足踊る大地

鈴木正吾著


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1回 / 全10回】


 僕は、プラン。田中プラン。男。あと三カ月で二十歳になる。やっと成る、とか、もう成ってしまう、なんて、周りの同級生が言うほど大きな節目だとは思っていないし、ましてや、焦るなんてことは微塵もない。なんというか、ピンと来ていないのだ。

 僕は、プランという名前だけど、計画することが苦手だ。そして計画されるのは大嫌いだ。なのに、ひとがこの名前から受ける印象は大きいようで、「もう、名前からして、きっちりしてそう」と言われることが多かった。そんな風に言われる度、プラン=きっちりしているという、在るべき姿のようなものにとらわれ、蓄積して、凝り固まっていった。きっちりしてそうだから、書記係。きっちりしてそうだから、班長。小学生の頃は、修学旅行のしおり制作を土日返上で完成させ、中学では、学園祭の実行委員長までやった。

 もちろん、名前だけでそうなった訳ではない。しかし、すべての役が、名前をきっかけとした他薦だったことは確かだ。座れと言われた席に座り、出来そうな気がすると思われたことを繰り返してきた。そのうち、慣れて、巧くなった。それが、スタイルになった。まるで、罰ゲームのような、プランという名が呼び起こした、これは悲劇だった。

 僕は、プラン。計画することが得意で、計画されたことをきっちりとこなしていくタイプだ(というこども時代を送ってきた)。

 だからこそ、大学に入った僕は、十八歳にして、そういうモノから完全に距離を置くことにした。何かのリーダー、決め事、仕切ること。幹事やゼミ長、その他もろもろ。活動の中心にいることからサヨウナラしたのだ。つい、口が出てしまいそうになるのを。沈黙を破って手を挙げてしまいそうになるのを。足が動いてやってしまいたくなるのを。グッと我慢して、時の流れに勝つ。「適任者はプランだと思います」という雰囲気を創り出していた、それまでの知り合いもこの大学にはいない。勝負の相手は、自分自身だけなのだ。

 まだ、みんなから「田中」と呼ばれていた新入生歓迎会。二、三人と言葉を交わし、いつもの反応を示した者から、「プラン」と呼び始めたクラスの新歓コンパ。何となく手にしたチラシの中から、適当に参加したサークルの飲み会。それらは全部、他の誰かが仕切っていた。僕がずっと居た席には、他の誰かが座っていた。だから僕は、隅っこに座って参加するだけ。二時間制の時間を配分したり、飲む前に集金したり、場所に迷って連絡してくる者をナビしたりすることのない、飲み会。ただ、目の前にある唐揚げをつまみ、ドリンクを飲む。隣の者の話に相槌を打ち、誰かがおかわりするタイミングで「俺も」と注文する。飲むだけ、食べるだけ、ただ話すだけ。これまでの僕が、気楽で思い切り楽しめる、と羨んでいた環境が、そこにはあった。なのに、つまらなかった。まったく、面白くなかった。隅っこで、目立たないように心がけると、目立たない者とばかり話すようになる。その目立たない者達の中で、少し目立つようになっても、クラスの中では目立たない。だから、クラス全体を仕切ることも、何かの係をすることもない。僕は、そんな大学生活を送っている。そして、一つひとつの区切りというか節目がぼやけて、ふにゃふにゃになっていった。


 大学には行っているが、授業にはほとんど出ていない。授業も受けないのに、大学に行っているのは、なくなりきらない僕の中の「きっちり」の残党だ。朝、しっかり起きて、その日の時間割がばっちり浮かぶ。そしたら、時間通りに、家を出てしまう。広いキャンパスを歩きながら、授業に出るか否かの葛藤の末、また、あそこに行ってしまうのだ。

 あそこ。次の用途が決まっているのに、なかなか工事が始まらず、ぽっかりと待っているような場所。三十坪にも満たない空き地。やたらと大きなゴミ箱と、青いプラスチックの簡易な椅子が置いてある。ただ、それだけ。この大学の中で、この空き地の存在を知る者が、どれだけいるだろう。僕は、自分だけの秘密基地だと思っている。

 そこに座って、目の前をぼんやり眺める。周りには平屋の建物しかなく、空が大きく開けている。誰も来ない一人きりの時間。何も無いことが、何でも在ることにしてしまうような錯覚を起こし、この百メート四方に満たない場所が、広大な大地のようにも思えてくる。それは、ちょうどあの時の白い皿と同じようだった。


 あの時の白い皿。僕は、ハイスクール時代、父の仕事の関係でコロラド州デンバーで暮らした。デンバーに引っ越した日、僕は初めて、父の働くレストランへ足を踏み入れた。東京では、父の働くレストランへ行ったことは一度もなかった。先にアメリカに渡っていた父から、遅れること半年。やっと家族全員が、デンバーの地にそろったことを祝ってのディナーだった。無機質なのに、なぜか温かみのある、父曰く「細部までこだわり抜いた、最上のシンプル」なテーブルの上に、何も乗っていない、真っ白い大きな皿。それを眺めた時の、あの感覚。

「多国籍料理ということに、なるかと思います」
 小学生だった頃、父親参観の日に、クラスメイトのお父さんに話していた、父のレストラン。タコクセキリョウリ。意味は分からなかったが、レストランで働いている、ということ以外に、初めて知り得た父の情報だった。シェフなの?と、聞かれる度に否定して、レストランで働いているなんて、毎日美味しいモノが食べられるんでしょうね、と言われる度に、苦笑いでかわしていた。「お父さんは、料理を作るんじゃ無くて、運ぶの」。母から説明を受けた時は、なんだかショックだった。絵本やテレビで見ていたレストランからは、かけ離れたイメージだったからだ。料理を作るんじゃ無くて、という言葉が、料理が作れないから、というのにすり替わった、運ぶ、というのが、ご飯ができたから運んで頂戴、と母が頼むそれに重なった。レストランで働くシェフとは違う、とても下の存在。父が、疲れたと言って帰ってくる度に、下のくせにと思っていた中学時代のある日、突然、アメリカに移住すると告げられた。当時、推薦枠ですでに進学する高校も決まっていた僕は、あとは残りの中学生活、やり残したことをしなければ、と計画を詰め込んでいた冬休み前だった。

 一日、一週間、一ヶ月、一年間。目の前のことから、ちょっと先、ずっと先と、ターム別にしっかり計画していた事が、ガタガタと、音をたてて崩れるようだった。

 移住? 引越? それも、アメリカ? コ・ロ・ラ・ド? デ・ン・バー? 何処、それ。何、それ。嫌、嫌、嫌、とにかく嫌。父の説明を黙って聞いて、ちょっと納得したかのように頷いている母を見ていると、なんだよ、それ、と思った。決まっていた高校にしろと言ったのも、無事に決まったときに、泣いて喜んだのも、母じゃないか。それなのに、その高校に行けなくした父の決断に、頷くのかよ、と思った。「プランも、そのうち、分かってくれる」という訳の分からない父の言葉。その言葉にすがったような母。

 移住に向けて、しなければならないことは、山ほどあった。向こうの学校が始まる九月。それが、ターゲットとなり、色んな事が、どんどん進んでいった。見て見ぬ振りで、僕は必死で「ひとり、東京に居残れる術」を探していた。父方も母方も実家は遠く、親戚も東京近郊には一人も居ない。間借りすることが出来ないのであれば、ハウスシェアを考えるしかなかった。ハウスシェア。主に独りになった老人が、使わなくなった子供部屋を外国人などに貸し、独居対策にもするという一石二鳥の制度(というふれこみ)。通う予定だった高校がある世田谷エリアには、ハウスシェアが多かった。

 何軒かに連絡をとっても、中学生の僕だけで話はまとまらず、決まって、お父さんかお母さんに代わってくれる? と言われた。お父さんかお母さんに、代われない中学生の男子は、どうすることも出来ないと思い知らされた。それと同時に、両親に対する怒りが、ますます増していった。

 父に、ハウスシェアの事を話したとき。父はまず、意外にも興味深げに驚いていた。ハウスシェアという制度は知っていたが、そこに僕が行き着き、自分でコンタクトまで取っていたことに、感心しているようでもあった。そして次に、独りきりで日本に残ってまで、高校へ行きたいのかと訊ねてきた。その普通科の高校で、何がしたいのか。僕は、もごもごと言いあぐねていた。いつもの父なら「こういうことか?」 と、言葉にできない気持ちを察して、選択肢を与えてくれるのに、この時ばかりは、黙っていた。黙って、僕の言葉を待っていた。僕は、言葉を探していた。必死で、この窮地を脱する、言わば正解の言葉を。

 だけど、なかなか見つからなかった。どうしても、嫌だ。高校生活を経て、大学に進み、就職して、という自分の未来。そこに、アメリカ移住の入り込む余地はないのだ。

「日本に残りたいのは、日本の高校でしたいことがあるというより、アメリカに行きたくないから」
 この何とも情けない、応えを小声でつぶやいた後、
「アメリカに行く前から、決めることなのか? そもそも、日本の高校にもまだ、行ってないじゃないか。どちらもまだ、白紙の状態なのに、どうして、どっちかが嫌って、決めつけるんだ?」 
 何とも父なら言いそうなことをこの時も言った。

 一度、見に行けば? と言ったのは母だった。僕が調べて、連絡をとった世田谷のハウスシェア。プラン一人ではダメって言うならついていってあげるから。その母の提案に、父も賛同した。そして、父と母と三人で、ハウスシェアの見学に行った。

 駅からけっこう離れた古い家だった。土壁で、玄関が広く、古い匂いがした。お風呂とトイレは一階にあり、どちらにも大きな手すりがあった。そこのおばあさんが言うには、まだおじいさんが生きていた時に、将来のために改築したそうだ。確かに、水回りだけが、他と比べて新しかった。二階に部屋が三つ。今、空いているのは、真ん中の部屋だった。両端は、中国とベトナムからきた留学生が住んでいると案内された。高校生を預かったことがないので、おばあさんは不安がっていた。見せてもらった部屋は、僕の想像(つまりは、スマホで見たこの部屋の広告写真)とは全く違った。六畳と書かれていた部屋の広さも、狭く感じた。大きくて古いタンス、部屋の大半を占めるベッド、それだけが新しい簡易な机が置いてあり、他に余裕のあるスペースはなかった。気になっていた食事は、リビングでみんなそろって食べるそうだ。話を聞いているうちに、独りきりで生活するという感覚の薄さに、母は安心したようだ。僕が、どうしてもというなら、ここでお世話になっても良いかもしれないと言いだした。父も、それに同調したようだった。

 僕だけが、絶対に、嫌だった。こんな所。両隣は、言葉も通じない外国人。高校から帰ってきたら、この部屋で休んで、夕方になったら下に降りて、みんなで夕食? 冗談じゃ、ない、と思った。「こんなところに置いて行かれてたまるか」とも思った。同時に、ちょっと先の将来の、とても具体的なことに触れ、つまり、高校生になったら、父も母も居らず、ここで、一人(ひとりきりになることもできないほどの中途半端な一人)暮らしていくのかと思うと、急激に寂しくなった。思春期を迎え、それも定着して来たこの時期に、僕は、父と母と離れることが寂しくなったのだ。

 ハウスシェアではない方法も少しは探した。しかし、あの見学の日以来、僕なしでの移住も視野に入れ始めた両親の動きに、少なからず焦り始めていた。結局、僕は、移住を受け入れた。次々に迫ってくるデッドライン。もし、一緒に行くなら、今週中には決めないと、向こうのスクールの手続きに間に合わない。何よりも、ビザの問題が大きかったようだ。行くの、行かないの? と突きつけられる日々。僕の中では、僕が抵抗すれば、母だけでも残るという選択肢や、父が他のレストランで働いて、このまま東京にいる、という結果も望まなかった訳ではない。だけど、結論は変わらなかった。それどころか、僕が行くのか、行かないのかという問いが、行きたいのかどうかというニュアンスに変わっていった。行きたいなら、早く言わないと、間に合わないよ、と。


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