「△という選択肢」
突如、真冬の選挙戦へ。衆議院を解散し、ミラノ冬季五輪の直前に総選挙をすると決めた高市総理大臣。1ヵ月もない準備期間で、現職議員をはじめ、次の選挙でいざ!と意気込んでいた新人候補の方々が、バタバタと準備に入りましたね。
議席数の数あわせで右往左往する政治の世界。大幅に議席を減らした自民党にとっては、大きなマイナス点もない今のうちに、高市総裁体制への是非を問う、といったところでしょうか。目立った対抗馬もない今こそ、戦の時だ、と言わんばかりの判断です。
冷静に考えると、通常国会の冒頭で解散するということは、この国会で決めなければいけない事、決めた方が良いこと等々、全てを後回しにして「そんなことより我が飯の食い扶持確保」と言われてもしょうがないほどの時期であることは確かです。
それを証拠に、新年一発目、通常国会を完全スルーして真冬に総選挙をするなんて、私の記憶では皆無、調べてみると、36年ぶりだそうです。前回の真冬の総選挙、私はまだ選挙権もありませんでした。まぁ、それほどに珍しい展開です。
で、何を問うか。高市政権への是非か?いやいや、高市体制というより麻生体制への是非か?副総理大臣という重要ポストを、党内人事で決めてしまう今の日本の政治。国民ひとり一人の意志をこめて投票した票で、代理として国会へ送り出している議員(代議士)を【脇役】と切り捨ててしまう、あの高圧的な態度。
議員には、国民の声が届けやすいことが最低条件だと思います。麻生さんのように、あれだけ高圧的で、どこぞの社長か会長のような態度だと、声なんて届けられませんよね。そういう政治家が多く、政治家同士で忖度しているから「都民ファースト」だの「国民ファースト」という至極当たり前のことが、キャッチコピーになったりするんですよね。
まぁ、いずれにしても、選挙をすると決まった以上(まだ正式に高市総理から発言はありませんが)、私の票をどこへ入れるか。この短い期間ではありますが、政策をしっかり見ていきたいところです。
で、中道(改革連合)ですよ。立憲民主党と公明党が一緒になって新党「中道」を旗揚げしました。急な選挙にたいして、急拵えの新党。旧立憲の野田代表は、別に急ではなくて、高市総裁が誕生してから、総理になられる時期、つまり去年の10月頃から水面下で話しあっていたと。
だから、急ではないと。10月から3ヵ月強。この期間は、新党結成までに十分な期間だということでしょうか。まぁ、そんなことは個人的にはどうでもよくて、この中道という政党が〈△の選択肢〉の受け皿になるかどうかですよね。
今のところ、自民党か●●党か、という二択は存在せず、ここ何回かの選挙同様、自民党に○か×かを問う選挙のように思えます。その○と×の間の△。だから、中道へ票を入れる、という動きは、注目の一つかも知れませんね。
中道が訴えるのは、生活者ファースト。その声を保守でも革新でもなく、一番いい道を選択していく。つまりは、どちらかに大きく傾かない、といったところでしょうか。イタリアなんでも見られた動きではあります。
もし、この中道が第一党になったら。その先が想像しにくいというのは個人的に大きくあります。ただ、自民党がこのまま一人勝ちするのを止めるという選択肢であることに間違いないとも、思ったりもします。来週からの3週間、色々と情報が飛び交って、様々な方向性が見えてくるといいんですけどね。
どうしてもひっかかるのは、高市総理って、今外交の真っ最中で、世界に向けてアピールする時期で、パーソナリティも含めて安定していると思うのですが、なぜ、今、選挙なんでしょうかね。高市総理の考えが、どのぐらい入っているんだろう、という点は、気になります。
考えてみれば、今の日本の社会って、はい、か、いいえ。つまりは○か×の選択肢が横行している気がします。
一日の生活の中で、何度もそんな岐路があります。昔は、はい、いいえ、どちらでもない。この△の選択肢が必ずあって、それを無難に選んで生活するということが多かった気がします。
あまりにも「どちらでもいい」の人生だから、はい、か、いいえをはっきりさせたい。そんな風に外国映画や外国文学に触れつつ憂えてた気もします。それがこの二十年ほどで、一気に、日本の社会もYES
or NOになりました。
自分の意見をはっきりさせて、○か×かで示したほうがいい。そうすることが、望ましいという状況下では、前向きにYES
or NOを考えもするのですが、今はどうでしょう。△、どちらでもない、という意見が「悪い」というような風潮もあるような気がして、少し怖いです。
グレーなニッポン。どっちつかず。だから、それは駄目、となんでもかんでも言われてしまうと、つかれてきます。別に△という選択肢を選んだって、いいじゃない。私の中の軸が、わんやりと、そんなふうに移ろっていくのを最近強く感じます。
はいといいえだけが意見で、どちらでもない、は意見ではない、とゼロにされそうな社会は、やっぱり変ですよね。傍観者、見て見ぬ振り、他人事。分かりますよ、それらが一番やっかいで、例えば、学校の教室でのいじめ、満員電車でのチカン、外国での独裁政治。
それぞれに、固い意志でもってYESかNOを示す。それが自分の意見だということ。そうすることで、助かる人が多いこと。というより、被害を受ける人が少なくなること。
それらと、△という選択肢は、意味合いが違うような気もします。固い意志でもって「どちらでもない」を示す。まぁ、そういう受け皿が日々の生活の中にはないんですけどね。さらに、どちらでもないと示した意見の先に、描けるモノが形を成さなかったりするんですよね。
傍観者でもなく、見て見ぬ振りでもなく、他人事でもない△。どちらでもいい、ではなく、どちらでもないという意志。△という選択肢が、その先を描ける具体性をもつようになればいいのに、と思いながら。
つまりは、○がもつ範囲と、×がもつ範囲の混ざるところ、それが△なんだと考えれば、選択肢のひとつになり得る気もしてくるんですけどね。
穏やかで柔らかい日差しがベランダから差しています。穏やかで、ゆったりと、休日の幸せが続くような選択を、したいなと思いつつ。
今日で、阪神淡路大震災から31年が経ちました。
2026年1月17日
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