学校が終わると、いつものように与楽が和太郎の教室の前で待っていた。いつもそうやって一緒に帰る。同じクラスだった智香が、先に教室を出て、与楽と話していた。その二人の横を、和太郎は早足で通り過ぎたことがある。与楽と一緒だとマズい、和太郎はそう思ったのだ。
「ちょっと、ワタロウ、ワタロウ」と、呼ぶ智香の声が聞こえる。
それも無視して、和太郎は歩いた。早く歩いて遠ざかろうとした。智香は何度も呼ぶ。
と、「いいよ。智香もいいよ。ボク、ひとりで帰るから」
そんな与楽の声が聞こえ、和太郎は泣きたくなった。すごく、腹が立った。自分に。御免、言えないまま、次の日は与楽と一緒に帰った。
「ええの?」と聞く与楽が、可哀想だと思った。
言うなと口止めされていたが、和太郎は、我慢しきれず母に告げたことがある。与楽がいじめらていると。
「みんな、ヨラクにはお父さんもいなし、お母さんもいない。可哀想なヤツだって言ってる。だから、話をしたら可哀想がうつるって」
ぬるい食事の時だった。それを聞いた母が、「お父さんならここにいるじゃない。ヨラクのお父さんは、ちゃんといるじゃない」と和太郎に言った。与楽はずっと下を向いていた。「そうだよね。明日、学校いったら、みんなに教えてやるよ」と、和太郎は笑った。それが、その場を一番うまく収める方法だと、小学生なりに知っていたのだ。
与楽のお父さんは、ちゃんといるじゃない……。
何、という訳ではなかったが、何となく、「妙だな」と和太郎には引っかかるものがあった。その晩、二段ベッドの下で寝ている与楽が、一言だけ、「言うなよ」と言った。「ありがとう」とも聞こえたが、あれは、和太郎の空耳だったのかも知れない。
*
さっきから、父は与楽の話に興味をもっている。
「北海道は、街を一歩出れば自然ばっかりで何もないよ。そこが好きなんやけど」
「自然がないから無理に造ろうとしたり、自然しか無いって言ってみたり。日本も贅沢になったな」
父は酔っている。その姿は、明確に弱っていると、和太郎は思った。隣で亮が眠そうに欠伸する。その事に、父は気付かない。父は、昔から、本当に気付かないのだ。
和太郎は、ぼんやりと「変わってないな」と思った。
智香が、黒豆の枝豆を湯がいて上がってきた。その器を手に取り、父が懐かしむ。
「アイツ、こういう器が好きだったからな」
「おばさん、骨董市とかによく通ってましたよね」
智香も懐かしむ。
「和太郎っていう名前も、アイツがぜったいに、って言って付けたんだ」
欠伸をしていた亮のことが気になって、和太郎はその会話の中に入れなかった。
「女の子だったら、どうするつもりだったのかしら」
「早いうちに男だって分かってたからな。まぁ、女の子なら、和姫とかそんなところだろうな」
「与楽っていうのも珍しいよね」
突然、亮が口を開いた。みんなをドキッとさせる。
「ああ、そうだな。母さんは小さい時から、そういう家で育ったんだ。覚えてるだろ、母さんの実家の居間。和物で溢れてただろう? 血だな、ありゃ。姉妹そっろってよく似てたよ」
質問の答えになっていない。和太郎は、完全に酔っぱらってしまった父の、酔っぱらった回答を聞きながら、思い出した。
*
和太郎の通った中学には、一学年に一クラスしかなく、なので与楽と同じ教室で学んだ。名前については、あの頃が一番ひどく馬鹿にされた記憶がある。和太郎に、与楽。永山と名字で呼ぶ者は、誰一人いなかった。
担任は、大学を出たばかりの若い女性で、名簿に並ぶ和太郎と与楽という名前に飛びついた。
「珍しい名前だけど、ワタシは好きだな。逆にこういう古いのが、今はカッコいいのよね」
自分の名前が嫌で嫌でしょうがなかったあの頃の和太郎に、その言葉は鋭く刺さった。おそらく、担任は何気なく言ったのだろう。「カッコいい」という曖昧な表現を、その言った本人の温度のまま、生徒が受け取ると疑わなかったのだろう。しかし、案の定、それはそうではなかった。和太郎に与楽。二人ワンセットで「からかい」の対象になった。「ワタシは好きだなぁ〜、カッコいいわ〜だってよ。ヒューヒュー、おまえら、古くてカッコいいぞ〜」
与楽はあの時も、相変わらず無表情だった。何もないかのように、淡々と毎日を暮らしていた。和太郎は、真っ赤になって怒った。それを言うヤツらよりも、むしろ与楽に、何もいわず平然としている与楽に、真っ赤になっていた。
急に身長が伸び、膝を曲げるようにして二段ベッドの下で眠る与楽に、和太郎は言ったことがある。「なんで黙ってるんだ。腹たたないのか?」と。
「そのうち飽きるよ、アイツ等も。万が一、飽きずにずっとアホみたいに言うてても、中学出たら別れるんやし。腹立つだけ無駄、無駄」
与楽の無表情が、少しだけ怖かった。
あの頃の与楽の口癖は、「無駄、無駄」だったっけ。
「それに、オレたちの名前は、変えられへんやろ?」と言ったきり、眠った。
父が母と離婚して、家を出る一ヶ月ほど前の事だった。
父が家を出た。予兆は確かにあった。小学生最後の年、和太郎と与楽が修学旅行から戻ると、家の中が滅茶苦茶になっていたことがあったのだ。食器棚の皿やコップは割れ、ソファに座る父のシャツには、何かの汁がかけられていた。母は、テーブルで頭を抱え、泣き疲れた顔。荒れに荒れた後の静けさ。ぶら下げていたお土産の、京都の「おたべ」を、和太郎はただただ眺めていた。
帰りの新幹線が大幅にダイヤを乱し、予定時刻を五時間も遅れて学校に到着した。心配した家族が体育館に集まり、生徒を出迎えた。和太郎も、来てるだろうと思って、母の姿を探したが、そこにはなく、与楽と二人で走って帰ったのだ。
「心配しているだろう」と、思って。
玄関を開けると静まりかえった滅茶苦茶の後。お土産を、テーブルで泣いている母の横に置いて、ただいまも言わず、二人は自分たちの部屋に入った。
あの晩、和太郎も与楽も、何も話さなかった。
それから一年も経たずに、父は家を出た。毎朝仕事に出かけるような感じで。それはとても普通に、とても、自然に。もう戻ってこないという感覚が、頭で分かっていても、和太郎の心には、実感がなかった。
ヒステリックになることにも疲れる程、憔悴しきった母は、あの「最後」の一年をどんな気持ちで暮らしていたのだろう。生ぬるさ、この東京ホームに充満した「ルール」のようなものが、完全に崩壊した一年だった。
「御免ね、守れなかった。お母さん、家族を壊しちゃった」
父を玄関まで送り、テーブルで朝ご飯を食べていた和太郎と与楽に、母はそう言った。
「壊れた」
和太郎は小さく呟いた。その言葉に、母は背中で、微動するその背中で、何かを言ったような気がしたが、和太郎には分からない。
「お母さんじゃないよ、壊したのは、お父さんだよ」
与楽が母に近寄って小さく告げた。中学一年の、暑い夏の日だった。
からかいは飽くことなく続けられた。「壊れた家」を出て、学校に行くと腹を立てる。中学三年間、和太郎には途方もなく長く感じられる時間を、そんな未来を、「無駄、無駄」と諦めて平然と暮らすのは、耐えられない。悔しくて、情けなくて、悲しかった。
ある時、体操服のパンツに、マジックで大きく「和太郎」と落書きされたことがあった。和太郎はその体操服を抱え、犯人捜しに躍起になっていた。すると、からかっていたヤツらのリーダー格の竹田が、突然、謝ってきたことがある。
「それ、斉藤がやったらしい。俺からちゃんと言っとくから、許してやってくれ」と。
あの時だ。あそこで自分が、キッパリとした態度を取っていれば……、後悔してもしきれない和太郎は、思い出すだけで辛い。
竹田は、さらに続けて言う。
「これまで色々言ってすまなかったな。オレら、本当は永山のこといじめるつもりなんてないんだよ。お前じゃなくて与楽。あいつにはきっちり分からせないと、このまま調子に乗られたんじゃ示しがつかないからさ。な、だから、お前は今日からオレらの仲間だ。いいだろ、分かるだろ? オレの言ってること」
一学年に一クラス。男は二十二人。そのうち十五人は竹田の「仲間」だった。その、仲間に入れる。和太郎はホッとしてもいた。よかった、とも思っていた。
それからというもの、与楽に向けられる「からかい」は「いじめ」になった。
一緒に暮らしてるだけで、本当の兄弟じゃないんだろう? 赤の他人なんだし、お前と与楽じゃ全然似てねぇし、永山もかわいそうだよな、あんなのと一緒に暮らして。
初めこそ、和太郎の中には、そんな会話に対してメラメラと煮えたぎるものがあったが、簡単に聞き流すうちに、その感覚が麻痺していった。この囲まれガンジガラメにされた「仲間」の中で、勝手に話され、想像され、そしてどんどん創られていく与楽という像。実際とはかけ離れた虚像であったが、和太郎も、いつからか同調してしまうようになった。
仲間との会話が与楽のことになると、一緒に暮らす和太郎は中心にいることができる。その立場を守るように、与楽の像を、嘘の姿を、率先して創り上げたこともある。今から思えば、あの頃の「仲間」うちには、興奮して話すに値する未来も、暢気に広げながら夢見る希望も、なかったように思う。ただ、退屈を紛らわすために、ただ、薄っぺらい仲間という枠を維持するためだけに、標的を設け、そこに焦点をあわす。そうしていないと、群れは群れとして維持できなくなったのだと思う。
智香は、小学生の頃のように、和太郎と与楽の三人で登下校をしようとした。
しかし、和太郎がそれを拒んだ。智香と与楽。二人が並んで下校する姿を見て、二人が「付き合っている」と噂になったのは、自然の流れだった。
中学二年の春、智香の父親が亡くなった。
父一人、娘一人で育った智香の悲しみは、和太郎にも痛いほど分かり、その空白を埋めようと、和太郎は何か言葉を探した。それも見つからないまま、葬儀に参列した和太郎が見た智香は、急に大人になったような、毅然とした態度だった。葬儀の後、家の酒屋を片付ける時も、神奈川に住む親戚からの申し出を断って一人で東京に残ると決めた時も、智香には強さを感じた。
母は、そんな智香をよく家に招いた。夕食を一緒に食べ、休日には二人して買い物にも行っているようだった。母がパートで遅くなる日は、夕食の買い出しから料理まで、智香がすべてやってくれ、それを四人で食べる。いつからかそれが当たり前になっていった。
智香のこと。和太郎の中で彼女の存在が大きくなり、同時に後ろめたさもあった。
与楽に対する態度、ヘラヘラと竹田たちに同調している自分。和太郎は、智香に対して好きという感情を抱きながら、それを告げることは出来ないということを知っていた。
智香は何も言わない。小学生の頃、教室の前で待っていた与楽を素通りして、一人で帰ろうとした時、「ワタロウ、ワタロウ」と呼び、その態度を否定した智香は、もういなかった。大人の横顔で、ただ、「和太郎には和太郎の考えがあるんでしょ」と言っているような、いやもっと強く、「それが和太郎なんでしょ」と呆れられているような。
好き。言えないまま強がって否定してみたり、そんな感情を打ち消してみたり。だけどダメだった。和太郎は、本当に智香の事を好きになってしまい、だけど言えない状況が、よりその気持ちを強固にしていく。悶々とする日々、毎日四人で囲む夕食の食卓。
ふたりが付き合ってることは絶対ないよ。和太郎は、智香と与楽の噂を否定するものの、疑わせるような二人の「近さ」を感じることもあった。智香は与楽が好きなんじゃないか、と。二人はもしかすると、本当に付き合っているのか?
そう思えば思うほど、和太郎は与楽が鬱陶しくなった。だけど、二人には聞けない。
そもそも、与楽さえ来なければ、うちにさえ来なければ、こんなことにはならなかったのだ。和太郎は、心の中で増していく、複雑で、勝手で、都合の良い与楽に対する恨みに、すがるようになっていた。
嫌だった。和太郎は自分が嫌で嫌でしょうがなく、竹田たちと一緒にいるのが嫌で、だからといって与楽と智香の間に以前のように入っていくのも、そして、母のいる家も。ぜんぶ、嫌だった。
出たい。まず家を出たい。そして、遠くに行きたい。
中学三年の春。進路を決める時期になって、和太郎は長野県にある全寮制の高校を志望した。その理由は、現状から少しでも離れたかったからであるが、ちょうどいいことに、その高校には志望を納得させるだけの要素が揃っていた。当時にしては珍しく、全ての教員が外国人で、国語以外の授業を英語で行うというスタイル。イングリッシュ・タウンと名付けられた場所にあり、町全体が日本の中に出来た外国をイメージした作りになっており、これからの国際人を養成するというのを謳い文句に人気を集めていた。
猛勉強が必要だった和太郎も、「終わり」の見えた中学時代という残り時間を、ただ勉強だけに集中した。群れからはみ出しても、あと一年もない。家でも学校でも、その後の未来のために、全てに耳を塞いで過ごした。
冬だったと思う。和太郎は一ヶ月後に高校受験を控え、早速と地元の高校に進学を決めていた与楽が、突然、洗面所で大暴れしたことがある。
和太郎よりも十センチ近く背の高い与楽を、母と智香が必死で抑えようとしていた。慌てて階段をかけ下り、与楽に飛びついた。飛びついて止めようとした。が、与楽は止まらない。鏡を割り、横に置いてあったドライヤーを放り投げ、大声で叫びながら……、泣いていた。
必死に止め、何発か殴り、ようやく与楽は落ち着いた。血が出てるな、と思いながら、和太郎が自分の右肘を眺めていると、母と智香の泣き声も聞こえる。
「何があったの?」
和太郎は、カラカラに乾いた声で聞いた。母も智香も、うつむいたまま。
「ごめん」
与楽が言った。
「ワタロウ、ほんまにごめん。オレやな、この家出ていかなあかんの、オレやな。そやのにオレ……、オレ、なんでこの家きたんやろ。なんであん時、ちゃんと行かへんって言えへんかったんやろ」
和太郎の中に、どこか確信めいたものがふっと浮かんだが、それをかみつぶした。
「なに言ってるかわかんないけど、とにかくさ、これ、片付けないと」
何があったのか。自分の部屋に戻り、和太郎は思った。何かがあった。それは確実に巨大でおそろしい何か。しかし、それに正面から立ち向かい、時間を費やして対処する気持ちは、あの時の和太郎にはなかった。
「とにかくもう少し。もう少しで、こんな家から出られる」
そう、思っていた。
*
「高校時代かぁ。もう十年経つんだな」
和太郎は大きく息を吐いた。少しずつ酔いがまわってきている。通りから溢れる車の音、ぼんやりとした心地よい街の声。「東京か」。今、暮らしているロンドンとそう大差はない。だけど、なんとなく違う。和太郎は、父が与楽にぶつける質問を聞き流しながら、一体「何」が違うのか考えていた。英語と日本語? いや、言葉の問題ではない。湿度? いや、今夜の東京は、ずいぶん涼しい。
「で、和太郎はずっと向こうに住むのか?」
突然、父が与楽から和太郎へと、質問の相手を変えた。
父は、自分がロンドンにいることを、知っていたのかと思いながら、
「さぁ、まだ決めてないけど。今のところ戻ってくる予定はないよ」と、答えた。
キンパツでキョニューの彼女がいるもんね、という智香の言葉は無視した。
無視しながら、はっと気付いた。救急車だ。このサイレンの音が、ロンドンとは違うのだ、と。
夜の音の中で、一際目立つサイレン。どこか、間延びしたような、東京のサイレン。
「だけど、ロンドンなんて物騒じゃないか。あの地下鉄のテロとか、大丈夫だったのか?」
与楽と同じことを、父も尋ねる。
「東京にいたって同じでしょ」
「日本なんて、安全なもんだよ。まぁ、暑いのぐらいだな、問題は」
「向こうじゃ結構、オウムのサブウェイ・アタックとか、関連して報道してたよ」
「ああ、あったな。あの事件も、被害が大きかったからな」
あの事件。あの頃はすでに、父とは別々だったのかと、和太郎は思った。
「みんな……、被害者なんやと思う」
与楽が、ポツリと呟いた。
「どういう意味?」
智香が聞く。
「いや、ようわからんけど、加害者もどっかでは被害者っていうか。例えば、信じてる神様の被害者、やったり」
「そんなさ」
和太郎は持っていたグラスを置いて、与楽に言う、
「どこをどうとっても、完璧に加害者なんてヤツいないの当たり前だろ。どんな加害者だって、何かしらの被害者的なとこはあるよ。そんなこと言ってたら、実際に殺されたヤツはどうなるんだよ。傷を負わされたヤツは誰を恨むんだよ。傷を負わせた、負わされた。そのこと自体で、加害者と被害者をきっちり分けていかないと、始まらないだろ」
気持ちが吹き出すように、和太郎は、少し大きな声を張り上げた。
*
高校時代の和太郎は、自分が被害者であることを嘆いていた。そして、加害者である父を恨んでいた。母に対しては、心のどこかに「恐れ」が残っており、それは力の強弱ではなく、もっと深いところに、いつまでも消えないしこりのようなものだった。
志望した高校に合格した和太郎は、家を離れて寮に移った。
寮では、二人で一部屋の相部屋だと聞いていたので、最低限の物だけを段ボール箱に詰める。小さく三つ並んだ自分の荷物を見たとき、和太郎は、胸の辺りの酸っぱさと、頭の端でぼやける期待を感じていた。
出発の朝、「それじゃ」と、和太郎が言うと、母は、顔をクシャッと崩して「がんばなさいよ」と頭をゴシゴシ撫でた。和太郎は、別れだと決めた。始まりだと思った。
寮やイングリッシュ・タウンでの生活は、想像したほど辛くもなく、期待したほど楽でもなかった。寮長の三年生に案内され、部屋に行くと、すでにリンはベッドの上で漫画を読んでいた。
「リン、お待ちかねの相方が来たぞ」
そう言うと同時に、寮長は、リンの上に飛び乗った。
「痛い痛い痛い。それに、重い〜。寮長、ジブンの体重考えて下さいよ」
「永山君。そんなびっくりしたまま突っ立てんと、はよ、入り」
寮長に呼ばれて部屋に入る。
「えっと、彼は、リン・フーカイ君。で、彼が永山和太郎君。二人は今日から同部屋だから。えっと、永山君、誕生日いつ?」
「え、あ、四月です。四月二十九日」
「リンはいつやったっけ?」
「十月です」
「じゃ、この部屋のリーダーは永山君な。年上やから」
和太郎は、与楽が来た日のことを、学校から帰ると、テーブルにちょこんと座っていたあの日の与楽を、思い出していた。
「よろしく、リーダー」
リンが手を出した。よろしく、と小さく呟くように、和太郎はその手を握った。
寮長の野々村さんは、柔道部の主将で、この春から奈良の大学に進学が決まっているらしい。なんでも、その大学の柔道部は元オリンピック銀メダリストが監督を務める名門校らしく、野々村さんも、次のオリンピックへの出場を狙っているのだという。体重は百キロを超える巨漢で、ブヨブヨではなくゴツゴツしているので、上に乗られるとたまったもんじゃない。リンは、和太郎が荷物を整理している間、ずっと話していた。
「じゃ、もうすぐいなくなるんだ?」
「そう。ほんまはもう用はないらしいけど、新入生の顔が見たいから残ってるねんて」
「だいぶ前からこの寮に来てるの?」
「オレ? えっと、十日前かな。卒業式が終わってすぐ来たから」
つい一時間前まで、会ったことも話したこともない相手とは思えないほど、リンはスーッと和太郎の中に入ってきて、和太郎も、なぜか自然に話ができた。
リン君? フーカイ君? リン・フーカイ君? なんと呼べばいいのか、和太郎が考えていると、
「ワタロウは、東京から?」と、リンが先に名前で呼んできた。
「うん。そっちは?」
「オレは滋賀県。京都の横で、琵琶湖があるとこ」
「だから関西弁なんだ」
「中国人やけどな」
隣の部屋にも新入生が到着したらしく、寮長がスリッパの音を激しく鳴らしながら案内してきた。
「あ、また来た。ちょっと、オレ、見てくるわ」
リンが部屋を出て行き、和太郎は、フーッと息を吐きながら、ベッドに寝ころんだ。始まる、始まる。心臓の動きが、まるでそんな風に刻んでいるように思えた。
リン君。和太郎が初めてそう呼んだのは、初日の夕食が終わった後。翌日に入学式を控え、始めて全寮生が揃った。オリンピックを目指す寮長が、明日から寮長になるジェイコブを紹介し、ジェイコブは英語で挨拶した。その外見からは想像出来ないほどに、巨漢の寮長は、流暢な英語で冗談を言ったりする。
その驚き、つまり「英語があんなに話せるなんて思わなかった」と、リンに告げようと、和太郎はベッドで背を向けているリンに呼びかけた。
「リン……、くん」
「ん?」
「で、いいよね? リン君て呼べばいい?」
「そんなん好きにして。なんて呼んでもいいし、そんな確認は、恋人同士だけにしとこ」
「下の名前、なんだっけ?」
「フーカイ。リン・フーカイ。っていうても、ついこないだ、中学卒業するまでは日本名やったから、まだピンとこうへんけど」
「リン君はさ、英語とかって話せるの?」
「オフ・コース。サヨナラ、サヨナラ、さよな〜あらぁ〜、ってな」
「何、それ?」
「あれ? 知らん? オフコースのヒット曲」
「オフコースを……知らない」
「そっかぁ。うちのおかんが、大ファンやからな」
「お母さんって、中国の人、なの?」
ドキっとした。言ってはいけないのかな、と和太郎はなぜかそう思った。
「そう。まぁ、日本生まれの日本育ちやけどな」
「今度の寮長って、アメリカ人だよね」
「らしいな。なんか、親の仕事で日本に来て、アメリカン・スクールと間違って入ってきたらしいで。噂やけど。まぁ、ものすごいええ人やわ」
「話した?」
「うん、おとといまで、そこで寝てたから」
「そうなんだ。英語で?」
「う〜ん、なんとなくのな。手とか足とか使って話してた」
「通じるんだ?」
「そらそうやろ。そういうのは、言葉の問題じゃないところが大きいから」
「リン君はさ、日本語と英語と、それから中国語も話せんの?」
「ちゃんとしゃべれるのは日本語だけ。いうても漢字は、あんまり書かれへんけどな」
「あかんやん」
「そやねん。漢字検定ってあるやん。あれ、三級おちたからな。って、ワタロウ、いま、関西弁になってたで」
「うち、母親が関西だから。一緒に住んでたヤツも関西弁だったし」
「そうなんや。なんか安心したわ」
リンがあの時、どのぐらい理解したのか。一緒に住んでたヤツが関西弁という、この奇妙な説明を、深く掘り下げることはなかった。同時に、リンの、深い部分を和太郎は注意深く避けて会話をした。
全校生徒の半数が日本人で、あとは南米やアジア、欧米からの在日外国人だった。入学して間もない頃は、スペイン語を話す者同士や、中国語、英語と、それぞれに完全にグループ化していたが、授業が進み、ランダムに組まされたペアで週一回、研究発表をする「プレゼン」の準備などを繰り返すうちに、英語は意思疎通のツールとして、自然に身に付いていった。明るかった。明らかに、中学までとは違う空間が、真っ白く反射して、笑って暮らせる毎日が、そこにはあった。
和太郎は、リンとの相部屋も、その眩しいほどの学校生活も、本当に楽しんでいた。
梅雨が明ける頃には、寮の中で気の合う友だちも何人かできた。和太郎の部屋は、そんな寮生たちのたまり場となり、その大半はリンが連れてきた者だったが、夜遅くまで、色んなことを話した。
くよくよするとか、めそめそ泣くというのが、最も似合わないだろうブラジル人のセルラは、日本の公立中学に通い、そこでいじめられ、死のうとまで考えたことがあったという。俺もそうだ、私もおなじよ。目の前で笑っている者たちが、次々と「学校に馴染めなかった体験」を話し出す。
「オレもだよ。日本人のオレでさえ、学校には合わないな、って思ってたぐらいだから」
和太郎は、そんな会話の中で、つい言ってしまったことがある。
日本人でさえ。これがどう受け止められたのか。言った後で後悔した。慌てて続けた。
「いや、日本人だからどうとかじゃなくて。あ〜、やっぱダメだな、オレ。すぐに、何々人とかって気にしちゃうから」
「あかんことはないで。だってオレは中国人で、セルラはブラジル人で、ワタロウは日本人やから。みんな違うねん、いろいろと。あかんのは、その違うとこを『うわっ』とかおもて、毛嫌いしたり、避けたりするとこちゃうかな。違うんやったら、聞いてみたいとか、教えてもらいたいとか。そう思えたら、ええねんけど」
「グレイト」
寮長のジェイコブが叫んだ。彼もまた、この部屋の常連で、特にリンとはすごく気が合うようだった。英語と日本語が混じる真夜中の会話。ジャンクフードと、コークの青春だった。濃い時間、濃い空間。
次第に「和」ができはじめた。その中で、和太郎は幸せだった。
それまでの友だち関係は、繋ぎとめることに必死で、しがみついていた。しかし、ここでは違う。自然に一緒にいて、安らげる「仲間」。そんな寮での暮らしが、和太郎には心地よかった。
誰もが口にする「ホーム」という言葉が、和太郎にとって、この寮の全てと合致した。リンを初め、多くの者が家族の話をたくさんした。両親のこと、兄弟のこと。外国人は、自分の国のこと。それを聞く度に、和太郎の中に、「優しく、温かい」イメージが創られていく。ホーム、という空間。虚像。
リンの家族は、祖父と祖母が別々に来日し、二人は日本で出会い、結婚して母を生んだ。同じようにして生まれた父と結婚して、リンが生まれた。家族のこと、中国人であること。リンはその軸をブラさないように、しっかり持ち続けたいという。家族がいるから、ホームがあるから、自分は新しい所へ行けるし、新しいモノに挑戦できる。帰る場所。やっぱり、有りがたいものだと、リンが言うと、輪になっている者たちも、口々に賛意を表した。
和太郎は、「壊した」と母が言った、あの家族を考えていた。そこから離れる為に、その「場」に別れを告げて、ここに来たのに。そして、この寮で、「ホーム」のような温かさを感じられるのに。
自分以外の者にとっては、それは、あくまでもアザーでしかないのか、と。
夏休みに入ると、それぞれが先を競うように帰省した。和太郎は初めから帰省するつもりはなかったので、いつもいっぱいだった食堂がガラガラになっていくにつれ、どこか寂しさを感じた。サッカー部のリンは、練習があるので帰省できるのはお盆にだけだという。リンもまた、早く帰省したいと漏らしていた。
「ワタロウも、盆だけか? 帰るんは」
「あ、うん。どうしようか迷ったんだけど、オレ、この夏は帰らないことにしたんだ」
「そうなんか。寂しいんちゃうか、オカンも弟くんも、みんな仲ええのに。クラブ忙しいんか? 観研って盆ぐらい休みあるやろ?」
「いや、まぁ、そうだな。観光研究会にとって、夏休みほどサンプルが集まる時期ないから」
「そうやわな。上高地やらなんやら、人多いしな。それにしても、みんな旅行すっきやな」
仲の良い家族。
和太郎は、みんなが語る温かいホームにつられて、話を合わせるように一つの小さな嘘をついた。母はぜんぶ好きなわけじゃないけど、やっぱりホッとする。
その嘘がどんどん重なって、全てを嘘で固め、もうまったく別種の、創られた和太郎の家族像が、リンの中にはあった。
それをちゃんと修正する時期は、過ぎ去っていた。
和太郎が語る家族は、他の者のそれのように温かいホームだったのだ。嘘の泡を一つ吐く度に、和太郎の心にポッカリ空間ができる。それを吐き続け、空っぽになる夜が寂しい。ここの仲間と一緒に共有する温かさ。それだけで良いのに、それだけなら、良いのに。他の者には、もう一つの、それも唯一の、絶対性を持ったホームがある。それが、和太郎にはないという、空虚。
壊した。和太郎は父を恨んだ。与楽が来て、それが「普通」になった頃、父は外で女をつくり家庭を捨てた。生ぬるくても、やっぱり四人で暮らしていた頃が、自分の家族だったのだ。ホーム。帰りたいとするなら、あの場所だった。それを捨て、壊した父。
眠る前、和太郎は何度も考えていた。なぜ、父は家庭を捨てたのか。自分が悪かったのか。だとすれば、それは何か。まずは自分を責める。その次に、与楽を責めた。アイツが来たからか。いつまで経っても「普通」の家族になれなかったのは、やはり養子という与楽の存在のせいか。いや、母かも知れない。情緒不安定で、機嫌の良いときと、悪いときが極端だった。それが暴力という形で向けられなくなってからも、実は、そのまま父に向けられ続けたのか。ふと、「御免。家族を壊しちゃった」と言った母の、顔を思い出した。母が壊した。父は、ということは、父は被害者なのか? いや、事実、家を出て、そして外で家族を作った父が、やはり加害者だろう。
和太郎から、他の者が持つような温かいホームを奪ったのは、やはり父だ。
ベッドの中で、寝返りを打ちながら、何度も、何日も、和太郎は考えていた。
きょとんとする亮の横で、うつむいている父を眺めながら、
「父さん、父さんなんだよ、やっぱり。悪いのは、父さんなんだって。そう思わないと、はじまらなかったんだ、あの頃も。そして、今も……」
作ったとか、壊したとか。和太郎にとって、たった一つしかない「場所」を、父と母の勝手で混ぜ返された。帰れない、和太郎の家。寝付けない。夜。和太郎は、そうやって、父を恨んだ。
ロンドンの大学へ進む。それも偶然だった。三年生の担任を通して、レポートの提出のみでパスし、どこが出所なのか、何とかという長い名称の「組織」から資金が提供された。和太郎を含め十二人の生徒が、日本を離れた。あの頃も、色々と理由を並べた。母は、和太郎がロンドンに行くことを反対していた。その母に向けた「それらしい理由」。その理由に和太郎自身も、なんだかそんな感じがしてきて、「ぼくは、日本人であることを軸に持って、世界に触れたいんだ」と、思いこんでいた。
だけど、本当のところは、無意識のうちに「もう一つ」を求めていたのかもしれない。寮をホームにして、もう一つの場所。おそらく、遠ざけたっかのだと思う、簡単に戻れるという「距離」から、東京ホームから、もっと、もっと遠くへ。
*
「ほんと、ダメな父親だったな。すまなかったな、色々苦労かけて」
黙っていた父が、急に、口を開いた。和太郎をじっと見つめたまま。
加害者。その言葉を、誰よりも感じていたのかも知れない。
「大きくなったな、和太郎も与楽も。ほんと、立派になったよ。母さんが今のお前を見たら、何て言うだろうな。喜ぶだろうな、きっと」
父は、目の前のグラスを空け、両腕に頭を乗せた。
「与楽もそうだよ」
声がくぐもって、少しぼやける。
「与楽の母さんも、幸恵もきっと、喜んでるよ」
和太郎の頭の中は、真っ白になり、サイレントなサイレンと化した耳鳴りが輪を作る。
「おじさん、ほら、おじさん。飲み過ぎですよ。ちょっと休みます? 布団、敷きますから」
智香が、父の脇を抱え、亮が、その潰れた父を眺めていた。
……与楽の母さんも。
苦いかも知れないと思って飲んだコーヒーが、やっぱり苦かった、という感覚。
黙ったままの与楽。智香を払いのけようとする父。諦めて、座り直した智香。
「そうなのか、やっぱり」
和太郎は小さく呟いた。
自分が自分で情けなく、知らなかったのは自分だけなのか、という愕然とした思いの中で、もう一度、はっきりした声で尋ねた。
「ヨラクの母親は、母さんの、亡くなった妹なのか」
何時間、何十時間、いや、宇宙時間で例えるなら、もう無限に近いほどの……沈黙。
「ごめん」
与楽が、口を開いた。
「何がだよ。何が、ごめんなんだよ。いったい誰に謝ってんだよ。オレか? 謝られてオレは何を許せばいいんだよ。なんだよ、何も知らないのは、オレだけだったのかよ」
捲し立てた後、和太郎は、フッと鼻で笑った。
無意識のうちに、笑いが漏れた……“バカみたいじゃないかよ”
「一人で被害者面して、逃げまくって、恨んでばかりで、オレ、本当にただのバカじゃないか。苦しい、苦しい、ってオレ、自分の境遇の殻に守られてただけじゃないか」
「バカなんかじゃ、ないよ」
亮だった。興奮気味の和太郎を見つめ、彼がそう言った。
「そうだよ。ワタロウもヨラクも、おじさんも、それに死んだおばさんも。みんなちゃんとお互いがお互いのこと、いつもちゃんと考えたんだよ。私、それを一番近くで見てきたから」
智香の言葉は、鋭く和太郎の胸を突いた。
“違う。オレは違う。ちゃんとなんて考えてなかったし、ただ、離れることしか、関係をなくすことしか……”
「オレ……」
和太郎は、自分に向けられる声に、振り向くことさえできなかった。頭の中をただ、グルグル回る真っ白い靄。全部が、ねっとりとからみつく感覚に、呆然としていた。
「オレ、ワタロウが長野に行くって決めた時、どうしていいかわからなくなって、ワタロウが家に居るの嫌がってんのは知ってたし、そやけど、家を出るなんて、それはあかんやろうと思って、母さんに、あ、ワタロウの母さんに、聞いたんや。ほんまのこと、ほんまのこと、教えて欲しいって」
あの時の、ぐちゃぐちゃになった洗面台の光景が、和太郎の中にフラッシュバックした。
「もういいよ」
……別に与楽が悪いわけじゃないんだから、と和太郎はうつむいた。
「でも、オレ、ほんまに、ごめん」
「いいって。謝んなよ。そんなことされたら、なんかオレ、惨めだよ。許すも許さないも、どうにもできないんだから。そんな謝ったり、すんなよ」
智香は静かに、だけど優しく、和太郎を見つめていた。
「父さんな、母さんの実家に、結婚の挨拶に行ったとき、始めて幸恵と出会ったんだよ」
「いいよ、言わなくていい。聞きたくもないから」
和太郎の声と想いは、父には届かなかった。
「母さんの妹だって、頭の中でちゃんと分かってたんだけど、幸恵とそういうことになれば、美奈子が、母さんが」
「いいって言ってるだろ。父さんは、いつもそうなんだよ。いいんだよ、もう。オレも、ヨラクも、今はそれぞれちゃんと生活してるんだし、もう、父さんが誰とどうなったかなんて、もういいんだよ。自分の中だけで、ちゃんと処理してくれよ。オレたちに言って、楽になろうとすんなよ」
「ワタロウ……」
智香は、相変わらず、あの目で、優しいあの眼差しで、和太郎を見つめていた。
「覚えてる? ここに置いてあったブランコ。父さんが、いきなり買ってきた日のこと。オレが母さんに殴られて、アザとかいっぱいできて、なのに父さんは、オレに、ブランコ買ってきたんだよ。オレのアザなんて見て見ないふりして、ブランコなんか。それからもオレ、そのブランコで、いつも泣いてたんだよ」
与楽も智香も知らない話だった。
「オレ、父さんがいてくれる時だけが、その時間だけが救いだったのに。父さんはあの日、ブランコを組み立てた後で、こう言ったんだ。これからは休日も家にいなくなるから、このブランコで遊んでろって、そう言ったんだよ。覚えてないだろ」
「……すまなかった」
「まぁ、別にいいんだけど。終わったことだし、忘れたことだし、もう、関係のないことだから。だから、頼むからもう、その顔見せないでくれよ」
和太郎の視界に亮が入った。父に対して、「帰れ」と言わんばかりのその発言の後で、亮の透き通った眼差しが、とても痛かった。
「全部、嫌だったんだ」
父が、ボソボソと話し始めた。
「与楽を生んだ後、幸恵がああいうことになって、それで、ご両親も身体が悪かったから、与楽を施設を預けることになったんだ。だけど、美奈子はずっとそれが気になってたみたいで。当然だよな、実の妹の息子なんだから。それで、ある日、父さんに相談してきたんだよ。与楽をなんとか引き取れないか、って。幸恵は、何も言わずにひとりで育てるつもりだったから、美奈子はもちろん、誰も与楽が、父さんの子供だって知らなかったんだ。父さんも、与楽をこのまま施設に預けたままじゃいけないって、そうは思ってたけど、引き取るのは賛成だけど、美奈子にはきちんと話してからでないと。だから、全部話したんだ。美奈子なら分かってくれるんじゃないかっていう甘えもあった。だけど、全部を知ってしまうと、それでも与楽を引き取るか、引き取らないかを考えるうちに、とうとう美奈子のヤツ、精神が参ってしまったんだ。あの頃、与楽のいた施設が経営難だって話が来なければ、もしかすると、与楽をずっと預けたままにしていたかもしれない。いや、引き取るにしても、もう少し、整理してから、迎えられたかもしれない。だけど、時間がなかったんだ。父さんに何も告げないまま、与楽を引き取るっていう手紙を大阪の施設に送って、それから、一つだけルールを決めようって、美奈子は言ったんだ。与楽が、幸恵の子供だっていうことを隠しておこうってな。妹の息子って思う度に、それが父さんの子供っていうことにもなるから、おそらくは、美奈子自身が忘れようとしてたんだろうな」
与楽は、静かに席を立った。
「星、やっぱり、北海道はすごく見えるんやな。こっから見るのと全然ちがうわ」
誰も、何も、言わなかった。与楽の言葉に、反応出来ずにいた。
「ほんま、オレは厄介ものやな。あのままホームに居られたら、そしたら、こんなことにはなってないのになぁ」
空に向かって話しているのだろうか。与楽は、自分の言葉に、誰の応えも求めていない。また、静かに席につき、
「父さん、今度はあかんで。また、同じようにして、別れたら、逃げたら、絶対に、あかんで」
与楽の言葉に、父は何も言わなかった。
*
「与楽、明日の日曜、ちょっと、父さんに付き合わないか?」
「なんで? どこいくの。ぼくはいいけど、ワタロウは、たぶん無理やで。色々、クラスのヤツらと付き合いがあるから。一回でも遊びに顔ださへんかったら、大変なことになるから」
「いや、和太郎はいいんだ。お前だけ。与楽と、二人で出かけたいんだ」
中学に入るか入らないかの頃、与楽は、父からそんな誘いを受けたことがあった。
父が家を出る、少し前のことだ。
結局、与楽は行かなかった。父が自分だけを誘い、そして、そのままどこかへ行く。うまく説明できないが、そんなことを考えていた。もしかすると、また、ホームに連れて行かれるのかも知れないという恐れもあった。父や母や和太郎のいない、どこか遠くの街へ。そんな空想が胸の中を締め付けると、とても面倒だった。また、一からやらなければいけないという、煩雑な作業が嫌だった。与楽という名前で、大阪で生まれて、東京で育って。それでこの度、この街に来て、など云々。もう、新しい何かに手を伸ばすのが億劫だったのだ。それは、恐れからくる防御かも知れないが、与楽は結局、あの時行かなかった。そのことを、彼はずっと悔いている。もしかすると、自分が父と一緒に出かけていれば、例え、自分がどこかのホームに放り込まれたとしても、和太郎から父を奪うことも、父が家を出ることも、なかったのではないか、と。いや、もっと正直にこうも思う。行ってみる、やってみるという、「新しい」何かに、自分の身体が向いていれば、満足のいかない現状を、ただただやり過ごすようなこともなかったのか、と。
*
長い沈黙を破ったのは、和太郎だった。
「父さんが、家を出た本当の理由は、やっぱり、その……」
言いかけた和太郎を、与楽が止めた。亮の方に目をやり、強く「それ以上言うな」と示した。父は、そんな与楽に一瞬、目をやってから、
「そうだ。亮が出来たって分かったとき、俺は、本当に情けない男だと思い知ったよ。何やってるんだ、ってな。だけど、それは家内にも、亮にも、関係のないことだから。美奈子に全てを打ち明けて、それから、先のことは決めようと思ったんだ」
「何だよ、それ。母さんに、どうしろっていうんだよ」
「そうなんだ。どうすることも出来なかったんだ。美奈子に告げた日、確か、お前たちが修学旅行か何かで、家にはいなかったんじゃないかな。母さんは、涙も見せずに、喚いたり、父さんに掴みかかってきたり、そんなこと一切せずに、黙って立ち上がると、突然、食器棚のものから何から、淡々と壊し始めたんだ。父さん、それを見ながらしばらく動けなかったよ。あ、もうコイツと一緒にいちゃいけないなと思った。それから、母さんを止めにいって、そしたら母さん、小さい声で言うんだ。私のせいなのね、って。私がダメなのよね、結局って。もう壊しましょう、何もかも、全部壊しましょう、って」
ふと、智香の目に涙が溢れているのを、和太郎はぼんやり眺めた。
与楽がそっとティッシュペーパーを手渡した。今度は、そんな与楽の横顔を、和太郎は眺めていた。
また、近くでサイレンが鳴っている。「ほら、パトカーが捕まえにきたでぇ〜、捕まるよ〜」「いやだ、いやだ」「そしたら、ちゃんとピーマンも残さんと食べなあかん」
そんな母との会話が、急に頭に浮かんだ。いつからか、思い出すときの母は、いつも関西弁だ。おもしろい人だったんだ。愉快で、冗談が好きで、豪快に笑う、そんな人だったのに。なのに父は、そんな母から、笑いを奪ったんだ。
涙を拭った智香が、おもむろに立ち上がって、テーブルの上を片付け始める。
与楽はそれを手伝い、部屋に入ったり出たり、バタバタする中で、和太郎は何も考えられず、目の前の全てがフリーズした。
和太郎には分かっていた。父がいま考えていること、あの頃という過去を、彼は思っていない。あくまでも、今を、この亮という少年が置かれている立場や、これから父の家族がどうすればいいのかを、また、自分勝手に思いめぐらせているのだろう。
そういう人だったのかと、改めて蔑んだ。
「智香ちゃんがひとりで住んでるの、この家」
父は座ったまま、片づけをしている智香に尋ねた。
「え、あ、はい。約束しましたから」
「約束?」
「そう、おばさんと約束したんです、私」
「美奈子と? なにを?」
「この家、東京ホームを守るって」
「東京ホーム?」
首を傾げる父の前で、和太郎はハッとした。
「ワタロウが長野に行ってから、ヨラクとおばさんと三人になったとき、あ、その頃には私、ほとんど毎日この家に来るようになってましたから。三人で誓ったんです。作り直そう、って。もう一回、一からやり直そうって。おばさん、ワタロウが長野に行ったのが相当ショックだったみたいで、この家だけは、ずっとここになきゃダメだって、どしんと構えて、ワタロウがいつでも安心して、喜んで帰ってこれるような、ホームにしなきゃいけない、って」
「なんだよ、それ。知らないぞ、そんな話」
「ううん、ワタロウだけじゃないの。ヨラクにとってもここは、やっぱり特別だし。ここがなくなっちゃうのは、寂しいよ」
「だけど智香ちゃん、今、パートしながらでしょ。結婚とかも考えるだろうし。ずっとここにいるわけにもいかないだろう。お金だって、大変じゃないの。おじさん、何もしてあげられないから」
「お金はいいんです。ヨラクが毎月、振り込んでくれてますから。それより、あんなに毎月もらって、逆にヨラクに申し訳なくて」
「いいんだよ、オレは。どうせ使うこともないから」
それでお前は? という父の眼差しが、和太郎に向けられた。それを振り払うように、和太郎は父から顔を背けた。知らなかった。与楽が、この家を維持するために、毎月お金を振り込んでいたことなど。
「北海道で働くことになったときに、母さんと約束したから。それが、何となく今まで続いてるっていうか。あの頃、ワタロウはロンドンの大学に行ってて、トモカも学生やったしな。母さんのパート代だけじゃ……」
「いくら払ってんだ? 毎月、ここにいくら入れてるんだよ」
和太郎は、与楽の言葉を遮って尋ねた。金額の問題ではないことは、重々承知だった。だけど、そう言うしかなかった。和太郎は、自分がひとり、何も知らないままで。居ても立ってもいられない、ゾワゾワした胸の内が、そんな言葉になって出た。
「恥ずかしいぐらいの額だよ。農家なんて、今はどこも不景気だし。オレに給料払ってる余裕も、実はそうないんだ」
オレも払うよ、とは言えなかった。和太郎の頭では、実際の今の暮らしが、ロンドンでの生活が重かった。一年に一度しか帰ってこないこの家のために、捻出する余裕はない。言いたいけど、言えない。オレも出すよ、の一言。そんな思いが、
「いっそ、ここ売っちゃえばいいじゃないか」と、いう言葉になってしまった。
「本気で言ってるの?」
「ああ、本気だぞ、オレは」
「そんなことしたら、おばさん、天国できっと泣くよ。暖かい家庭の温もりをワタロウに与えることができなくて、それを一番悔やんでたのに。あの事故の時だって、ロンドンに行っちゃったワタロウが帰ってくるのだけを楽しみにしてたのに。ここが無くなっちゃったら、ワタロウとヨラク、本当にバラバラになっちゃうじゃない。そんなのはダメ。私は守るわよ。絶対に手放したりなんてしない。何がゲームパークよ。町の活性化よ。絶対、売らないからね。私は、ここをずっと守るからね」
後半、和太郎にはよく分からなかった。
与楽も始めて聞く話らしく、きょとんとしていた。この町が、都心からそう離れていないのに、こんなにくすぶっていることに目を付けた、どこかの大手企業が、辺りの土地を一気に買収して、大きなショッピングモールとゲームパークを作ろうとしているらしい。町内会で一致団結し、「売らない」と決めたらしいが、それでも、あまりに好条件を提示され、二、三、売買契約を結んだ家があるらしい。そこまでして、いや、だからこそか、智香は、必死に守ろうとしている。
「確かに寂しいな、無くなるのは」
答えたのは、父だった。
「うん、あったほうがいいよ」
与楽も賛同した。
「大丈夫。私は、ひとりになっても、絶対、絶対、絶対、売ったりしないから」
「故郷、だな。なんかいいよ、ホッとするっていうかさ」
父の言葉に、智香は微笑みながら、
「でも、おじさんのいる場所は、もう、ここにはないですよ」と、言った。
「え? 分かってるよ」と、父も笑った。与楽も、そんな父の笑い顔を見て、微笑んだ。
「帰ってくれよ」
和太郎は、そんな和やかな雰囲気を、太陽を燦々と浴びて、ヒラヒラ舞っているシーツのような空気を、鋭い言葉で切り裂いた。
「もう、帰れよ」
和太郎は、むしゃくしゃしていた。居心地が悪く、ムカムカして、自分に対して無性に腹が立って……。笑ってる父の顔が、憎かった。
「え〜、いいじゃない。今日だけは特別に、おじさん、泊まっていっていいですから。亮くんもね」と、智香が楽しそうに言う。
「じゃ、オレが帰るよ」
和太郎は、テーブルに置いてあった携帯電話をポケットに入れ、バッグを抱えてベランダを後にした。階段を駆け下り、そして、あの朝、長野にたった日のように、別れを告げるようにして、玄関の扉を開いた。
熱くなっていた。自分でも意識するほど、子供っぽい態度に出てしまった。
でも、いい。もうそんなことは、和太郎にはどうでもよかった。
「ワタロウ、ワタロウ」
ベランダから智香が叫んでいる。振り返らずに和太郎は歩いた。
「いってらっしゃい、だよ。絶対、帰ってきてよ。ここにあるからね、東京ホームは、あんたの実家は、ここにずっとあるからね」
後ろから誰かがついてきてるのは分かった。それが与楽だろう、ことも何となく想像がついた。
「知るか」、小さく吐き捨てて、和太郎は通りでタクシーをひろう。
毎年、母の命日に帰国して、その足で長野に行く。高校時代の寮の近くで、リンが旅館を経営しているのだ。温かさを伴ったホーム。それは、あの頃の寮だった。あの、懐かしい光景だった。ロンドンにいて、時々夢に出てくる日本の景色は、東京よりもむしろ、長野の方が多い。
一日早いが、リンなら泊めてくれるだろう。新幹線もなくなっているから、タクシーで行っちゃうか。和太郎は、カッカと熱くなった気持ちで、頭は冷静にそんな事を考えていた。それよりも、安いビジネスホテルで一泊してから、明日、長野にいくか。
後ろからついてくる足音が、和太郎に追いつこうという気配はない。
タクシーに乗り込み、「新宿まで」と言ってから、「あ、やっぱり長野までお願いします」と告げた。ドライバーが、なかなかドアを閉めようとしないので、振り返ると、亮が立っていた。
ついてきてたのは、与楽ではなく、亮だった。
「何してんだ、お前。早く帰れ。父さんと一緒に、うちに帰れ」
うつむくままの亮に、和太郎の言葉は通じない。
「お客さん、出しちゃっていいですか?」
ドライバーが少々不機嫌に言う。が、長野までの客となると、そう無下にも扱えないという体だ。
「なんだよ、どうしたいんだ? 嫌だぞ、お前の家までおくってくれなんて、言い出すなよ」
亮は首を振る。後ろからクラクションが鳴った。「お客さ〜ん」と、ドライバーが催促する。和太郎は、舌打ちをしながら「いいから、とにかく乗れよ」と、亮をタクシーに乗せた。
「お前、何やってんだよ」
黙ったままの亮に、和太郎が言う。
「じゃ、もういいよ。家、お前の家どこだ?」
「どこ行くの、これから?」
「どこだっていいだろ、お前には関係ない」
「長野かぁ。行ったことあるよ、ぼく」
「はぁ? だから、なんなんだよ」
「ほんとにタクシーで行くの? すっげぇかかんじゃん、お金」
意外なほど、亮という少年は、しゃべった。
「関係ないだろ、お前に。で、どこなんだよ。日暮里とか言ってたかな」
「違うよ。そんなとこに住んでるわけないでしょ」
「なら、どこだよ。おくってってやるから、とっとと帰ってくれ。一人にしてくれよ」
「まぁまぁまぁ。はい、これ」
亮は、制服の内ポケットから、缶ビールを差し出した。どうやら追いかけてくる前に、テーブルに置いてあった一本をしのばせて来たらしい。
「なんだ、お前。本当にいじめられてんのか? 登校拒否児とは、思えないな」
言ってから、和太郎は少し悔いた。多感な年頃の少年に、これは言い過ぎたな、と思った。謝ろうとすると、亮の携帯がバイブする。
「もしもし。あ、父さん。え、うん。今? タクシーの中。これから、長野に行くんだって。だから、僕も一緒に行くことにした。え、うん、……違うよ、え、あ、うん」
父さんが替わって欲しいと言っているからと、亮は携帯を和太郎に渡す。よろしく頼むな、と父さんが言う。一体どうなってるのか……、「明後日には帰るから」と、和太郎は答えていた。
夜の高速道路を滑る。トンネルを抜ける瞬間が好きだと、亮が言った。「だって、ぜんぜん違うどっかに行けた気がするから」と続けた。窓の外に目を向けたまま、その言葉は、和太郎に向けられたわけではない。ひとりごと。東京を出て、暗い暗い夜の中、亮は、何度かため息をついていた。
「ねぇ、ロンドンって、すごい?」
「何が?」
「なんか、東京とは、全然違うんでしょ?」
「だから、何が違うんだよ」
「いや、よくわかんないけど、でっかい観覧車とかあんじゃん。ああいうの」
まったく意味が分からず、和太郎は応えるのを止めた。
「お台場にある観覧車も大きいですよね。いや、このあいだね、娘を連れて行ったんですけど、もうキャッキャいって喜んでましたよ。本当にね、好きですから、子供は」
ドライバーが、バックミラーに目元だけを映して、話しかけてきた。亮は、何も答えないし、和太郎も無視した。亮は、子供がキャッキャ言う喜びの対象として、ロンドン・アイなる観覧車を話題にしたのではない。和太郎には、なんとなく分かる。もし、和太郎がニューヨークにいたら、グランド・ゼロを、パリにいたら、ガラスのピラミッドを、バルセロナにいたら、カンプ・ノウ・スタジアムを、つまり、亮の中にある「知ってる」場所を挙げただろう。そして、そのどれもに「すごい」かどうかを尋ねただろう。東京以外の何処か。そこにある「何か」。それが、すごいか、どうか。
「遠いよね、ロンドンって」
また、呟くように亮が言う。
「まぁ、タクシーじゃ、いけないだろうな」
何も答えない亮に替わって、ドライバーが笑った。
「行きますよ、私は。なんつって、ハハハハハ」
東京から、北北西に約一万キロ。向こうで見る世界地図では、右端にある小さな島国から、日本で見る世界地図の左隅にある島国へ。大きな大陸の西と東で、ちょこっと存在する。遠い、という感覚すら、もはや実感できないほどの、距離。
「行ってみたいな、ロンドン」
山と夜空の間、グレーにぼやけたラインの中に、吸い込まれる亮の言葉。
東京と同じだよ、とは言えない。行ってみたい気持ちも分かる。とにかく、「ここ」じゃないどこかへ。和太郎も、そんな風に思っていたのだから。
「長野もロンドンも、距離の問題じゃないだろ」
和太郎も、呟くように言った。こちらを向いた亮に、
「逃げるのに、距離は関係ないだろ」と、今度ははっきり告げた。
リンの旅館は、相変わらず繁盛していた。厨房からは食器の弾く音が聞こえ、ロビーは、夜行バスでやってくるアーリーチェックインの客と、早朝チェックアウトの客で混み合っていた。「みんな旅行すっきやな、上高地とか」という、高校時代のリンの言葉を和太郎は思い出す。
群れをかき分け、駆け足でリンがやって来た。ダークグレーのスーツ。旅館とはいえ、濃紺の法被ではなく、そちらの方がしっくりくるモダンなロビー。リンの旅館は、有名デザイナーによる設計の「おしゃれな」旅館なのだ。
「お〜、ワタロウ。どうもどうも」と、右手を挙げるリンに、
「ただいま」と、和太郎が挨拶した。
コクンと、頭を下げる亮を見て、「ええっと、、、」と、言い淀むリン。
「弟だよ、オレの」
「あぁ、そうか。ようこそ、いらっしゃい。さぁさぁ、どうぞ。いつもの二階の部屋やから。布団は、一組しかないかもしれんな、あとで運ばせるわ。あ、朝メシは? 食うやろ?」
―― オレの家族は、オマエのとことは違う。両親は離婚しているし、弟とも仲がいいわけではない。血も半分しか繋がってない。全部うそだったんだ、オレが言ってたオレの家族は嘘なんだよ。オマエのとこみたいに、温かくない ――
母が死んだ日、当時は東京の大学に通っていたリンに、和太郎は告げた。黙って和太郎の言葉を聞きながら、最後にリンは言った、
「で、弟くんは、泣いたか?」と。
七、八人は並んでも平気なほど、ゆったりとした階段を昇りながら、和太郎は「弟」という言葉を思い返していた。リンは、亮のことをどう理解したのだろう。あの日、葬儀の日に涙を見せなかった与楽と、今、隣を歩いている亮。二人とも、血は半分しか繋がっていない。ちゃんと言わなきゃいけないと、なぜか和太郎は、そのことばかり考えていた。
部屋に入ると、朝食はすでにセットされていた。「おおっ」と、声に出して驚いたのはリンで、それがおかしくて、和太郎も亮も笑った。
「まぁ、ゆっくり休んで。ちょっとバタバタするから、夕方にでもまた顔出すわ。で、今日は、もう一人の弟くんも来んのか?」
「あ、いや」
「ほなら、晩も二人分でええな」
「すまないな、急で」
「ええよ、ええよ。一年に一回、オマエに会えるの楽しみにしてるし、今年もこうやって来てくれて、オレはほんまに嬉しいんや。あかん、もうこんな時間や。御免、行くわ。ほな、ゆっくりしてってな」
リンが高校時代の友人であること。毎年、母の命日で帰国すると、必ずここに寄ること。そして、ここに来ると、「ホッと」すること。亮が投げかけてくる質問に、一つずつ答えながら、二人で朝食を食べた。
昨夜は一睡もしていない。満腹になるとウトウトとし始め、知らない間に和太郎は眠っていた。とても静かで、温かくて……、和太郎は、東京ホームのベランダで、ブランコに乗っている夢を見た。ひまわり畑の真ん中を、与楽とリンが、智香を追っている。笑っている雲の下で、亮は、父の側に座り、母の右腕をさすっていた。「真っ赤にも〜えた〜」と、不死鳥が唄う。ブランコに揺られながら、和太郎は、楽しかった。
目が覚めると、部屋には誰もいなかった。和太郎は、ジュースでも買おうとロビーに降り、「アハハハハ、ちゃうちゃう。まじで。ほんま阿保やな、あいつは」というリンの声にホッとした。静かで、モダンな空間。響いてきたリンの笑い声。
向いに座っているのは、亮だった。彼も笑っていた。
「お、起きたか」
リンの声に亮も振り返った。
「なんだよ、楽しそうだな、ふたりで」
「おお、亮はおもろいヤツやな。間がええよ、間が。こういうのは、生まれもったもんやからな、うん、ぜったい将来役にたつと思う。オレ、すっきやわ、コイツ」
「すっきやわ、ぼくも」と、変なイントネーションで、亮が笑った。
その夜は、リンも加わって三人で夕食を食べた。ウマが合うというのは、こういう二人を言うのだろう。リンと亮は、本当に楽しそうだった。学校にどうして行けないのか、いじめはひどいのか、父のことは好きか、嫌いか。目の前で笑っている亮に、軽い調子で聞いてみるのもいいかも知れないと、和太郎は思った。だけど、リンならそんな事は聞かないだろう。それに、聞いたところで、どうすることも出来ない。今が楽しいから、いいか。和太郎は、二人の会話の隙間で、吹き出すように笑った。
「漫才みたいだよ、二人の会話は」
「ボケもツッコミも、オレがやってるけどな」
そう言いながら、ビールを飲むリンに、「なんでやねん」と、調子はずれのツッコミを入れる亮。「あ、ええわ、今の間」と、訳の分からないことで、二人は、笑った。
また、来い。うん、絶対来る。翌朝、リンと亮は、そんな約束をして別れた。和太郎は、例年ならそのまま成田に直行するのだが、亮と一緒に東京駅行きの新幹線に乗った。中学生には見えない、亮の背格好。制服姿じゃなければ、大学生と言われても疑わないだろう。現代人の体躯は、驚くスピードで、長くスリムになっているんだと、和太郎は思った。ペラペラと、よくしゃべる。アイスクリームを、嬉しそうに頬張っている。現代人の嗜好は、相変わらずなんだと、納得した。
いじめなんかに負けるなよ、別にずっと続くわけじゃないんだから。口の中で転がした言葉を、和太郎は、出せずにいる。
「ただいま、って英語でなんて言うの?」
カチカチだったアイスクリームが、ちょうどいい硬さになって、それをすくいながら亮が尋ねた。
「アイム・ホーム、かな。それが一番ちかいと思うけど」
「へぇ〜」
「なんだよ、急に」
「いや、ただいまって言ってたなと思って。リンさんのところに行ったとき」
あ、と思った。考えてみれば、和太郎はいつも、無意識のうちにリンの旅館に着くとそう言っていた。
「ただいま、って言える場所があるのは、いいことだって、リンさん言ってたよ」
「そっか。そんな話してたのか、二人で」
「うん。あ、違うか。ただいまって言うから、その場所が良くなるって言ってたんだっけ。忘れたけど」
シャカシャカとカップの底についたアイスクリームを寄せ、亮は、最後の一口を食べた。
「ふ〜。うまかった」
かわいいヤツだなと思った。まだまだ子供なんだなと、和太郎は思っていた。
「ま、いつまでも続くわけじゃないしね。逃げてたって、しょうがないから。ぼくも、行ってみるよ、学校。アイム・ホームって言いながら、戻ってみるよ」
まだまだ幼い顔の亮の言葉。学校に、アイム・ホームはおかしいな、と思いながらも、和太郎は「そうだな」と、一言だけ亮に言った。
東京駅に着き、家まで送ると言った和太郎を断り、一人で平気だと亮は言う。
人混みの中にいると、余計に背が高いことに、気付かされる。
「また、来年も長野、行こうな」
和太郎は、亮の肩に腕を回した。
「じゃ、その時まで。シー・ユー・アゲーン」と、亮はふざけた。
「ちゃんと、家に帰れよ」と、小走りで階段を駆け下りる亮に言うと、
「そっちも、ちゃんと戻ったほうがいいよ、あの家に」と、振り返って、笑った。
東京ホーム。与楽と智香がいる。
和太郎は、高揚感で浮いていた。理由のはっきりしない、楽しい気分になっていた。
最寄り駅から商店街を抜け、家に帰る。玄関、白い壁、見上げるベランダ。
和太郎は、玄関のドアを開き、心の中だけで呟いた。
「アイム・ホーム」。
バタバタと音を鳴らして、智香が階段を降りてきた。
捲りあげた袖を元に戻しながら、与楽が台所から顔を出した。
靴を脱いで、顔を上げた和太郎に、二人の声が同時に「おかえり」と、言った。
【了】
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